日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

12 (本論文の主旨) はじめにー(一)(二)(三)(四)の「解説」

2021-01-04 | 日記

12 (本論文の主旨) はじめにー(一)(二)(三)(四)の「解説」

(最初に一言)

昨年末に少し夢中になって書いてきたことから、また目の調子が悪くなってしまった。もう、こんなものかいてもどうにもなりゃしないとはわかっているのに、バカは死ななきゃ治らないから、これはもう天命に従い続けるしかないと、自分自身に言い聞かせて一行また一行と書いている。


私にとって、この拙論は、拙著『21世紀の「日本」とーーー』を上梓した後に書き上げた論稿であったこともあり、今でも印象深い論稿の一つである。とくに、中国政治研究者の著作を読む中で、ほとんどすべての研究者が、「一国枠」に依拠した「民主主義(民主化)」の分析視角と枠組みから、中国政治を論述していることから、中国と中国人にはとても優しくない語り口となっているとの印象を強く持ったのだ。

と同時に、欧米諸国の、とくに市民革命を実現したフランスやイギリス、アメリカの民主化を無意識のうちに高く評価して、比較の物差しとして採用していることから、それら諸国の植民地支配に顕著な特徴を示す帝国主義に対しては、すこぶる甘い評価を下すかのような描き方となっているとの印象を免れなかったのである。

それに対して、私はこれまでに老いて強調して語ってきたように、「民主主義(民主化)研究を、世界資本主義システムにおける経済発展と覇権システムに象徴される帝国主義と共時的関係として相互に結び付けながら、そこから世界民主主義システムにおける民主主義の発展(民主化)として捉え直すと同時に、それらの共時的発展関係を、三国(地域)間(以上)の関係論的観点から、中国政治を捉え直すことを試みたのである。

そうした試みにおいて、私が意識した点は、ヘーゲルの説いた「市民的権利」を、ホブズボームの市民革命と産業革命を契機とする(とされている)「ブルジョア的自由主義的資本主義」の勝利と結び付けて、そこに垣間見られたヘーゲルやホブズボームの「一国(一地域)枠」的観点からの市民的権利や自由主義(の描き方)を、私のモデルで描いた関係論的枠組みの中で位置付け直し、捉え直すことによって、再定義することであった。

付言すれば、孫文の三民主義を援用したのは、中国政治を語る際に、読者には親近感のもてる孫文の三民主義を用いる方が、より理解しやすくなると考えたからであった。ただし、孫文の三民主義理解は、政治学の「民主主義(民主化)」研究と同様に、一国枠的な論であったから、私はそれを上述したように、関係論的な論へと変えながら論じ直した次第である。さらに、孫文の三民主義は、政治学の民主主義(民主化)論と、これまた同じように、力と力のぶつかり合いとしての暴力関係を体現した帝国主義をそうした論と切り離してしまい、結びつかないままにおかれていたことことから、それらを踏まえた上で、帝国主義の象徴としての覇権システムを、新たにそこに組み込んでいる。

こうした関係論的「民主主義」論の構想と提唱によって、上で引用紹介した拙論のくだりに対して、すなわち、「ーーー中国における内戦と国共合作そして関税自主権回復、治外法権撤廃運動の歴史は、筆者のモデルから理解するとき、まさにイギリスやフランスとアメリカに代表される先進諸国と、ロシアやドイツ(プロシャ)、イタリアや日本などの中進諸国と、中国やインドや中・南米やアフリカの国々に代表される後進諸国との国権と民権の関係の歴史の中で位置づけ捉え直されるべき問題である。」との問い掛けに対して、より有益となる接近と、それによる問題考察・解明がなされるのは疑いないことである。

と同時に、「ーーー今日、こうした関係は、どのように変化、変容しているかに注意、留意する必要があるだろう。このような論の展開は、21世紀における「正しい軌道」を、ひたすら邁進中の中国に代表される「発展途上」のアジア諸国と、南アフリカやスーダン、ナイジェリアに代表されるアフリカ諸国の「衣食足りて礼節を知る」営為の実現に向かう流れと相互補完的な関係として位置づけられる、アメリカやイギリス、フランスそして日本に代表される先進諸国の、「衣食足りず礼節を知らず」の営為を、担わざるを得ない歩みを、鳥瞰的に捉えることができる、と筆者は考えている。」とのくだりにもみられるように、21世紀のこれから先の中国ナショナリズムの歩みを語る際においても、見通しの良いパラノマを提供するものとして位置付け理解できる、と私はみているのである。

こうした点を踏まえて、ここで私なりのまとめをするならば、以下のように示される。すなわち、従来の「一国枠的」民主主義論に代わる「関係論的」民主主義論の提唱によって、「中国」と「中国人」(付言すれば、ここには世界各国とそこに暮らす諸国民にも、そして勿論、「日本」と「日本人」にも該当する)を取り巻く国際政治経済の関係史を、より適切に、また的確に、描くことが可能となり、それゆえ、そこから中国と中国人は、いかなる関係史と、そしてその下でつくり出される解決困難な問題と、呻吟しながら向き合うことを余儀なくされてきたのかについて、理解しやすくなるに違いない、と私は考えている。

と同時に、ヘーゲルが礼賛した市民的権利の問題についても今一度、検討の余地を確認できるのではあるまいか。さらにそこから、政治学で当然のことのように位置付け理解されてきた「正しい軌道」としての「民主主義(民主化)」に関しても、注意を払うことが求められよう。また、そうした正しい軌道とされた民主主義(民主化)の物差しとして採用されてきたR・ダールの「ポリアーキー」概念の抱える問題点に関しても、改めて再考されるべき課題が提示されるのではあるまいか。
 

(最後に一言)

ここにきて、またまたいろいろな思いが脳裏を駆け巡り、悲しくもなり、うっとおしくもなるのだが、とにかく何とかしてこれまでの私の研究をまとめ上げてみたいとの強い気持ちが自分でも感じられるようになっている。今の私にはそれだけが救いかもしれない。

(今回記事はここまで)


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