日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

〈ロシアの土着的・反欧米派ナショナリスト=グローバリストのプーチン(VS<=)中国の親欧米派ナショナリスト=グローバリストの習近平(VS>=)ウクライナの親欧米派グローバリストのネオナチ・ネオコン支持

2022-03-12 | 日記

〈ロシアの土着的・反欧米派ナショナリスト=グローバリストのプーチン(VS<=)中国の親欧米派ナショナリスト=グローバリストの習近平(VS>=)ウクライナの親欧米派グローバリストのネオナチ・ネオコン支持のゼレンスキー(VS<=)世界平和を希求する反ロシア・反中国の親欧米派ナショナリスト=グローバリスト〉の関係と、それらの関係を結び付ける「システム」と、そこでの関係を問い直すとき(続)ー私の語る「システム」論から、〈「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち(負け)続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウ〉との関連において、改めて「戦争」と「センソウ」を再考するとき

(最初に一言)の前に話しておきたいこと

コロナ禍の時にも感じたように、今のウクライナ危機に際してもまた、何かが蠢いているのを感じることができるのではなかろうか。それは、専門家と称される一群の人たちによる詐欺的誘導だ。人々に対して、あらゆる情報から適度な距離を保って、それらしき「真実」めいたものを探り出すことの大切さを説く代わりに、どちらか一方の「正しさ」を煽りながら、「正解」はそれしかないように人々を洗脳するかのように動いているのだ。

もとより、その理由は、私たちは「金の成る木」としての「システム」の中で生きていることから、何らかの権力・利害集団(勢力)と関係づけられて生きていかざるを得ないことによる。たとえば、その集団(勢力)には、自分の勤めている会社とか、病院とか、学校とか、役所とか研究所等々があるだろうし、またそれらの集合体である国家があるだろう。そうした権力・利害集団(勢力)の言うことを聞かなければ、飯にありつけなくなるのだから、どうしても、国内・国外の大きな権力・利権集団(勢力)の言うことに対して、異議申し立てをすることはできないことになる。

それがコロナ禍におけるコロナワクチン接種を巡る政府・マス・メディアを介した専門家の情報提供にも色濃く反映されている。米国政府とそれが奉仕する巨大な多国籍企業(この場合は製薬当関連企業)の圧力のもとに、日本政府、厚労省は動かざるを得ず、当然ながら、電通もその意を汲み、メディアを管理・指導することから、ワクチン接種を批判したり、イベルメクチン等の別の治療・予防薬を推奨する専門家がテレビの前で四六時中語ることなど土台無理ということになる。メディアがそんな専門家を呼ぶときは、どうしようもなくなったときだけである。たとえば、原発事故後、しばらくした後での「ほんのひと時」であったように。

食べていかなければならないから、どうしようもないのだ。それが、今のウクライナ危機を巡る動きの中にも明らかに見える。ここでも、私たちはどちらか一方に与するように導かれてしまう。ウクライナを擁護する権力・利権集団(勢力)を支持するのか、あるいはロシアを擁護する権力・利権集団(勢力)を支持するのか、とにかくそのいずれかを選択するように仕向けられている。

今の日本の立場は、米国に「従う以外に道はない」これに関して付言すれば、勿論そんなことはない。確かにそれは相当に難しいことだが、ひとしく覇権システムにつなぎ留められているとしても、何か他に道はあるはずだ。それを探す努力を怠ってはならないのだ。それはともかく、メディアに登場する専門家がどんな話をするのか、それはコロナワクチンに関してと同じように、彼らの話を聞くまでもないこととなる。

私のような、いずれの立場からも「自由」になりたいと思い行動する(家に閉じこもる)者は、そのいずれからも結局は嫌われ、イジメの対象とならざるを得ない。私の語る「システム」から見れば、ロシア(プーチン)もウクライナ(ゼレンスキー)もそれぞれの役割を演じながら「システム」を担い支えているのだから、とにかく「システム」からどうすれば少しでも離れられるのかを、思考することが大事だとなるのだが、どうもそれが許されないのだ。

「ナショナリズム」の立場であれ、「グローバリズム」の立場であれ、また「欧米の推進する民主主義」の立場であれ、「ロシアや中国の推進する民主主義」の立場であれ、それら両者は、私の語る「システム」論で描かれる世界・セカイ(「システム」)の維持発展に与っているという意味では、目に見える表面上の動きをよそに、水面下においては何ら対立や衝突もしていないことになる。

ここで、「民主主義」に関して少し述べておきたい。コロナワクチン接種やウクライナ危機での専門家と同様に、メディアに登場する「民主主義」や「民主化」研究の専門家たちも、彼らの背後に国内・国外の、それこそグローバルな巨大な権力・利害集団(勢力)が控えていることから、彼らの披瀝する「民主主義」も、その意味では、相当な「偏向」した内容を含んでいることに留意しておいたほうがいい。

今のロシア対ウクライナ報道と同様に、民主主義対全体主義のかつての報道も、そこには数々の理解しがたい話が詰まっている。これに関しては、もう何度も拙著や拙論でも述べてきたことだが、たとえば『昭和史』(岩波新書・青版)における「あの戦争」に関する「三つの性格」を、各々個々バラバラに位置づけ理解していることにも、見いだされる。とくに、民主主義と帝国主義の関係を、「水」と「油」の関係として簡単に片づけていることだ。

これでは、「大英帝国」の「民主主義」と「帝国主義」が的確に語れないのは当然だろう。それは、覇権システムに置き換えても同じことである。大英帝国の建設の歩みの中で、すなわち、イギリスのナショナリズムの歩みの中で、民主主義の歩みと帝国主義の歩みが共に手を取り合いながら進んでいった歴史が描かれないことになってしまう・このことによって、いったい誰が喜ぶのだろうか。何が隠されてしまうのだろうか。

私の語る「システム」は大喜びするに違いない。私のように、差別と排除の関係から「システム」は構成されているとの批判も、これでは最初から話にならないのは目に見えている。そしてその「システム」の下でつくり出されたグローバルな巨大な権力・利害集団(勢力)もそうに違いない。なぜなら、私たちの世界・セカイに対する批判は、決してそうした集団(勢力)やそれを動かす私の語る覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムの「三つ」の下位システムから構成される「一つ」の「システム」にまでは及ばないからである。

それとの関連から言えば、これに関してもグレタ演説と彼女が進める気候変動を巡る話に関するブログ記事で、何度か指摘したことだが、気候変動に関して熱心に論じる若者を中心とした人たちは、CO2の削減を叫んでも、巨大な権力・利害集団(勢力)や「システム」の抱える問題を、これでもかとは訴えない。ましてや自由主義、民主主義、人権、経済発展と民主主義の発展の関係、さらには「市民革命」発の普遍的価値とその実現の歩みとしての普遍主義に関する論及はさらさらない。もしあるとすれば、それらを支持・擁護する時だから、これではどうしようもないことになる。

それどころか、彼らは、自分たちも結構、齢を重ねているくせに、自分たちを「子供」として位置づけ、温暖化をもたらしている責任を取るべき「大人たち」に対しての異議申し立てといった構図の中で、運動を展開している始末だから、ピントのズレも相当なものなのだが。それにしても、コロナワクチン接種やウクライナ危機を巡る報道も含めて、どうしてこんな風に何もかもが、ことさら何かを隠蔽すると同時に、何かを際立たせる動きの中に収斂されてしまうのだろうか。勿論、私のそれに対する返答は、読者も辟易しているだろう、私の語る「システム」論の観点からのそれであるのは言うまでもない。

いずれにしても、今のこの鬱陶しい雰囲気の中であるからこそ、普段は気が付かないことが見えてくるのに違いなかろう。だが、そのような時(とき)は、あっという間に過ぎ去ってしまい、またいつもと変わらぬ何も感じることのない日常が戻ってくるだけだろう。それでは、いつものように、話を始めたい。


(最初に一言)

世界を「ワン・ワールド」に向けて「ヒト・モノ・カネ」の国境を越えたその歩みを目指す動きとして、いわゆるグローバリゼーション(グローバル化)と言われる動きがある。それは1970年代以降から語られてきた。そしてその動きはナショナリズムと対極をなすものであると。最近では、米国のトランプ善大統領の下での米国第一主義を、グローバル化に真っ向から反対するナショナリズムとして位置づけ理解する議論が盛んであった。果たして、それは本当だろうか。


いわゆる大航海時代から、あるいはもっと以前から、私の語る一つの「システム」の形成とその発展に向けての歩みが見られたと、私はみている。さきの「ONE WORLD」に対比されるのが私の語る一つの「システム」である。その「システム」においては、たとえ、あらゆる「壁」がなくなったとしても、差別と排除とその関係としての「バリア」は絶えず存在しているのだ。その意味では、世界の人々が、1(%)対99(%)の関係に置かれて、大多数のものが99の中に位置づけられたとしても、その99それ自体の中は、私の語る「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係において、{[ ]→(×)[ ]→×[ ]}の関係として描かれるように、常に差別と排除の関係を担い支えているということに留意すべきである。付言すれば、「1」に関しても、そうした関係がみられるということだ。

それは、私の語る1970年代以前のA、B、Cの「システム」においても、また1970年代以降、今日にかけて発展中のB、C、Aの「システム」においても見出される関係である。とくに、後者の「システム」において、B、C、はナショナリズムの動きが、そしてAではグローバリズムの動きが顕著であるにもかかわらず、B、C、Aのそれぞれのグループにおいて、{[ ]→(×)[ ]→×[ ]}の関係を常に確認できる、と私はみている。

そして、私の語るB、C、Aの「システム」を、B、Cにおけるナショナリズムと、Aのグローバリズムとが相互に補完しあいながら、「システム」の一体的関係を構成しているのである。その意味において、私の「システム〉との関係において、ナショナリズムとグローバリズムの動きは、相互に対立するものではなく、それぞれが支えあう一体的関係を構成している、と位置づけ理解されるのである。

そうした関係は、1970年代以前のいわゆる当時のグローバリゼーションとして位置づけ理解される「インターナショナリゼーション」の時代においても、A、B、Cのそれぞれのナショナリズムの動きが相互に対立するというよりは、むしろ相互に関係づけられながら、一つの「システム」をつくり出すことに与っていた、と私はみているのである。

ナショナリズムもグローバリズムも、そして欧米の支持する民主主義もロシアや中国の支持する民主主義もまた同様に、私の語る一つの「システム」の「関係」の中で、相互に結び付けられる中で、一体的関係を構成していると、私はみている。それゆえ、先に示した〈ロシアの土着的・反欧米派ナショナリスト=グローバリストのプーチン(VS<=)中国の親欧米派ナショナリスト=グローバリストの習近平(VS>=)ウクライナの親欧米派グローバリストのネオナチ・ネオコン支持のゼレンスキー(VS<=)世界平和を希求する反ロシア・反中国の親欧米派ナショナリスト=グローバリスト〉の関係は、たとえ表面的には相互に対立敵対しているかのように見えたとしても、実は、私の語る「システム」を、この場合は、B、C、Aの「システム」に該当するのだが、それを担い支えあう関係を構成しているのである。


なんと恐ろしいことであろうか。アのウクライナのゼレンスキーとロシアのプーチンが、簡単に言えば握手をする関係にあると、私は言うのだから。さらに、それに輪を重ねるように、世界平和を希求する世界市民としての存在であると自ら考えている人たちも加わっているということになることから、さらにわけのわからないことになってくるではないか。

今のウクライナの惨状を見るにつけ、世界各国の「軍産複合体」とそれに関係したグローバルな巨大な権力・利害集団(勢力)は、喜色満面の様相を呈しているのではあるまいか。それこそ気色悪い話だが、彼らはここぞというばかりに株を操作し、銃弾の補充のための資金調達にいそしんでいるはずだ。「金の成る木」としての「システム」は戦争をこよなく愛する。戦争は「システム」の「高度化」には欠かせない手っ取り早い手段なのだ。

さらに、ロシアとウクライナの戦争を仕組んだ者たちの狙いは、B、C、Aの「システム」のさらなる発展である。そのためにはその先頭に位置する中国に、もっともっと働いてもらわなければ困るということだ。勿論、「金の成る木」としての「システム」が、先の権力・利害集団(勢力)を使い戦争を企てさせると同時に、中国を走らせるのだが。

とにかく、これで「一帯一路」構想(計画)の実現のめどはついたかに見える。戦火に苦しむ人たちのためにも、安価な日用品の供給か早速求められる。さらに、廃墟と化したウクライナを再建するためには、インフラ整備は急務だ。そのためには相当なお金が必要となる。ヨーロッパや米国経済だけではその肩代わりは難しいだろう。そこで中国とその傘下にある中央アジア、アフリカ諸国の出番となる。さらに、ブリックスの構成国であるインドやブラジルも、そしてそれに加えて東南アジア諸国も総動員されるだろうから、B、C、Aの「システム」の発展に向けて拍車がかかるのは必至となる。


(最後に一言)


勿論、ここでそれこそ馬淵氏らが説くように、ロスチャイルド財閥に代表される世界金融資本家云々の話も関連してくるだろうが、それはその道のプロにお任せするとして、私はあくまで、私の語る「システム」論の観点から論及していくのみである。

それは同時に、比較政治学のこれまでの「民主化」研究に異議を唱える作業とも関連していることは言うまでもない。経済発展と民主主義の発展の関係を軸とした民主化研究に対して、私は何度も語ってきたように、覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムの三つの下位システムから構成される一つの「システム」の観点から問い直す作業の必要性を説くと同時に、それに関連した枠組みを提示してきた。それが私の語る「システム」論として、拙著『21世紀の「日本」と「日本人」と「普遍主義」ー「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウ』(晃洋書房、2014年)の中で語られている。とくに、88-91頁にある私のモデルを、読者には目をとおしてほしいのだ。

そこから私なりに得られた収穫は、私たちが規範としてきた自由主義的民主主義は、私たちの依拠すべき目標としてはならないとのことであった。それは、私の語る差別と排除の関係を前提としてつくり出されてきた「システム」が提供する政治システムであり、それゆえ、その民主主義システムそれ自体も差別と排除の関係を免れないとするものであった。そこからまた、いわゆる、普遍的価値とその実現の歩みとしての普遍主義は、改めて批判的観点から再考されなければならないとの話につながっていくのである

だが、私の主張はそれこそ私の語る「システム」の前では何の力もないのは、これまた確かなことである。しかしながら、それはそうだとしても、私はこの闘いをやめるわけにはいかないのだ。気候変動を巡る若者たちを見ながら、彼らに何とかして、私の話を伝えたい。彼らの力になれるのならば、何とかしたいのだ。それは護憲論者や第9条論者に対しても、同じ思いである。

早く気が付いてほしいのだ。私たちの生きている現実の世界・セカイの姿をつくり出してきた仕組み(構造)に関して。世界の平和を叫べば叫ぶほど、戦争が導かれることになる。どうしてなのか。私の述べる拙著の副題とも重なる、あのフレーズを想起してほしい。すなわち〈「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち(負け)続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウ〉を。その文言の中には、それこそ大きな秘密が隠されているのである。その秘密をまずは解き明かしてほしいのだ。

 

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