古墳:探訪

全国の前方後円墳を中心に訊ね歩いています。

宮崎県西都市・西都原古墳群13号墳

2010-02-27 08:38:07 | Weblog
宮崎県西都市三宅原口の台地上にあります。
1号墳のすぐ北隣、市街地を見下ろす第一古墳群東南丘陵縁辺にあります。

全長79.5m、 後円部径44m・高さ7.2m、 前方部幅27m・高さ4.8m 三段構築の柄鏡式前方後円墳です。
前方部を南に向けています。
柄鏡式の古墳は、南九州東部でよくみられる地方色の強い古墳で、特にここ西都原古墳群に多く存在します。

墳丘の周りには周濠があります。
墳丘には葺き石が施されています。
壷形埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
造り出しはありません。

第5次(大正5年1月4日~)の発掘調査に選ばれています。
京都帝国大学教授・内藤虎次郎、同助教授・今西龍らによって行われました。
後円部にある埋葬施設(長さ9.3m・幅6.2m・深さ1.2m)は粘土礫槨で、組み立て式木棺で埋葬したようです。
土床(長さ7.9m・高さ45cm・下幅2.1m・上幅1.2m)の表面に、長さ7.2m・幅45cmの長方形に小さな礫石を並べ、その上に組み合わせ式木棺を埋葬。
これらを、上部の厚さ27cm、両側の厚さ約10cmの粘土で覆い、かまぼこ型にしています。
さらにその上を、径約30cmほどの河原石で二重、三重に覆っていたそうです。
倭製三角縁三神三獣鏡1面、翡翠製勾玉2個、管玉40個以上、濃青色ガラス製小玉110個余、刀子1、鉄剣1などが出土しています。
この粘土礫槨の見学施設が平成12年から公開されていて、自由に見学できるようになっています。
一見の要ありです。

平成9~10年度に宮崎県によって再び発掘調査が行われています。
斜面や平坦面全てが葺き石で覆われていたことが分かり、また墳丘が三段構築であることも判明しました。
現在、葺き石保護のため、全面を土で覆い芝が貼ってあります。
代わりに20分1の模型が傍に展示されています。
二重の口縁壷も見つかっています。

古墳時代前期・4世紀後半ころの築造と推定されています。




   (20分1の実物模型)


   (埋葬施設内部)

宮崎県西都市・西都原古墳群1号墳

2010-02-27 08:08:08 | Weblog
宮崎県西都市三宅原口の台地上にあります。
第一古墳群・台地東南端にあり、さらにその南端一番奥に築かれています。
丘陵下からよく見える場所です。

全長52m、 後円部径31m・高さ4.4m、 前方部幅25m・高さ3.3m の前方後円墳です。
前方部を西に向けています。

墳丘には葺き石が施されています。
造り出しはありません。
発掘調査は行われていませんが、西都原古墳群内で最古の可能性が高いと言われています。

現在、第一古墳群には前方後円墳が7基あります。
まず3世紀末から4世紀にかけて、1号墳→72号墳→13号墳→35号墳→46号墳(56号墳の時期は不明)の順で、その後100年ほど間をあけて小円墳が造られたようです。
最後に202号墳が築造されました。






宮崎県西都市・西都原古墳群女狭穂塚古墳

2010-02-20 09:17:13 | Weblog
宮崎県西都市三宅丸山の台地上にあります。
[めさほつかこふん」と呼びます。
明治28年(1895)宮内庁が陵墓参考地に指定、隣接している男狭穂塚古墳ともども管理しています。
そのため立ち入りは禁じられていますが、毎年11月の第1日曜日(西都原古墳祭り当日)には、男狭穂塚古墳の正面まで立ち入りが許されます。
そこから女狭穂塚古墳の後円部を中心にみることができます。

全長180m、 後円部径97.1m・高さ14.6m、 前方部幅109.5m・高さ12.8m 三段構築の前方後円墳です。
九州最大の前方後円墳で、全国でも47番目の大きさです。
ここ西都原古墳群の盟主墓です。

くびれ部両側に造り出しがあります。
また西側くびれ部付近から延びる、すぐ横にある171号墳への「渡り土手」があります。
171号墳は西都原古墳群では唯一の方墳で、女狭穂塚古墳の陪塚です。
墳丘の周りには楯形をした、幅14~18mの二重の周濠(空堀)があります。
さらに周濠の外側には幅15~18mの堤があります。
墳丘には葺き石が施されています。
円筒埴輪、朝顔形埴輪、楯形埴輪、三角板革綴短甲形埴輪、肩甲形埴輪、家形埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていたとみられています。
この古墳は発掘調査は行われていなく(陵墓参考地のため)、埴輪は昭和50年5月に受けた盗掘口周辺で見つかったものです。

地元では古くから、男狭穂塚古墳を「ニニギノミコト」、女狭穂塚古墳を「コノハナサクヤヒメ」の墓と言い伝えられています。
古墳群内唯一の畿内型の前方後円墳で、大阪府藤井寺市にある仲津山古墳の5分の3の相似形をしています。
南九州で最初に本格的な円筒埴輪や形象埴輪(当時の畿内最先端の埴輪)を採用した古墳です。
築造にあたっては、大和王権から派遣された古墳造りの技術者が、かかわっていた可能性が高いと言われています。
築造時期は5世紀前半中葉頃と推定されています。


   (桜の後方の森が女狭穂塚古墳)


   (前方部左側)


   (前方部右側)

宮崎県西都市・西都原古墳群

2010-02-20 08:13:19 | Weblog
宮崎県のほぼ中央、一ッ瀬川右岸にあります。
「さいとばる」と呼びます。
西都市の市街地西方、南北に走る標高60~70mの洪積層の丘陵、東西約2.6Km,南北約4.2Kmの地域に310余基の古墳があります。
前方後円墳・円墳・方墳・地下式横穴墓(北限)・横穴墓などが存在し、いずれも良好な状態で保存されています。
4世紀前半(100号墳)から7世紀前半(鬼の窟古墳・酒元ノ上横穴墓群)にかけて築造された古墳群です。
女狭穂塚古墳・男狭穂塚古墳が造られた(5世紀中ころ)のを最後に6世紀後半ころまで、西都原古墳群では前方後円墳が造られていません。
かわって一ッ瀬川対岸の新田原古墳群(祇園原古墳群)で造られるようになります。
首長墓を造る集団が移動したとみられます。
昭和9年(1934)国の史跡に、昭和27年(1952)に国の特別史跡に指定されています。
昭和41年(1966)から昭和44年にかけて、我が国第1号の風土記の丘(史跡公園・西都原風土記の丘)として指定され、歴史的景観保存維持のため整備作業が行われました。
春は菜の花(かってビールのコマーシャルにも登場)・桜・ミツバつつじが、秋にはコスモスが咲き乱れ、日本経済新聞社の「花見が楽しめる都市公園」にも選ばれました。

日本の近代的な考古学調査は、ここ西都原古墳群から始まりました。
大正元年(1912)から大正6年にかけて、宮崎県が主催して調査が行われました。
東京・京都の帝国大学、宮内庁、帝室博物館などから一流の学者が参加して、本格的な発掘調査が行われました。
六次に分けて、前方後円墳・円墳・方墳 あわせて30基について実施されたそうです。
  1次調査・・・大正元年12月25日から大正2年1月6日
  2次調査・・・大正2年5月
  3次調査・・・大正3年8月
  4次調査・・・大正4年1月
  5次調査・・・大正5年1月
  6次調査・・・大正5年12月から大正6年1月

古墳は地形的に大きく分けて、三つのグループに分布しています。
  西都原台地
    1.第一古墳群(円墳84基・前方後円墳7基)
    2.第二古墳群(円墳26基・前方後円墳10基)
    3.第三古墳群(円墳85基・前方後円墳1基)
    4.女狭穂塚古墳・男狭穂塚古墳(円墳2基・方墳1基・前方後円墳2基)
    5.鬼の窟古墳(円墳3基・他に横穴墓6基)
    6.寺原第一支群ー寺原丘陵(円墳13基・前方後円墳3基)
    7.寺原第二支群ー寺原集落(円墳11基・前方後円墳1基)
  中間台地(西都原台地と市街地の中間にある台地)
    堂ヶ島支群(円墳20基)
    鷺田支群ー諏訪・妻高校および国分寺一帯(円墳13基・前方後円墳2基)
    尾筋支群(円墳13基・前方後円墳5基)
  低地
    鳥子支群(円墳3基・前方後円墳1基)

この古墳群はあまりにも有名ですので、より詳しい説明は他に譲ることとします。


   (第一古墳群)


(手前の建物が古代生活体験館・後方が宮崎県立考古博物館・その後方が第三古墳群)


   (菜の花に囲まれた鬼の窟古墳)


大分県宇佐市・高倉古墳

2010-02-13 08:43:53 | Weblog
大分県宇佐市長洲にあります。

全長124m、 後円部径90m・高さ?m、 前方部幅?m・高さ?m の前方後円墳です。
墳丘は大きく破壊されていて、径30mほどの円墳状で残っています。
現在、前方部は宇佐自動車学校の練習コースになっています。
墳丘上には、高倉神社が建っています。

昭和6年ころに書かれた由来書には、「5世紀ころの築造で大分県下最大の柄鏡式前方後円墳」とあるそうです。
高倉神社の下には箱形石棺があったと言われています。
明治17年に前漢式の白銅鏡2面と鉄剣などが出土したそうです。

私が宇佐市の教育委員会に照会したところ、「学術的な調査が行われておらず、前方後円墳かどうかははっきりしない。円墳の可能性もある。」とのことでした。
由来書どおりだとすれば、大分県下最大の前方後円墳になります。

昭和46年3月23日、大分県の史跡に指定されています。
「宇佐風土記の丘」公園から海岸寄り(東)へ、車で20分足らずの所です。



   (写真右側に自動車学校があります。)


   (高倉神社)

大分県杵築市・小熊山古墳

2010-02-13 08:17:44 | Weblog
大分県杵築市大字狩宿小熊の丘陵頂にあります。
別府湾を眼下に見る絶景の地です。
かっては別府湾を航行する船舶が目印にしていたそうです。

全長120m、 後円部径80m・高さ9m、 前方部幅40m・高さ4m 三段構築の前方後円墳です。
対岸にある亀塚古墳と並ぶ大分県下屈指の古墳です。
墳丘には葺き石が施されています。

1994年、少しだけ発掘調査が行われました。
円筒埴輪や壷形埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
特に円筒埴輪は、受け口状円筒埴輪という九州では一番古いものです。
このことから、この古墳の築造時期は、同じ大分県内宇佐市・「宇佐風土記の丘」公園内にある赤塚古墳に次ぐ時期のものと推定されています。
3世紀後半から4世紀初頭の築造とみられています。

古墳を訪ねたのが丁度お昼時で、持参のおにぎりを別府湾の絶景を眼下に眺める古墳前方部でいただきました。




   (後円部から前方部をのぞむ)


大分県豊後高田市・真玉大塚古墳

2010-02-06 08:28:57 | Weblog
大分県豊後高田市金屋丸の海岸段丘上にあります。
野内古墳から、国道213号線を北へ少し行き、そこから左(海岸寄り)へしばらく行ったところです。

全長135m、 後円部径56m・高さ7.6m、 前方部幅56m・高さ7.7m の前方後円墳です。
墳丘は、前方部の一部が神社の社殿建設のため大きく削平されています。
墳丘の周りには楯形をした二重の周濠があります。
周濠の一部には水を湛えているところもあります。
円筒埴輪、家形埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
出土品については知られていません。

この古墳の築造時期は、その形態から5世紀中ころと推定されています。

金屋丸の集落のはずれにあります。
第4グループの古墳群を構成しています。
大分県内でも有数の大きさです。






大分県豊後高田市・野内古墳

2010-02-06 08:09:04 | Weblog
大分県豊後高田市西真玉金屋野内の丘陵上にあります。
猫石丸山古墳から国道213号線を北に、赤坂川を渡ってすぐの道路左側(海岸寄り)です。

全長45m、 後円部径?m・高さ?m、 前方部幅?m・高さ?m の前方後円墳です。
墳丘は大きく破壊されています。
円筒埴輪、朝顔形埴輪、壷形埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていたようです。

主体部は、羨道部があまり長くない横穴式石室です。
古墳の主軸に対して直角に造られています。
江戸時代・弘化4年ころ盗掘を受けています。
中国製き鳳鏡、硬玉製勾玉、ガラス製小玉、刀、馬具などが出土したと伝えられています。
この古墳の築造時期は、古墳時代後期・6世紀前半ころと推定されています。

道路わきの高台、畑の中にポツンと寂しげに佇んでいました。
第4グループの古墳群を構成しています。