滋賀県大津市錦織1丁目の琵琶湖を見下ろす皇子山の頂上付近にあります。
全長60m、 後方部一辺長35m・高さ6m、 前方部幅28m・高さ4m 二段構築の前方後方墳です。
墳丘は復元されたものです。
墳丘には葺き石が施されていたようで、琵琶湖に面した部分は特に丁寧に造られています。
埴輪の出土はなく、墳丘に埴輪の配列はなされていませんでした。
この古墳は近江で最も古く、4世紀後半ころの築造と推定されています。
主体部は後方部に10m×7mの大きな墓坑と、重なるように3基の墓坑が、前方部にもう一つの墓坑と粘土槨が見つかっています。5人が葬られていることになります。
前方後方墳からして、大和の勢力とは距離をおく人物の可能性があります。
この地を含む坂本から皇子が丘にかけての同じ時代の古墳は、その大半が横穴式石室をもち、その天井はドーム状になっているそうです。渡来系の氏族(錦織・大友・穴太・三津氏など)が残したものだと言うのが定説になっているそうです。・・・現地案内板より
昭和49年12月9日、国の史跡になっています。
「大津宮」
皇子山古墳が造られている錦織・皇子が丘地域は、大津宮が営まれていた所です。
660年、新羅と唐に滅ぼされた百済を助けるべく中大兄皇子(後の天智天皇)は朝鮮半島に出兵します。
しかし663年、白村江の戦いで唐・新羅軍に記録的な惨敗をします。
667年、中大兄皇子は大津に都を移します。
大和朝廷内外で中大兄皇子にたいする責任論が生じたことは当然想像されます。
それを避けるため、さらには唐・新羅軍が瀬戸内海を通って攻め寄せてくることも予想され、海に近い大和より大津(錦織・皇子が丘地域)の方がより安全なこと、そして何よりも白村江の戦いに負けたあと多くの百済貴族、一般市民がこの地に住んでいたことがあります。
翌668年即位して天智天皇となります。
672年壬申の乱で大海人皇子(後の天武天皇)が勝利して大津宮はわずか5年で滅びます。
全長60m、 後方部一辺長35m・高さ6m、 前方部幅28m・高さ4m 二段構築の前方後方墳です。
墳丘は復元されたものです。
墳丘には葺き石が施されていたようで、琵琶湖に面した部分は特に丁寧に造られています。
埴輪の出土はなく、墳丘に埴輪の配列はなされていませんでした。
この古墳は近江で最も古く、4世紀後半ころの築造と推定されています。
主体部は後方部に10m×7mの大きな墓坑と、重なるように3基の墓坑が、前方部にもう一つの墓坑と粘土槨が見つかっています。5人が葬られていることになります。
前方後方墳からして、大和の勢力とは距離をおく人物の可能性があります。
この地を含む坂本から皇子が丘にかけての同じ時代の古墳は、その大半が横穴式石室をもち、その天井はドーム状になっているそうです。渡来系の氏族(錦織・大友・穴太・三津氏など)が残したものだと言うのが定説になっているそうです。・・・現地案内板より
昭和49年12月9日、国の史跡になっています。
「大津宮」
皇子山古墳が造られている錦織・皇子が丘地域は、大津宮が営まれていた所です。
660年、新羅と唐に滅ぼされた百済を助けるべく中大兄皇子(後の天智天皇)は朝鮮半島に出兵します。
しかし663年、白村江の戦いで唐・新羅軍に記録的な惨敗をします。
667年、中大兄皇子は大津に都を移します。
大和朝廷内外で中大兄皇子にたいする責任論が生じたことは当然想像されます。
それを避けるため、さらには唐・新羅軍が瀬戸内海を通って攻め寄せてくることも予想され、海に近い大和より大津(錦織・皇子が丘地域)の方がより安全なこと、そして何よりも白村江の戦いに負けたあと多くの百済貴族、一般市民がこの地に住んでいたことがあります。
翌668年即位して天智天皇となります。
672年壬申の乱で大海人皇子(後の天武天皇)が勝利して大津宮はわずか5年で滅びます。