日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

(補論・追加版) 大谷翔平選手に絡んだ例の事件を私の語る「システム」論から捉え直すとき

2024-03-30 | 日記
*前回記事(2024,3,29)の(補論)を掲載した後で、その前の記事(2024,3,28)の後に追加して編集し直した方が、私の意をより適切に読者にお伝えできると考えて、今回記事の形にした次第。内容は同じであることを申し添えておきたい。


(補論・追加版) 大谷翔平選手に絡んだ例の事件を私の語る「システム」論から捉え直すときー私は一体どのような社会の実現を目指しているのか7ーそのためには、先ずは私が一体どのような社会の中で生きているのか、それを確認する作業から始めなければならないだろう




 今回記事は、やはり米大リーグをいま激震させている感のあるドジャースの大谷翔平選手に関係している?とされている違法?な多額送金の話題から始めなければならないだろう。勿論その際、私の語る「システム」論からそれを捉え直してみたいのだが、前回記事での「事実」や「真実」に関する認知レベルにおける「原始時代」状態云々の私見を披歴していたが、その時にも大谷氏にまつわる事件?を念頭に入れて書いていたのである。


 結論を先取りして言えば、私の語る「システム」論はいつも「仮説」であり、それゆえいわば「架空」というか「虚構」の世界・セカイの物語であると何度も指摘してきた。それは、私たちが得ている情報のほとんどが事実か眞實かどうかはっきりとしないというかし難い「資料・材料」を基にして語られているからである。しかもそれを私たちに論評したり紹介・伝達しているのが、これまた毀誉褒貶するのを常とした正体不明というか、最後の最後まで掴み切れない厄介な人間を介しているからである、と私はみている。


 だが、それはそうだとしても。だからと言って、何も語れないということでもない。たとえば、確かにその「死因」を巡り錯綜した事実や真実らしき資料の山に直面して迷いに迷いながら死因の特定ができなかったとしても、それでも確かに誰かが死亡したということだけは真実でありまた事実であるのは疑う余地のないことだから。こうして私たちの周りを見渡すとき、そこから確かに「殺し合い」の世界・セカイは存在しているのは疑いを得ない。


 それは私の語る「システム」論がどれほど仮説であるとか虚構の世界・セカイを描いているとしても、それにもかかわらず、その世界・セカイにおいて強者が弱者を支配し服従させる「親分ー子分」関係を前提とした力(暴力)と力(暴力)を介した自己決定権の獲得とその実現を巡る争奪戦の世界・セカイとしての覇権システムの存在を否定することはできないだろう。それは、私たちが覇権国とか超大国として論及してきた国家の存在を疑うことを許さない。


 そこから差別と排除の関係を前提とした世界・セカイの存在も確認できるのではあるまいか。私はそうした事実や真実までも否定するものではない。むしろ、こうした観点から私たちの周りで飛び交う事実や眞實とされてきた「嘘」の情報に接し直すことが肝要であると主張したいのである。こうした観点から先の大谷問題を見直すとき、少なくとも以下のことだけは言えるのではあるまいか。


 先ず、大谷氏がどれほど自らの潔白を、つまり自分は「白」であると語ったとしても、残念ながらその前に語っていた水原氏の主張すべてを覆すことは不可能に近いということだ。つまり、そこには、私たちが水原氏と同じような「共犯」関係の中で生きているということを、私たち自身が覆すことができないということではなかろうか。すなわち、私たちは「白」か「黒」か、はたまた「灰色」であるかを問う前に、あるいは裁判において「有罪」であるか「無罪」であるかを裁かれる前に、、またいかなる裁判と無関係・無縁な存在であるとしても、それ以前において既にある種のそんなに簡単に割り切れない関係の中で生きていることを、どこかでおぼろげながらも感じ取っているのかもしれない。


 それはたとえば、自己決定権の獲得とその実現に際して、つまり個人レベルでは「自由」を、共同体レベルでは主権を獲得してその実現を図る際に、私たちが「親分ー子分関係を前提とした強者と弱者の、差別し排除する側と差別され排除される側の関係を前提とする社会の中で生きているということを、各人はその齢を重ねるごとに、それを意識するかどうかは別としても、各人各様の仕方において、身をもって悟っていくのではなかろうか。私は、そうした差別と排除の関係をつくり出す「親分ー子分」関係を、{[A]→(×)[B]→×[C]}の、あるいは{[B]→(×)[C]→×[A]}の世界・セカイとして描いてきたのである。


 それゆえ、私たちの白か黒か、清と濁とか、善と悪とか、正義と不正義とかに関する二項対立的問題は、既にそれを問う私たち人間自身がその議論の前に、またそれを意識するかどうかは別にしても、先の「親分ー子分」関係と差別と排除の関係から構成される社会の関係を前提として語っていることを、私は強調しておきたいのである。それゆえ、大谷氏と水原氏の白黒対決問題を前にした際の私たちのどこか割り切れない何かが見え隠れする態度なり感情は、そうした私たちが生きている社会の関係がそこに投影されているからではなかろうか。


 その際に私が残念だと思うのは、そうした態度なり感情が引き起こされる原因成り背景にまで、私たちは目を向けようとはしないということだ。それを突き詰めていけば、覇権システムや「システム」の存在とそれが抱える問題にまで行きつくのではあるまいか。もっとも、それをさせないように、逆に覇権システムと「システム」は用意周到に、アレコレの障碍となる妨害物となる様々な情報提供を「システム」ご用達のメディアとその利害関係者として奉仕する知識人やジャーナリストや学者を使って曖昧模糊としていくことを怠らないのは言うまでもないのだが。


 大谷氏も水原氏も、共に私たちと同様に私の語る「システム」の中で生きているということを、彼らの白対黒、あるいは灰色論叢の前に確認しておいた方がいいのである。完全なる白など存在しないのだ。彼はクリーンな人間だという際の「クリーン」は、あくまでも私の語る差別と排除の関係から構成される社会の構成員であることと何ら矛盾しない物言いであることを、私たちは再度確認しておいた方がいいのである。


 それはシステム人である大谷氏も例外ではないのだ。勿論、同じシステム人であっても、そこに白だとか黒のレッテルを張ることはできる。またクリーンだとかダーティイだとかの見方も可能である。だが同時にその際に忘れてならないのは、それにもかかわらず私たちは「白対黒」、「善対悪」、「正義対不正義」の議論の前に、先の「親分ー子分」関係における差別と排除の関係から構成される不条理な社会を構成している一因であることを、二項対立的議論を始める前に自覚しておく必要がある、と私はこれまで何度も主張してきたのである。こうした話を前提としながら、さらに論を展開していきたい。


 大谷氏が属する米大リーグ機構は、覇権システムを構成する一つの要素であるのは否定できないということ、それゆえ大谷氏をはじめ気候に属するメンバーはシステム人であるということ、これはどのような事実や眞實らしきことよりも、疑いを得ない事実であり真実であるということである。それゆえ、覇権システムと「システム」には逆らうことのできないシステム人として存在することを許されているということである。その意味では、私たちも同様な存在として位置づけられるのだ。たとえそこから得られる給料というか年俸にどれほどの開きがあろうとしても。


 ここをまず押さえておくことが何よりも重要となる。大谷選手を巡る「世紀のスキャンダル?」云々の情報を私たちに垂れ流すのは、この覇権システムと「システム」のご用達のメディアとその関係者であることを踏まえれば、彼らの情報は覇権システムと「システム」を攻撃するものではないことは一目瞭然だろう。いつも問題というか元凶は覇権システムと「システム」であるにもかかわらず、そうした点を踏まえた情報の発信は最初から期待できないものばかりなのだ。


 せいぜいが賭博の違法性がどうの、大谷と水原のこれまでの兄弟関係がどうの、大谷の口座から多額の資金を奪い去ることが本当に可能なのか等々の次元の話でおそらくは終始して、それでやがては決着するのではあるまいか。そもそもおかしいというか、どうにもならないことなのだが、賭けごとは賭けごとであり、違法化合法化に関わらず、そこから借金で首が回らなくなる者が出てきて、その結果として家族の悲劇を繰り返させるのは否定できない。これまた事実であり真実ではなかろうか。それをギャンブル依存症問題だけで済ませてしまう私たちの社会も相当におかしいというか怪しい。そこには依存症=病気=異常が、また依存症ではない=健全=正常といった二項対立的思考が見え隠れしている。


 これに関連して言えば、私は以前のブログ記事で、勝新太郎主演の「座頭市シリーズ」番組や中村敦夫主演の「木枯し紋次郎」の番組の中で出てくる「ばくち」の場面を何度も踏まえながら、賭けごとで墓穴を掘って自らの首を絞めたり、娘を身売りさせたり、あるいは一家離散になる場面と現代の私たちの社会の関係を論及していた。今でもパチンコ屋競馬、競艇、その他のスポーツ籤、麻雀、カジノといろいろな賭けごとがある。さらに、安倍元首相襲撃事件での統一教会がらみでのツボ等を介した多額の寄付金?等々、これまた枚挙に暇がないが、こうした話は背後に相当数の泣き寝入りをせざるを得ない家族の姿が思い浮かんでしまう。


 誰がその合法賭博で儲けることができるのか。その儲け金は、確かに米国の州財政にプラスとされるかもしれないが、そもそもギャンブルに依存しなければ州財政が苦しくなる米国の経済状態とは、やはりおかしなことではあるまいか。一部の者だけが潤い、その他大勢は貧困ライン近くに落下していくのを許すような経済の問題こそが問われるべき問題なのだ。そうした社会では、どうしても一か八かの賭けごとに人生の逆転で気を夢見る者が出てきてもおかしくはないだろう。いまや政府をはじめ日本社会全体が賭けごとに興じる様を呈している。


 それに関連して言えば、かつての先進諸国に暮らす私たちの社会の経済は今やカジノ経済と揶揄されるほどの投資に特化した金融・サービス化経済であり、それこそ政府と財務省や日銀が先頭を切って賭けごとに狂奔していると言えるのではあるまいか。そこには米国を始めとするかつての先進諸国における金融・サービス化偏重の経済と金融バブル経済の仕組みが大きくかかわっているのは否定できない。


 さらに、そうした米国を始めとした先進諸国の経済の偏った発展の有様は、先の覇権システムと「システム」の発展(前回記事での{[B]→(×)[C]→×[A]}の、あるいはこれまでの記事で描いてきた{[A]→(×)[B]→×[A]}の歩み)に大きく与っている、と私はみている。そうした歩みの原動力となっているのは、言うまでもなく、「親分ー子分」関係を前提とした差別と排除の関係とそれを基にしてつくり出されてきた過去から現在に至るまで続く私たちの人間社会である、と私はみている。


 ところで、こうして見てくると、合法賭博にまで米国市民の批判の声が及ぶことを覇権システムと「システム」の利害関係者連合グループは危惧したのかもしれない。何しろそこにスーパースターとなった大谷の名前があったのだから。それゆえ、違法化合法賭博問題に話題を絞り込んで、米国民の関心や批判の目をそこに集中させることによって、大谷問題から米国経済の抱える問題へと焦点が移らないように、先の「システム」ご用達のメディアとその関係者は動かされた、と私はみている。


 こうした争点のすり替えは、今のロシアやウクライナ、イスラエルとパレスチナ等々の問題を巡る報道にもはっきりとみられるのではあるまいか。ここでもまた、どちらかが善であり、正義を体現しているとの話を前提としながら、ロシアやパレスチナのハマスが「ウ」ソを垂れ流している云々の話で満載のメディア上方のオン・パレードだ。それは上で紹介した大リーグ機構のドジャースの水原氏と大谷選手との二人のやり取りに関する情報を踏まえた時にも、そうしたウソというかどこに眞實や事実があるのかどうかの問題に関しても該当するのではあるまいか。


 こうした点をさらに論究する前に、今一度これまで述べてきたことを少し整理し直しておきたい。私たちの多くは一般には、最初に報じられた情報に対して、私たちはその真偽の如何を問わず大きく影響されてしまうのは致し方ない。さらに、その第一報を流したとされる当の本人が、嘘だったと前言を翻してしまうと、これは相当に何かの圧力が働いたのではないか、何かの取引がなされたのではないか等々と、もうそこから制御できないほどの情報の受け手側において、想像というか憶測が次の想像、そしてそこからまた次の憶測へと次々に繰り返されることになる。


 そうする中で、何が真実だったのか事実は何であったのかさえ分からなくなってしまう。もし、大谷選手を貶めたいと願う者たちが背後にいて、水原を使って世紀のスキャンダルに仕立て上げたとすれば、そしてそれによりこれまで彼らが奪われてきた諸価値を取り戻そうとしているとすれば、と私は推測してしまうのだ。いずれにしても、大谷選手本人には何の非もないとしたとしても、これでこれまで積み上げてきた「クリーンな」イメージの失墜は免れないだろう。


 これに関連して言うならば、先日のロシアモスクワ郊外でのISによるとされる銃乱射事件とそれによる多数の市民の死傷、さらにそれに関連したプーチンの事前に襲撃計画の把握、そこにウクライナが、つまりは米国やNATOが絡んでいたのかどうか云々の情報と、これまた事実というか眞實がどこにあるのかといった話とも類似している。それこそ枚挙に暇がないほどに、「真実」や「事実」とされる情報の大洪水の中で、私たちはその真偽を確かめようがないはずなのだ。ところが、やがて、その中からこれが事実だとか真実だという何かが報道され、それで一応は落ち着く。


 そうしたことを踏まえるとき、私たちはどうしても本当にそれを信じてしまっていいのかという大きな問題に直面してしまい、そのためにその後もああだこうだとの論争というか議論が続いていく。だが、それにもかかわらずはっきりとした事実や真実は存在している、と私は強調しておきたい。それは以下のような話だ。すなわち、絶えず「殺し合い」の世界・セカイの中で私たちは生きてきたし、今も生きているということだ。


 その代表的事例として戦争が挙げられよう。その戦争によってその当事者の中の誰かが勝利品を獲得し、逆に敗北した側が勝者のルールを強要されるということである。そして戦争は大きな利益を社会の中の誰かにもたらすということだ。戦争には武器は必要であり、その武器はどこかの企業が生産と販売に与ることから、そうした兵器・軍需産業に関連した企業は大きな利益を戦争を介して獲得するのは言うまでもなかろう。


 このような観点から見るならば、戦争で命と暮らしを犠牲とされる者があるのも否定できない事実だが、それに対比される犠牲を強いる側には、領土を拡張したり、戦利品としての巨額な賠償金や相手国の領土内に勝利した側が欲する鉄道や鉱山や港湾を自由に使用できる権利を何十年、数百年にも及び獲得するといった事実や真実が確認できる。そして、そうした勝利を決定づける大きな要因として、優れた武器・兵器を生産できる防衛とその各種関連産業の発展は必要不可欠となる。そしてそうした産業が社会の中核を占めるにつれて、戦争を絶えず必要とするのも否定できなくなる。


 先ずはこうした動かしがたい眞實や事実を基にして、私たちの生きている社会を捉え直すことが何よりも大切な作業である、と私は言いたいのだ。その際、いきなりある戦争を「デモクラシーを全体主義勢力の暴力から守るための戦争」であったと位置づけ理解する前に、すぐ上で述べた戦争に関する事実というか眞實にこそ目を向けるべきである、と私は強調しておきたい。そうした戦争に関する事実を鑑みるとき、そこから次のようなことが引き出されるのではなかろうか。


 すなわち、戦争はまさに自己決定権の獲得とその実現を巡る争奪戦であるという事実であり真実であるということだ。勝者は敗者を彼らの自由に扱うことができる。つまり勝者に従属させることができる。彼ら敗者を奴隷とすることもできる。勝者は彼らに都合のいいような「衣食足りて礼節を知る」営為の関係を敗者との間において創ると同時に、その営為の関係を敗者や従属者たちに押し付けるのだ。当然ながら、その営為の関係は、敗者には受け入れ難い「衣食足りて」の営為であり、また「礼節を知る」の営為であるのは否定できない。


 そこから差別し排除する側と差別され排除される側の関係がつくられていく。その関係の中で前者は親分としての地位を、後者は子分としての地位をそれぞれ引き受けることになる。これこそが私たちの古代ギリシャの時代から21世紀の今日まで続く眞實・事実として描かれる社会ではあるまいか。先ずはこうした点にこそ私たちは目を向けるべきなのだ。それはロシアのウクライナ侵攻とウクライナに味方する米英諸国連合においても、イスラエルのガザ攻撃とその両者にそれぞれ味方する勢力関係においても、何ら変わるところはない、と私はみている。


 すなわち、私が言いたいのは、私たちの世界・セカイを語る際に、「脚色」されることの少ない出来事を、事実とか眞實といった検証・検討作業を行うときには、それを基にして議論を始めた方がいいとのことなのだ。それが何ら見直しもされないままに、私たちはこれまであまりにも勝手な論争を繰り返してきたと、私は言わざるを得ない。本当におかしなことなのだが、それをさももっともらしく私たちはしてきたというのが、私には事実であり真実ということである。


 すぐ上で指摘したデモクラシーによる全体主義の暴力からの防衛と解放云々の話は、今日においても当然のごとく論じられているのだが、その反面において、私たちはそうしたデモクラシーなり全体主義がどのような社会を前提としてつくり出されてきたかという問題に対して、あまり真剣には向き合うことなく、むしろスルーしてきたのではあるまいか。いずれの陣営においても、武力を前提として力を増大・増強させながら、彼らの支配地域を拡張してきたという事実は否定できないだろう。


 ところがそれらの事実を、それぞれ異なった解釈によって、誰かに都合のいいような「歴史」とその解釈を創っていくのではあるまいか。たとえば、先のデモクラシーによる全体主義の勝利とかのように、である。だが、そうした武力・暴力を介した軍事的侵攻というか戦争と結びついた帝国主義と自由や民主主義の実現との関係についての議論は入り口からスルーされたままである。


 それは最近のネット記事で紹介されていた東京新聞に掲載の矢部武(ジャーナリスト)氏による中野博文著『暴力とポピュリズムのアメリカ史 ミリシアがもたらす分断』の書評、東京新聞 提供にも垣間見られるのだ。その諸表において、ーーー本書の最後には、「合衆国憲法で銃の所有を市民の権利として認めるアメリカには、自由を守るためなら、暴力の行使もいとわない気風が満ちている」と書かれているが、ーーーのくだりから、私は以下のような問いを発する必要性を感じた次第だ。


 それは、「合衆国憲法」→「銃の所有を市民の権利として認めるアメリカには、自由を守るためなら、暴力の行使もいとわない」云々の関係を前にしたときに、それではその暴力の行使を厭わない」アメリカ社会をつくり出した合衆国憲法を誕生させたものを考えるとき、それもまた市民革命という独立戦争を介した暴力ではなかったのかという問題である。すなわち、〈暴力→憲法→暴力を許容する自由〉という流れが浮かび上がってくる。


 私はこうした流れを、今回記事で述べていた「親分ー子分」関係を前提とした差別と排除の関係の中で、すなわち覇権システムと「システム」の中でとらえ直すことを主張したいのだ。すなわち、私たちが手にしている自由や民主主義、人権は戦争や侵攻を介した暴力行使を抜きにしては実現されなかったという事実であり、それは揺るがしようのない真実であることを、先ずは了解事項とすべきなのだ。なお、矢部氏の書評の内容に関しては、何ら異を唱えるものではないことを、ここに記しておきたい。




*(補論)大谷翔平選手は、言うまでもなく「真っ白」だ。かれの潔白を信じきれないのは「システム人」の性(さが)でしかない
〈(2024,3,29)の記事を前回記事の続きとして貼り付ける。〉
 今回はできるだけ短く述べるとしたい。前回記事の補論として話しておきたい。残念ながら、私たちは覇権システムと「システム」の中で生きていることから、システム人としての性というか、どうしようもないほどに、心底信じあうことができないのだ。それは無理もない。「親分ー子分」関係の中で、差別と排除の関係を前提とした社会の中で暮らしていることから、いつも周りの人たちを警戒しながら生きざるを得ない。そんな人間は絶えず他の人たちに対して嫉妬したり、蔑(さげす)んだりするのを当然としている。逆に、そうされることを予知・予想しながら身構えて生きている。、


 いつも自分よりも力の強い者には媚び諂い、平身低頭で我慢しつつ、自他ともに偽りながら、逆に力の弱い者に対しては傲慢・横柄な態度で見下しながら、誰かに抑圧されたり、逆に抑圧したり、差別され排除されたり、逆に差別したり排除したりと、情けない生き方を基本とした私たちの人間関係を鑑みれば、大谷翔平選手は手の届かない素晴らしい人間であることを誰も疑いを得ないはずなのだが、逆にそうだからこそであろう。少しでも何か問題が生じたりすると、私たちの尊敬の念は、所詮こうしたシステム人の性を免れないことが、今回の騒動を契機として露呈された、と私はみている。


 大谷翔平選手は真っ白だ。もし少しでも疑いをはさんでいる人がいれば、すぐさまそんな悲しい性根は見直した方がいい、と私自身もどうしようもないシステム人ながらも、今回記事において、彼らに訴えておきたい。


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