日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

(削除・訂正版)〈ロシアの土着的・反欧米派ナショナリスト=グローバリストのプーチン(VS<=)中国の親欧米派ナショナリスト=グローバリストの習近平(VS>=)ウクライナの親欧米派グローバリストのネオ

2022-03-10 | 日記

(削除・訂正版)〈ロシアの土着的・反欧米派ナショナリスト=グローバリストのプーチン(VS<=)中国の親欧米派ナショナリスト=グローバリストの習近平(VS>=)ウクライナの親欧米派グローバリストのネオナチ・ネオコン支持のゼレンスキー(VS<=)世界平和を希求する反ロシア・反中国の親欧米派ナショナリスト=グローバリスト〉の関係と、それらの関係を結び付ける「システム」と、そこでの関係を問い直すときー私の語る「システム」論から、〈「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち(負け)続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウ〉との関連において、改めて「戦争」と「センソウ」を再考するとき(続・続)

 

*(2022,3,5)の記事がずっと「下書き」のままであることに先ほど気が付いて、びっくり。今日(2022,3,10)に改めて投稿し直した次第。以前の記事投稿後に、ナショナリスト=グローバリストの関係を図式に入れてないことに気が付いて訂正した。また、橋下氏の発言に賛成云々の私の真意が伝わらないと思い、そのくだりを削除して、新たに分を書き直した。それで投稿したと思っていたのだが、下書き状態のままであった。最近の私は、はっきりわかるのだが、悲しいかな、集中力と注意力?が低下した。

 

(最初に一言)の前に話しておきたいこと

とにもかくにも、今のウクライナ「危機」とそれを巡るメディアの報道は、不謹慎な物言いではあるが、「面白くもあり、面白くもない」のが私の正直な感想。私は、不謹慎な物言いというばかりか、毎日毎日が不謹慎というか、本来ならば許されてはならないような差別と排除の関係を何ら疑うことのない・疑うことなど許されない人間関係(環境)を元につくられてきた世界・セカイの中で生きているのだから、これはもはや不謹慎云々では済まされない話であるのは間違いないことなのだが。

それを踏まえた上で言うならば、今のネット空間は、それこそ「騙すゴミ」としての役割を演じてきたマス・メディアでは到底、期待も提供もできないような情報洪水の渦が巻いているほどに、一見したところでは、「盛況」であるが、その中身は何も語っていないというのが実情ではあるまいか。それはウクライナ危機に関しても同じだ。

たとえば、プーチン「善」(「悪」)として、またゼレンスキーを「悪」(「善」)として、もっぱら二項対立的図式で語る議論は論外だとしても、そもそもそうした議論の参加者たちは、彼らがそれこそ、いかなる「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為のネット・ワークの関係の中で、同時にまた、その関係の中のどの「地点・段階」に位置付けられているかの確認もしないで、好き勝手な話に終始して、それで溜飲が下がれば、一先ず良しといったお粗末極まりない状況・状態にしか思われないからなのだ。

換言すれば、私たちは自らの生を全うするために、何を食べているのか、またそれは自分を含めた他人とのいかなる関係の下で行われているのか、そしてまた、その食べ方自体を、どのように正当化・合法化しているのかといった自らの生き方を明示しない・できないままに、ひたすら自分の周りの出来事を、ああだ、こうだというだけなのだから、これほど簡単なことというか無責任なことはないだろう。

表面的には妥当というか、穏当な議論の一つに、以下のような類のものが散見される。すなわち、確かにプーチンの暴力行使は絶対に許してはダメだが、同時にまたウクライナのゼレンスキーが体現している欧米の国際金融資本やCIAの支持・支援を受けたネオコン・ネオナチ勢力を跋扈させてもダメだろうとの意見がある。その代表的論者の一人として、馬淵睦夫氏がいる。

私自身、馬淵氏から教えられることは多々あり、氏の「冷戦」に関する論は、とくに当時の米国とソ連の力の優劣関係に対する氏の評価には一目置かざるを得ないと思っている。だが、氏のロスチャイルド財閥に代表される国際金融資本が裏で暗躍して米国や日本をはじめとする世界各国の政治が大きく歪められてきたとのいわゆる「ディープ・ステート」論と、そうした政治支配が目ろんできたとされる「グローバリスト」である「共産主義者」による世界統一政府の樹立に向けての動き云々の話には、少し待ってほしいというのが、私の本音である。

もとより、私自身も、そうした主張や見方の説得力を認めないわけではないし、今のマス・メディアの垂れ流す偏向報道とは月とスッポンの良心的情報提供であるのは確かではあるとしても、そこにいつもとどまっている状況・状態ではやはりだめだというしかないのである。私がこだわりたいのは、そこに至る前に、まだまだ論及されるべき重要な問題が残っているということなのだ。

すなわち、「ディープ・ステート」の担い手たちは一体、いかなる「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の国際的ネット・ワークの関係をつくり上げてきたのか、そして、今またその関係をどのようにつくり替えようとしているのかに関する議論がもっともっと必要とされるのではあるまいか、と私は考えているのだ。たとえば、私の言う覇権システムとそれを前提とした世界資本主義システムや世界民主主義システムとそれらから構成される一つの「システム」との関係・関連から、先の「衣食と礼節」の営為の関係に、もっと目を向けてほしいというのが、私の協調したいところである。

たとえば、そうした論との関連において、プーチンの暴力行使や、ネオコン・ネオ・ナチ勢力がウクライナの東部の二州のロシア人や親露派系ウクライナ住民に対する暴力行使というとき、それらの暴力は、先の「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為のネット・ワークのいかなる関係に対して向けられたものなのか、同時にまた、その関係の中のどの地点・段階に対して向けられた行使であるのかについて、私たちが理解できるように、論を展開してほしいということだ。

いずれにせよ、馬淵氏の説くような議論からは、それでは私たちが今、あるいは今後どのようなことに注意しなければならないか等の問題など見えてはこないのは当然だろう。それに対して、私が指摘した「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)の営為」のネット・ワークの関係というとき、そこには当然ながら日本に暮らす私たちも含まれている。すなわち、ウクライナにおける出来事は、日本の私たちにとって地理的に遠い他人事の話ではなく、常に「共時的関係」として、先の関係を担い支えていることを確認できるに違いない、と私はみている。


それでは、いつものように話を進めていきたい。

(最初に一言)


今回記事のタイトルにあるように、私たちの議論は、ほとんどいつもプーチンとかゼレンスキーとか、習近平とか、ヌーランドとかソロスとか、あるいはディープ・ステートの国際金融資本とかを槍玉にあげて喧々諤々と論じるのだが、それらをナショナリズムとグローバリズムとの関係から、また親欧米派と反欧米派との関連から、それぞれ位置づけ直す作業が、まずは求められなければならない。

それから、これが一番大事な作業であると私は確信しているのだが、ロシアの「土着的なニオイの漂う?」・反欧米派ナショナリスト=グローバリストのプーチン(VS<=)中国の親欧米派ナショナリスト=グローバリストの習近平(VS>=)ウクライナの親欧米派グローバリストのネオナチ・ネオコン支持のゼレンスキー(VS<=)「世界平和」を希求する反・ロシア・反・中国の親欧米派ナショナリスト=グローバリストが、さらにどのような関係の下に位置付けられるかについて考察することが求められよう。なお、今回タイトルで示した記号、たとえば(VS<=)の意味するのは、今のところは両者の対立よりも、両者の利害関係における思惑で一致している状況・状態を表している。

言うまでもなく、私はそれを私の語る「システム」との関係において捉え直すことを、読者に訴えるのである。そうすることによって、はじめて個々バラバラに取り上げ考察しているときには見えなかった各々の利害勢力の抱えている問題が見えてくるのである。同時にまた、それらの勢力が「システム」を介して結びつく中で、それらの利害勢力が抱える問題と併せて、それらを結び付ける「システム」の抱える問題もまた見えてくるのである。さらにそこから、その「システム」の中で、それらの利害勢力が位置付づ直されることによって、改めて確認できる問題にも目を向けることが可能となる、と私はみているのである。


私がこうして提言している作業を介して、従来の一国枠的な、二項対立的思考の問題が浮き彫りになると同時に、改めて関係論の観点から、ナショナリズムやグローバリズム、自由主義や民主主義、人権、平和等の抱える問題が、これまで以上に鮮やかに確認できる、と私は理解している。その関連からいえば、護憲派や改憲派の抱えてきた問題が、悲しいほどに見えてくるのである。同時に、私の語る「システム」において、彼らの役目はもう終わってしまっていることを、確認できるに違いない。

なお、すでに、私はこれまで拙論や拙著においてそれに関して論述してきたことを、ここで述べておきたい。詳しくは、拙著『史的システムとしての民主主義』、『覇権システムかの「民主主義」論』『「日本人」と「民主主義」』『21世紀の「日本」と「日本人」と「普遍主義」』を、また先の馬淵氏の議論の問題点に関しては、〈「歴史叙述」の「神話」に関する一考察」〉を参照されたい。


(最後に一言)


日本の政治家や官僚、知識人、ジャーナリスト、研究者等は、彼らの立ち位置がいかなるものであれ、日本国憲法を支持することを介して、「市民革命」の推進者が提唱した普遍的価値と、その実現の歩みとしての普遍主義の支持者として位置付け理解されることを自覚しておく必要があるだろう。

さらに、今日の対・中包囲網に際して、自由、民主主義、法の支配、人権といった普遍的価値とインド・太平洋の自由な活動を訴える立場を共有することによって、阿部元首相と憲法9条支持者との距離は一段と接近していることに、注意する必要がある。同時にそこから、彼らは、両者の立場の違いはあれ、新・欧米派として位置づけられることになる。さらに、そこからまた、彼らがそれを自覚できているかどうかに関係なく、彼らは覇権システムを支持・是認しながら、覇権システムを正当化・合法化しているのは間違いないのである。

すなわち、それは言い換えると、彼らが「親分ー子分」関係とそこにみられる差別と排除の関係を正当化・合法化しているということなのだ。おそらく彼らは、特に日本国憲法の積極的支持者は、9条支持者も含めて、自分たちはそんな差別と排除の関係など認めてもいないし許しもしないと反駁するに違いないだろうが、そうなのである。

それゆえ、彼らは憲法が具現化する普遍的価値や普遍主義に関しても、それらが差別と排除の関係に刻印されているなどとは認めないだろうが、それにもかかわらず、私の言うとおりなのだ。それゆえ、安倍元首相はともかく、自由や民主主義、人権といった普遍的価値を共有する立場にあると、9条論者や憲法支持者が声高に叫べば叫ぶほど、私には彼らが自ら、自分たちは差別主義者だと公言してはばからないでいる姿を見て、滑稽というか奇妙に思われるのだ。その彼らが、レイシストを糾弾するのだから、もう何をかいわんやなのだ。

それはさておき、私の語る「システム」は、その意味では差別と排除の関係を前提としてつくり出されてきたのだが、そうした差別と排除の関係に対して、それでは土着的反欧米派のナショナリストは、また世界市民的親欧米的ナショナリスト=グローバリストは、従来の差別と排除の関係とは異なる、別の何かに替えるべく行動しているのかと問われれば、その答えはNoなのだ。

残念ながら、決してそうではないのだ、彼らはともに、その立場の違いはあれ、結局は私の語る「システム」を担い支えるように、行動しているだけなのだ。それゆえ、プーチンにも、ゼレンスキーにも、習近平にも、トランプにも、売電にも、さらに日本の首相にも、肩入れすることなどできやしないのである。

確かにそうなのだが、それにもかかわらず、私たちは覇権システムの中で生きている以上、力のある者や国家に背を向けて逆らいながら生きてはいけないのも、また確かなことなのだ。それゆえ、これまた何度もこのブログ記事でも述べてきたように、次期覇権国と目されている中国に逆らって生きることなど、まさに愚の骨頂となる。

それゆえ、日本と日本人は、最低でも。しっかりと向こう2,30年先の世界の様を見据えて行動しなければならないのだ。先の国連臨時総会でのロシア非難決議において反対ないし棄権した諸国は、私の語る「システム」論で描く{[B]→(×)[C]→×[A]}の「システム」とその関係の歩みにおいて、これから「システム」の「高度化」を担うB、やCの諸国であったことを肝に銘じておく必要があるのだ。

ブラジル、ロシア、インド、中国は、いわゆるブリックスを構成する国々であり、その傘下に置かれるであろう中東やアフリカ、そして中南米諸国の主だった国が、反対や棄権に回ったという事実を押さえておく必要があるだろう。また国の数ではなく、その国が占める人口数にも注意を向けておくべきなのだ。

それらのことを鑑みるとき、日本と日本人の行動は自ら進んで自分の首を絞めているようにしか見えないのだ。政治において大切なことは、「責任倫理」であり、「信条(道徳)倫理」ではないとは、かのM・ヴェーバーの至言であるが、私たちはいまだに「あの戦争」から何も学んではいないのではあるまいか。当時の日本はドイツやイタリアと組んだが、今そのドイツとイタリアは、米国と英国。仏国に他ならない。

注意しなければならないのは、これら米、英、仏国は最後は中国と組む。中国もしかりなのだ。結局、今回も日本と日本人は弾き飛ばされるに違いなかろう。否、もうすでに弾き飛ばされて、誰からも相手にされてはいないのが現実であろうが。それでも、これからも、中国の前に進んで頭を垂れる生き方に努めることが肝要だと、私は言い続けるしかあるまい。それは同時に、「山椒は小粒でもピリリと辛い」的な人間としての生き方を、この日本で生き抜く中で実践することを意味している。

何度も言うのだが、自分の国を守るために、命を賭してでも戦うなんて戯言は、決して言うべきではない。それは私の語る「システム」が喜ぶだけなのだから。とにかく戦いたくなければ、逃げ続けるしかあるまい。それは卑怯なことではない。卑怯・卑劣なのは、戦いたくない者を戦争へと導く者たちなのだ。

破廉恥極まりのない連中どもが、これからますます増えていくに違いないだろう。お願いだから、護憲派や第9条論者の中から、そんなアホどもが出てこないことだけを、祈念している。とは言え、歴史が教えてくれるのは、皮肉なことにアホな連中に真っ先に加わろうとするのは、「平時」において「平和」を訴え続けてきたものたちなのだ。(日本は、戦後一貫して、世界の戦争に加わることなく「平和」を守り続けてきた・守ることができたのだ、とそれこそ能天気に語っていたのがつい昨日のことではなかったろうか。)

私に言わせれば、そんな平時など、またそんな平和など、どこにもない。そして、「戦時」において語られる平和は、「金のなる木」としての戦争を常に組み込んできた「システム」が提供する「平和」(「パックス」)であり、日本国憲法の提唱してきた平和であることをゆめゆめ忘れてはならないのだ。それを今のウクライナの惨状が教えてくれているのではあるまいか。そんな轍を今また、踏むことだけはするべきではない。

それゆえ、逃げることを決めたのならば、最後まで闘え。どのようにして「私の語る「システム」と立ち向かえるのか、立ち向かえないとしても、そこから少しでも逃げる、巻き込まれない・巻き込まないで離れることのできる「へいわ」の在り方を、それこそ「もう、死んでしまう」と思うほどに、夢想すべきであろう。


(お詫び)

今日の朝の投稿記事には、この後に(付記)を付けていた。そこには、〈橋下徹さんがウクライナ出身学者と生放送で口論…”国外退去”発言が物議「じゃあ一体誰が国を護る」「よくこんな的外れなこと言えるな」 2022/03/04 06:59 橋下徹さんc 中日スポーツ 提供〉の記事を引用貼り付けて、いつも物議をかもす言動に終始する感のあるあの橋下徹氏がいつになく、「まともな発言」をしているように、私には思われたことから、その記事を引用貼り付けて投稿していた。

だが、その投稿後も、何かもやもやしたものが私の頭から消えることもなく続いていたので、その引用張り付けた文章は削除することにした次第。ご容赦を。それもあり、少しその辺の事情を述べておきたい。

私が共感したくだりは、ウクライナ出身の国際政治学者であるグレンコ・アンドリー氏が、〈ウクライナとロシア間に妥協点を作るのは難しく、戦況が有利かが結果に直結するため、国際社会の協力や支援が欠かせないとの見解を示した〉ことに対して、橋下氏が〈「その間にどれだけのウクライナの人たちが命を失うのか」と非難し、闘い続けると被害が甚大になると主張した。続いてプーチン大統領が高齢で長くは指導者として君臨しないとの見方を示し、積極的に国外退去を進めるべきだと助言〉したとの報道に接したからだ。

とくに、「積極的に国外退去を進めるべきだと助言」のくだりは、大事なところだ。そして、続けて、橋下氏の〈「祖国防衛。そこで命を落とす、それしかないんだって状況にみんななってしまうと国外退避することが恥ずかしいことだ、やっちゃいけないことなんだ、売国奴なんだっていう批判を恐れてしまう」と訴えた。〉のくだりも、私には、つい最近のテレビ番組で安倍元首相と「核武装の必要性、核のシェアリング」云々の発言を斟酌するとき、まるで別人格の橋下氏の発言にも聞こえるのだが、それはそうとしても、これまた至極常識的な内容と理解した次第。

橋下氏の発言に対して、 先のアンドリー氏は〈「もしここで降伏して、ロシアに全土を占領されたら結局犠牲者が増えるだけ」と反論。〉したのに対して、橋下氏は〈ウクライナの18~60歳の男性が国外退避できない現状を挙げ、さらに反論。〉したとのこと。これに対して、アンドリー氏は〈いら立ちを示し「20年後、ウクライナ人残りますか、という話です。ロシアの支配を受けて」などと訴え、言い争いはヒートアップした。〉とのこと。

このくだりは、まさに「あの戦争」の開始から敗戦、そして今日に至る「日本」と「日本人」の歴史と絡めて、再考すべき重要なところではあるまいか。最初から圧倒的な戦力の差のある米国と戦うことなど無謀であったのだが、そんな争いにどれだけの人が巻き込まれ、どのような悲惨な末路をたどったか、まだ昨日のことではあるまいか。

その戦争遂行中には、いろいろな情報が飛び交い、日本は勝利勝利の連続で、鬼畜米英はもうあと少しで降伏する云々。「大本営発」の情報合戦の渦中に巻き込まれてしまい、冷静な判断もできなくなるのは、当然だろうが、もう少し、過去から学び直すべし。今のマス・メディアの報道は、恐ろしく偏頗であり、もう異常というべきかもしれない。コロナの専門家もロシアの専門家もアメリカの専門家も、司会者やコメンテーターと同じ話を、結局はオーム返しのように、繰り返すだけ。

そして、なんと最後には、「今の日本ができるのは、世界平和を訴える声の輪の中にともに加わり、その声を世界大に広げていくことしかありません。」で幕となる。誰も語らない、語れないのだ。その世界平和とは、たとえば人間にたとえるとき、一体どのような形をしているのか、と。また、その世界平和は、どのようにして実現できるのか、この問いにもこたえられないのだ。ただ、平和を訴える人の数を増やして、その声の輪を大きくしていこうというのだ。

その声の輪に参加する人は、当然ながら、毎日の生活がある。その生活のために私たちは働く。その働く場所はいろいろあるし、働き方も千差万別だ。給料も異なる。その職場において、平和は保証されているのか。正規と非正規の考える平和は同じではないし、いじめを受けている生徒とイジメている生徒には、そもそも両者に共通する平和などはない。

彼らも、先の平和を訴える声の輪に加われば、それこそ平和になるのか。私の語る「システム」論で提示される「平和」とは、覇権国の親分の提供する平和、つまりは「パックス」だが、その平和と、今の反・プーチンを叫ぶ人たちの平和とは、同じなのかそれとも異なるのか。

同様に、今また「国際秩序」が脅かされている、国際秩序の変更を許してはならない云々の声が喧しく聞こえてくるのだが、それではその国際秩序とは、一体なんであるのか。覇権国の親分を中心に、世界の強大国が集まって、その下に子分を作りながら、覇権システムがつくられてきた。そこでの「親分ー子分」関係をもとに、親分の提供する先の平和(パックス)があるのだが、その平和を維持するために、覇権システムの親分たちは彼らの秩序を提供したのだ。それが国際秩序というものだ。

ここで私の言う国際秩序は、今のウクライナ危機を巡りメディアで報道されている国際秩序とは、どのように異なるのか、また同じなのか。これに関しても、メディアは当然ながら何も語らない。国際秩序と、それでは、フランス革命以降の普遍的価値や普遍主義とはどのような関係にあるのだろうか。

これらの問題については、もうすでにこのブログ記事でも論じてきたが、次のブログでそれについて取り上げてみたい。何か、話が、橋下氏に関する内容からそれてしまった感もあるが、最後に少しまとめておきたい。

とにかく、そのテレビ番組は紛糾したようで、最後には、〈見かねたMCの谷原章介が「橋下さん、やっぱりこれはウクライナの人にしか分からない歴史的な背景みたいなものがあるのかも」と間に入って激論を中断させた。〉となったということなのだ。〉ようなのだ。

その後、橋下氏に対しては批判。非難の声が上がったとされている。それは、
〈「じゃあ一体誰が国を護る」「プーチンが死んでも思想を継いだ次の指導者が出たら同じ」「生き残っても国が無くなったら意味ないと思ってるから皆必死になってる」「ウクライナ出身の人に対してよくこんな的外れなこと言えるな」など手厳しい意見が散見された。〉云々、と。

私には、橋下氏に対する批判は、それこそマトハズレ的な発言であると思うのだが、それにもかかわらず、この種の議論は、先の国際平和の声の輪とどこかで同調しながら、日本の言論空間を、国際世論という名の美名のもとに、脅迫されて委縮させてしまうことに手を貸すのは必至ではあるまいか。それこそ、私の語る「システム」の思うつぼではあるまいか。

いずれにしても、これでもかという具合に、私たちは「システム」の繰り出すご都合主義的な発言の前で翻弄されてしまうのは致し方ないとしても、それでも死にたくなければ、そんなウソ話に対しては断固として、言論空間で闘う以外に道はなかろう。

とにかく、今回はこの辺で。何かまとめきれない思いも強いのだが、自分の体のというか、頭の調子もあるので、悪しからず。

 

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