古墳:探訪

全国の前方後円墳を中心に訊ね歩いています。

宮崎市・下北方3号墳

2009-10-31 08:27:28 | Weblog
宮崎市下北方町5756、大淀川左岸の台地上にあります。
1号墳のすぐ西側です。
周りを住宅で囲まれています。
下北方町は、宮崎市内でも高級住宅地として知られています。

全長68m、 後円部径36m・高さ6.3m、 前方部幅35m・高さ5.7m の前方後円墳です。
1号墳同様、主軸を南北方向に取っています。
墳丘には葺き石が施されています。
1989年発掘調査が、1995年には測量調査が行われました。
円筒埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。

この古墳の築造時期は、古墳時代中期と推定されています。
昭和14年4月21日、宮崎県の史跡に指定されています。
下北方古墳群(塚原地区)を構成しています。

因みに、この古墳の西方には、直径20mほどの円墳6基が集中してあります。
その中の7・8・9号墳の墳丘下には、地下式横穴の存在が確認されています。




宮崎市・下北方1号墳

2009-10-31 08:05:07 | Weblog
宮崎市下北方町5854、大淀川左岸の台地上にあります。
周りは住宅街になっています。

全長66m、 後円部径38m・高さ6m、 前方部幅30m・高さ5.3m の前方後円墳です。
墳丘には葺き石が施されています。
1989年、発掘調査が行われています。
円筒埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。

この古墳の築造時期は、古墳時代後期と推定されています。
昭和14年4月21日、宮崎県の史跡に指定されています。
下北方古墳群(塚原地区)を構成しています。





「下北方古墳群」
これまで紹介してきました生目古墳群が大淀川右岸の丘陵上にあるのに対し、ここは大淀川左岸の台地上にあって、川を挟んで対峙しています。
宮崎県の史跡に指定されている前方後円墳4基と円墳12基、それに地下式横穴が分布しています。
越ケ迫地区(前方後円墳1基と円墳1基)と塚原地区、少し離れた船塚地区(前方後円墳1基)に分かれてあります。

宮崎市・生目古墳群23号墳

2009-10-24 08:37:04 | Weblog
宮崎市跡江上の迫の丘陵上にあります。
22号墳の後円部東側すぐです。

全長57m、 後円部径30m・高さ4.9m、 前方部幅12m・高さ2.1m の前方後円墳です。
一部損傷を受けてはいますが、ほぼ良好な状態で残っています。
墳丘には葺き石が施されています。
埴輪の出土はなく、墳丘に埴輪の配列はなされていませんでした。

1989年に発掘調査が、1996年には測量調査が行われています。
この古墳の築造時期は、21号墳、22号墳とほぼ同じ時期の4世紀後半ころと推定されています。

かつてのこの古墳群は、欝蒼とした雑木林の中で、その姿さえなかなかはっきり見ることができませんでした。いま公園化に伴い、全体像がはっきり見れます。はたしてこれが良いのかどうか・・・・・




宮崎市・生目古墳群22号墳

2009-10-24 08:09:00 | Weblog
宮崎市跡江井尻の丘陵上にあります。

全長101m、 後円部径60m・高さ9.2m、 前方部幅26m・高さ4.6m 柄鏡式の前方後円墳です。
古墳群内で三番目に大きな前方後円墳です。

平成16年度の発掘調査で、これまで全長117mとされていた墳長が16m短いことが判明しました。
前方部の端を横切る切り通しの道があり、その道の対岸にある高まりまでがこれまで墳丘と見られていましたが、そうでないことがはっきりしたそうです。
このときの調査で、前方部側面に4m×3m弱の方形をした造り出しも見つかっています。
そこから、儀式に使ったと思われる土器も併せて出土しました。土器は「遊古館」に展示したあります。
土器の形から、この古墳の築造時期は4世紀後半ころと推定されています。
墳丘の周りには馬蹄形をした幅約10mの周溝があります。
墳丘には葺き石が施されています。
壷形埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。

後円部頂から前方部を望むと、柄鏡式の特徴がよく確認できます。
生目古墳群史跡公園の一番南側にあります。





宮崎市・生目古墳群21号墳

2009-10-17 08:23:59 | Weblog
宮崎市跡江井尻の丘陵上にあります。
生目古墳群史跡公園内、芝生広場(多目的広場)の南側、メイン駐車場の上にあります。

全長35m、 後円部径?m・高さ?m、 前方部幅?m・高さ?m の前方後円墳です。

永らく円墳と考えられていましたが、公園化に伴う発掘調査で前方後円墳と判明しました。
古墳群で一番小さい前方後円墳です。
壷形埴輪が出土しています。
この古墳の築造時期は、4世紀後半ころと推定されています。

この古墳の周りからも、7号墳同様たくさんの地下式横穴墓が見つかっています。

「上の写真の後方に見えるドーム型の建物の周りが、ソフトバンクホークスのキャンプ地、生目の杜運動公園です。」





宮崎市・生目古墳群14号墳

2009-10-17 08:05:27 | Weblog
宮崎市跡江井尻の丘陵上にあります。
生目古墳群史跡公園内、芝生広場(多目的広場)の西側にあります。

全長63m、 後円部径38m・高さ4m、 前方部幅20m・高さ2.1m 二段構築の前方後円墳です。
造り出しはありません。
前方部前面を除いて周溝が巡っています。
墳丘には葺き石が施されています。

1989年に発掘調査が、1996年に測量調査が行われています。
5号墳から出土した円筒埴輪によく似た形の埴輪が発見されています。
この古墳の築造時期は、4世紀後半ころと推定されています。

今は、周りの雑木も切り払われて見通しもよく、また容易に墳丘にも登れます。




宮崎市・生目古墳群7号墳

2009-10-10 08:17:53 | Weblog
宮崎市跡江上の迫の丘陵上にあります。
3号墳の前方部すぐ前です。
ツヅラ塚古墳とも呼ばれています。

全長46m、 後円部径24m・高さ3.9m、 前方部幅24m・高さ4.4m 2段構築の前方後円墳です。
古墳群内では2番目に小さい前方後円墳です。

墳丘を取り囲む幅15mほどの馬蹄形をした周溝があります。
両側のくびれ部から後円部横にかけて造り出しがあります。
特に北側造り出し周囲の周溝からは集中して、儀式に使われた土器が大量に出土しています。
土師器の甕1、壷3、高坏20以上、鉢3、須恵器の甕1、脚台付壷1、脚台付鉢1、ハソウ3、筒形器台1、石製紡錘車1、臼玉15以上などがあります。
また墳丘には葺き石が施されています。ただ周溝内には転落したとみられる礫が少ないため、上段のみに葺かれた可能性もあります。
埴輪の出土はなく、墳丘に埴輪の配列はなされていませんでした。

生目古墳群では最後に造られた前方後円墳で、5世紀後半の築造と推定されています。
この古墳の周囲では、たくさんの地下式横穴墓が発見されています。
中には7号墳を造らせた人物と考えてもよいくらいの大規模なものもあります。
北側隅角周辺周溝(17号)と、南側土橋脇(18号)からは、周溝から外に玄室を設けた2基が検出されていて、いづれも未完掘です。
7号墳からは玄室が発見されておらず、この地下式横穴墓が玄室の可能性があり、今後の調査が待たれます。

ヤマト王権から発した高塚墓文化と、在地色の強い地下式横穴墓文化が混在するというこの地で、一体何があったのか興味をそそられます。




宮崎市・生目古墳群5号墳

2009-10-03 08:48:29 | Weblog
宮崎市跡江上の迫の丘陵上にあります。
3号墳の東側に寄り添うようにしてあります。

全長57m、 後円部径29m・高さ4.4m、 前方部幅24m・高さ4.5m 2段構築の前方後円墳です。
古墳群内では小さいほうの前方後円墳です。
造り出しはなく、周溝は墳丘の西側だけ確認されています。
また墳丘には葺き石が施されています。
円筒埴輪や壷形土器などが出土しています。
埴輪の出土状況から、墳丘東側(古墳のある丘の、下の集落から見える場所のみ)だけ配列されていたとみられています。
円筒埴輪も、全国的にあまり例をみない独特の形(円筒埴輪や壷形埴輪をモデルにしたオリジナル?)をしています。

現在この古墳は、築造当時に復元されています。
葺き石も当時のままに復元されていて、手作業で約90,000個並べられているそうです。
埋葬施設は、後円部の一番高い所にあります。

この古墳の築造時期は、4世紀後半ころと推定されています。
生目古墳群を構成しています。




宮崎市・生目古墳群3号墳

2009-10-03 07:57:52 | Weblog
宮崎市跡江上の迫の丘陵上にあります。

全長143m、 後円部径88m・高さ12.7m、 前方部幅43m・高さ6.5m 前方部2段、後円部3段構築の前方後円墳です。
造り出しはなく、墳丘の周りには馬蹄形をした周濠があり、その外周には周堤があります。
また墳丘には葺き石が施されています。
生目古墳群最大で、全国でも83番目の大きさです。
墳丘に登れる古墳としては、九州最大のものです。
この古墳の築造時期は、4世紀中ころと推定されています。

後円部に上ると、改めてその大きさに圧倒されます。
台地北寄りから、古墳群全体を見下ろしているかのようです。
生目古墳群を構成しています。