日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

私の語る「システム」論から、「システム」は今夏の都知事選において、いったい誰を「選択」するのか

2024-07-13 | 日記
私の語る「システム」論から、「システム」は今夏の都知事選において、いったい誰を「選択」するのかについて考えるとき(続・続)


(最初に一言)


 行論の都合上、「オワコン」の意味について、念のためにネットから引用貼り付けておきたい。ーーー「オワコン」とは、「終わったコンテンツ」の省略形として使われるネットスラングです。 流行が過ぎた、または過ぎそうで、多くの人の興味を引きつけられなくなってしまったコンテンツや、時代にそぐわないもののことを指します。 また、うまくいかない絶望的な状況を指すこともあります。2022/12/02ーーー




 都知事選挙も終わり、明日で1週間となるのだが、毎度のこととはいえ、この虚脱感というかなんともやりきれない思いでしんどさが倍増の日々を送っている。まあ、いつものことだから、何をいまさらなのだが、それでもなのだ。その間も都知事選に関する記事を読んではいたが、私が妙に納得したのが森永卓郎氏による「オワコン」云々の話であった。多くの人の予想は小池氏三選であったのは間違いなかろうが、それにしても石丸氏の二位には私も驚いてしまった。蓮舫氏もそれなりに頑張ったものの、仕方ないだろう。私のような「システム」論者には、個人の政治家がどうしたこうしたにはあまり関心はないのだが、それにしても蓮舫氏の三位には、「システム」のあくなき用意周到さを思い知らされた格好だ。そんな気持ちの中で、先の森永氏の「オワコン」がらみの話には、妙に納得してしまったという、それだけの話と言えばそうなのだが。


 いずれにしても、東京都民の選択はなされたのだ。私の語る「システム」論から見るとき、〈「システム」とその関係の歩み〉は今や{[B]→(×)[C]→×[A]}のモデルで描かれるように、その発展の歩みを示している。それに関連して言えば、この「システム」を構成するB、Cは高度化の段階にあるのに対して、かつてのAの先進国グループは高度化の段階から低度化の段階へとその歩を進めているのである。いわば、このAに位置する国は、今後ますます「オワコン」としての歴史を体現すると言い換えることができるのではなかろうか。その際の問題は、出口(展望)が見えないというかほとんどないに等しいということである。「システム」のBとCが高度化の段階を終えて低度化の段階に入ってくるまでは、Aにはほとんど何の効果的な対応も提示できないということなのだ。


 まさしく絶望的である。先の都知事選挙での都民の「選択」それ自体が「オワコン」ということを、私たちは噛みしめておく必要がある、と私は強調しておきたい。今後のAのかつての先進国グループの選挙とその結果もーそこにはイギリスの労働党政権やフランスの左翼連合主導の政権もアメリカのトランプ政権?も含まれているがー「オワコン」の意味しか持たないことを踏まえるとき、私たちの政治談議がどれほど間抜けているかを痛感すべきなのだが、「システム」ご用達の情報は、私たちをそれこそ皮相極まりない問題(関心)に向き合わせるだけだから、これまたどうしようもないといったところ。


 だが、私がここで読者に問いかけたいのは、それでは「オワコン」とは異なる、生きることの意味や意義を私たちに考えさせるような新鮮な何かを私たち自らの手に掴み取ることのできる「ハジコン?」なるものは果たして存在しているのかということである。そのためにも、私の語る「システム」の中で、システム人として誰かを差別し排除する、また誰かに差別され排除されるそうした人間関係から少しでも遠ざかれる生き方を、そうした生き方を支えてくれる政治とは何かを、先ずは思索することではなかろうか。もっとも、こんな問いかけそれ自体も「オワコン」であるのも、また然りなのだが、今回はこれ以上私自身をとやかく責めるのは避けることにする。




(最後に一言)


 前回記事での私の話にあった「共同体的政党」云々の話も、「オワコン」色を免れないのは言うまでもない。またそんな話とは関係なく、その実現性も極めて困難だ。今後の気候変動の激しさ?を念頭に置くとき、また働き手を考えるとき、屋外での農作業はいつまで可能なのかとついつい思ってしまう。今回記事はここまでとしたい。何とかして、記事を書いたというか、書けてほっとしている。確かに「オワコン」であるとしても、それがある時期には一定の評価を獲得して、人々を納得させていたのだから、その何故を問い直す必要はあるだろう。私自身も「オワコン」として、もうすぐ?あの世へと旅立つ身であるから、終活の日々の中で、今一度私のこの世での存在意義を問い直すことも大切であると感じている。


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