日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

「歴史叙述」の「神話」を打破すべく、新たな「歴史」を描く旅に出ようかー(4)

2021-09-29 | 日記

「歴史叙述」の「神話」を打破すべく、新たな「歴史」を描く旅に出ようかー(4)


(最初に一言)

私の表題から、私がこれから新たな「歴史」を描くと想像された読者がいるならば、先ずはそのような誤解を与えてしまったことに謝っておきたい。この表題によって私が言いたいことは、そうした歴史を描く際の分析視角なり分析枠組みに関して、改めて話をし直してみたいとの意であった。

私の願望は、私の「システム」論とそこでのモデルを使って、従来の歴史とは異なる新たな歴史を描いてほしい、描き直してほしい、ただそれに尽きるのだ。そのために、これまでの「システム」論で伝えきれなかった話を、とくに分析視角と枠組みにこだわりながら、改めて話をしてみたいとの私の思いがあの表題には込められていたのである。その私の願いを託すのは、これからの社会を担う若く意欲ある私の数少ない仲間たちだ。


さて、最初に「イジメ」の「定義」を以下に引用しておく。なお、文中表現において、ひらがなになったりカタカナになるとき、そこには特段の意味があるわけではないことを断っておきたい。

いじめ
[いじめ]
定義
自分より弱い立場にある者を,肉体的・精神的に苦しめること。

前回記事での私が使った「イジメ」は、ここで引用した定義にある「いじめ」と重なるものの、なお若干のニュアンスを異にするように、私には思われる。私の想定している「いじめ」とは、有形無形の力(暴力)を直接的あるいは間接的に行使することにより、本来ならば、同等の条件と資格において(結果として)加害者となってしまう相手と共に参加できたはずの空間とそこでの自己実現の機会を加害者側の力の行使によって奪われることで、参加の機会を得ようとする(結果としてそうなってしまう)被害者は排除されることになり、結局のところ、被害者側を差別してしまう行為を、いじめと位置付け理解した。私の定義にあるいじめの状況・状態の下で、先の辞書の定義のように、加害者側は、「自分より弱い立場にある者を,肉体的・精神的に苦しめること」になるということだ。その結果として、自分より弱い立場にある者は被害者となり、そうした者をつくり出す側が加害者となるのだ。

今回は思いつくままにツレヅレ風に述べていきたい。前回記事では、これまでの「システム」論をいじめの構造という観点から語ったのだが、たとえば、私たちが南北問題での南北関係というとき、それは北による南に対するいじめとして描くことも可能だろう。私は南北関係を、{[Aの経済発展]→(×)[Bの経済発展]→×[Cの経済発展]}の関係として描いてきた。

さらにそこから、経済発展という擁護では何か曖昧模糊とした捉え方となると思われたので、{[Aの衣食足りて]→[Bの衣食足りて・足りず]→[Cの衣食足りず]}の営為の関係に描き直した。これを私は世界資本主義システムとして位置付け理解し直すことにしたのである。

このモデルからわかるのは、Aが自らの衣食足りての営為の実現のために、Cに対して衣食足りずの営為を強いることで、AとCの関係をつくり出したということを示しているのだが、その関係はまるでイジメの関係(構造)そのものとして捉えられるのではあるまいか。今日において格差問題が盛んに論じられているが、それは換言すればイジメの問題でもある、と私は考えるのだ。

南北関係で私が注目したのは、それは何も経済的次元の問題として限定されるものではなく、政治的次元の民主主義の発展における関係としても位置付け理解されるべきだということである。私は、南北関係を政治的次元の観点から、{[Aの民主主義の発展]→(×)[Bの民主主義の発展]→×[Cの民主主義の発展]}の関係として捉えることの必要性と重要性に関して、これまで強調してきたが、ここでも民主主義の発展と言うときの何か漠然とした伝わり方を踏まえて、そこから{[Aの礼節を知る]→[Bの礼節を知る・知らず]→[Cの礼節を知らず]}の営為の関係に描き直したのである。

この政治的次元における民主主義の発展(礼節を知るの営為)のA、B、Cの関係を世界民主主義システムとして位置付け理解することを読者に伝えると同時に、この関係においても、Aの礼節を知るの営為の実現には、Cの礼節を知らずの営為が必要不可欠であることから、この政治的次元の関係においても、いじめの関係(構造)がつくられてきたことを、私は強調したのである。

当然ながら、読者の中には、民主主義はそんな関係を創るはずがないと思われる方も多いだろうが、それはイジメている側が、簡単にはそのイジメの行為を認めようとはしない、さらにはそもそもそれに気づかないことと、同じ話なのだ。付言すれば、これも何度も指摘してきたのだが、そこには資本主義と民主主義を位置付け捉える際の私たちのある思考方法が与っている、と私はみている。

すなわち、それを簡単にまとめるとすれば以下のようになるだろう。資本主義を語る際には「理念」とか「価値」の次元ではなく、その理念・価値が実現される歩みとその結果について述べるのに対して、民主主義を語る際にはもっぱら理念や価値の次元にとどまっているということである。資本主義の実現に至る歴史は「史的システム」として描かれているのを踏まえて、民主主義の実現に至る歴史を、同様に「史的システムとしての民主主義」の観点から、私は捉え直したのである。

いずれにしても、史的システムとしての資本主義であれ、史的システムとしての民主主義であれ、その形成と発展の歩みにはイジメの構造(関係)が見いだされたということであった。Aに暮らす人々は、Cに暮らす人々に対して、「私たちと同じ空間で」、すなわち[衣食足りて礼節を知る]の営為の実現が可能な空間であるが、「一緒に暮らしましょう」とは言わなかったのだから。

換言すれば、そこには差別と排除の関係が、「親分ー子分」の力の獲得を巡る争奪戦とその歩みの中でつくられた覇権システムを介して、創られてきたということなのだ。この「親分ー子分」関係を基にした覇権システムそれ自体が、いじめの構造(関係)それ自体であることを、ここでも確認しておきたい。

前回記事で、学校現場のイジメは決してなくならないと私は指摘したが、それは学校の構成員である教職員や生徒、保護者、地域の関係者等々は、これらのシステムの中で生きていることから、彼らのすべてがいじめの構造を担い続けているからに他ならない。当然ながら、学校自体もいじめの構造を前提として維持・運営されているのだ。

(最後に一言)

誰しもこのようないじめの関係を担いたくはないはずだが、残念ながら、私たちはこの世に生を受けた瞬間からそうした空間の中で生きることを強いられるのだ。だが、私たちはそれを自らを加害者の存在として、受け止めようとはしない。そして、決まって学校現場では教師は以下のように言い続けている。「イジメは駄目ですよ。誰かを差別をしてはいけません。みんな仲良くしましょう」、と。もっとも、私が教師だとしても、このように言うしかないだろう。生徒も、先生も、保護者も、みんなつらいのは確かだろう。

(付記)

「加害者」と「被害者」の線引きは難しく、両者は時には複合的に重なっていると同時にまた、その都度、入れ替わる。それを踏まえながら、ここではわかりやすく話をしていることを断っておきたい。

誤解のないように一言。

前回記事の表題で、日本(大和民族)と述べているが、その意味は、もとより日本(民族)が「単一民族」であると述べているのではない。日本は決して単一民族から構成されてはいない。日本の主要な民族としての意味で使っている。

 

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