古墳:探訪

全国の前方後円墳を中心に訊ね歩いています。

大阪府藤井寺市・青山古墳

2010-07-31 08:42:01 | Weblog
大阪府藤井寺市青山2丁目、羽曳野丘陵から北東に延びる中位段丘上にあります。
青塚児童公園内です。
青塚古墳、青山1号墳とも呼ばれています。

全長73m、 後円部径65m・高さ9.5m、 前方部幅25m・高さ4.5m 二段構築の帆立貝式前方後円墳です。

墳丘の周りには、今も水を湛えた幅約10mの周濠があります。
墳丘には葺き石が施されています。
濠の調査で、円筒埴輪や家・衣蓋・楯・靱・馬・人物などの形象埴輪が出土していて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
埋葬施設や副葬品については不明です。

5世紀中葉ころの築造と推定されています。
国の史跡に指定されています。
この古墳の南側の住宅内からは発掘調査の結果、墳丘が削平されて無くなった5基の古墳が見つかっています。






大阪府藤井寺市・稲荷塚古墳

2010-07-31 08:29:20 | Weblog
大阪府藤井寺市野中の住宅街の中にあります。
周囲を住宅で囲まれていて、いまは直径37m、高さ5mの小山が残るのみです。
これが古墳と気づく人も少ないと思います。

1998年、開発に伴う緊急発掘調査が西側と南側で行われました。
その結果
全長50m、 後円部径39m、 前方部長11m・幅17m の帆立貝式の前方後円墳と判明しました。
幅約5mの周濠も確認され、埴輪片が出土しました。

6世紀前半ころの築造と推定されています。
周辺には矢倉古墳・今井塚古墳などありましたが、今は消滅しています。






大阪府藤井寺市・鉢塚古墳

2010-07-31 08:14:30 | Weblog
大阪府藤井寺市4丁目、岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)の北側約100mにあります。
鉢山古墳とも呼ばれています。
墳丘は一部損傷を受けています。
岡ミサンザイ古墳の陪塚と考えられています。
前方部を西に向けています。

全長60m、 後円部径38m・高さ6.7m、 前方部幅40m・高さ4m の前方後円墳です。

墳丘の周りには、今は埋没している盾形をした周濠があります。
墳丘に葺き石は施されていなかったようです。
種類ははっきりしていませんが埴輪が採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていたようです。
埋葬施設や、その他の出土品については不明です。
岡ミサンザイ古墳と同時期の、5世紀後半から末頃の築造と推定されています。

藤井寺西幼稚園の裏にあり、フェンスで囲われていて中には入れませんでした。
国の史跡に指定されています。


大阪府和泉市・和田1号墳

2010-07-24 08:27:54 | Weblog
大阪府和泉市和田町の丘陵尾根先端にあります。
墳丘は一部損傷を受けています。

全長30m、 後円部径22m・高さ3m、 前方部幅19m・高さ1.5m 帆立て貝式の前方後円墳です。

種類ははっきりしていませんが、埴輪が採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていたようです。
資料が不足していて、そのほかについては詳しいことはわかっていません。

光明池自動車教習所の南、金刀比羅宮の傍です。




   (金刀比羅宮)

大阪府和泉市・信太狐塚古墳

2010-07-24 08:13:34 | Weblog
大阪府和泉市山荘町の丘陵上にあります。

全長56m、 後円部径30m・高さ4.5m、 前方部幅38m・高さ1.5m の前方後円墳です。
一部損傷を受けています。

形象埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
埋葬施設等詳しいことはわかっていません。

築造時期は特定されていません。
信太千塚古墳群を構成しています。
なかなか見つけることができず、苦労した古墳の一つです。
道路脇の雑木林の中にひっそりと佇んでいました。






大阪府和泉市・丸笠山古墳

2010-07-17 08:38:59 | Weblog
大阪府和泉市伯太町丸笠の信太山丘陵の西縁部先端にあります。
信太千塚61号墳とも呼ばれています。

全長96m、 後円部径66m・高さ8m、 前方部幅58m・高さ?m  二段構築の前方後円墳です。

墳丘は前方部で一部損傷を受けています。
墳丘の周りには周溝があります。
墳丘には葺き石が施されています。
円筒埴輪や朝顔形埴輪などが採取されたと伝えられていて、墳丘に埴輪の配列がなされていたようです。
そのほかについては、詳しいことはわかっていません。

式内社丸笠神社の境内内にあります。
4世紀後半ころの築造と推定されています。
信太千塚古墳群を構成しています。








「信太千塚古墳群」
100基余の古墳があります。
茅渟県主(ちぬのあがたぬし)一族や、古代士族坂本氏(壬申の乱で功績があった)の家族墓と伝えられています。



大阪府和泉市・信太貝吹山古墳

2010-07-17 08:07:48 | Weblog
大阪府和泉市太町の信太山丘陵、西麓の舌状低位段丘上にあります。
あの清少納言が枕草子の中で「森は信太の森」と書いている所です。
墳丘は一部損傷を受けています。

全長67m、 後円部径55m・高さ10m、 前方部幅?m・高さ?m  帆立て貝式の前方後円墳です。

墳丘の周りには周溝が、その外側には周庭帯があります。
墳丘には葺き石が施されています。
円筒埴輪や形象埴輪、滑石製槽(ふね)などが出土していて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。

5世紀中ころの築造と推定されています。
平成15年3月28日、和泉市の史跡に指定されています。
古墳はフェンスで囲われていて、中には入れませんでした。

因みに古墳の名前の由来は、江戸時代一橋家領54ケ村の農民が蜂起した「千原騒動」の際、法螺貝を合図にここに集まったからと伝えられています。(説明板より引用)






大阪府岸和田市・久米田貝吹山古墳

2010-07-10 08:47:07 | Weblog
大阪府岸和田市池尻町持ノ木、久米田公園の東端にあります。
橘諸兄(たちばなのもろえ)塚古墳とも呼ばれています。
墳丘は一部損傷を受けています。

全長135m、 後円部径82m・高さ9m、 前方部幅64m・高さ5.5m 三段構築の前方後円墳です。

墳丘の周りには今も水を湛えた、幅12~13.5mの周濠があります。
山田池、ねんど池、どじょう池と呼ばれているのがそれです。
墳丘には葺き石が施されています。
円筒埴輪や朝顔形埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。

1996年発掘調査が行われています。
後円部中央と前方部に埋葬施設が確認されています。

後円部にある埋葬施設は竪穴式石室で、刳抜式石棺が納められていたそうです。
銅鏡、碧玉製管玉、鍬形石、車輪石、石釧、鉄剣、銅鏃、鉄小札革綴冑などが出土しています。
前方部にある埋葬施設には、木棺が納められていたそうです。
碧玉製管玉、鉄片などが出土しています。
4世紀末ころの築造と推定されています。
出土品は、朝鮮半島・新羅の影響が強いもので、そのことからこの古墳は渡来人の墓とみられています。

戦国時代、久米田合戦で「三好実休」の陣地となり、ほら貝を吹いたことからこの古墳の名前が付いたそうです。

「橘諸兄(たちばなのもろえ)」
684年~757年、敏達天皇の後裔・太宰帥美努王の子。
初代橘氏長者






大阪市・天王寺茶臼山古墳

2010-07-10 08:20:55 | Weblog
大阪市天王寺区茶臼山町1の天王寺公園内にあります。
墳丘は一部損傷を受けています。

全長200m、 後円部径120m・高さ?m、 前方部幅?m・高さ?m の前方後円墳です。

1986年(昭和61年)発掘調査が行われています。
その結果、葺き石や埴輪など確認できず、古墳ではないとの見方もあります。
ただ、聖徳太子が建立したことで有名な「四天王寺」のすぐ南西に位置し、その四天王寺には長持型石棺があり、境内からは埴輪などが出土しています。
また茶臼山古墳から出土したと伝わる石棺蓋もあります。

2009年(平成21年)の発掘調査で、水銀朱が塗られた石室らしいものが発掘されたそうです。
その後の詳しい発掘結果の発表が待たれるところです。

5世紀後半に、この地の豪族のために築造された墓と伝えられています。
古墳の周りには河底池(通称・ちゃぶいけ)があります。
大阪府の史跡に指定されています。

この古墳のある茶臼山一帯は、慶長19年(1614年)の大阪冬の陣で徳川家康の本陣に、翌慶長20年の大阪夏の陣では真田幸村の本陣となっています。


(ちゃぶいけと古墳に架かる橋・・・左奥は通天閣です。)




宮崎県西都市・松本塚古墳

2010-07-03 08:15:28 | Weblog
宮崎県西都市三納松本、三納川北側の沖積地にあります。
西都市街地から西に1.4Kmほど行った水田の一角です。
地元では「船塚」と呼ばれていて、鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)陵と言い伝えられています。
鵜葺草葺不合命は、「ニニギノミコト」と「コノハナサクヤヒメ」の子・「ヒコホホデミノミコト」(山幸彦)の子供で神武天皇の父親と言うことになっています。
西都市内では4番目の大きさです。

全長104m、 後円部径61m・高さ7.6m、 前方部幅79m・高さ8m  二段構築の前方後円墳です。
墳丘には葺き石が施されています。

1986~1987年にかけて発掘調査が行われています。
墳丘の周りに幅22~35mの盾形をした周溝・その外側には周庭が、また西側くびれ部に台形状の造り出しが検出され、円筒埴輪や朝顔形円筒埴輪が出土しました。
上記写真中央、くびれ部に造り出しがあります。
5世紀末ころの築造と推定されています。
大阪府羽曳野市にある、軽里大塚古墳(5世紀後半)と相似形をしていることで知られています。


この古墳は5世紀末に、台地ではなく沖積地に築造されているのが特徴です。
この時期(5世紀末前後)、近くの西都原古墳群を含め、周囲には松本塚古墳以外大型古墳は造られていません。
首長墓の変遷上重要な古墳であると言えます。

昭和19年3月7日、国の史跡に指定されています。
どこからでも観察できますし、墳丘に登ることもできます。
三納古墳群を構成しています。


   (南側前方部から後円部をみています。)


   (西側前方部から後円部を見ています。)


   (後円部から全体像を見ています。)