古墳:探訪

全国の前方後円墳を中心に訊ね歩いています。

宮崎県新富町・新田原古墳群92号墳

2011-06-25 08:21:55 | Weblog
宮崎県児湯郡新富町新田祇園原の台地上にあります。
大久保塚古墳とか大公方塚古墳と呼ばれることもあります。
幹線道路沿いにあります。

全長84m、 後円部径47m・高さ6m、 前方部幅45m・高さ6.5m 三段構築の前方後円墳です。
祇園原支群中3番目の大きさです。

両側のくびれ部に造り出しがあります。
墳丘の周りには盾形をした周濠があります。
円筒埴輪等が採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。

この古墳の築造時期は、古墳時代中期と推定されています。

上記写真の向こう側(東側)には、前方部・後円部そばにそれぞれ牛舎があり口蹄疫終息後も近づくことが難しくなっています。

新田原(にゅうたばる)古墳群・祇園原支群を構成しています。




宮崎県新富町・新田原古墳群68号墳

2011-06-18 09:39:31 | Weblog
宮崎県児湯郡新富町新田東俣の台地上にあります。

全長60.4m、 後円部径27m・高さ7m、 前方部幅44m・高さ8.1m の前方後円墳です。

この古墳は資料が少なく、築造時期を含めはっきりしていません。
ただ前方部が後円部より発達していることから、古墳時代後期の築造と推測されます。

67号墳の北側すぐにあります。
ほぼどこからでも観察できます。

新田原古墳群・祇園原支群を構成しています。






宮崎県新富町・新田原古墳群67号墳

2011-06-18 09:27:42 | Weblog
宮崎県児湯郡新富町新田東俣の台地上にあります。

全長37.4m、 後円部径26.4m・高さ4.2m、 前方部幅12m・高さ1.4m 帆立て貝式の前方後円墳です。

葺き石は施されていなかったようです。
埴輪の出土は確認されていなく、墳丘に埴輪の配列はなかったようです。

この古墳の築造時期は、資料が少なくはっきりしていません。

民家を挟んで65号墳の北側にあります。
どこからでも観察できます。

新田原古墳群・祇園原支群を構成しています。







宮崎県新富町・新田原古墳群65号墳

2011-06-11 08:31:40 | Weblog
宮崎県児湯郡新富町東俣の台地上にあります。

全長40m、 後円部径22.6m・高さ3.4m、 前方部幅16.4m・高さ3m 二段構築の前方後円墳です。

墳丘の周りには馬蹄形をした周濠があります。
葺き石は施されていません。
埴輪の出土は確認されてなく、墳丘に埴輪の配列はなされていなかったようです。

この古墳の築造時期は、資料が少なくはっきりしていませんが古墳時代後期と推定されています。

民家傍の畑の中に、こじんまりとした佇まいを見せています。
ほぼどこからでも観察ができます。
新田原古墳群・祇園原支群を構成しています。






宮崎県新富町・新田原古墳群59号墳

2011-06-11 08:11:54 | Weblog
宮崎県児湯郡新富町東俣の台地上にあります。
祇園原支群のなかでは一番高い所にあります。
58号墳(百足塚古墳)を見下ろす位置です。
上記写真の右手前の古墳は、百足塚古墳の後円部の一部です。
前方部脇には牛舎があり、牛の飼育が再開されていました。


全長71m、 後円部径32m・高さ8m、 前方部幅42m・高さ7m 二段構築の前方後円墳です。

墳丘の周りには盾形をした周濠があります。
葺き石は施されていません。
円筒埴輪が採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。

この古墳の築造時期は、古墳時代後期と推定されています。

牛舎傍には近寄れませんが、その他の場所からはどこからでも観察できます。
新田原古墳群・祇園原支群を構成しています。







宮崎県新富町・新田原古墳群58号墳

2011-06-04 08:13:39 | Weblog
宮崎県児湯郡新富町新田東俣の台地上にあります。
56号墳とは道路を挟んで北側になります。
百足塚古墳とも呼ばれています。

全長76.4m、 後円部径33.2m・高さ8.8m、 前方部幅43.6m・高さ8.4m 二段構築の前方後円墳です。
前方部を南に向けています。

墳丘の周りには盾形をした周濠があります。
その外側には外堤が巡らされています。
造り出しはありません。

埋葬施設は横穴式石室です。

平成10年から16年にかけての調査で、西側外堤周囲からコンテナケース約400箱に及ぶ形象埴輪片が出土し一躍注目されることとなりました。
復元すると60体以上になると予想されています。

この4月にオープンした、大阪府高槻市の真の継体天皇陵と言われている「今城塚古墳」公園に、「埴輪祭祀場」から出土した形象埴輪のレプリカ約190点が並べられています。(私はまだ実際には見ていません)
亡くなった大王の魂を鎮めるための「儀式」の模様をあらわしたものと言われています。

この百足塚古墳西側外堤周囲出土の形象埴輪群も、今城塚古墳と同じような「儀式」の模様を表していたものだった可能性があると言われています。
今までに復元されたのは(その都度3度ほどに分けて公開されています)、柵形埴輪・家形埴輪(高床、倉庫風、入母屋造、寄棟造)・人物埴輪(ひざまづく男性、三角帽をかぶった男性、馬をひく男性、器を捧げ持つ女性、袈裟に似た衣服をまとった女性、性器をみせる女性、踊る女性)・鳥形埴輪(雄鶏)・太鼓形埴輪などがあります。
また中段のテラスと墳頂には円筒埴輪列と盾形埴輪が並べられていたそうです。

この古墳の築造時期は、6世紀前半ころと推定されていて、今城塚古墳と同時期であり、何らかの関連があったのではと思われます。

古墳はどこからでも観察できます。
新田原古墳群・祇園原支群を構成しています。