古墳:探訪

全国の前方後円墳を中心に訊ね歩いています。

大阪府八尾市・鏡塚古墳

2013-03-30 08:06:38 | Weblog


大阪府八尾市大竹5丁目、平安時代以来の古道「東高野街道ー府道・旧170号線」沿い東側です。
心合寺山古墳の西約300m、標高約17mの所です。
俗に松山とか腹痛山とか呼ばれています。
ここの土に触る(取る)と腹痛を起こすとの言い伝えがあり、そこから腹痛山と呼ばれるようになったとか・・・・・

全長50m、 後円部径28m・高さ5m、 前方部幅?m・高さ?m  の前方後円墳です。
前方部を南に向けています。
墳丘はかなり削平を受けています。

墳丘の周りには周濠が廻っていたようです。
円筒埴輪や朝顔形埴輪・蓋形埴輪 などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。

後円部の上部に粘土槨が残っています。
火葬跡が二か所発見されていて、石櫃の蓋の破片が出土しています。

古墳時代中期末ころの築造と推定されています。

墳丘は一部採土(昭和33年3月)されていて、その跡に小さな祠が建てられています。
入口に「宝山神社」の碑があります。



昭和34年4月、大阪府の史跡に指定されています。

墳丘上にはたくさんの桜の木が植えてあります。
花の頃はさぞ綺麗だろうなと思いつつ後にしました。


大阪府八尾市・西ノ山古墳

2013-03-23 08:06:53 | Weblog


大阪府八尾市楽音寺、大阪経済法科大学の北側・熊野神社の裏にあります。
標高約70mの生駒山系西側の独立した丘陵上です。

全長55m、 後円部径27m・高さ9m、 前方部幅23m・高さ5m  の前方後円墳です。
前方部を南に向けています。

円筒埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていたようです。
前方部は植木畑になっています。

明治14年(1881年)、開拓中に後円部から竪穴式石室が発見され、石棺が収められていたそうです。
石棺の中からは人骨とともに、三角縁神獣鏡・勾玉・管玉・小玉・鉄剣・鉄刀・定角式銅鏃 などが出土したそうです。

古墳時代前期の築造と推定されています。

古墳は、触れると 「祟りがある」 と言い伝えられていて、今は雑草・雑木などが茂るがままになっています。


楽音寺の村落が山麓にあった頃、この古墳がある丘陵が「西ノ山」と呼ばれていたことから古墳の名前として残っているそうです。

通りすがりの学生さんら何人もの人に熊野神社を尋ねましたが、誰も知っている人がなく半ばあきらめかけていました。
そんななか、たまたま自宅前で草取りをしておられた年配の女性に教えていただくことができ、ようやく辿り着きました。
想像していたよりはコンパクトな「社」でした。




大阪府八尾市・向山古墳

2013-03-16 08:07:22 | Weblog


大阪府八尾市大竹8丁目、大阪経済法科大学の南約300mの小さな独立した丘陵上にあります。

全長55m、 後円部径30m・高さ7m、 前方部幅28m・高さ5m  の前方後円墳です。
前方部を西に向けています。

墳丘は早い時代から開墾されていて、今は植木畑になっています。
後円部は一部が採土により削平を受けています。

墳丘南側には灌漑用(?)の池があります。
後円部南側のその池畔には、平安時代末期に造られた瓦を焼くための窯跡があり、今も窯の一部が残っています。
京都の醍醐寺や宇治の平等院など近畿各地に運ばれていたそうです。

古墳時代前期の築造と推定されていますが、その他については資料が少なく不明です。

墳丘からは、遠く八尾の市街を眺めることができます。






大阪府八尾市・心合寺山古墳

2013-03-09 08:08:10 | Weblog


大阪府八尾市大竹4・5丁目にあります。
「しおんじやま」古墳と呼びます。

全長160m、 後円部径92m・高さ11.7m、 前方部幅56m・高さ10.3m 三段構築の前方後円墳です。
前方部を南に向けています。
全国で60番目の大きさです。

墳丘の周りには、今も水を湛えた盾形をした周濠があります。
ただ南側と北側で堤により区切られています。
そのため東側と西側で水位が違っています。
くびれ部西側には造り出しがあります。
草摺形埴輪・靫形埴輪・蓋形埴輪・盾形埴輪・家形埴輪・鶏形埴輪・壷形埴輪 などが並べられていたようです。


墳丘には葺き石が施されています。
円筒埴輪や朝顔形埴輪 などが採取されていて、墳丘(各段のテラス部)に埴輪の配列がなされていました。

平成5年(1993年)から平成15年(2003年)にかけて、史跡整備事業に伴う本格的な発掘調査が10次にわたって行われました。
また、平成13年から平成17年にかけて史跡整備工事が行われ、墳丘や埴輪列を築造当時に復元整備しています。

後円部墳頂にある埋葬施設には、東西に並んだ3基の長さの違う粘土槨にそれぞれ木棺が収められていたそうです。
いちばん西にある「西槨」からは木棺そのものが確認されています。
愛鳳鏡・鉄剣・鉄刀・環頭太刀・三角板革綴短甲・三角板草綴衝角付冑・硬玉製勾玉・碧玉製管玉 などが出土しています。

前方部墳頂の、埴輪列に囲まれた中に方形壇があります。
この方形壇の下からも木棺1基が見つかっています。

古墳時代中期・5世紀前半ころの築造と推定されています。

昭和41年2月25日、国の史跡に指定されています。

すぐそばに「八尾市立しおんじやま古墳学習館」があり、ここから墳丘へ登れるようになっています。
残念ながら、ここもまた訪ねた日が休館日で、墳丘に登ることができませんでした。


     (西側の周濠越しに見る墳丘)


     (東側の周濠からみています)

大阪府豊中市・南天平塚古墳

2013-03-02 08:09:46 | Weblog


大阪府豊中市南桜塚3丁目の交差点脇にあります。
「みなみてんびんづか」古墳と呼びます。

全長28m、 後円部径22m・高さ4m、 前方部幅?m・高さ?m  二段構築の帆立貝式前方後円墳です。

墳丘の周りには、幅約7mの周濠があります。
墳丘に埴輪の配列(1段目のテラス部)がなされていました。
昭和10年代の土地区画整理事業に伴う道路によって、墳丘の四分の三が削られ、今は北西部分が扇形に残るだけです。

平成3年、豊中市教育委員会が調査を行っています。

後円部墳頂には、二つの主体部が確認されています。

第一主体は粘土槨に割竹形木棺で埋葬されていたそうです。
彷製六獣鏡・鉄刀・鉄剣・鉄鏃・短甲・環鈴 などが出土しています。

第二主体にも、割竹形木棺が直葬されていたそうです。
出土したものとしては、方格規矩鏡・鉄刀・鉄剣・鉄鏃・衝角付冑・短甲 などがあります。

二つの木棺のうち1基は完全に残っていたそうです。
長さ2.9m、幅約0.85m~0.75m のコウヤマキ製の割竹形木棺だそうです。
棺蓋の上には革製の盾が置かれていたようです。

古墳時代中期・5世紀後半ころの築造と推定されています。

どこからでも観察することができます。