古墳:探訪

全国の前方後円墳を中心に訊ね歩いています。

宮崎市・木花2号墳

2009-08-29 08:35:22 | Weblog
宮崎市熊野陣之元の段丘上にあります。
1号墳とは畑を挟んで、寄り添うようにしてあります。

全長58.m、 後円部径26.8m・高さ4.4m、 前方部幅19m・高さ3.9m の前方後円墳です。
一部損傷を受けています。

墳丘には葺き石が施されていました。
円筒埴輪などが採取されていて、墳丘には埴輪の配列がなされていました。
この古墳の築造時期は、古墳時代後期と推定されています。
現在後円部は墓地になっています。
墳丘の周りは、ミカン畑や畑地で囲まれています。

木花古墳群を構成しています。
昭和12年7月2日、宮崎県の史跡に指定されています。

宮崎市・木花1号墳

2009-08-29 08:19:51 | Weblog
宮崎市熊野陣之元の段丘上にあります。
東に日向灘、北に清武川河口があり、プロ野球・巨人軍のキャンプ地、県総合運動公園からもそう遠くない所です。

全長43m、 後円部径26m・高さ4.9m、 前方部幅20m・高さ3.3m の前方後円墳です。
一部損傷を受けています。

墳丘には葺き石が施されていました。
埴輪の出土は不明で、墳丘に埴輪の配列はなかったようです。
くびれ部にある埋葬施設には、箱型石棺で埋葬されていました。
直刀などが出土しています。

古墳の築造時期ははっきりしていません。
現在墳丘上は墓地になっています。
木花古墳群を構成しています。
昭和12年7月2日、宮崎県の史跡に指定されています。


「木花古墳群」
現在、前方後円墳2基、円墳1基が残っています。

宮崎県都城市・志和池1号墳

2009-08-22 08:23:20 | Weblog
宮崎県都城市岩満町竹山にあります。
「しわち」古墳と呼びます。
大淀川を東に臨む、標高150mの台地東端です。
古墳の傍には乗馬クラブがあります。

全長?m、 後円部径30m・高さ2m、 前方部幅?m・高さ?m の前方後円墳です。
前方部は消滅しています。
築造時期ははっきりしていませんが、5~6世紀代のものと考えられています。

志和池古墳群を構成しています。
昭和9年4月17日、宮崎県の史跡に指定されています。



「志和池古墳群」
前方後円墳1基、円墳11基、地下式横穴墓1基で構成されています。

宮崎県の南西部に位置するここ都城盆地には、志和池古墳群、牧の原古墳群、塚原古墳群が点在していることになります。
地下式横穴墓文化圏(熊襲文化圏?)を構成しています。

宮崎県都城市・塚原1号墳

2009-08-22 08:10:47 | Weblog
宮崎県都城市高崎町縄瀬塚原の台地上にあります。
周りは田圃に囲まれています。

全長67.6m、 後円部径33.4m・高さ6m、 前方部幅22m・高さ4.5m の前方後円墳です。
ほぼ完全な状態で残っています。
築造時期ははっきりしていませんが、古墳時代中期のものと考えられています。

塚原古墳群を構成しています。
昭和17年(1942年)、宮崎県の史跡に指定されています。


「塚原古墳群」
前方後円墳1基、円墳25基からなり、1号墳を中心に密集した状態で分布しています。
ここからも牧の原古墳群同様、地下式横穴墓(9基)が見つかっています。

宮崎県都城市・牧の原6号墳

2009-08-15 08:39:54 | Weblog
宮崎県都城市大井手牧の原の台地上にあります。
1・3号墳からは道路を隔てたやや離れたところにあります。

全長45.4m、 後円部径26m・高さ2.9m、 前方部幅27.5m・高さ3.4m の前方後円墳です。
一部損傷を受けています。
築造時期ははっきりしていませんが、前方部が後円部より発達していることから古墳時代後期のものと思われます。

現在、前方部は墓地になっています。
前方部近くからは、箱式石棺が見つかっています。
昭和10年7月2日、宮崎県の史跡に指定されています。

宮崎県都城市・牧の原3号墳

2009-08-15 08:32:46 | Weblog
宮崎県都城市大井手牧の原の台地上にあります。
1号墳のすぐ近くです。

全長38.6m、 後円部径28m・高さ4.4m、 前方部幅9m・高さ3.9m の帆立て貝式の前方後円墳です。
一部損傷を受けています。(前方部南側に盗掘の痕跡があります。)
築造時期ははっきりしていません。

牧の原古墳群を構成しています。
昭和10年7月2日、宮崎県の史跡に指定されています。

宮崎県都城市・牧の原1号墳

2009-08-15 08:04:34 | Weblog
宮崎県都城市大井手牧の原の台地上にあります。

全長50.4m、 後円部径24m・高さ5.8m、 前方部幅33.5m・高さ3.7m の前方後円墳です。
ほぼ完全な状態で残っています。
前方部と墳丘南側に周濠の跡があります。
墳丘には葺き石が施されています。
5世紀中ころから6世紀前半ころの築造と推定されています。

牧の原古墳群を構成しています。
昭和10年7月2日、宮崎県の史跡に指定されています。


「牧の原古墳群」
3基の前方後円墳を含む13基が残っています。
5世紀中ころ~7世紀ころの古墳群と言われています。
土師器や箱式石棺、鉄剣、勾玉などが出土しています。
出土した円筒埴輪などから推測して、河内王朝文化を反映した形態と言われています。
この古墳群には、地下式横穴墓や箱式石棺墓、土坑墓などが混在しています。
地下式横穴墓とは南九州特有の墓制で、霧島山周辺の宮崎県・鹿児島県内に集中して分布しているものです。
地表面から竪穴を掘り、そこから地下に横穴を掘って遺体を納めたものです。
1号墳のそばの広場隅には、「髪長姫」をイメージしたブロンズ像が立っています。
ここ牧の原一帯は、諸県の君・牛諸井(うしもろい)一族の支配下にあったと言われています。
牛諸井の娘、「髪長姫」は仁徳天皇の妃になった女性で、髪の長い麗しき女性であったと言い伝えられています。
実在の人物と言われています。

宮崎県串間市・福島10号墳

2009-08-08 08:39:55 | Weblog
宮崎県串間市西方にあります。
地元では万多城塚と呼ばれています。

全長?m、 後円部径?m・高さ?m 前方部幅19m・高さ3.2m の前方後円墳です。
後円部は削平を受けています。
5世紀以降の築造と推定されていますが、時期ははっきりしていません。
福島地区には2基の前方後円墳を含む21基の古墳が残っています。
その中でこの古墳は一番高い所にあり、この地区でかなり重要な人物だったものと思われます。
前方部の規模からして、築造当時はかなりの大きさだったと想像されます。

前方部は現代のお墓になっています。
昭和8年12月5日、宮崎県の史跡に指定されています。
宮崎県内で最も南にある前方後円墳です。


宮崎県串間市・福島4号墳

2009-08-08 08:07:46 | Weblog
宮崎県串間市西方桑ノ木4066にあります。
地元では剣城塚と呼ばれています。

全長60m、 後円部径30m・高さ3.5m、 前方部幅20m・高さ2.7m 柄鏡式の前方後円墳です。
築造時期ははっきりしていません。

現在、後円部には明治戊辰の役の戦死者の石碑と社殿が建てられ、護国神社として祭られています。
ちなみに前方部には、接するようにして保育園があります。
明治8年12月5日、宮崎県の史跡に指定されています。

串間市は宮崎県の最南端、太平洋(志布志湾)に面しています。
野生馬で有名な都井岬があります。
1818年(文政元年)、那珂郡今町に住む佐吉という農夫が、自分の所有する「王の山」から偶然石棺を見つけ、その中から鉄器や玉とともにガラス製の壁(へき)を発見しました。
中国・漢の皇帝が諸国の王に与えたもので、日本では奴国の須玖と、伊都国の三雲の王墓から発見されているだけです。(合計3個)
串間のものは、直径34cm、扁平な円形で、その中央に直径6cmの孔が開けられています。
ほぼ完全な形で残っていて、国宝に指定されています。
表面の内側に穀粒を並べたような凸起文様があることから、穀壁(こくへき)と言われています。
なお「王の山」がどこなのかは不明です。

本物です。宮崎県立西都原考古博物館にて展示(平成21年10月9日~12月13日)

滋賀県大津市・国分大塚古墳

2009-08-01 08:48:30 | Weblog
滋賀県大津市国分1丁目、瀬田川西岸近くにあります。
周りは住宅街になっていて、古墳は公園になっています。

全長45m、 後円部径32m・高さ1.8m、 前方部幅28m・高さ1.8m 前方部を南西に向けた前方後円墳です。
墳丘の周りには周濠があります。
墳丘に葺き石は施されていなかったようです。
埴輪の出土はなく、墳丘に埴輪の配列はなされていなかったようです。

1989年、発掘調査が行われています。
この古墳には後円部と前方部に、それぞれ1基づつ横穴式石室があります。
このタイプの古墳としては、滋賀県下で唯一の古墳です。
後円部にある横穴式石室は、全長6.6m、玄室の長さ4.4m、幅2.1m(奥壁)~2.15m(羨道寄り)、高さ(現状で)1.6m、羨道の長さ2.2m以上、幅1.5mあります。
北北西方向に開口しています。
前方部にある横穴式石室は、玄室の長さ2.9m、幅1.2~1.6m、高さ0.9m以上、羨道は後世に壊されていてその規模は不明です。
南方向に開口しています。

古墳時代後期、6世紀中葉ころの築造と推定されています。
大津市内にある前方後円墳のなかで最も南にあり、かつ最も新しい古墳です。
昭和51年3月15日、大津市の史跡に指定されています。
二つの石室は一見の価値ありです。