日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

「歴史叙述」の「神話」を打破すべく、新たな「歴史」を描く旅に出ようかー(5)

2021-10-05 | 日記

「歴史叙述」の「神話」を打破すべく、新たな「歴史」を描く旅に出ようかー(5)


(最初に一言)

記事内容とは関係のない話だが、岸田首相の誕生で、私も少しは安堵した。やっとまともに話のできる人が、その内容の是非は別にしても、まともというか安心できる態度というか、真面目に勉強した「常識人」として振舞えているから。それにしてもなのだ。「言葉」の響きが、安倍や菅とは、とくに後者とは天と地の隔たりという感じである。

私たちは、それにしてもひどい首相ばかりをこの20年近く受け入れざるを得なかった。もっとも、それ以前もそれほど変わりはないのだが。この岸田氏に対して、野党の指導者は相当に見劣りがするように、私には思えるが、私が抱いたこのイメージは、おそらく私一人ではあるまい。とにかく、ほっとしている。勿論、誤解のないように、たとえ政権が代わっても、日本の政治をつくり出す仕組みは変わらないから、今後も私たちの生活の大変さは続くのは間違いなかろう。

まあ、前置きはこのくらいにして、前回からの続きを少し話しておきたい。日本の戦後史の出発点となる東京裁判とGHQの占領統治の語り口と語り方には相当の問題がある。それと同時に、日本国憲法の前文と憲法の各条項に示されている普遍的価値の位置づけ方と理解の仕方にも問題は山積している。

東京裁判の問題点は、それが勝者による敗者を裁いた裁判(勝者の裁判)であるから問題なのではない。(無論、それも三分の理ならぬ一分の理はあるが。)また事後法によって裁かれた裁判であるから問題なのでもない。(もとより、これもまた然りだが。)その裁判はイジメの加害者が、ある時、ある所では被害者を、またある時、ある所では加害者を演じざるを得なかった国を、イジメの構造を前提として裁いたことである。そしてイジメたグループに裁判後、組み入れて彼ら加害者に従わせる中で、戦前同様に、いじめの被害者を生産・再生産することに巻き込んだ裁判であったところにこそ、最大の問題があったのだ。

戦後の日本と日本人は、「二度と戦争は繰り返しません」と」は誓ったものの、戦前までのイジメの構造に加担して、いじめられるものを作りませんとは誓わなかったのである。戦後の日本と日本人の歩みはイジメの加害者である大親分の米国の横にまるで腰巾着(こしぎんちゃく)のようにくっつきながら、親分が提供するお零れに与ってきたのだ。

そして、それを臆面もなく、戦後日本は一貫して世界の平和と経済繁栄に貢献したと、自らのイジメの構造への加担を合理化・正当化したのである。日本は戦後においても戦前同様に、東アジアの他の国や東南アジア諸国に対して、いじめる側に位置していたが、その際、戦前と異なるのは、そのイジメの行為を米国が支持・後援したことである。

こうした世界システムにおける戦後のイジメの構造は、国内における経済発展の果実に与れない人々や水俣病に代表される公害被害の救済を求め続けた、いわゆるいじめの被害者に対して、いじめの構造の下で自らの「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為に与る国民の大多数は、無視・無関心の冷淡なな態度を取り続けてきたのであった。

このような国外と国内のイジメの構造は、相互に保管する関係にあったと位置付け理解できる。私の語る「システム」論で描かれる「システム」は、別言すれば、こうしたイジメの構造というかイジメの関係から構成されたものとして、位置づけ捉え直すことができる、と私は理解している。


(最後に一言)

今回記事もまた、どうしようもない詮無い話となってしまった。私たちは、最初から歴史の語り方を間違えているのではあるまいか。私たちは、日本ノ一国民である以前に、「システム」に組み込まれた「システム人」であり、その意味ではいじめの構造を、ある時は加害者となって、またある時には被害者となって、担い支え続ける救いがたい・どうしようもない存在だとの自覚・自戒が必要なはずなのだ。

私は今もそう考えている。私たちの身の回りでは、どこそこの国に人権を抑圧したり弾圧するひどい圧制者がいてけしからん奴だとか、あの学校では今イジメの問題で誰かが大変な目にあっている、あいつが加害者らしい、またあの会社の社員は過労死寸前の状態で働いている、何を会社はやっているのだ、と枚挙に暇のないほどの問題を前にして、私たちはそうした「加害者―被害者」関係からはまったく無縁のところで生きていて、誰もイジメたり、差別したり排除などしていないと思っている。

否、それどころか、この社会がいま以上によくなることを願って、私たちは積極的に社会に関わって、少しでも住みやすい社会の実現に向けて邁進していると考える人もいるかもしれない。それは素晴らしいことではあるが、そんな彼らが自らもイジメの構造を担い・支えている張本人の一人であると、どれほど自覚・自戒しているのだろうか。換言すれば、「システム」を担い支え続けているシステム人としての存在に対して、どれほど向き合い続けているのだろうか。


(付記)

新たな内閣が発足した。与党も野党もまじかに迫った衆議院の総選挙に向けて公約を打ち出している最中だ。はたして、国会議員は、自らのイジメの構造とのかかわりをどのように捉え、理解しながら、そこから何をなすべき・なすべきではないとしているのだろうか。私が気がかりなのは、与党よりもむしろ野党の存在だ。

野党は、自民党はまったく変わっていない、岸田政権は、安倍や麻生の傀儡政権だと批判するのに熱をあげているが、自らも何も変わってないことに対する自己批判の目を向けようとはしない。彼らもまた、何某かの傀儡政権ではあるまいか。私が言いたいのは、国民が賢くなるような批判をしてほしいのだ。否、国民の方がずっと賢く、そこに野党が気付かないままだということを、理解してほしいということだ。

 

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