古墳:探訪

全国の前方後円墳を中心に訊ね歩いています。

奈良県葛城市・笛吹10号墳

2015-03-28 08:32:18 | Weblog
奈良県葛城市山口神山の標高216mの丘陵尾根にあります。
新庄乗馬クラブの西側です。







全長42m、 後円部径20m・高さ5m、 前方部先端幅20m・高さ?m の前方後円墳です。
前方部を北西方向に向けています。

埋葬施設は横穴式石室です。
その他については資料が少なく詳細は不明です。

古墳時代後期・6世紀後半頃の築造と推定されています。

笛吹集落の西にある、東へ延びる標高200mほどの二筋の丘陵上に約80基ほどが残る「笛吹古墳群」の中の1基です。






奈良県葛城市・北花内大塚古墳

2015-03-21 08:18:40 | Weblog
奈良県葛城市北花内の低地にあります。
近鉄御所線・新庄駅から徒歩15分くらいのところです。
宮内庁が履中天皇皇孫・飯豊皇女の陵墓「埴口丘陵ーはにくちのおかのみささぎ」 として管理しています。









全長90m、 後円部径50m・高さ?m、 前方部先端幅70m・高さ?m  の前方後円墳です。
後円部径より前方部幅が発達しています。
前方部を南西に向けています。
墳丘は近世になって神社が遷座されたため、大きく改変されています。

墳丘の周りには今も水を湛えた幅10~15m余りの盾形をした周濠があります。
さらに周濠の外側に堤があります。





円筒埴輪や朝顔形埴輪・蓋形埴輪・盾形埴輪・人物埴輪 などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
他にもコウヤマキ製の笠形木製品が出土しています。

この古墳は陵墓に指定されているため本格的な調査は行われてなく、埋葬施設やその他については不明です。
ただ宮内庁は、墳丘の護岸工事のために墳丘の裾部に沿って計12ケ所を調査しています。
その結果、後世に手を加えられていたことが判明しました。
徳川幕府が、幕末の文久2年~慶応元年(1862年~1865年)にかけて、尊王攘夷運動の高まりを受けて「文久の修陵ー全国の陵墓の大改修」を行いましたが、この古墳も例外でなく改修されたようです。
築造当時の全長は100mほどで、後円部径は現在よりやや大きく、前方部の幅は少し狭まっていたようです。

古墳時代中期・5世紀末ころの築造と推定されています。

この古墳は宮内庁が「飯豊天皇・埴口丘陵」に指定しています。
ただ現在の皇統譜に飯豊天皇の名前はありません。
第22代清寧天皇崩御の後、第23代顕宗天皇即位までの約10ケ月という短い間、天皇に代わって政務を執り行ったようです。
「日本書紀」によれば第22代清寧天皇崩御の後、臨朝秉政ーりんちょうへいせいー天皇のいない間、代って政務を執り行うーと明記されています。
平安時代の「扶桑略記」という書物には、第23代飯豊天皇として名前が挙げられているそうです。
そうなると最初の女性天皇ということになります。

奈良県葛城市・屋敷山古墳

2015-03-14 08:16:01 | Weblog
奈良県葛城市新庄屋敷山302、金剛・葛城山脈から延びる標高120mほどの小さな尾根上にあります。
屋敷山公園内です。











全長138m、 後円部径78m・高さ15m、 前方部先端幅90m・高さ10m の前方後円墳です。
前方部西側に25×12mの造り出しがあります。
葛城市内最大の前方後円墳です。

墳丘の周りには周濠があります。
墳丘に葺石は施されていなかったようです。
円筒埴輪や盾形埴輪・蓋型埴輪・家形埴輪 などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。

1988年(昭和63年)発掘調査が行われています。
埋葬施設は竪穴式石室で、長持型石棺が収められていたそうです。
ただ発掘時には、石棺の蓋石と短側石のみが見つかっただけだそうです。
石室の蓋石や石棺は竜山石で造られています。

(竪穴式石室の天井石ー長さ3.4m・幅1.2m・厚さ0.3m)

ガラス製小玉・鉄槍・刀子・鉄釘・金銅製鉄製品 などが出土しています。

竜山石(兵庫県高砂市産出の凝灰岩ー有力者のみが使用できた石材)が石棺などの石材として使用されていることから、被葬者は「葛城氏」にかかわる人物とみられています。

この古墳は、平安時代から室町時代にかけて布施氏(葛城市南部を本拠地とした)の「里の館」として、また江戸時代には新庄藩2万石を治めた桑山氏の「陣屋」として使用されたため、かなり削平を受けています。

古墳時代中期・5世紀中葉ころの築造と推定されています。

昭和47年3月25日、国の史跡に指定されています。

奈良県葛城市・新庄二塚古墳

2015-03-07 08:22:46 | Weblog
奈良県葛城市寺口布施二塚184の尾根上にあります。
葛城山系から東に延びる標高約200mの、幅の広い尾根筋を切断して造られています。



全長60m、 後円部径36m・高さ13m、 前方部先端幅41m・高さ13m  二段構築の前方後円墳です。
前方部を北方向(上記写真右手)に向けています。

墳丘の周りには、幅約15mの長方形をした周濠があります。


                       (東側周濠)


                        (西側周濠)

墳丘表面には扁平な石を張り付けた葺石が施されています。
埴輪の出土はなく、墳丘に埴輪の配列はなされていなかったようです。

1958年(昭和33年)に橿原考古学研究所による発掘調査が行われています。
主体部が三つ確認されています。

後円部中央にある埋葬施設は、両袖型横穴式石室です。
南方向に開口しています。



石室は全長が16.41m、 羨道の長さ9.68m・幅1.73m・高さ2.65m、 玄室の長さ6.73m・幅2.98m・高さ4.1m の大型のものです。
羨道部分には排水溝がつくられています。
ガラス製小玉・水晶製三輪玉・鉄剣・鉄刀・鉄鏃・細身の長頸鏃・U字形鋤先・鑿・鉄製心葉形杏葉・金銅花形座金具・須恵器・銅器片・鉄小札 などが出土しています。

前方部中央西寄りにある埋葬施設は、片袖型横穴式石室です。
南西方向に開口しています。



凝灰岩製の組合式石棺が収められていたそうで、現在底部分のみが残っています。
石室は全長が9.0m、 羨道の長さが5.10m・幅1.40m・高さ1.50m、 玄室の長さが3.90m・幅1.70m・高さ1.90m あります。
金製中空玉・銀製中空玉などの玉類、金銅製沓、長柳葉、U字形鋤先・斧・砥石などの農具、心葉形透杏葉・轡鏡板・引手・引手壺・鞍金具・飾り金具などの馬具、土師器・須恵器などの土器 が出土しています。

造り出し部中央にある埋葬施設は、無袖型横穴式石室です。
南東方向に開口しています。



花崗岩で造られた石室の全長は7.82m、 羨道の長さ3.34m・幅1.37m、 玄室の長さ4.48m・幅1.47m・高さ1.26m あります。
朝鮮半島の一部でみられる、玄室が羨道部分より低く(約0.9m)つくられた特殊な石室です。
琥珀製瑪瑙玉・鉄刀・雁股・ヤリガンナ・鑿・手鉤・鞍カコ・針金状鉄器・多量の須恵器や土師器 が出土しています。

いづれの石室も盗掘を免れていたため、副葬品の出土総数は118点にもなるそうです。

昭和53年12月27日、国の史跡に指定されています。

古墳時代後期・6世紀中葉頃の築造と推定されています。