日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

私の語る「システム」論から、「あちら側の彼ら」の支配する世界(社会)の強靭さについて、しみじみと

2024-08-24 | 日記
私の語る「システム」論から、「あちら側の彼ら」の支配する世界(社会)の強靭さについて、しみじみと嘆息するとき




(最初に一言)


 前回記事において、私のこれまで抱き続けてきた思いをほとんど?開陳したのだが、何度も言うように、頭の中で描いた世界がそのまま現実化することはないから、またあちら側の彼らの支配する世界の中でこれからもずっと生き続けることを踏まえれば、私の淡い希望を述べたに過ぎない。今回記事は、その続きを論じてみたい。


 「こちら側の私たち」という「意識」を少しだけ持つことによって、私は本来ならばこちら側に所属していたはずであろう多くの人間が、残念なことにあちら側で生きていることのアホらしさを、今更ながら痛感できる?云々に関する記事を前回は語っていた。その意味では、共産主義者は元より、自由民主主義者も、そうした彼らをあちら側にとどめおいたという意味では貢献度は高いというべきであろう。マルクスやマルクス主義者の果たした意味は、あちら側の彼らの支配する世界に多くの人間をつなぎとめると同時に、そこで革命を起こすならばあちら側の世界の変革は可能であるかのような夢物語を宗教に似た形で、長い間にわたり信心させたということではあるまいか。


 そこにさらに社会民主主義者や社会改良主義者、自由民主主義者も加わることで、あちら側の彼らの世界を強化することに手を貸した、と私はみている。最初からあちら側の彼らを併呑する覇権システムと「システム」の下に展開可能な圧倒的な軍事的暴力を含む構造的圧力を鑑みれば、革命など土台無理な話であったというしかあるまい。それが少し最近に至るまでまことしなやかに実現するかもしれないように多くの信者を獲得できていた背景には、あちら側の彼らの物心両面による支援のたまものであった、と私はみている。かくいう私も、私の語る「システム」論を論述しながらも、あちら側の彼らの支配する世界の中で、なお何かができるのではないかといろいろと愚考してきたありさまであるから、これほどオメデタイというか馬鹿に付ける薬はないの典型例として位置づけ嘲笑されたとしてもおかしくはないだろう。


 前回記事でも指摘していたように、こちら側の私たち意識になるべく早く目覚めるとともに、こちら側の世界造りに着手することが何よりも大切となる。その際、そうしたこちら側の世界に奉仕できる物書きは、あちら側の世界の中で、あちら側の彼らの支配する世界を批判・非難している物書きではないということを、もうそろそろわかってもいいのではあるまいか。私自身も、そんな物書きの一人であることは言うまでもなかろう。あちら側の彼らの世界から給付される年金に依拠して生きているのだから、何をいまさらなのだ。勿論、こうした私の物言いに対しては、すぐさまいろいろな批判が想起されるのは確かなことだが、そこで私が言いたいのは、私の生きていた空間はあちら側の彼らの世界が提供する{「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」}の営為のグローバルな関係であったことを踏まえれば、ああだこうだと御託を並べてみたとしてもそれは自己弁護でしかないということである。


 誤解のないように、ここで付言しておくと、私も含めて多くの者はどうあがいたとしてもあちら側の彼らが支配する世界の中で働きそこから給料をもらうのはどうしようもないから、それはそれで仕方がないということを、私も認めざるを得ない。それを踏まえたうえで、もしこちら側の私たちに相応しい「衣食足りて礼節を知る」の営為の関係を構築しようとするのであれば、間違ってもあちら側の世界というか、今の子の私たちの生きている社会の中で、例えば自公政権を批判したり、ロシアによるウクライナ戦争やイスラエルによるガザのパレスチナ人に対する暴力を批判・非難する論評に耳を貸してはならない、と私はみている。それらは、あちら側の彼らの支配する社会の空間の中に必ず埋没せざるを得なくなるからである。なぜなら、そうした批判・非難をする物書きたちも、しょせんはあちら側の彼らが提供する先の{「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」}の営為のグローバルな関係に依拠・依存しているからに他ならない。


 換言すれば、ここに図式したごくごく簡単なモデルの両側の{ }が示す覇権システムとその内側で描かれている世界資本主義システムと世界民主主義システムの三つの下位システムから構成される差別と排除の関係の下につくり出される一つの「システム」に依拠・依存しながら私たちは生きていることから、結局のところ、先の戦争や暴力に対する批判・非難は天に唾する行為とならざるを得ないのだ。それゆえ、もしどうしてもそのような批判・非難を有効にするためには、あちら側の彼らの提供する衣・食・住の関係とは少しでも異なるような関係を手にするべきなのだ。そして、それは不可能なことではないし、世界を見渡すならば、此処彼処でそうした実践に尽力する人たちは少なからず存在している。


 こうした私の話を踏まえたうえでさらに言うならば、勿論、だからといって、あちら側の彼らの世界の中で、彼らに対する批判や避難をする論者とその内容に、私はとやかく言うつもりはない。ただ、私が強調したいのは、そうした批判や避難はこちら側の私たちにはほとんど何の意味もないということである。その点では、これから私たちが期待するのは、こちら側の私たちが心底、信頼できる物書きの登場である、と私はみている。そうした人たちはおそらくは、これまで私たちが崇めていたような物書きとは何か違う感性の持ち主であるだろう。そうした感性は、あちら側の彼らの支配する世界の提供する商品に胡坐をかきながら、そのくせエラソーな物言いを恥じない私ことオニクタラムとは対極に位置する人たちであるのは間違いない。




(最後に一言)


 「こちら側の私たち」意識でもって「あちら側の彼ら」の提供する情報に接するとき、あきれるというか、それこそ遅鈍な私のそのアホさ加減がどうにもならなくなるようで、これはもう怖い云々の次元の話ではない。今は自民党の次期総裁選の話でもちきり。そこにはほとんど何の意味もない。アメリカの次期大統領選の話と関連付けても報道しているのだが、ここにも宗主国と属国といった「親分ー子分」関係の見方すら出てこないのだから、これはもうお先真っ暗というしかあるまい。だが、あくまでもあちら側の世界の話だ。こちら側の私たちにもかかわる話ではないのか、とお叱りを受けそうだが、本当に私たちにかかわる話などこれまでどれほどあったのか、と逆に質問してみたい。すべてが、あちら側の彼らの世界に関係する話であり、あちら側の世界の中では私たちの存在など二束三文にもならなかったのではあるまいか。今回記事は、この辺にして続きは次回に。


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