古墳:探訪

全国の前方後円墳を中心に訊ね歩いています。

滋賀県大津市・皇子山1号墳

2009-07-25 08:20:18 | Weblog
滋賀県大津市錦織1丁目の琵琶湖を見下ろす皇子山の頂上付近にあります。

全長60m、 後方部一辺長35m・高さ6m、 前方部幅28m・高さ4m 二段構築の前方後方墳です。
墳丘は復元されたものです。
墳丘には葺き石が施されていたようで、琵琶湖に面した部分は特に丁寧に造られています。
埴輪の出土はなく、墳丘に埴輪の配列はなされていませんでした。
この古墳は近江で最も古く、4世紀後半ころの築造と推定されています。

主体部は後方部に10m×7mの大きな墓坑と、重なるように3基の墓坑が、前方部にもう一つの墓坑と粘土槨が見つかっています。5人が葬られていることになります。
前方後方墳からして、大和の勢力とは距離をおく人物の可能性があります。

この地を含む坂本から皇子が丘にかけての同じ時代の古墳は、その大半が横穴式石室をもち、その天井はドーム状になっているそうです。渡来系の氏族(錦織・大友・穴太・三津氏など)が残したものだと言うのが定説になっているそうです。・・・現地案内板より
昭和49年12月9日、国の史跡になっています。


「大津宮」
皇子山古墳が造られている錦織・皇子が丘地域は、大津宮が営まれていた所です。
660年、新羅と唐に滅ぼされた百済を助けるべく中大兄皇子(後の天智天皇)は朝鮮半島に出兵します。
しかし663年、白村江の戦いで唐・新羅軍に記録的な惨敗をします。
667年、中大兄皇子は大津に都を移します。
大和朝廷内外で中大兄皇子にたいする責任論が生じたことは当然想像されます。
それを避けるため、さらには唐・新羅軍が瀬戸内海を通って攻め寄せてくることも予想され、海に近い大和より大津(錦織・皇子が丘地域)の方がより安全なこと、そして何よりも白村江の戦いに負けたあと多くの百済貴族、一般市民がこの地に住んでいたことがあります。
翌668年即位して天智天皇となります。
672年壬申の乱で大海人皇子(後の天武天皇)が勝利して大津宮はわずか5年で滅びます。

滋賀県大津市・高峰1号古墳

2009-07-25 08:02:59 | Weblog
滋賀県大津市日吉台4丁目の丘陵上にあります。

全長45m、 後円部径27m・高さ3.5m、 前方部幅19m・高さ2.75m 前方部を琵琶湖に向けた前方後円墳です。
墳丘には葺き石が施されていたようです。
円筒埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
この古墳は、古墳時代中期・5世紀後半ころの築造と推定されています。
ただ地滑りで崩壊したため、完全な調査はできていないそうです。

前方部に接するようにして2号墳(円墳)があります。
また古墳と重なりあうようにして、竪穴式建物跡が発見されています。
弥生時代中期末の遺跡で、高地性集落と呼ばれるものだそうです。
集落の周りには防御用の環濠が廻っていたそうです。
「魏志倭人伝」に記されている倭国大乱とかかわる遺跡として注目されているそうです。(高峰遺跡説明板より抜粋)

滋賀県大津市・木の岡茶臼山古墳

2009-07-18 08:31:12 | Weblog
滋賀県大津市木の岡町茶臼山の丘陵尾根にあります。
木の岡丘陵の最も南になります。
宮内庁が「木の岡下坂本陵墓参考地」として管理しています。

全長84m、 後円部径49m・高さ6m、 前方部幅23.5m・高さ3.5m 三段構築の前方後円墳です。
墳丘の周りには幅約5m、深さ約1mの周濠があります。
墳丘には葺き石が施されていたようです。
埴輪の出土はなく、墳丘に埴輪の配列はなされていなかったようです。
ただ壷型土器が出土したといわれています。
古墳時代中期の築造と推定されています。
この古墳の前方部側には、もう一つ全長40mほどの前方後円墳があったそうです。

住宅地のはずれのやや急な傾斜地に造られていました。

滋賀県大津市・木の岡本塚古墳

2009-07-18 08:15:08 | Weblog
滋賀県大津市木の岡町丸山の丘陵上にあります。
木の岡丘陵の最も高いところ(標高146m)になります。
木の岡丸山古墳とも呼ばれています。
弘文天皇母后が葬られていると言い伝えられていて、宮内庁が「木の岡下坂本陵墓参考地」として管理しています。

全長73m、 後円部径55m・高さ10m、 前方部幅38m・高さ1.5m 二段構築の帆立貝式前方後円墳です。
墳丘の周りには周濠があります。
墳丘には葺き石が施されていたようです。
埴輪の出土はなく、墳丘に埴輪の配列はなされていなかったようです。
古墳時代中期の築造と推定されています。

住宅地のはずれの、まだ一部畑の残る一角にありました。

滋賀県大津市・西羅1号墳

2009-07-11 08:42:12 | Weblog
滋賀県大津市衣川二丁目、住宅団地のほぼ中央にあります。
にしら古墳と呼びます。

全長46m、 後円部径32m・高さ3.5m、 前方部幅12m・高さ2m 二段構築の帆立貝式前方後円墳です。
墳丘には葺き石が施されています。
埴輪の出土はなく、墳丘に埴輪の配列はなされていなかったようです。
発掘調査が行われていないため、埋葬施設など詳しいことはわかっていません。
この古墳は、5世紀後半ころの築造と推定されています。

古墳の頂まで登れるようになっています。
ただ私が訪ねた時は、途中の整備状況は良好といい難く、登るのに苦労しました。
昭和52年(1977)2月、大津市の史跡に指定されています。

滋賀県大津市・春日山古墳

2009-07-11 08:09:09 | Weblog
滋賀県大津市真野谷口町春日山の、堅田平野に面した滋賀丘陵先端にあります。
JR湖西線・堅田駅から徒歩で西に15分くらいの距離です。
琵琶湖が最も狭くなるところで、琵琶湖を行き来する舟や、三上山を含む湖南を一望することができます。

全長65m、 後円部径32m・高さ6m、 前方部幅20m・高さ3.5m バチ形をした二段構築の前方後円墳です。
墳丘に葺き石は施されていなかったようです。
埴輪の出土はなく、墳丘に埴輪の配列はなされていなかったようです。
後円部中央にある埋葬施設は、どのようなものだったのかはっきりしていません。
この古墳は5世紀中ころの築造と推定されています。
海上交通を始めとする交通に深くかかわった人物の墓とみられています。

訪ねた時は、雑草があたり一面を覆い尽くしていて、古墳の墳形を確認するのも容易ではありませんでした。石材(石室に使われていた?)がむき出しで転がっていたりしていて、少々荒れた感じを受けました。


「春日山古墳群」
比叡山麓から延びる滋賀丘陵の東端にあります。
滋賀県下屈指の古墳群です。
5世紀中ごろに築かれた春日山古墳と、6世紀から7世紀初めにかけて築かれた総数223基からなる後期の群集墓です。
尾根やその斜面を中心に6つの支群で構成されています。
10~30m規模の円墳群です。
主体部の形式は、木棺直葬、箱式石棺、横穴式石室といろいろです。
昭和49年12月23日、春日山古墳があるE支群が国の史跡に指定されています。


滋賀県大津市・和邇大塚山古墳

2009-07-04 08:27:08 | Weblog
滋賀県大津市小野朝日2丁目、標高185.8mの曼陀羅山の北側山頂にあります。
曼陀羅山には南北二つの山頂があります。
琵琶湖の湖面はもちろん、遠く湖東平野、湖北方面までも一望できる絶景の地です。

全長72m、 後円部径53m・高さ5.75m、 前方部幅30m・高さ4.85m 二段構築の前方後円墳です。
前方部はバチ形に開いています。
墳丘には葺き石が施されていたようです。
埴輪の出土はなく、墳丘に埴輪の配列はなされていませんでした。
ふもとの集落から、古墳がよく見えるように意識して造られています。

後円部中央にある埋葬施設は、明治40年地元の人によって発掘、破壊されています。
一辺10m、深さ1.2mほどの穴を掘り、小石を敷き詰め粘土を敷いた、いわゆる粘土槨だったようです。
高野槇で作った割竹形木棺が納められていたようです。
銅鏡(中国製青蓋盤竜鏡)、銅鏃、鉄剣、甲冑、勾玉、管玉(碧玉製)などが出土しています。
銅鏡には25文字からなる銘が刻まれていたそうですが、現在行方不明になっています。
この古墳は、4世紀後半から5世紀初頭にかけての築造と推定されています。
前方部にも同じような埋葬施設が造られているようです。

この地は和邇氏の本拠地で、小野氏(小野妹子で有名)ともゆかりのある所です。
この古墳の被葬者は、和邇氏の有力者とする考えが一般的です。

急な山道を喘ぎ喘ぎ登り切ると、山頂というよりなだらかな尾根筋に出ました。
案内板を見つけることができず、道に迷い山中をさまよいました。
遭難したのかとの思いが頭をよぎったほどでした。
その意味で印象に残る古墳の一つになりました。
それにしてもこんな高所によくも古墳を造ったものだ、と感心させられました。

滋賀県大津市・道風神社1号墳

2009-07-04 08:00:09 | Weblog
滋賀県大津市小野の丘陵尾根上にあります。
小野道風神社のすぐ脇にあります。
鳥居の間の階段を上り詰めると、切妻造に向拝を設けた珍しい造りの小さな社殿が目に入ります。
それが小野道風神社で重要文化財に指定されています。
興国二年に鎮座されたと社伝にはあるそうです。
古代氏族である小野氏を祭る神社がほかにもあります。
小野神社・その境内内にある小野篁神社・小野天皇社です。

全長34m、 後円部径17m・高さ2.9m、 前方部幅11.5m・高さ1m の前方後円墳です。
前方部を平野部(琵琶湖方向)に向けています。
墳丘は段築なしに造られていて、葺き石は施されていなかったようです。
また埴輪の出土もなく、墳丘に埴輪の配列はなされていませんでした。
後円部に接するようにして、2号墳(円墳)があります。
古墳の築造時期ははっきりしていません。


「小野道風(おののとうふう)」
(894年~966年)平安時代中期の書家。
和様の書の創始者で、日本三蹟(道風・藤原佐理・藤原行成)の一人。
柳の枝に飛びつく蛙の姿を見て発奮し、努力した話はあまりにも有名です。
小野氏出身として、ほかにも小野妹子・小野篁・小野小町などが有名です。