古墳:探訪

全国の前方後円墳を中心に訊ね歩いています。

愛知県春日井市・高御堂古墳

2013-12-28 08:01:45 | Weblog

               (左手・・・道路寄り・・・が前方部です)



                  (前方部から後方部をみています)


         (後方部から前方部をみています)

愛知県春日井市堀之内町表91の段丘上にあります。
高御堂公園内です。
JR中央線・神領駅からそう遠くない所です。

全長63m、 後方部一辺長36m・高さ5m、 前方部先端幅22m・高さ2.5m 三段構築の前方後方墳です。
赤く彩色された二重口縁壺形土器が、二段の平坦面に配列されていたようです。

墳丘の周りには周濠があります。
造り出しはありません。
平成11・14年度の調査で、古墳東側から川原石による小口積みされた葺き石が検出されています。
埴輪の出土はなく、墳丘に埴輪の配列はなされていなかったようです。

平成21年6月4日~9月10日にかけて確認調査が行われています。
その際、後方部頂に竪穴式石槨による埋葬施設が見つかっています。
長軸が約4.2m・短軸が約0.9mあり、数十cm大の扁平割り石や川原石などで構築されていたそうです。
調査時には天井石は無くなっていて、石槨内は砂に埋もれていたそうです。
そのため副葬品についてははっきりしていません。
現在はコンクリートで覆ってあります。


古墳時代前期・4世紀前半ころの築造と推定されています。

昭和26年(1951年)、春日井市の史跡に指定されています。

現在古墳は、ゲートボール場など広々とした高御堂公園の一角に取り込まれて保存されています。

                    (後 方 部)



             (前方部先端)



愛知県犬山市・東之宮古墳

2013-12-21 07:58:32 | Weblog


          

                (後方部から前方部をみています)


                (前方部から後方部をみています)

愛知県犬山市犬山北白山平7、白山平山(海抜136m)の山頂西端にあります。
大本山成田山・名古屋別院大聖寺の奥の細い道から登りました。
「瓢箪山古墳」と呼ばれることもあります。
前方部西端の一部が崩落していますが、ほぼ完全な形で残っています。
前方部傍には「東之宮社」があります。


全長78m、 後方部一辺長48×49m・高さ8m、 前方部先端幅43m・高さ6m の前方後方墳です。

墳丘の周りに周濠はありません。
また造り出しもありません。
墳丘には角礫による葺き石が施されています。
埴輪の出土がなく、墳丘に埴輪の配列はなかったものとみられます。

昭和48年8月(1973年)、発掘調査が行われています。
主体部が二つ確認されています。
後方部頂にある埋葬施設は、竪穴式石室に割竹形木棺が収められていました。
石室は、凝灰岩と花崗岩で造られていて、全長4.8m・幅0.96m・高さ1.2mあります。
内部の壁全体に、ベンガラの鮮やかな赤色が塗られていたそうです。
中国製吾作名重列二神二獣鏡、中国製波紋帯三神三獣鏡、中国製天王日月唐草文帯二神二獣鏡、中国製唐草文帯三神三獣鏡、倭製方格規矩鏡、倭製四獣形鏡、倭製人物禽獣文鏡 など舶載鏡5面・仿製鏡6面 計11面、硬玉製勾玉3点、碧玉製管玉137点、車輪石、石製合子2点、石釧3点、鍬形石、鉄剣、鉄刀9振、鉄槍、鉄鏃6点、短冊形斧や袋形斧など6点、針 などが出土しています。
これら出土品はすべて重要文化財に指定されています。

前方部にある埋葬施設も竪穴式石室です。

平成17年度から継続して今も範囲確認・測量調査が行われています。
その結果、この古墳は山を平らに削り、その上に土盛りして造られていることが判りました。

古墳時代前期・4世紀前半ころの築造と推定されています。
愛知県下で発掘調査された古墳としては、最も古いものです。

昭和50年7月19日、国の史跡に指定されています。

墳頂に登ると、近くにある「犬山モンキーセンター」の猿たちの泣き声が聞こえてきます。



            (前方部先端部)


        (前方部から後方部をみています)

愛知県犬山市・妙感寺古墳

2013-12-14 08:07:17 | Weblog

                (お寺の後ろの森が墳丘です)


     (後円部から前方部をみています。中央にある小さな祠が最上稲荷社)


               (前方部から後円部をみています)

愛知県犬山市山寺8-1の木曽川左岸、白山平の西南山麓にあります。
妙感寺の境内内です。
最上稲荷社(くびれ部に小さな祠があります。)の赤い鳥居とのぼりのトンネルを抜けた突き当たりです。

名鉄小牧線・犬山駅と犬山遊園駅のほぼ中間の所です。

全長95m、 後円部径52m・高さ7.5m、 前方部先端幅50m・高さ5.5m 前方部三段、後円部五段構築の前方後円墳です。
前方部を西に向けています。

造り出しはありません。
墳丘の周りには盾形をした周濠が、さらにその外側には堤があります。
墳丘には川原石による葺き石が施されています。
埴輪の出土はなく、墳丘に埴輪の配列はなされていなかったようです。

お寺の境内ということもあってか、一度も発掘調査は行われていません。
前方部南半分が墓地になっています。

古墳時代中期ころの築造と推定されています。

昭和50年、愛知県の史跡に指定されています。


           (墳丘ー稲荷社ーに登る階段)


              (後円部墳頂)


愛知県犬山市・羽黒城屋敷古墳

2013-12-07 08:08:47 | Weblog




愛知県犬山市羽黒城屋敷の河岸段丘上にあります。
興禅寺の東すぐ近くです。

全長60m、 後円部径?m・高さ?m、 前方部先端幅30m・高さ8m の前方後円墳です。

造り出しはありません。
墳丘の周りには幅15mの周濠があります。
墳丘には葺き石が施されています。
埴輪の出土は確認されておらず、墳丘に埴輪の配列はなされていなかったようです。
その他資料が少なく詳細は不明です。

前方部は、羽黒城の中核として利用されたため、大きく削平されています。
後円部墳頂に「羽黒城址」の石碑が建っています。


古墳時代後期の築造と推定されています。


            (後円部)


             (後円部)



              (手前が前方部)



「羽黒城」
建仁元年(1201年)、梶原景時の孫・景親によって築造されたと言われています。
影親の17代孫にあたる梶原茂助景義は、織田信長に仕え羽黒村3千石の領主になります。
しかし天正10年(1582年)、本能寺の変で信長に殉じたため、梶原家は絶えました。
天正12年(1584年)、小牧山の合戦の折り豊臣秀吉がこの城を修復させ、山内一豊(猪右衛門)や梶原茂助などに守らせましたが焼け落ち、後に廃城となりました。