古墳:探訪

全国の前方後円墳を中心に訊ね歩いています。

福岡県久留米市・藤山甲塚古墳

2012-07-28 08:14:19 | Weblog
福岡県久留米市藤山町仏坂、明星山から延びる丘陵先端・標高60mほどの所です。

全長70m、 後円部径57m・高さ7m、 前方部22m・高さ2m 三段構築の帆立貝式前方後円墳です。
前方部を西に向けています。

平成元年(1989年)に発掘調査が行われています。
墳丘には葺き石が施されています。
円筒埴輪や朝顔形埴輪・盾形埴輪・家形埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。

埋葬施設は、後円部中央南側に開口する単室の横穴式石室です。
緑泥片岩でつくられていて、長さが全長約5.25mあります。
羨道部は玄室の西寄りにあり、幅約1m・長さ2.5mです。
玄室は長辺で約2.75m・短辺で約2.35m・高さ約2.2mです。
玄室内部には、一部天草産の砂岩がつかわれている石障が設置されています。
蕨手刀子などが出土しています。

現在、石室は埋め戻されていて見ることはできません。

古墳時代中期・5世紀中ころの築造と推定されています。

県道752号線脇にある階段を登り切った小高い丘の上で、見晴らしも良い所です。


      (この階段を登ると墳丘です。)


        (石室の開口部)



     (後円部から前方部を見ています。)


福岡県久留米市・本山古墳

2012-07-28 07:54:30 | Weblog
福岡県久留米市上津町本山2072、浄土宗極楽寺・納骨堂裏の丘陵端にあります。

全長?m、 後円部径40m・高さ3m、 前方部幅?m・高さ?m の前方後円墳です。
前方部を北西に向けています。
ただし、現在前方部は残っていません。
後円部も損傷を受けています。

円筒埴輪や形象埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
他に須恵器なども見つかっています。

古墳時代後期の築造と推定されています。

その他については資料が少なく詳しいことは不明です。

山の中をさんざん探し回り、ようやく見つけることができました。
この古墳から南東方向にそれほど離れていない所に、陸上自衛隊の高良台演習場があります。
訪ねた日も射撃訓練の銃声(空砲でしょうが・・・)が風に乗って聞こえてきました。


   (左側に少し見えてる屋根が納骨堂です。)




   (後円部墳丘ー平になっています。)

福岡県久留米市・田主丸大塚古墳

2012-07-21 07:59:46 | Weblog
福岡県久留米市田主丸町石垣、耳納山地北麓の標高70~80mの緩傾斜面にあります。
道路(山苞の道)を隔てた北側には、平成19年にオープンした「大塚古墳歴史公園」があります。

全長103m、 後円部径59m・高さ10m、 前方部先端幅57m・高さ1.5m 三段構築の前方後円墳です。
前方部を南に向けています。
上記写真の右側が前方部になります。

後円部西側に造り出しがあります。
墳丘の周りには周濠(幅12~15m)があります。
墳丘には葺き石が施されています。
埴輪の出土がなく、墳丘に埴輪の配列はなされていなかったようです。

永らく円墳(前方部が削平されているため)と見られていましたが、平成11年度の発掘調査で全長103mの前方後円墳とわかりました。
筑後川流域で最大級の前方後円墳です。
墳丘の補強や高低差の解消のため石組みが、一部墳丘盛土のなかに埋め込まれていることも判明しました。

主体部が二つ確認されています。
後円部南寄りには西側に開口した横穴式石室があります。
玄室の奥壁と側壁などには同心円や三角文、盾、船などが描かれています。
前方部にあったもう一つの埋葬施設は、どんなものだったのか不明です。

出土した土器などからこの古墳は、古墳時代後期・6世紀後半ころの築造と推定されています。

平成14年3月19日、田主丸古墳群として国の史跡に指定されています。
現在、後円部頂は平らな広場状になっています。


   (白く見える土嚢が積まれた所が石室入り口)


   (山苞の道から見た後円部)


   (広場状になっている後円部墳丘)

福岡県広川町・石人山古墳

2012-07-14 08:13:28 | Weblog
福岡県八女郡広川町大字一條字人形原1435、標高約35mの八女丘陵西端にあります。
「せきじんさんこふん」とよびます。
全国的に知られた古墳で、今更と言う気もしますが...

全長107m、 後円部径53m・高さ12m、 前方部先端幅63m・高さ11m 前方部二段・後円部三段構築の前方後円墳です。
前方部を西に向けています。

北側くびれ部に造り出しがあります。
南側にもあったようですが、今は残っていません。
墳丘の周りには、幅約1.2m~1.3mの盾形をした周濠があり、その外側には周庭があります。
墳丘には葺き石が施されています。
円筒埴輪や短甲形埴輪・楯形埴輪・家形埴輪・馬形埴輪・犬形埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。

埋葬施設は、後円部ほぼ中央で墳丘面から約4m掘り下げたところに「竪穴系横口石室」があります。
石室は、長さが約3.9m・横幅が約2mあり、家形石棺が収められています。
石棺は、阿蘇溶結凝灰岩製で「妻入り横口式」と呼ばれるものです。
棺は、長さが2.8m・高さ2m・幅が西端で1.5m・東端で1.3mあり、棺蓋の東西に棒状縄掛突起があります。
江戸時代より石棺の前面が露出していたそうで、そのため盗掘を受けています。
石棺の棺蓋(長辺の2面・短辺の2面)や棺身の横口部外面に、重圏文(二十丸の文様)や直弧文(直線と帯状の弧線を組み合わせた文様)などが浮き彫りされています。
また石棺の棺蓋前面が朱に塗られていたようです。

くびれ部に、後円部の石棺を背にしてあたかも被葬者を守るように1体の「武装石人」が立っています。
高さが約1.8mあり、三角板短甲と草摺を身につけ、背中には靫(矢筒)が彫られています。
左脇には石刀をつける抉り込みがあります。
この古墳の名前のもとになったもので、昭和51年6月5日 国の重要文化財に指定されています。

この石人山古墳は、大正15年3月に福岡県の史跡に指定され、昭和13年8月8日には国の史跡に指定されています。
昭和53年3月24日には、八女古墳群と改称して国の史跡に一括して指定されました。

この古墳の築造時期は、古墳時代中期・5世紀前半後葉ころと推定されています。

すぐそばには、石人山弘化谷古墳公園資料館があり、出土品などが展示してあります。
上記写真はこの資料館前から写したもので、右手が前方部です。


    (くびれ部から前方部を見ています。)


        (妻入り横口式石棺)


      (武装石人)

熊本県玉名市・弁財天古墳

2012-07-07 08:01:52 | Weblog
熊本県玉名市高道石橋の、大野牟田を見渡す高道台地の東端にあります。
墳丘には、クス・ムク・杉などの巨木が茂っていて、墳丘の三方は道路で囲まれています。
南側の封土の崩壊を防ぐため、平成2年3月旧岱明町が高さ1.25mと2.60m、長さ延べ18.00mの石垣を築いています。

全長?m、 後円部径?m・高さ?m、 前方部幅?m・高さ?m の前方後円墳です。
墳丘は大きく破壊されていて、現状は底辺で高さ7m、長径約35m、短径約27m の楕円形をしています。
円墳との説もあります。

内部主体部は、南向きの羨門をもつ割石小口積の横穴式石室です。
南東側にある石段を登って行った左側です。
石室は、間口2.2m・奥行き2.4m・奥の幅が2.4mのほぼ正方形をしています。
安山岩4枚で組まれた、両端に縄掛突起をもつ家形石棺が納められています。
石棺内には、人骨も副葬品も残っていなかったそうです。

古墳の名前の由来は、内部正面奥に楕円形の黒い石を立て、白い丸石数個を収め弁財天の御神体としているからだそうです。
因みに「弁財天」はインドの女神で福神とされ、日本では琵琶を弾く女神で七福神のひとつになっているのはご承知のとおりです。

古墳時代後期の築造と推定されています。

毎年12月15日には地元の人がお祭りをしているそうです。
平成20年10月14日、合併後の玉名市の史跡に指定されています。




 (この階段を登りきった左手に石室があります。)


        (石室の内部です。)