日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

(2023,10,24)のブログ記事の続き〈後〉

2023-10-24 | 日記
(2023,10,24)のブログ記事の続き〈後〉


(2021,12,22)


私の語る「システム」論から1970年代以降のB、C、Aから構成される「システム」のAにおける「生活苦に喘ぐ成長無き社会」を考えるときー斎藤幸平氏の説く「脱成長・潤沢なコミュニズム」の提唱との関連から(続・続)




前回記事で論及できなかった話を、以下に紹介しておきたい。それでもって、斎藤の論の検討・考察からは、少し離れることにしたい。とは言え、これから先も、社会変革の在り様に関して、私自身も、もう少し前向きに考えてみたいので、その関連から斎藤に話が及ぶこともあるかもしれないのだが。




市民の参加による水や大気、大地や電気等々の「コモン」の共同管理をもとにした社会変革という論は、その対象を地方自治体から国家を、そして国際社会をその中に取り込むこととなる。同時に対象となる空間の拡大は、コモンの中に私たちの命と暮らしを守る「安全」とその保障をもまた組み込むことを求めるであろう。なぜなら、市民の安全とその保障を実現するためのコモンの共同管理云々の問題であるからだ。


そこから、市民参加によるコモンの共同管理を介した社会変革についての議論は、「地球防衛軍?」の創設問題に向き合うことを余儀なくされる。当然ながら、その軍隊を誰が指揮管理すればいいのかという問題が浮上してくる。その軍隊の「暴力」の共同管理を巡る問題こそが、「脱成長・潤沢なコミュニズム」(論)が、やがては向き合うべき課題となっていくに違いなかろうが、まさに、そのとき、私たちは市民の参加による「平和」というコモンの共同管理を迫られることになる。


「システム」においては、平和と戦争はコインの裏表の関係に置かれていることを踏まえるとき、その平和の共同管理とは、戦争の共同管理でもあることを意味している。いずれにしても、そうした問題から、自己決定権の獲得とその実現を巡り、「親分ー子分」関係がつくり出されていくことになることは避けられない。


実はそのことは、私たちがいま組み込まれている覇権システムを、市民の参加により共同管理できるのかどうかの問題へと、私たちを導いているのである。この地点において、私たちはもはや、「資本主義というシステム」の次元に関わる問題だけを、同時にまた、その資本主義システムを市民の参加によるコモンの共同管理をもとにした社会変革としての「コミュニズム」で乗り越える云々の問題だけを、俎上に載せて議論するだけでは何ら展望は描けないということを自覚・自戒しなければならない。


それゆえ、こうした点を鑑みながら、もし私たちが「脱成長・潤沢なコミュニズム」(論)の提唱・提言を、より現実的・有効な代替案とするためには、その論の中に、どのような視角・視点が含まれるべきかに関して、今後さらに検討・考察することが重要ではなかろうか。


私の語る(意味での)「システム」と向き合いながら、差別と排除の関係を前提とした「格差バネ」を介して導かれる構造的暴力・圧力を、すなわち、この圧力によって、私たちは人間と自然の環境の双方における差別と排除の、いわばイジメにも似た関係の中で生きることを強いられ続けてきたのだが、その暴力・圧力を、今よりは少しでも低減する「システム」の在り様を検討・考察するためにも、私はこれからも斎藤の論で提唱された社会変革の在り様に関して、「ああだ、こうだ」と論を展開できればと思うのだ。(続)





*いつもながら、もっと簡単に話せばいいものを、と後で嫌と言う程に後悔。結局のところ、水や空気、電気、山や森、田畑、川といったコモンを、市民の参加によって共同管理しているときに、その管理を侵害する「暴力」の問題を、併せて考えていなければだめではあるまいか、という話を上述のくだりではしている。


たとえば、大切な空気やきれいな水が原発事故によって汚染されたとき、コモンの共同管理者は、そうした暴力と向き合うのか、それを避けるのか、という問題にも関係してくる。さらには、共同管理している山や森、川がどこかの国の軍のミサイル攻撃を受けた時、あるいはその蓋然性が高い時に、どうやってその攻撃に対して反撃するのか、それともしないのかの話であった。ここには、自己決定権の獲得とその実現を巡る力と力の、つまりは暴力と暴力とのぶつかり合いを介した争奪戦と、そこからつくり出される「親分ー子分」関係とそれに伴う差別と排除の関係が導かれてくる、そのような問題が関わっているのだ。


つまり、市民参加による共同管理の問題に、安全保障の問題を加味するのか、しないのかという問いかけであった。私は、それを加味してみなければと考えているのだが、そうなれば、当然ながら、主権国家・国民国家の暴力は勿論、そうした国家の集合・連合体から構成される覇権システムの暴力とも、否が応でも向き合うこととなる。(付言すれば、そしてそこから、私の語る「三つ」の下位システムから構成される「一つ」の「システム」と向き合うことを余儀なくされる、という話である。)


さらに、場合によっては、国家や覇権システムの暴力のもとにねじ伏せられてしまうかもわからない。そうなれば、市民であれ労働者であれ、彼らによるコモンの共同管理は不可能なこととなる。それは、そうした共同管理を介した社会変革と、それによるコミュニズムの実現云々の話を、絵空事としてしまう。


そうならないためには、私たちはさらに、どのような問題・課題を検討・考察すべきなのか、ということを考察していかなければならない。そんな話を、上述のくだりではしていたのだが、もうこうした私の問いかけは、これまでの数回の記事の中で、形を変えて論述してきた次第である。



(2021,12,23)


私の語る「システム」論から1970年代以降のB、C、Aから構成される「システム」のAにおける「生活苦に喘ぐ成長無き社会」を考えるときー斎藤幸平氏の説く「脱成長・潤沢なコミュニズム」の提唱との関連から(続・続・続)




それでは早速、前回記事の続きといきたい。読者に少しと言うか、お断りというか、それこそ「舌の根の乾かぬ内に」なのだが、やはり斎藤氏にはこれからもご登場をお願いしなければならない。今回からの記事において、何回か前の記事で紹介した「探求派公式ブログ」の潮音 学氏のブログ記事を検討・考察してみたいのだが、潮音氏が氏の記事において、斎藤氏のマルクスやマルクス主義に対する批判を試みていることから、行論の都合上、どうしても致し方なく、そうならざるを得ないからだ。




これまでの斎藤氏に関する私の記事において、潮音氏のブログ記事での斎藤批判を鑑みながら、私は既に、間接的ながらも潮音氏の斎藤批判に対する私なりの応答を展開していたのだが、今回からの記事において、潮音氏の見解を直接的な形で検証・考察してみたい。




先ずは、潮音氏の手による『人新世の資本論』の著者である斎藤の資本論・資本主義・社会変革・革命等々の位置づけ方や理解の仕方に対する批判記事に初めて接した際に、私が抱いた率直な感想から述べるとしよう。急いで付言すれば、ここでは潮音氏の記事のくだりに対してというよりも、氏の記事から伝わってきたマルクスやマルクス主義に関して私がこれまで「勝手に」つくり上げてきた何かについて、述べていることを断っておきたい。




私の語る「システム」論からすれば、私たちが「リベラルな民主主義」社会を実現するときには、必ずや人的環境及び自然環境の破壊が導かれるということである。というのも、そうした自由や民主主義、人権といった普遍的価値の実現は、私の語る「システム」を、すなわち「金の成る木」としての「システム」を前提として、その実現が目指されることから、「システム」に内在する差別と排除の関係から、人間と人間の関係においても、また人間と自然の関係においても、必ずや破壊が付きまとうからである。


たとえば、イギリスのインド支配の中で、イギリスはインドの人々と、彼らがそこで暮らしてきた自然を、イギリスとインドとの間において繰り返された戦争を介して壊してきたのである。また、私たちの社会を見渡しても、私たちがその豊かさや富を手にするために、どれほどの自然環境を破壊してきたかは一目瞭然ではあるまいか。


その際、そうした破壊の原因として、私たちが人間との、また自然との関係において疎外されてきたことの結果なのだ、と「反論」されるとき、私には、そもそも私たちの差別と排除の関係から構成される社会の中で、「疎外される」余地など、はたしてあったのかと言わざるを得ない。


私たちのリベラルな民主主義の実現のためには、いつもその前提として、経済発展(成長)を介した豊かさが不可避であったが、その豊かさと言うかそれを導く経済発展は、いつも他国とそこに暮らす人々との「関係」を、すなわち差別と排除の関係を前提とせざるを得なかったのである。こうした差別と排除の関係を前提とした経済発展と民主主義の発展の関係は、私の語る「システム」とその関係の歩みの中でつくり出されてきた。




私のこうした「システム」論を踏まえるとき、私には、マルクス主義で語られる「疎外」論を別にしても、人間と人間の関係における、また人間の自然との関係における破壊は、何もマルクスやマルクス主義と結び付けなくても語られることではないのか、と私は考えるのだ。


私の語る「システム」を前にしたとき、それを「止揚」するという場合には、国家の止揚のレベルでは収まり切れない様々な問題を勘案する必要がある、と私は「システム」論と向き合いながら考えてきた。その際、マルクスやマルクス主義者が革命の変革主体として位置付け理解してきた賃金労働者や労働者階級(プロレタリアート)の存在が、いかに差別と排除の関係を前提とした(私の語る)「システム」の形成と発展に、どれほど寄与・貢献してきたかを、私はこれでもかと言うほどに、認めざるを得なかったのだ。


私からすれば、マルクスやマルクス主義の「資本主義」理解には、社会変革を構想する際において、致命的かつ決定的?な欠点・欠陥が存在していたと言わざるを得ないのだ。それは今やマルクス主義が時代に合わない、時代から取り残されたという意味ではなく、もともとその理論なり主義の中に内在的な問題として、そうした欠点・欠陥が存在していたということなのだ。


それを、私なりにかいつまんで言えば、私の語る意味での「システム」を「国家」として把握したということ、換言すれば、国家を超えた存在を認められなかったということ、それゆえ、「資本主義」国家さえ止揚すれば何か先が見えてくるかのように捉えていたきらいがある。つまりは、そうした国家の集合体・統合体・統一体としての覇権システムの存在を軽視・無視あるいは理解できない傾向がみられた。


さらに、私には看過できない問題として、マルクスやマルクス主義者は、資本主義さえなんとかすれば、民主主義はどうにでも処理できるかのような位置づけ方理解の仕方にとどまっていたことを無視できない。その一つの例証として、をーラーステインやフランク等は、資本主義を「史的システム」の次元で理解していたのに対して、民主主義はその資本主義から独立した一つの史的システムとしては位置付け理解できなかったということである。そこには、彼らが歴史を動かす原動力を、資本主義とそれにかかわる労働者と資本家との関係の次元にもっぱら制限して考察していたことが大いに与っている、と私は理解している。


付言すれば、そうした理論的原因なり背景を考えていくとき、私には歴史を動かす原動力として、マルクスやマルクス主義者は労働者階級を、そしてその労働者階級と資本家階級との階級対立を、その理論的中核・中心に据えていたのではあるまいか。労働者階級が中心的担い手となって展開される資本家階級との階級闘争の歩みこそが、歴史を構成するのだ、と。


**これに対して、私は、有史以来私たちの歴史の原動力は、自己決定権の獲得とその実現を巡る二人・二つ以上の人間・集団・共同体間の力(暴力)と力(暴力)のぶつかり合いとしての争奪戦を介してつくり出される「親分ー子分」の「支配」と「従属」にみる差別と排除の関係を、その基本的・中核的要素とすると同時に、その集合・統合・統一体として形成され発展するに至った覇権システムの歩みこそが、何よりも歴史を創る原動力であった、と私はみているのだ。


***なんとも悲しい話を、ここでも私は語っているのだが、歴史を動かす原動力は、マルクスのような「希望」へと至る人類の道ではなく、私の描くような「絶望」へと導くものであったことを、私たちは改めて、自覚・自戒しておいた方が良いのではあるまいか。


***だが、間違っても、絶望の淵にとどまり続けないでほしい。私たちの直面する絶望がどれほど大きく深いものであったとしても、それを自覚・自戒すればするほど、そこから哲学する力も同時にまた、さらにその強靭さを増していくに違いないのだから、決してあきらめることのないように、と私自身に言い聞かせながら、一日、一日、そしてまた一日の繰り返しを大切にしつつ、生きていきたいものだ。


*付言すれば、その「親分ー子分」の支配と従属にみる差別と排除の関係とその集合体・統合・統一体である覇権システムの下で、親分に都合のいい「衣食足りて礼節を知る」営為の関係が子分との間において創造されてきたのだ、と私はみている。私たちが資本主義と呼ぶのは、その「衣食足りて(足りず)の営為の関係であり、また民主主義と呼ぶのが「礼節を知る(知らず)」の営為の関係に他ならないのである。




以上のことを、私は潮音氏の斎藤批判の記事を読みながら感じた次第である。それでは、ここまでの私の感想を踏まえながら、次回からは、潮音氏による斎藤批判のブログ記事を検証・検討していきたい。ただし、私の勉強不足から、潮音氏との応答がどれほどうまくいくのかは、最初から自信はないのだが、とにかく勉強するいい機会なので取り組んでいきたい。(続)




(2021,12,26)のブログ記事


私の語る「システム」論から潮音 学氏による斎藤幸平氏の『資本論』・「資本主義」理解に関する批判記事(第1回)を読み直すとき(続、続、続、続)




それでは前回記事の終わりにおいても述べていたように早速、潮音氏の斎藤に関する批判記事を紹介しながら、その内容を検証・検討していきたい。ここで取り上げている潮音氏の記事は、あくまでも私が氏による斎藤批判において注目した記事であることをここで断っておきたい。今のところ、私が取り上げてみようと考えているのは、潮音氏の記事の第1回目、第4回目、第7回目であるのだが、今回記事では、その第1回目を、以下に引用貼り付けておく。




(引用貼り付け、始め)


ーーー


探究派公式ブログ
潮音 学


2021-02-07
斎藤幸平「疎外論」批判 第1回 いま・なぜ
斎藤幸平「疎外論」批判――斎藤幸平によるマルクス「疎外論」の破壊を許すな――一 いま・なぜ



 長年にわたる良心的な環境保護活動家、科学者たちの取り組みと警鐘によって、気候危機の大きな要因とされているCO?の排出量の制限が、ようやく脱炭素産業革命というかたちで実現されるかのように宣伝されている。第一次産業革命(18世紀半ば)から250年にもわたり主要エネルギーを担ってきた化石エネルギーの大転換である。




 昨年、ヨーロッパ各国支配権力者たち、ロスチャイルドを中核とする金融資本グループ・諸独占資本家たちは脱炭素化に大きく舵をきった。またすぐさま習近平中国もそれに追随したのである。「母なる地球は有限」と称し、コロナ感染の克服と同様に脱炭素化は「全人類の課題」としてそれは推し進められようとしている。
 だが、彼らが考えていることは、「全人類の危機」を防ぐことなどではない。コロナ危機をのりきるために、各国支配権力者たちが金融市場につぎ込んだ膨大な資金を、この膨れ上がった金融市場の資金を、脱炭素・グリーンニューディールとして投下し、ポストコロナに彼らの利害を貫徹しようとしていることでしかない。




 現代帝国主義の経済形態としての国家独占資本主義は、2008年のリーマンショックというかたちでの世界金融危機においてその限界を現実的に露呈した。独占資本家どもとその政府は、この金融危機を、膨大な赤字国債を財源とする財政・金融政策の展開によってとりつくろいつつ、国家資本主義国中国を、生産の・そして投資先の・さらに市場としてのパートナーとしながら、パーソナルコンピューター、インターネット、ICTなどの高度化による直接的生産過程ならびに流通過程の合理化をもって、労働者・人民に多大な犠牲を強いてのりきってきたのであった。だが、コロナ危機へ対応のゆえにさらに膨れ上がった金融バブルは、もはや国家独占資本主義という政治経済構造の破綻を覆い隠すことができない臨界点に達してきている。だから彼ら各国支配者、独占資本家どもは、金融市場での資産価格のつり上げという「仮想空間での投資」から現実的に価値創造が行われる直接的生産過程への投資へとどうしても切り替えなければならなかったのである。




 これが、脱炭素産業革命の物質的基礎に他ならない。だから言うまでもなく、この脱炭素産業革命は、その質、規模、影響力において巨大なものとならざるを得ない。それは全世界の労働者・人民にさらに大きな犠牲を強いることは明らかなのである。
良心的な環境保護活動家、科学者、エコロジスト思想家をからめとり、彼らを先兵としながらそれはなされようとしている。




 今、新たなマルクス主義思想家としてもてはやされている斎藤幸平もその一人である。彼は、『大洪水の前に』『人新世の「資本論」』という著書を出版し、NHK「100分de名著」という番組で『資本論』の解説を務めた。斎藤はその著書でもプロレタリア、プロレタリアートという言葉を忌み嫌う。またNHKの解説においても「階級闘争」という言葉をマルクスから抜き去り、マルクスは、「人間主義=自然主義」という観点から人間と自然との「物質代謝」を唱えたのだと解説している。




 私は先の小論において、『新人世の「資本論」』を中心に斎藤幸平を批判した。しかし、その小論で述べていたように、「疎外論」にかかわる批判は充分になしえたとは思っていない。
 若きマルクスが『経済学・哲学草稿』で獲得したところの、彼のイデーといいうるものは、明らかに『資本論』の未完の完成に至るマルクスの「学問」的生涯を貫いている。だから斎藤は『大洪水の前に』という著書の冒頭で、マルクスの「疎外論」を改竄・捏造しなければならなかったのである。




 この小論では、斎藤幸平がいかにマルクスの疎外論を改竄・捏造しているのかを、すなわち、プロレタリアートの自己解放の論理である同時に人間の人間としての解放の論理であるマルクスの「哲学ならざる哲学」を歪曲しているのかを明らかにしたい。
       (2021年1月26日   潮音 学)


(引用貼り付け、終わり)


ーーー




それでは、私の語る「システム」論との関連から、上に引用貼り付けしたくだりの内容について、検討してみたい。私は、行論の都合上、以下のように、氏の引用貼り付けしたくだりを、以下のようにまとめ直してみた。




〈「現代帝国主義の経済形態としての国家独占資本主義は、2008年のリーマンショックというかたちでの世界金融危機においてその限界を現実的に露呈した。独占資本家どもとその政府は、この金融危機を、膨大な赤字国債を財源とする財政・金融政策の展開によってとりつくろいつつ、国家資本主義国中国を、生産の・そして投資先の・さらに市場としてのパートナーとしながら、パーソナルコンピューター、インターネット、ICTなどの高度化による直接的生産過程ならびに流通過程の合理化をもって、労働者・人民に多大な犠牲を強いてのりきってきたのであった。だが、コロナ危機へ対応のゆえにさらに膨れ上がった金融バブルは、もはや国家独占資本主義という政治経済構造の破綻を覆い隠すことができない臨界点に達してきている。だから彼ら各国支配者、独占資本家どもは、金融市場での資産価格のつり上げという「仮想空間での投資」から現実的に価値創造が行われる直接的生産過程への投資へとどうしても切り替えなければならなかったのである。」〉


のくだりと順序は逆になったが、


〈「昨年、ヨーロッパ各国支配権力者たち、ロスチャイルドを中核とする金融資本グループ・諸独占資本家たちは脱炭素化に大きく舵をきった。またすぐさま習近平中国もそれに追随したのである。「母なる地球は有限」と称し、コロナ感染の克服と同様に脱炭素化は「全人類の課題」としてそれは推し進められようとしている。
 だが、彼らが考えていることは、「全人類の危機」を防ぐことなどではない。コロナ危機をのりきるために、各国支配権力者たちが金融市場につぎ込んだ膨大な資金を、この膨れ上がった金融市場の資金を、脱炭素・グリーンニューディールとして投下し、ポストコロナに彼らの利害を貫徹しようとしていることでしかない。」〉


と、そこから次のくだりとなる


〈「 これが、脱炭素産業革命の物質的基礎に他ならない。だから言うまでもなく、この脱炭素産業革命は、その質、規模、影響力において巨大なものとならざるを得ない。それは全世界の労働者・人民にさらに大きな犠牲を強いることは明らかなのである。
良心的な環境保護活動家、科学者、エコロジスト思想家をからめとり、彼らを先兵としながらそれはなされようとしている。」〉




私が先ず何よりも気になったのは、氏の言う「現代帝国主義の経済形態としての国家独占資本主義は、」のくだりであった。私はすぐに以下のように問うてみた。すなわち、その個所は、〈現代帝国主義の「政治形態」としての国家独占資本主義〉として語れないのだろうか、という問いかけであった。


先ずそこで、私が私の問いかけというか問い直しにおいて、違和感を感じたのは、わざわざ政治形態として位置付け直したにもかかわらず、どうして経済形態と同じように、国家独占資本主義となるのかという点であった。


さすがに国家独占資本主義ではまずかろうから、「国家独占民主主義」に、またここでも独占民主主義という表現はおかしくなるだろうから、やはり、「現代帝国主義の政治形態」を考えるのはできないのか、と自問自答するに至った。そこから、私が導き出したことは、現代帝国主義の経済形態と同様に、政治形態も在りうるはずだとの結論であった。


だが、問題はそれをどのように表せるのか、また表わすことができるには、どうすればいいのかという点であった。そのためにも、これまでの帝国主義を、もっぱら資本主義の次元と結び付けて、同時にまた、そこから国家独占資本主義と結び付けて、両者尾を位置づけ理解する仕方に替わる何かを、改めて探す必要があるということであった。


そうしたことを考えていくとき、これまでの思考方法というかその形式が垣間見られたのだ。すなわち、現代の帝国主義の経済形態を国家独占資本主義とすることによって、その経済形態の中に、政治形態も当然ながら組み込まれているとの発想なり、民主主義の位置づけ方・理解の仕方が存在しているのではないか、との素朴な疑問である。換言すれば、国家独占資本主義の問題を検討・考察しさえすれば、当然ながら民主主義の問題も併せて検討・考察できるとの認識が規範として、何ら疑われることのない既成事実とされていたのではあるまいか。


少し考えてもわかることだが、いくら資本主義の認識や理解の力を高めたとしても、そこから直ちに、ある国のある国民がどのようにして民主主義の実現を目指すに至ったのか、また、その歩みはどのように展開していったかに関する検討や考察は、それほど簡単にできることではなかろう。


もしそれが、資本主義の検討や考察を行うことだけで可能なのだとされるのならば、その場合の民主主義とは、現実の、つまり史的次元のそれではなく、資本主義という下部構造に規定されると位置付け理解されていた「理念」の次元に限定されたものではなかったろうか。


さらに、国家独占資本主義という場合の「国家」を考えるとき、それはそれほど簡単な問題ではない。たとえば、イギリスの国家というとき、イギリスがその植民地としていた地域とそこに暮らす人々との関係を、私たちはどのように表せばいいのか、という問題が浮上してくるに違いない。


その理由は、たとえばイギリスの植民地に長らく据え置かれたインドを引き合いに出したとき、もしイギリスの植民地状態に長期間にわたり置かれていないならば、インドも国家の実現の機会に恵まれていたかもわからない。そうした点を斟酌するとき、私たちはイギリスの国家実現の歩みを語るときには、その歩みの中に、インドにおける国家実現の不在の歴史も合わせて組み込んで位置づけることを避けられない。


問題は、すぐ上でも指摘していたように、そうしたイギリスにおける主権国家・国民国家へと向かうナショナリズムの歩みと、インドにおけるその不在としてのナショナリズムの歩みを、相互に関係・関連させながら描くには、どうすればいいのか、ということであろう。


これらの点を鑑みるとき、はたして本当に、現代帝国主義としての経済形態である国家独占資本主義の抱える問題だけを俎上に載せて検討・考察することによって、たとえば、私たちは今、現実の史的次元における「民主主義」のいかなる「段階」に位置しているのいかを確認できるのだろうか。もし、その確認ができないのならば、私たちは当然ながら、これから先に直面するであろう出来事を、できうる限りの次元において、見通すことも難しいのではあるまいか。


ここで、先の問題について、もう少し論を展開してみよう。既に指摘したように、私が気になるのは、「国家独占資本主義」という場合の「国家」はどのようにしてつくり出されてきたのかという問題である。すなわち、そこには「国家」と(独占)「資本主義」の関係を、私たちがどのように位置付け理解してきたかの問題が組み込まれている、と私はみている。たとえば、当該国家が独力で、一国の力だけで、国家を創造して、その国家の手により資本主義の形成と発展に関わってきたと理解するのかどうか、の問題である。


その際、そこでの資本主義の形成と発展に関しても、当該国家が独力で、一国の力でもって資本主義をつくり上げてきたかどうかの問いである。資本主義の下での経済発展なり成長を念頭においたとき、すぐさまその経済発展を一国枠でとらえるのは少し難しいことに気がつくのではあるまいか。「外部」との接触を遮断した国家においては、それも可能だろうが、通例はもう一つの国や地域との関係においてそうした経済発展は可能となるであろうから、資本主義においても同様に、関係を前提としてつくり出されたと考えるのは何らおかしな話でもなかろう。


当然そこから、国家の創造に向けての歩みを考えるときも、関係を前提として、その実現が可能とされたとみるのはこれまたおかしなことではあるまい。すなわち、主権国家や国民国家の実現の歩みとして語られるナショナリズムの歩みは、関係を前提として初めて語ることのできる現象なのだ。それゆえ、問題となるのは、先述したように、その関係をどのようにして描くことができるのか、という問題となってこよう。


また、そうしたナショナリズムの歩みを考えていくとき、私が歴史を動かす原動力と位置付け理解している二人・二つ以上の人間・集団・共同体間での自己実現の獲得とその実現を巡る力と力のぶつかり合いを介した争奪戦にみられる「親分ー子分」の支配と従属の差別と排除の関係を基本的要素としてそこから形成と発展の歩みを展開するみる覇権システムと結び付けながら、関係論から捉え直したナショナリズム論は、「国家独占資本主義」を語る際に、重要な分析視角・視点を私たちに提供するのではあるまいか。


そうして考えていくとき、覇権システムを前提とした主権国家・国民国家と資本主義の歩みを関係の中で位置付け理解するのは当然のことであるとみられるのではあるまいか。さらにそこから、民主主義の実現の歩みを考える際に、関係を前提として位置付け理解することの重要性と有意義性に気がつくのではあるまいか。こうした点を鑑みることで、「現代の帝国主義」それ自体もまた、関係を前提としてつくり出されてきたとの分析視角が手にできるのではあるまいか。




これらの点を踏まえながら、先の潮音氏のくだりを読み返してみたい。結論を先取りして言えば、潮音氏の語る国家独占資本主義とは、たとえば、イギリスの、アメリカの、日本のというように、一国枠を前提としたそれではあるまいか。そこから資本主義のそれも、イギリスの、アメリカの、日本の資本主義という位置づけ方理解の仕方をされているのではあるまいか。


誤解のないように付言すれば、そうした言い方自体を私はおかしいと言っているのではなく、あくまでもそれは、たとえばイギリスの資本主義というとき、「世界資本主義システム」を構成するその一部であるイギリスの資本主義といわなければならないとの観点から、私は述べているのである。


同様に、私は、その世界資本主義システムの形成と発展の歩みを捉え直すとき、そのシステムは、覇権システム、世界民主主義システムと密接に関係しながら、その形成と発展、および変容の歩みを辿る、私の語る意味での「システム」の中で初めて位置付け理解される、と私はみている。


それゆえ、結局のところ、イギリスの資本主義という場合、それは私の語る意味での「システム」を構成する一要素としてのそれであるということを、はたして各々の論者がどれほど正鵠に理解しているか、と私は思うのだ。付言すれば、それはイギリスの民主主義という場合においても、またイギリス国家という場合においても、等しく該当する、と私は考えているのだ。さらに付言すれば、このように語る私の「システム」論の次元へと至る前で、I・ヲーラーステインの「世界資本主義システム」論は立ち止まってしまった、と私は理解している。




それでは、こうした点を踏まえながら、潮音氏のくだりに登場してくる中国の位置づけ方とその理解の仕方に関して、検討してみよう。行論の都合上、そのくだりを、以下に再度、引用貼り付けておく。




ーーー


(引用貼り付け、開始)


〈「現代帝国主義の経済形態としての国家独占資本主義は、2008年のリーマンショックというかたちでの世界金融危機においてその限界を現実的に露呈した。独占資本家どもとその政府は、この金融危機を、膨大な赤字国債を財源とする財政・金融政策の展開によってとりつくろいつつ、国家資本主義国中国を、生産の・そして投資先の・さらに市場として
のパートナーとしながら、パーソナルコンピューター、インターネット、ICTなどの高度化による直接的生産過程ならびに流通過程の合理化をもって、労働者・人民に多大な犠牲を強いてのりきってきたのであった。〉




〈「昨年、ヨーロッパ各国支配権力者たち、ロスチャイルドを中核とする金融資本グループ・諸独占資本家たちは脱炭素化に大きく舵をきった。またすぐさま習近平中国もそれに追随したのである。〉




(以上、引用貼り付け、終わり)


ーーー




こうした潮音氏の中国の見方を踏まえて、それではもう少し論を展開していきたい。私がこのくだりにおいて、気になった点は、現代の「国家資本主義国中国」と言う場合、中国の労働者や人民を視野に入れているのに対して、その中国と中国の労働者や人民によって、搾取されている他の諸国とそこに暮らす人々が、潮音氏の言う国家資本主義国中国の中には、両者を相互に関係づける・結び付ける形で、組み込まれていないという点だ。どのようにして、中国は国家資本主義国となることができたのだろうか。


つまり、ニクソン訪中と改革・開放の始まりを受けて、世界の工場となっていく中で、中国は、私のモデルで描くように、B、C、Aのグループとの関係を結ぶことによって、国家資本主義国の段階に位置するとされる中国へと転換・変貌できたのではあるまいか。そこには、Bのロシアやインド、ブラジルを始め、アセアン諸国や葉無論のこと、Cの中東、アフリカ諸国、Aの米国やイギリスを始めその他のEU ・ヨーロッパ諸国や日本等々が含まれているのではあるまいか。また、それらの諸国のすべてが資本主義の金融・独占主義の段階に位置付けられるわけでもないだろう。また、肝心の現代帝国主義なるものが、その関係を、何も描いてはいないのではあるまいか。


それに対して、私の語る「システム」論で提示される{[B]→(×)[C]→×[A]}においては、{[Bの経済発展]→(×)[Cの経済発展]→×[Aの経済発展]の関係に、また{[Bの民主主義の発展]→(×)[Cの民主主義の発展]→×[Aの民主主義の発展]の関係に、さらに、{[B]→(×)→[C]→×[A]}のB、C、Aの外側の[ ]の記号で示される主権国家・国民国家としてのナショナリズムの段階における「親分ー子分」の支配と従属にみる差別と排除の関係に、それぞれの次元における「帝国主義」とその関係が描かれているのである。




さらに、私のモデルは1970年代を分水嶺として、A、B、Cの関係からB、C、Aの関係へと、「システム」が構造転換・変容していく歩みを描くことによって、リーマンショックにみられる金融危機やコロナ危機とは関係なく、中国を先頭におきながら、B、C、Aの関係から構成される「システム」が「金の成る木」としてその基盤を脱炭素へと移行させる流れを、その有力な選択肢の一つとして、視野の内に入れている。当然ながら、「システム」との関係上、それは世界的規模でおこなわれるのは言うまでもない。だが、潮音氏の主張の中に、それを具体的に示す手掛かりは散見されない。




なお、ここまでの私の話は、あくまでも私の語る「システム」論から読み直すことを前提とした場合である、と付言しておきたい。すなわち、氏による今日の経済産業構造の変化を導いたのは、国家独占主義の関与のもとにおいてというよりは、私の語る1970年代以降から今日に続くB、C、Aによって構成される「システム」とその関係の歩みが、そうした構造変化・変動を導いた、と私はみているのである。


なお、モデルとの関連から付言すれば、未だこのB、C、Aの関係から構成される「システム」は、モデルで描かれるような形では実現してはいない。これに関しては、何度も断ってきたように、2040,50年頃に、モデルで描かれる関係が実現される、と私はみている。




氏による論の最初の方での以下のくだり、すなわち、ーーー 昨年、ヨーロッパ各国支配権力者たち、ロスチャイルドを中核とする金融資本グループ・諸独占資本家たちは脱炭素化に大きく舵をきった。またすぐさま習近平中国もそれに追随したのである。「母なる地球は有限」と称し、コロナ感染の克服と同様に脱炭素化は「全人類の課題」としてそれは推し進められようとしている。
 だが、彼らが考えていることは、「全人類の危機」を防ぐことなどではない。コロナ危機をのりきるために、各国支配権力者たちが金融市場につぎ込んだ膨大な資金を、この膨れ上がった金融市場の資金を、脱炭素・グリーンニューディールとして投下し、ポストコロナに彼らの利害を貫徹しようとしていることでしかない。ーーーのくだりの内容を、私の語る「システム」論との関連から、もう少し掘り下げてみたい。


私の語る「金の成る木」としての「システム」は、1970年代を分水嶺とするかのように、A、B、Cの関係から構成される「システム」から、B、C、Aのそれへと構造変換・変動をみたのだが、そうした歩みの中で、「脱炭素産業革命の物質的基礎」は用意されたのだ、と私は捉えている。


「金の成る木」としての格差バネを最大限に有効に働かせるためにも、B、C、Aから成る「システム」のBの先頭に位置する中国を筆頭として、今後ますますその発展の歩みを辿るであろう「システム」は、中国の経済発展を支えるレア・メタルやその他の鉱物資源や石油等の天然資源が滞りなく、中国国家と政府によって有効利用されるように、Cの中東やアフリカ諸国を、同時にまた中国国家と中国がその他の国家との間につくり上げた生産・流通・消費の面でのネット・ワークの下で、生産・製造・開発された文字通りのグローバル製品の受け入れ先としての市場として、かつての先進諸国であるAグループと、BやCのその他の諸国・諸地域を組み込みながら、その「金の成る木」としての構造的圧力をますます強大・巨大なものへとしている。


それゆえ、ーーーだから言うまでもなく、この脱炭素産業革命は、その質、規模、影響力において巨大なものとならざるを得ない―――と同時にまた、ーーー。それは全世界の労働者・人民にさらに大きな犠牲を強いることは明らか―――となるのだ。その際、「システム」はいつもながらのことだが、ーーー良心的な環境保護活動家、科学者、エコロジスト思想家をからめとり、彼らを先兵としながらーーー「システム」の下で急激にその汚染と破壊の勢いを強めていく地球環境とその対策に大挙かつ仰々しく、動員するのだが、彼らの提唱・提示する環境対策の内容にみる基本的性格とその守備範囲は、間違っても「金の成る木」としての「システム」の歩みを妨げるものには、決してならないことだけは確かである。


その意味では、潮音氏の説くように、ーーー「母なる地球は有限」と称し、コロナ感染の克服と同様に脱炭素化は「全人類の課題」としてそれは推し進められようとしている。
 だが、彼らが考えていることは、「全人類の危機」を防ぐことなどではない。コロナ危機をのりきるために、各国支配権力者たちが金融市場につぎ込んだ膨大な資金を、この膨れ上がった金融市場の資金を、脱炭素・グリーンニューディールとして投下し、ポストコロナに彼らの利害を貫徹しようとしていることでしかない。ーーーとして理解できるのではあるまいか。




以上、ここまでにおいて、潮音氏のブログ記事の第1回目を検討してきたが、やはり想像以上に疲れる作業であった。とは言え、その作業をとおして、私自身、また何かを考えるヒントを得たのも確かであった。次回以降の私の記事において、さらに氏の第4回、7回目の記事を取り上げて、検討・考察を試みたい。




(付記)


今日のというか、もう昨日となっていたが、NHKのニュース報道で、新型コロナやオミクロン株の新規感染者と入院に関する報道があったのだが、毎度のこと、肝心な話が聞かれないのだ。私が聞きたい・知りたいのは、オミクロンで入院した患者が、どのような治療を受けているのかに関してである。重症化しない?のなら、その治療は普通の風邪の処方と大差はないのかどうかについて知りたいのだが、、まったくわからないままだ。


本当に、この2年間近く、肝心なことを報道しないのだから、辟易している、といったところ。おそらく、現場の記者やニュース番組の担当者は、もっと疲れているに違いない。どうして、国民が知りたいであろう、より重要な情報を伝達させてくれないのか、と。
私は、この国の「自由」な空間がどんどん狭まっているように思われて仕方がない。何かの大きな圧力が私たちを身動きできないようにしている。私はそれを、私の語る「システム」論の観点から、これまでと同じように、ひたすら考察するしかないのだが。


私の記事に目をとおしてくれる読者の皆さんに、少し早いのだが、「良いお年を!」と、一言送りたい。私は、どうも夜と昼が逆転してしまって、何か変なのだが、今ならきっと、朝に起きれない若者の気持ちがよくわかるに違いないはず。まあ、なるようにしかならないから、ーーーーー。それでは、おやすみ。




(2021,12,29)のブログ記事


私の語る「システム」論から、潮音 学氏による斎藤幸平氏の『資本論』・「資本主義」理解に関する批判記事(第4回)と不破哲三著『マルクスは生きている』(平凡社新書)を読み直すとき(続、続、続、続、続)




以下の(最初に一言)は昨日の朝方に書いたものである。今回のタイトルにもあるように、今回記事からは、不破哲三著『マルクスは生きている』(平凡社新書)を、潮音氏の斎藤幸平批判記事との関連から取り上げて、さらに論を展開していきたい。


ただし、私は不破氏のその著作を、恥ずかしながら昨日まで全く知らなかった。ネット検索でマルクスやマルクス主義者の「(ブルジョア)民主主義」理解について調べていたところ、先の不破氏の手による著作とその批判記事を確認した次第。同時に、不破氏の講演会でのマルクスに関する主張なり見解についての記事も、斜め読みながらも確認したところだ。


その際、〈長野・「資本論」に学ぶ会:不破哲三『マルクスは生きている』(平凡社新書)批判 ◆2009.10.31 UP
平凡なブルジョア民主主義者に
不破はマルクスを貶める
『マルクスは生きている』を批判する〉の記事と、


〈不破哲三『マルクスは生きている』を批判する 畑田 治
週刊『前進』06頁(2420号5面1)(2009/12/14)
マルクスを語ってマルクスを解体
 「資本主義の枠内」論の合理化狙う
 不破哲三『マルクスは生きている』を批判する
 畑田 治〉の記事に、私は注目した次第。


また、併せて、〈長野・『資本論』に学ぶ会:柄谷行人『世界共和国へ』(岩波新書)批判 ◆2009.10.31 UP
カント平和論援用の時代錯誤
空疎なマルクス批判と平和への展望〉にも目が留まった。私も、この記事に、そして問題設定とその解明に向かう態度に強く共鳴・共感した次第だ。またまたうれしくなった。これからも、このブログ記事というか、この論考にも目を向けながら、勉強させていただく所存だ。




ここでも私の不勉強さを露呈してしまうのだが、残念ながら、昨日までこれらの記事を知らないままにいたなんて、もっと早くに知っていたら、当然ながら、参考論文記事として、拙論や拙著で紹介できたのに、と悔やむ限り。今回記事での不破哲三に関する私の記事は、このご両人の批判記事を踏まえた上でなされていることを、改めてここで断っておきたい。今のところは、「システム」と「国家」の位置づけ方を除いては、ほとんど異論はない。




(最初に一言)


今日もまた、今は午前の3時12分だが、文章を書き進めるための準備作業をしている最中。今日の投稿も見送りは必至。明日もまだ無理?、というかこのままだとおそらくちょっとやそっとでは書けそうもない。わかっていたことだが、私にはいわゆる「マルクス主義」の素養がないことから、マルクスの『資本論』を始め、その他の著作を巡るマルクスとエンゲルス没後のマルクス主義に関する神学論争を、私自身が自ら交通整理しながら、そこからマルクスやエンゲルスの生の声を取り出すのは、土台無理な話なので、あくまでも、私の能力に見合った取り扱いとなることを、ここでも重ねて念を押しておきたい。




それでは、潮音氏による斎藤幸平氏の批判記事を検討していきたい。以下に、行論の都合上、氏の批判記事(第4回)を、引用貼り付けておく。




ーーー




(引用貼り付け、始め)


2020-12-24
斎藤幸平批判 第4回 国家=革命論なき「潤沢なコミュニズム」社会への移行願望
 4 国家=革命論なき「潤沢なコニュミズム」社会への移行願望


 斎藤は、自然と人間とが統一された「持続可能な」「潤沢で公平な社会」を創造するものとして、コモンを見いだす。その主体は市民である。労働者は資本に包摂されたものとして、その即自的団結形態としての労働組合は切り捨てられる。労働者に彼が求めるのはワーカーズコープという職場の民主的管理・運営すなわち労働者による企業の経営である。(ワーカーズコープを主体とするということの問題性についてはここでは触れない。)
 彼は、このワーカーズコープをも、コモンを民主的に管理する共同体に集約されるものとして考えているようである。だから彼は、アメリカにおける住民闘争、イギリスの環境運動、フランスの「黄色いベスト運動」など彼が社会運動と規定するものに注目し、市民議会などの拡大と連携というかたちでコモンを量的に拡大することによって資本主義からの移行をはかる、ということを彼は考えているのである。
 だが彼は、国家については論及しない。コモンの量的拡大を、資本主義を変えるものとして考えている。まさに彼がコミュニズム社会と呼ぶものへの革命なき移行である。私は、資本が資本の利益を貫徹することに抗する市民的な闘いに、また国家が独占資本の利益を貫徹することに抗する種々の社会運動に、決して反対はしない。しかしその延長線上に国家の打倒が実現できるとは考えない。ましてやコミュニズム社会に移行することなどあり得ないことだと私は考える。斎藤には国家=革命論が欠如していると言わなければならない。(この問題については、さらに論を深められなければならないと思うが、今ここではできない)


(引用貼り付け、終わり)




ーーー




今回も、私には重荷となる作業だが、例によってまずは私の語る「システム」論からの素朴な印象を述べておきたい。


潮音氏によって指摘される斎藤の論の主眼は、労働者(階級)それ自体を前面に据えるのではなく、いわゆる「市民」をその直接的参加者とした「コモン」の共同管理にみる社会運動を介しての社会変革とその量的拡大を、「市民議会」活動と結び付けることによって、革命なきコミュニズムの実現手段としていることにある。


このように、潮音氏は斎藤の論をまとめながら、それに対して、バッサリと切り捨てるかのように氏の批判を展開している。その批判の要点は、斎藤氏による資本主義から「コミュニズム社会への革命なき移行」論には、革命の主体が不在であると同時に、「国家の打倒」に関する「国家=革命論が不在である」とのことだ。




以上、潮音氏に依拠しながら、氏と斎藤氏の見解を私なりにまとめてみたが、それを踏まえながら、ここで私が気になった問題についてさらに検討してみたい。


私は以前から、マルクスやマルクス主義者は、「(自由主義的)民主主義」をどのように位置付け理解してきたかについて、非常に関心を持っていた。結論を先取りして言うならば、私の語る「システム」を、その民主主義でもって「打倒」することなどは到底できない、ということである。


つまり、その民主主義の実現した社会の中で、立憲主義を尊重し、民主主義的手続きに従いながら、国民が自らの代表者を選出し、その彼らが政権を担い国家の政治を司る体制が滞りなく継続していくとしても、その民主主義体制の下で、たとえ共産党に代表される政党が政権を担当したとしても、「システム」の変革はおろか、打倒など決して行うことなどできない、と私はこれまでの拙著や拙論で論及してきたのである。この私のブログ記事でも述べているように、「システム」の「暴力」の前では、いかなる革命集団の暴力も全く歯が立たないのだ、と。


そして何よりも、私たちが民主主義(「普遍的価値」)の実現を目指す歩みにおいて、有史以来、自己決定権の獲得とその実現を巡る二人・二つ以上の人間・集団・共同体間の力(暴力)と力(暴力)のぶつかり合いとしての争奪戦を介してつくり出される「親分ー子分」の「支配」と「従属」にみる差別と排除の関係を、その基本的・中核的要素とすると同時に、その集合・統合・統一体として形成され発展するに至った覇権システムの歩みを抜きにしては語れない、と私はみている。


*なお、すぐ上のくだりに関連して、(2021,12,26日)の私のブログ記事の中のあるくだりを、ここに引用貼り付けておくので、もしよければ、再度考えてほしい。)




ーーー


(引用貼り付け、始め)


当然そこから、国家の創造に向けての歩みを考えるときも、関係を前提として、その実現が可能とされたとみるのはこれまたおかしなことではあるまい。すなわち、主権国家や国民国家の実現の歩みとして語られるナショナリズムの歩みは、関係を前提として初めて語ることのできる現象なのだ。それゆえ、問題となるのは、先述したように、その関係をどのようにして描くことができるのか、という問題となってこよう。


また、そうしたナショナリズムの歩みを考えていくとき、私が歴史を動かす原動力と位置付け理解している二人・二つ以上の人間・集団・共同体間での自己実現の獲得とその実現を巡る力と力のぶつかり合いを介した争奪戦にみられる「親分ー子分」の支配と従属の差別と排除の関係を基本的要素としてそこから形成と発展の歩みを展開するみる覇権システムと結び付けながら、関係論から捉え直したナショナリズム論は、「国家独占資本主義」を語る際に、重要な分析視角・視点を私たちに提供するのではあるまいか。


そうして考えていくとき、覇権システムを前提とした主権国家・国民国家と資本主義の歩みを関係の中で位置付け理解するのは当然のことであるとみられるのではあるまいか。さらにそこから、民主主義の実現の歩みを考える際に、関係を前提として位置付け理解することの重要性と有意義性に気がつくのではあるまいか。こうした点を鑑みることで、「現代の帝国主義」それ自体もまた、関係を前提としてつくり出されてきたとの分析視角が手にできるのではあるまいか。


(以上、引用貼り付け、終わり)


ーーー


そして、この覇権システムを前提としながら、そのシステムと世界資本主義システムと世界民主主義システムの三つの下位システムから成る一つの「システム」をどうしても受け入れざるを得なくなり、そこから結局のところ、抜け出すことができないままの「奴隷状態」に置かれ続けるのである。


哀れといえば、そのとおりなのだが、自由や民主主義や人権や法の支配、平和といった一見したところ、ごもっともなはずの神々しいそんな価値とその実現の成れの果てとして、いま私たちが生きているこの世界の現実を見ればわかるように、ごくごく少数の「勝者が支配する「システム」の中で、圧倒的多数の「敗者」は、身の回りの他人との差別と排除の関係の下で、押し合いへし合いを繰り返しながら、「システム」がその多数のシステム人として生きてきた彼らに対する報酬として提供した砂上の楼閣でしかない空間を、安住の地として守り抜こうと、必死に生きているのだ。




それゆえ、こうした私の結論をもとにして、それではマルクスやマルクス主義者は、民主主義や民主主義国家と国民、民主主義的・選挙・議会について、彼らの革命論との観点から、とくに「暴力革命」論や「プロレタリアートの独裁」論を前にして、どのようなアプローチを試みてきたのかについて、検討・考察していきたい。その際、私の語る「システム」と、潮音氏の言う「国家の打倒」の中の「国家」とがどのような関係にあるのかも、併せて検討・・考察してみたい。この作業を経た後で再度、潮音氏の斎藤批判記事を読み直すことにしたい。




それではここで、行論の都合上、日本共産党元委員長であった不破哲三氏の「マルクスは生きている」に関する論説・見解と、それに対する批判記事を以下に紹介しておきたい。その際、日本共産党現委員長の志位氏のマルクスとリンカーンに関する「赤旗綱領教室」に掲載された記事と、それを批判した私のブログ記事も紹介したい。




まあ、少し結論めいたことを述べるならば、私の「システム」論から、日本共産党の「民主主義」の位置づけ方・理解の仕方を捉え直すとき、「もう、これはあかんなあ」の一言しかないのだが、何度も言うように、「システム人」の私がそんなことを言えば、それこそ、天に唾することになってしまうのだが、それでも言わざるを得ないのだ。


私の語る「システム」は、それ自体が提供した親分の「衣食足りて」の営為=資本主義と「礼節を知る」の営為=民主主義を何ら問題視、も疑問視もするものではないことから、この共産党による「民主主義」礼賛を、
当然ながら歓迎するであろう。


斎藤幸平氏が労働者階級ではなく、訳の分からない「市民」を革命なき変革の主体」とせざるを得なかった理由も、こうした日本共産党の民主主義の見解からも推察できるのではあるまいか。と同時に、立憲主義に根差した民主主義社会の実現を目指すのならば、また市民によるコモンの共同管理を介した革命なき社会変革を目指すのならば、何もわざわざマルクスを引き合いに出すこともないであろうし、ましてやマルクス主義者などと僭称することもなかろう。


もっとも、私自身もこうした問題を考えるときには、今もそうだが、いつもイライラ来るというか、苛立ちを禁じを得ないのだ。フクシマにみるように、原発事故前も事故後も、これほど相手側の暴力によってボコボコにされながら、どうしてこちら側は、もしそんな存在があるとしたならばの話だが、何もしないで、ボーとしたままで、民主主義手続きがどうの、立憲主義がどうの、の間抜けな話の繰り返しに終始したままで、最後は相変わらず相手側の理不尽極まりない暴力の行使を甘受し続けたままで、のうのうと国会に議員資格を得て出席して、共産党は、立憲民主党は、社民党はこうこうしかじかなんて、ほざくのだから、これはおかしいを超えているだろう。


いま私はちょうど朝の3時を迎えたところ。それもあるのだろうか、少々威勢がいいようだが、それはそうだとしても、こちら側も、といっても私の後ろにはごくごく少数の者しかいないのだろうが、もう少し真剣に「暴力」について考えるべきではなかろうか。私たちがこの「民主主義の社会」において、相手側に対して行使できる暴力の在り方を、もっともっと考えるべきではなかろうか。


国家においても、今では、相手国からやられそうに思えたならば、やられる前に敵基地攻撃をすべし等との意見も出てきている。覇権システムの中で生きている限り、こうした考え方は、何もおかしくはないだろう。喩え、民主主義の世の中だと言えども、その民主主義を下部構造として支えているのが覇権システムなのだから、私たち自身も、この「平和な民主主義」社会の中で、ボコボコにされるがままの状態から、相手をぼこぼこにできるような暴力論を、そろそろ「頭の中だけ」でもいいから、真剣に検討してみてはどうだろうか。(続)




(付記)


相変わらず、「甘いなあ」。「頭の中」だけ云々と言っている今も、相手側は現実に数々のそれこそ、目に見えるものから見えないものを含めると、枚挙に暇のないほどの暴力を行使し続けているのだから。「このバカたれ、アホたれが」、との声は、今でも私には新鮮に響き続けている。


―ーー以上、引用貼り付け、終わり


 今回もまたまた、長くなり、読者には誠に申し訳なく思うのだが、とにかくここまでお付き合いいただき、感謝するのみ。


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