日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

私の語る「システム」論から、改めてロシアのウクライナ侵攻・侵略戦争を捉え直すとき―米・中覇権連合の下で覇権国を目指す中国の力に対抗するためのロシアの防衛・自衛のために引き起こされた戦争に他ならない。

2022-11-16 | 日記

私の語る「システム」論から、改めてロシアのウクライナ侵攻・侵略戦争を捉え直すとき―米・中覇権連合の下で覇権国を目指す中国の力に対抗するためのロシアの防衛・自衛のために引き起こされた戦争に他ならない。


(最初に一言)

 {[B]→(×)[C]→×[A]}(モデルは省略形、共時態型)のBの先頭に位置して覇権国を目指す中国の力に対抗するためのロシアの防衛・自衛のための侵略戦争として、ロシアのウクライナ侵攻は位置づけ理解される、と私はみている。


 今回記事では、これまで以上にわかりやすく述べてみたい。先ず確認しておきたいのは、覇権システムにおいて、親分である覇権国の力が強力であり、その結果として中心国をを含むその他の子分に対してにらみが効いている頃のシステムは、安定している。その意味では覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムから構成されるB、C、Aの「システム」は金の成る木としての役目・役割を果たすことができると同時に、「システム」全体の「平和」に貢献している。

 その意味では覇権安定論のニュアンスが強く、何かリアリズムの見方に支持を与えるように思われるが、忘れてならないのは、そこで語られるリアリズム的な安定とか平和は、差別と排除の関係を前提としているということである。それゆえ、同時にまたそれは「システム」に組み込まれた力のない諸国にとって、そこで語られるいわゆるリベラリズム的な世界の平和や民主化の歩みは、もろ手を挙げて歓迎できるものではないことに注意すべきである。

 この点を踏まえてさらに指摘しておきたいのは、覇権システムにおいて、これまでの覇権国の力が衰えてくるとき、またそれに替わる新たな覇権国の登場・台頭にも今しばらく時間がかかりそうなとき、覇権システムの安定は見込めず、次期覇権国の地位を巡る複数の強大国間の争いとそれに巻き込まれたその他の諸国間の争いによって、「システム」の維持と安定は当分の間にわたり保障されないままに、不安定化あるいは無秩序化する恐れがある。

 歴史上、この不安定・無秩序化された時期としては、英国が覇権の地位をぐらつかせた1870年代頃から、新たな覇権国として米国が台頭する1940年代ころの時期と、その米国が覇権国の地位をぐらつかせ始めた1970年代頃から米国に変わり次期覇権国として中国が台頭する2040年代頃の時期を、私は念頭に置いている。最初の時期には、いわゆる「危機の20年」とされる第一次世界大戦と第二次世界大戦の両戦間期が含まれている。

 E・H・カーによれば、この危機の20年が引き起こされた原因として、世界政治におけるリベラリズム的影響力を指摘しているが、私はそれに対して、すぐ上で指摘したように、「システム」における、とくに覇権システムにおける親分である覇権国の地位を巡り引き起こされたシステム内の「親分ー子分」間の対立と敵対、そして戦争による不安定化が直接かかわっているとみている。

 そして今また、歴史は繰り返すではないが、覇権システムにおけるこれまでの親分であった米国の力が後退して、新たな親分の地位を獲得しようとする中国とロシア、EU間の対立と敵対、そして今次のロシアのウクライナ侵攻に見る侵略戦争が引き起こされたのだ。ロシアの側からすれば、それは「システム」内での生き残りをかけた防衛・自衛のための侵略戦争であったと位置づけ理解できる。たとえ、そうした見方がおかしな勝手な事故正当化だと非難されたとしても、ロシアにとってはそうである、と私はみている。

 これまでのブログ記事でも述べてきたように、米・中覇権連合の下で、冷戦の崩壊とソ連の解体により、ロシアはウクライナを手放すことになり、B、C、Aの「システム」の先頭に位置するBグループ内でのロシアの地位は中国の後塵を拝することを余儀なくされた。私の語る「システム」で生き続けることは、それ自体、「システム」の構造的圧力を受け続けることを意味する。

 それゆえ、「システム」を構成する諸国は差別と排除の関係の下で、自己決定権の獲得とその実現のためにしのぎを削りながら、少しでも相手よりも自らの力を増強することに躍起とならざるを得ない。そのために、絶えず対立・敵対、衝突、そして戦争へと至りやすい。金の成る木としての「システム」は、ただでさえ、それ自体「システム」の高度化の手っ取り早い手段の一つとして、戦争を組み込んでいることを忘れてはならない。

 ロシアにとって悲劇であったのは、1972年のニクソン訪中以後、中国は米国をはじめ西側資本の助けによって、改革・開放の時代を経て世界の工場となり、今ではロシアも太刀打ちできないほどの揺ぎ無い大国となってロシアの前に位置している。ロシアからすれば、それは屈辱でしかないに違いない。さらに中国ばかりか、EUの強大かとNATO諸国の東方拡大により、ロシアの「システム」内での地位低下と、それに伴う安全保障上の問題は如何ともし難いものとなってきたはずである。こうした環境を打破して、とくに中国との覇権の地位を巡る競争に勝利するためにも、ロシアが選択したのは冷戦期の頃の夢よ今一度であり、そのためのウクライナ併合の実現を目指すことであった、と私はみている。


(最後に一言)

 今回は、なるべく私の語る「システム」論から、オーソドックスな論じ方を試みた次第だ。何度も形を変えて話していくうちに、忘れてしまうこともある。それゆえ、今回は、「システム」から見ればとか、「システム」の都合に合わせて云々の話は極力控えた。とにかくわかりやすくに徹したが、それでもややこしくなったとすれば、またまたご寛恕願うしかない。


(付記)

 ここで、上で紹介したリベラリズムとリアリズムについて少し付言しておきたい。最初に強調しておきたい点は、私の語る〈「システム」とその関係の歩み〉を前提とした「リベラリズム」であり「リアリズム」であるということである。ロシアのウクライナに対する侵略戦争は米国のリベラリズム戦略により引き起こされたのではない。そもそもリベラリズムの位置付け方と理解の仕方がおかしいのである。自由や民主主義といった普遍的価値の実現は、リベラリズムによる政治・外交政策とその実施云々の次元の話で片づけられるものではない。

 これまで何度も論じてきたように、自由や民主主義の実現は覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムという三つの差別と排除の関係を基につくり出された下位システムから構成される一つの「システム」の下で見られることから、その実現に際しては力(暴力)と力(暴力)のぶつかり合いを介した自己決定権の争奪戦を導かざるを得なくなり、その結果として戦争を引き起こす蓋然性が高くなるのだ。

 とくに、覇権システム内での親分の力が陰りを見せ始める時期や、親分の地位を巡り強大国間の子分を巻き込んだ争いが激化して戦争へと発展する時期は、「システム」は不安定化・無秩序化する傾向が大である。私がこれまで強調してきたのは、リベラリズムやリアリズムを語る際、それらが歴史のいかなる「舞台」で、同時にまたいかなる「段階」で語られているかということであった。別言すれば、こうした舞台や段階が用意されない、それらと結び付けられないリベラリズムやリアリズムの議論は、ほとんど何も語ってはないに等しい、と私はこれまで論じてきたのだ。

 

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