古墳:探訪

全国の前方後円墳を中心に訊ね歩いています。

大阪府柏原市・玉手山2号墳

2013-04-27 08:05:33 | Weblog


大阪府柏原市玉手町、玉手山丘陵上にあります。
1号墳のすぐ南隣で、市立老人福祉センター「やすらぎ園」への出入り口脇です。

全長70m、 後円部径?m・高さ?m、 前方部幅?m・高さ?m の前方後円墳です。

現在、墳丘全体が墓地になっています。

そのため、これまで調査は行われていません。
当然ながら副葬品など詳細は不明です。
墓地のあちこちに板石が見られることから、竪穴式石室があるのではないかと推測されています。
刳抜式の石棺があったとの、地元の人の証言もあるそうです。

高所から墓地を見ると、前方後円墳を削平して造られているのが判ります。
前方部を南に向けているようです。


          (後 円 部)


          (前 方 部)


「玉手山古墳群」
大阪府柏原市から羽曳野市にかけて広がる、南北に延びた玉手山丘陵上にあります。
標高約100mの丘陵です。
三方を 「石川」 「原川」 「大和川」 に囲まれています。
古墳時代前期・3世紀後半から4世紀にかけての古墳群です。
12基の前方後円墳と20数基の円墳からなります。
前方後円墳は、稜線の高まりに造られています。
現在 前方後円墳は、1号墳・2号墳・3号墳・7号墳・8号墳・9号墳の6基が残るのみです。
「石川」の対岸には、5世紀の大古墳群・古市古墳群があります。
大和政権の中枢部があった所です。
ここ玉手山古墳群を造った豪族が、のちの大和政権の先祖ではないのかとの説もあります。

大阪府柏原市・玉手山1号墳

2013-04-20 08:08:03 | Weblog


大阪府柏原市片山町、玉手山丘陵の最北端にあります。
「小松山古墳」とも呼ばれています。
街中から離れた、かなり急な坂道を登りつめた所にある 市立体育館 のすぐ近くです。

全長110m、 後円部径60m・高さ10m、 前方部幅20m・高さ2m  前方部二段・後円部三段構築の前方後円墳です。
前方部がややバチ形に開いています。

円筒埴輪や朝顔形埴輪・楕円形埴輪 などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
墳丘には葺き石が施されていたようです。
前方部では粘土槨が、後円部では竪穴式石室が見つかっています。
墳頂部には板石積みの方形壇が築かれています。

古墳時代前期・4世紀前半ころの築造と推定されています。
この玉手山丘陵には、古墳時代前期の前方後円墳が集中して築かれています。
玉手山丘陵西側を流れる「石川」の対岸には、あの中期大型古墳群「古市古墳群」があります。

またこの付近は小松山と呼ばれていて、大坂夏の陣の戦場となった所でもあります。
慶長20年(1615年)5月6日、豊臣方の先陣・後藤又兵衛の軍二千八百と、徳川方の伊達政宗や水野勝成、本多忠政、松平忠明らの軍二万が小松山の争奪を巡って激しく戦った所です。
玉手山1号墳の後円部には、徳川軍の先鋒として小松山に攻め上り討ち死にした・奥田三郎右衛門忠次と5名の家臣の墓碑が残されています。




     (後円部裾から前方部をみています)


          (前 方 部)

大阪府柏原市・松岳山古墳

2013-04-13 08:04:58 | Weblog


大阪府柏原市国分市場1丁目の丘陵上にあります。
大和川左岸の標高約60mの丘陵上(松岳山)、国分神社の裏山です。
国分神社の参道わきから墳丘に登れるようになっています。
墳丘に登るには、国分神社に届け出(記帳)が必要です。
「まつおかやま」古墳と呼びます。
美山古墳とも呼ばれています。

全長130m、 後円部径72m・高さ16m、 前方部幅32m・高さ6m  前方部二段・後円部三段構築の前方後円墳です。
前方部を南西方向に向けています。

墳丘の周りには周濠があります。
円筒埴輪や朝顔形埴輪・鰭付楕円形埴輪 などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
墳丘の葺き石は、普通に見られる円礫で葺くのではなく、板状の石を垂直に階段のように積み上げてあります。
近畿地方では非常に珍しい造りです。

昭和40年(1965年)、京都大学・小林行雄先生による発掘調査が行われています。
後円部墳頂にある埋葬施設は、竪穴式石室で6枚の板石による組合式長持型石棺が収められていました。
底部の頭部にあたる所は枕形に刻まれています。
石室には副室があります。
盗掘にあっていますが、鏡や硬玉製勾玉・碧玉製管玉・碧玉製丸玉・ガラス製小玉・石釧・鍬形石・鉄剣・鉄刀・鉄鏃・銅鏃・鎌 など多彩な副葬品が出土しています。
出土した鉄製の武器や農工具類の総重量は50Kgにもなるそうです。

古墳時代前期・4世紀後半ころの築造と推定されています。

大正11年3月8日、国の史跡に指定されています。

後円部には石棺が露出しています。
盗掘の際に壊された石室の石と思われる板状の石がその周りに散乱しています。
また石棺の南北には、孔のあいた大きな石が立っています。
どのような役割を担っていた石なのか興味をひかれます。


後円部墳頂近くの斜面に、「船氏墳墓」の石標が建てられています。
国宝「船氏王後首ーふなしおうごのおびと」の銅製墓誌が、江戸時代にこの墳丘から発見されたと伝えられています。




       (前方部)


大阪府八尾市・郡川西塚古墳

2013-04-06 08:01:22 | Weblog


大阪府八尾市郡川の扇状地緩斜面上にあります。
「郡川西車塚古墳」とか「高安38号墳」とも呼ばれています。
鏡塚古墳前の「東高野街道ー府道・旧170号線」を南に下った郡川交差点のすぐ西南側です。

全長60m、 後円部径30m・高さ2.5m、 前方部幅43m・高さ2.25m の前方後円墳です。
墳丘はかなり削平を受けています。

墳丘の周りには盾形をした周濠があります。
円筒埴輪 などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。

後円部にある埋葬施設は、片袖型横穴式石室で組合式木棺が納められていたそうです。
石室は初期の横穴式石室で、5世紀末ころ渡来人により畿内に伝わったと言われています。
明治35年(1902年)、農地の開墾の際に見つかったそうです。
倭製尚方作神人歌舞画像鏡・倭製変形四獣鏡・倭製画文帯神獣鏡・その他の鏡五面・鉄剣・鉄刀・鉄槍・鋲留短甲・勾玉・管玉・小玉・金環・銀環・銀製垂飾付耳飾 などが出土しています。

古墳時代後期・五世紀末から六世紀初めころの築造と推定されています。

現在は、水田や植木畑に囲まれた雑木林になっています。
これが古墳と気付く人は、ほとんどいないのではないかと思います。
事実、何人かの人に尋ねましたが誰も知っている人はいませんでした。

道路を挟んだ反対側(東側)には、郡川東塚古墳(墳長約50m)があったそうですが、宅地開発のため今は消滅しています。