古墳:探訪

全国の前方後円墳を中心に訊ね歩いています。

福岡県久留米市・鷲塚古墳

2012-08-25 08:04:07 | Weblog
福岡県久留米市荒木町荒木、明星山や飛岳から延びる丘陵上にあります。
鷲塚公園内です。

全長?m、 後円部径?m・高さ?m、 前方部幅?m・高さ?m の前方後円墳です。
墳丘は大きく破壊されていて、原形をとどめていません。

後円部にある主体部は、納骨堂の建設時に壊されたようで、構造やその規模も分かっていません。
須恵器が採取されています。

前方部から箱形石棺が見つかり、その内部から小形の倭製変形文鏡が見つかっています。

残っている墳丘や古い写真などから、50~60mの前方後円墳と推定されています。
築造時期は、古墳時代後期・6世紀後半ころと推定されています。
この古墳の周囲には、小さな古墳が点在していたようです。

すぐ近くに高良台保育園があり、丁度お昼の給食時で、子供たちの賑やかな声が聞こえていました。






福岡県久留米市・御塚古墳

2012-08-18 08:49:12 | Weblog
福岡県久留米市大善寺町宮本一本松の沖積地にあります。
鬼塚古墳とも呼ばれています。
西鉄天神大牟田線・大善寺駅から北へそう遠くない所です。
北側にある二重の周濠を持つ直径90m・高さ10mの円墳「権現塚古墳」ともども平成5年に、史跡公園「御塚・権現塚の広場」として整備事業が完成しています。
もともとこの一帯には、「イロハ塚」と呼ばれる40数基の古墳が点在していたそうですが、大正時代の耕地整理で消滅し、いまはこの御塚・権現塚の2基が残るだけだそうです。

全長78m、 後円部径67m・高さ10.3m、 前方部幅17m・高さ1.5m 二段構築の帆立貝式前方後円墳です。
前方部は、1602年久留米街道ー現在の柳川県道(県道23号線)を作る際削られてしまい、ほとんど残っていません。

墳丘の周りには、三重の周濠(いづれも同じ深さに造られています。)があります。
その外側には周庭があります。
周庭を結ぶ陸橋部が3ケ所設けられています。
円筒埴輪や人物埴輪・水鳥形埴輪・盾形埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
そのほか朝鮮半島・新羅系のものが含まれる須恵器や土師器なども出土しています。

内部主体部は未調査につき不明です。
江戸時代後期の久留米藩の学者・矢野一貞が著した「筑後将士軍談」と言う本には、すでに盗掘を受け、墳丘には石人があったと記されているそうです。
ここから南東方向9kmほどの所には、石人で有名な岩戸山古墳を含む「筑紫の君一族」の墓と言われている八女古墳群があり、その関係が注目されています。
その後の調査で、盗掘は受けていない可能性が出てきているそうです。

この古墳の被葬者は、大陸と交渉があった「日本書紀」にも出てくる「水沼君(みぬまのきみ)」一族と考えられています。

古墳時代中期・5世紀後半~6世紀前半ころの築造と推定されています。
昭和6年10月21日、御塚・権現塚古墳として国の史跡に指定されています。

公園は市民の憩いの広場になっているようです。



     (前方部から後円部を見ています。)


(後円部から前方部を見ています。奥が県道23号線です。)


        (後円部と周濠の一部)









福岡県久留米市・日輪寺古墳

2012-08-11 07:59:38 | Weblog
福岡県久留米市京町279-1、筑後川左岸の小台地上(日輪寺境内)にあります。
JR久留米駅から西へ500mほどの所です。

全長50m、 後円部径22m・高さ4m、 前方部幅15m・高さ?m  の前方後円墳です。
前方部を南に向けています。

前方部は南側に一部が残るのみですが、西側のくびれ部はよく原型をとどめています。
上記写真は、手前が前方部(があったところ...)です。
後円部には板石積みの横穴式石室があります。
後円部墳丘は石室の天井よりも低く削平を受けていて、現在は聖観音を祀るお堂と石室保護施設が建っています。

明治45年(1912年)3月、京都帝国大学による発掘調査が行われています。
発掘時には墳形も変わっていて、石室の天井石や側壁の大部分、羨道などは無くなっていたそうです。
昭和50年には石室復元のための石室内調査が、久留米市教育委員会によって実施されています。

石室内には、側壁に沿って阿蘇凝灰岩で造った石障が置かれています。
石障は長さ2m、幅1.7m、高さ0.5m あります。
石障の上には、赤色に染められた楕円形の礫石が多数置かれていたそうです。
石障の内側には、奥壁と左右両壁の上半分に鍵手文と同心円を交互に配した線刻文様が施されています。
また右壁の鍵手文帯には、四個の方柱状の小突起があります。

副葬品として、倭製変形四獣鏡・勾玉・管玉・ガラス製玉・小玉・銅環・刀・鉄鏃・土師器・須恵器などが出土し、日輪寺に保管されていました。
しかし戦災にあい、現在は倭製変形四獣鏡・玉類数個・鉄鏃・土師器などが残るのみだそうです。
そのほか石枕が東京国立博物館に保管されています。

5世紀末~6世紀初め、上津荒木浦山古墳に続いて築造されたものと推定されています。
大正11年3月8日、国の史跡に指定されています。

この古墳からそう離れていない所に、あの「坂本繁二郎画伯」の生家があります。






  (後円部に建つ石室保護施設と聖観音を祀るお堂)

福岡県久留米市・上津荒木浦山古墳

2012-08-04 07:58:11 | Weblog
福岡県久留米市上津町1386、通称茶坊主山といわれる小丘陵の頂上にあります。
国道3号線沿いの成田山久留米分院の東隣(境内内)です。

全長60m、 後円部径40m・高さ6m、 前方部幅20m・高さ4m  二段構築の帆立貝式前方後円墳です。
前方部を西に向けています。

大正7年(1918年)、京都帝国大学の浜田耕作により調査が行われています。
その時は円墳と考えられていました。
現在前方部は、成田山の建物により破壊されています。

墳丘には葺き石が施されています。
円筒埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。

埋葬施設は、後円部中央に北西方向に開口する単室の横穴式石室です。
長さ約2.8m・幅1.5m・高さ2m あるそうです。
現在石室は覆屋にて保存されていて、成田山で鍵を借りて中を見ることができるそうです。
残念ながら後にそのことを知り、その時は石室を見ることはできませんでした。
石室前端の天井部が破壊されていて、中をのぞくことができるのだそうです。
石室内には、「妻入横口式」の組合せ式家形石棺が収められています。
石棺は底面で長さ約1.8m・幅約0.8m・高さ約1m あるそうです。
石棺内は赤色で彩色され、線刻文様が施されているそうです。
石棺の奥壁と左右両壁には、あの「石人山古墳」の石棺同様、同心円文を挟んで上下に直弧文が掘られているそうです。

明治初期に石材採取のため発掘された折、人骨や刀剣が発見されています。
そののち勾玉、耳環、甲冑片が発掘されたと伝えられていますが、所在は不明だそうです。

5世紀後半から6世紀初頭ころの築造と推定されています。
昭和26年6月9日、国の史跡に指定されています。

成田山には巨大な「慈母大観音像」があり、どこからでもその威容を見ることができます。


       (手前が前方部になります。)


         (後円部の葺き石)


       (石室保存のための覆屋)