古墳:探訪

全国の前方後円墳を中心に訊ね歩いています。

兵庫県姫路市・墓所前古墳

2014-06-28 08:03:15 | Weblog




兵庫県姫路市兼田の仁寿山から西南方向に延びる梅が岡にあります。
姫路バイパス北側、河合家墓所前から100mほど南へ進んだ尾根の突端です。

全長約30m、 後円部径?m・高さ?m、 前方部幅?m・高さ?m の前方後円墳です。

円筒埴輪や形象埴輪が採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていたようです。
須恵器や鉄剣なども出土しています。
主体部は、横穴式石室ではなく粘土槨の可能性もあるそうです。
本格的な調査は行われていなく、また資料もほとんどなく築造時期を含め詳細は不明です。









「河合家墓所」
姫路藩酒井家の家老で尊王運動で活躍し、財政立て直しに大きな功績があった「河合寸翁」をはじめ、祖父・定恒や塀山など一族の墓です。
墓所は土塀に囲まれ三段に分かれていて、上段中央に寸翁夫婦、中段に定恒夫婦の墓があります。


兵庫県姫路市・実法寺天神山古墳

2014-06-21 07:52:14 | Weblog

                  (前方部から後円部をみています)


                  (後円部から前方部をみています)





兵庫県姫路市飾西町実法寺天神山の丘陵尾根上にあります。
天神山(標高164.4m)山頂から、南西方向に伸びる尾根筋の突端部(海抜93m)です。
JR姫新線・余部駅から菅生川添いに北へ歩くこと約30分、天神山の登山口につきました。
菅生川に架かる「書写中学校橋」の東詰から山道を登ることになります。
関西電力の高圧送電線鉄塔そばから急な坂道を少し登ったところです。


                  (鉄塔右側の小高いところが古墳です)


全長43.5m、 後円部径20m・高さ2.5m、 前方部先端幅10.4m・高さ1.5m 二段構築の前方後円墳です。

墳丘には葺石が施されています。

埴輪の出土はなく、墳丘に埴輪の配列はなされていなかったようです。
後円部中央にある主体部の構造ははっきりしていませんが、竪穴式石室とみられています。
また副葬品があったかどうかもはっきりしていません。

古墳時代前期・3世紀末から4世紀初頭ころの築造と推定されています。

前方部の斜面下方には、かって数基の円墳があったそうですが今は消滅しています。

兵庫県姫路市・土師片山古墳

2014-06-14 07:57:23 | Weblog



                       (後 円 部)





                 (前方部から後円部をみています)

兵庫県姫路市土師片山366、標高81mの尾根上にあります。
JR播但線・溝口駅の西方にある尾根上です。

全長30m、 後円部径20m・高さ3m、 前方部先端幅5m・高さ1m の前方後円墳です。
自然の地形を利用して造られています。
すぐそばにある鉄塔付近に向かって前方部が伸びています。


前方部と南西側は削平を受けています。

墳丘に葺石は施されていなかったようです。
円筒埴輪や朝顔型埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
発掘調査は行われていませんが、埋葬施設は竪穴式石室とみられています。
副葬品などの遺物の出土も不明です。
ただすぐ近くにある培塚からは、大正年間に須恵器や鉄剣などが出土しているそうです。
最近の研究で、横穴式石室が存在する可能性も指摘されています。

古墳時代中期・5世紀末頃の築造と推定されています。

昭和48年3月9日、兵庫県の史跡に指定されています。

兵庫県姫路市・諏訪神社古墳

2014-06-07 08:02:53 | Weblog
兵庫県姫路市山田町多田、市川中流域の左岸段丘上にあります。
諏訪神社境内です。

「多田古墳」と呼ばれることもあります。
清盛塚古墳の西、そう遠くないところです。

全長42m、 後円部径23m・高さ5m、 前方部先端幅20m・高さ4.1m 二段構築の前方後円墳です。
前方部を西に向けています。









墳丘に葺石は施されていなかったようです。

1987年、発掘調査が行われています。
後円部南側に、南に開口する片袖式の横穴式石室があります。
石室は、全長9.33m、幅2.15m、高さ2.95m あります。
出土遺物があったかどうかは不明です。

6世紀前半頃の築造と推定されています。

昭和48年3月9日、兵庫県の史跡に指定されています。



「諏訪神社」
  祭神は、水利の神である「建御名方神」です。
  横穴式石室内に石祠が置かれ神殿になっています。
  石室の羨道入り口前面に拝殿が造られています。
  古くから「諏訪の岩穴」と呼ばれ、親しまれているそうです。
  訪ねた時も、年配の方々が境内の掃除をしておられました。