古墳:探訪

全国の前方後円墳を中心に訊ね歩いています。

滋賀県高島市・熊野本12号墳

2009-06-27 08:49:10 | Weblog
滋賀県高島市熊野本横林の標高165mの尾根上にあります。
6号墳の北東方向すぐ近くです。

全長31m、 後円部径20m・高さ4m、 前方部幅11m・高さ2.2m の前方後円墳です。
段築なしに造られています。
墳丘に葺き石は施されていなかったようです。
埴輪の出土は確認されていません。
この古墳からは6号墳同様、平野部や琵琶湖が一望できます。

前方部から、二重口縁壷の口縁部の土器片が出土しました。
この土器片は、6号墳出土の土器片よりやや新しいもので、「この古墳は三世紀後半ころの前方後円墳と確認されました。」と2001年3月、滋賀県高島市教育委員会が発表しました。
ただ築造時期を特定するには、6号墳同様出土した土器片が少なすぎるとの意見もあるそうです。

この古墳や6号墳を含む熊野本古墳群は、「卑弥呼が邪馬台国の女王として君臨していたころ、大和と日本海の間にあって、その交易を握っていた一族のものではないか。」との見方があります。

滋賀県高島市・熊野本6号墳

2009-06-27 07:57:35 | Weblog
滋賀県高島市熊野本横林の標高165mの尾根上にあります。

全長28m、 後方部北側一辺15.9m、東側21.0m・高さ3m、 前方部幅14.4m・高さ1.4m の前方後方墳です。
段築なしに築造されています。
墳丘に葺き石は施されていなかったようです。
埴輪の出土は確認されていません。
この古墳からは、平野部や遠く琵琶湖までもが一望できます。
平野部に面する南側の墳丘の傾斜が緩く造られていて、墳丘を大きく見せようとする工夫がされています。

1988年に発掘調査が行われています。
前方部から破砕された土器と焼土が出土しています。
土器は甕の口縁部と底部のものです。
この土器は古墳発生期のもので、このことから「この古墳が同じ滋賀県内能登川町にある神郷亀塚古墳と同じ、国内最古級(三世紀前半)の前方後方墳と確認されました。」と2001年3月、滋賀県高島市教育委員会が発表しました。
前方後方墳は、東海地方に出現した(愛知県尾西市・西上免遺跡ー三世紀初頭)との説が有力ですが、滋賀県も古墳の造営は前方後方墳から始まったことが明らかになりました。
ただ築造時期を特定するには、出土した土器片が少なすぎるのではとの意見もあるそうです。
すぐ近くには、大量の鉄器が出土して一躍脚光を浴びることになった熊野本遺跡があります。
邪馬台国の時代から、大和と東国の間にあって独自性を保っていたようです。


「熊野本古墳群」
前方後方墳1基、前方後円墳1基、方墳12基、円墳24基、計38基の古墳で構成されています。
約1800年前から首長墓が継続して営まれていたと考えられています。
民有地にあるため、周りは別荘地として開発されています。
しかしそれも途中でとん挫しているように見えました。
無人の建物もあちこちに見受けられました。

滋賀県高島市・鴨稲荷山古墳

2009-06-20 08:06:18 | Weblog
滋賀県高島市鴨の自然にできた堤防上にあります。
JR湖西線・近江高島駅から北へ約4Km、車で5分ほどの鴨川右岸にあります。
湖西地方で、平野部にある前方後円墳としては唯一のものです。

全長45m、 後円部径24m・高さ5m、 前方部幅24.2m・高さ?m の前方後円墳です。
墳丘の周りには周濠があります。
墳丘に葺き石は施されていなかったようです。
円筒埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
現在、前方部の墳丘は残っていません。

この古墳は明治35年(1902年)、県道拡幅工事のさい発見されました。
発見当時、後円部に横穴式石室(長さ6m、幅・高さともに約1.8m)があり、二上山産の凝灰岩で造られた刳抜式家形石棺が納められていました。
石棺は朱で真っ赤だったそうです。
石棺内から金銅製冠・沓・魚佩(はい)・金製耳飾・鏡・環頭太刀・刀子・鉄斧・玉類などが、また棺外からは須恵器などが出土しています。
これらの出土品が、朝鮮半島の新羅王の墓の出土品とよく似ていることがわかり、半島と交流があったことをうかがわせています。

この鴨付近は、古代の三尾郷とされていて、石棺や出土品からして、第26代継体天皇に二人の妃を嫁がしている、三尾氏の墓の可能性が高いとされています。
また「この墓こそが彦主人王の墓ではないのか」との説もあるそうです。
現在石棺は、後円部にある保存用の建物の中(写真にある建物がそれ)に保管されています。
滋賀県の史跡に指定されています。

滋賀県高島市・田中王塚古墳

2009-06-13 08:09:52 | Weblog
滋賀県高島市安曇川町田中1877-1、田中神社裏にあります。
泰山寺野(たいさんじの)の丘陵突端部です。
JR湖西線・安曇川(あどがわ)駅から車で5分ほどのところです。
「ウシ塚」とも呼ばれています。
大小43基の古墳ともども王塚田中古墳群を構成しています。

全長70m、 後円部径58m・高さ10m、 前方部幅18.2m・高さ2.5~3.7m の二段構築の帆立貝式前方後円墳です。
5世紀後半の築造と推定されています。
墳丘には葺き石が施されていたようです。
種類ははっきりしていませんが、墳丘には埴輪の配列が確認されています。

昭和45年、滋賀県教育委員会の調査で前方部突出部の接合が不自然だったため、もともとは大型円墳だったと推定されています。
被葬者が継体天皇の父・彦主人王(ひこうしきみ)だという伝承が残っていて、明治38年(1905)宮内庁が周辺にある4基の陪塚と共に「安曇陵墓参考地」として管理しています。
全国に46ある陵墓参考地のうちの一つです。
「陵墓参考地」のため学術的な調査は行われていません。

陵墓へ通じる道の両脇には見事なヒノキ並木があります。
私が訪ねた時は小雨が降っていましたが、それがかえって荘厳な世界へいざなってくれたような気がしました。


「追記」
同じ古墳群内の36号墳(円墳)は、平成19年5月7日より9月末まで高島市教育委員会によって、市道新田中野線・道路改良工事に伴う発掘調査が行われました。
その結果、花崗岩質の石で構築された横穴式石室が発見されました。
しかも玄室(長さ3.4m、幅1.9m)の奥に石で間仕切りされた別の奥室がありました。
床面は玄室より約10cm高く長さが約1.1m、幅が2.1mあり、床面および壁面にはベンガラが塗布されていたそうで、非常に珍しい造りになっています。



滋賀県草津市・南笠2号墳

2009-06-06 08:27:14 | Weblog
滋賀県草津市南笠字風呂海道の平地にあります。

全長30m、 後円部径21m・高さ4m、 前方部幅15.5m・高さ2.25m の前方部を南に向けた、二段構築の前方後円墳です。
墳丘に葺き石は施されていなかったようです。
墳丘の周りには、すでに埋没した周溝があります。
円筒埴輪や朝顔型埴輪などが採取されており、墳丘には埴輪の配列がなされていたようです。

1988年に発掘調査が、1989年には周辺調査が行われています。
古墳の形や埴輪片などから、この古墳の築造時期は5世紀後半から6世紀前半ころと推定されています。
1号墳よりは新しいようです。
南笠古墳群を構成しています。

昭和48年10月15日、草津市の指定史跡になりました。



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滋賀県草津市・南笠1号墳

2009-06-06 08:07:31 | Weblog
滋賀県草津市南笠字風呂海道の平地にあります。

全長29m、 後円部径20m・高さ4.5m、 前方部幅16m・高さ1.75m の前方部を南に向けた、二段構築の前方後円墳です。
墳丘に葺き石は施されていなかったようです。
墳丘の周りには周溝があります。
円筒埴輪などが採集されており、墳丘に埴輪の配列がなされていました。

1987年には発掘調査が行われています。
かっては、2基の前方後円墳を含めた22基の古墳が群集(南笠古墳群)していたそうです。今は3基が残るのみです。
古墳の形や埴輪片などから、この古墳の築造時期は5世紀後半から末ころと推定されています。

後円部には、赤い鳥居とお稲荷さんを祭った小さな祠がたっています。
昭和48年10月15日、草津市の指定史跡になりました。
畑や田圃に囲まれた中に、後述の2号墳と寄り添うように寂とした佇まいを見せています。
なんとも愛らしく親しみのもてる古墳です。