日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

たとえ人口減少によって日本国家が消滅したとしても、「システム」にはなんの問題にもならないのだ。

2024-06-24 | 日記
たとえ人口減少によって日本国家が消滅したとしても、「システム」にはなんの問題にもならないのだ。「システム」から日本の少子化問題や日本国家の存亡を捉え直すならば、もはや「産めや殖やせよ」的〈政治〉は時代錯誤もいいところなのだー私の語る「システム」論から、{[B]→(×)[C]→×[A]}のモデルで描かれる〈「システム」とその関係の歩み〉の中で生きている「意味」を再考するとき(続・続・続・続・続・続・続)


*誤解のないように最初に強調しておきたいのは、「自滅」だろうが、「消滅」だろうが、それはそれでどうしようもないことであるし、従容として受け入れることである、と私はみている。騒ぎ立てる問題でもないし、ましてや国政や地方自治体の選挙を利用して、公(私)的権力の名の下に、「適齢期」の女性や男性に少子化問題を引き受けさせることなど言語道断だ。少子化や高齢化云々とは関係なく、誰もが生きやすい社会の実現とそれを可能にする〈政治〉を目指すべきなのだ。


(最初に一言)


 それでは早速、前回記事の続きと行きたい。


 都知事選挙を巡る話題は尽きないものの、いつも通り私たちに大事な問題が議論されることはない。それはさておき、私にはいわゆる「異次元の少子化対策」という訴えが「異次元の〈セックス〉対策」として響いてしまい、どうにも仕方がないのだ。公的権力というか、その仮面を被った私的権力によって、異次元のレベルにおける諸個人のプライベートな「秘め事」までも徹底的に管理し支配すると宣言しているわけだから、これはもう、たまったものではなかろう。ところがなのだ。そうした宣言というか声明を私たち国民の多くは安易に受け入れてしまっているではないか。これは何を意味するのだろうか。


 私は既に何度も私の語る「システム」の中で、私たちはシステム人として「システム」を担い支えて生きていると言及してきたことから、それほど驚くようなことでもないはずなのだが、それにもかかわらず、やはり驚愕?するしかない。私たちが喜んで権力、それも「システム」の維持と発展そしてその存続に与るグローバルな利権・利害関係者層を担い手とする私的権力の中に、自ら率先して一体化しようと突き進んでいるように思われるから、驚きなのだ。普通のあまりおカネのない人たちが、ただでさえシステム人としての日常生活の厳しさを痛感しているはずなのに、そうした境遇に陥れているはずの「システム」の提供する私的権力に対して、無防備というか過鈍感すぎるのは、やはり問題ではあるまいか、と私はつくづく思うのだが、どうもそうではないらしいのだ。 


 考えるまでもないのかもしれない。私たちは日夜、監視カメラを始めとして生活の至る所で丸裸にされて生きていることから、もう慣れっこになっているのかもしれない。私にはその神経がわからないのだが、今の若者はSNSに自らの情報を発信して、それをどこの誰かもわからない不気味な人間集団と共有して楽しんでいるように思えるのだが、これもまた怖い話ではあるまいか。不気味な段階ならまだしも、それを超えて犯罪集団へと変貌する可能性も否定できないはずなのに、それがわからないのだから。少し周りを見渡してみても、私たちの日常生活は、毎度これでもかと思えるほどに凶悪な犯罪のオンパレードではあるまいか。誰かが誰かを陥れて、犯罪へと引き込み、そこから何某かの犯罪とその集団が生み出されると同時に、また次の犯罪と集団をつくり出している。正直、もう取り締まることも難しくなっているのが今の私たちの社会の現実ではなかろうか。


ところがそんな社会の現実を目の当たりにしても、私たちの対応はすこぶる鈍いし、その鈍さに対する反応もそれほど取り立てて急ぐこともないといった感なのだ。どうしてなのだろうか。その大きな原因の一つとして、私たちが「システム」を担い支えるシステム人であることが挙げられるのではあるまいか。「システム」の中では、私たちの生き方の鉄則は、尾崎豊の「僕が僕であるために」の歌詞にあるように、「私(僕)が私(僕)であるために勝ち続けなきゃならない」のである。これは諸個人(間)、諸集団(間)、諸国家(間)レベルのいずれにおいても、まさに然りである。それこそ、私たちは自己決定権の獲得とその実現のために、常に覇権システムの中で相手よりも少しでもより優位な地点に立とうとして悪戦苦闘しているのだ。そしてその舞台となるのは、1970年代までは、{[A]→(×)[B]→×[C]}のモデルで描く「「システム」とその関係の歩み〉であり、1970年代以降から今日にかけては、先述したように{[B]→(×)[C]→×[A]}のそれである。


 この「システム」の中での生き方は、たとえて言えば、私たちの「受験センソウ」のそれに類似している。私の語る「システム」は、自己決定権の獲得とその実現を巡る争奪戦を介してつくられてきた差別と排除の関係を前提としていることから、自己決定権の能力を少しでも高くして、差別され排除される側ではなく、差別し排除する側につこうとするのは、これまた人情ではあるまいか。その関連から言えば、私たちの受験教育も、まさしくそうした差別と排除の関係を強めることはあっても弱めることはない。受験教育を介した受験センソウを潜り抜けた者は、少しでもより優位となる地点を目指して生存競争を生き抜く。彼らの目は、中小企業よりも大企業に向けられていくのは当然である。その意味では、三井不動産と都政の癒着云々の批判は、彼らとその親たちにはさほど問題とはならないに違いない。そうした態度は、これから受験センソウに巻き込まれる者とセンソウを既に体験したその親にも共通するのではあるまいか。


 こうした点を鑑みるとき、私たちの社会が抱える理不尽かつ不条理な問題への批判力は少なからず抑えられるのは間違いなかろう。ましてや今や国民総投資家化時代の渦中にあることを踏まえれば、少しでも自分だけは何とかしてうまく世の中を生き抜ければとの思いで一杯となっている感が強い。またそうした背景として、1970年代までの「システム」においては、Aに位置する者は、たとえAの上位ではなくとも、B、やCに位置する者と比較して、より多くの自己決定権としての「自由」を、手にできたということが関係していたであろう。ところが、1970年代以降から現在においては、Aの上位に位置するものは、確かにそのAの中位や下位に位置する者と比較してより多くの自由を手にする蓋然性は高いとはいえ、以前のA、B、Cから構成される「システム」の時代に手にしていたようなより多くの自由を、もはや手にすることはできないのである。Aの中位は元より、下位に位置した者たちの手にし得る自由の度合いは、推して知るべしであろう。勿論、このくだりは、言うまでもなくあくまでも一般論であることを断っておく。


 こうした私の語る「システム」とその担い手の立ち位置を考慮するとき、今回の都知事
選挙での各候補者の訴えはどのように有権者に伝わるのだろうか。少なくとも、私たちの多くは「寄らば大樹の陰」的生き方を選好することは否めないから、大企業や世界的多国籍企業が、たとえどれほど私たちのなけなしのカネ(税金)を巻き上げようとも、大目に見てしまう傾向が大なのだ。その企業にできれば就職したいと願いながら、受験勉強をしてきた者とそれを応援してきた家族にとって、企業を批判することさえ、考えられないのではあるまいか。こんな私たちには、もはや外国資本が日本を荒らしまわっている云々なんて、あまり興味のないことかもしれないし、それこそ、私的権力が公的権力を僭称している等々の話など、もうどうでもいいはずであるに違いない。


 私は、私の語る「システム」論で語るように、日本とか日本人にそれほどのこだわりを感じてはいない。だが、私と私の周りで一緒に生活している者同士が、もし何かの危険に巻き込まれているとしたら、何とかしてその危険から身を守ろうとしたいと願うのは、それこそ人情ではあるまいか。そうした観点から、私がこれまでお世話になったこの風土やそこに暮らす身近な者に対する親近感を禁じを得ないことから、もし彼らを害するような私的権力の不当な行使を目の当たりにしたときには、非力ながらもなんとか声だけでも発したいのだ。その権力は、日本国家・政府だろうが、外国のそれであろうが等しく抗う対象である。私の語る「システム」は、ある時は日本の権力を使い、またある時は外国の、そして今やそれらの連合的私的権力を使って、私たちにその牙をむいて攻撃を仕掛けているのだ。ところが、肝心な私たち日本に暮らす者たちが、その牙や相手の顔を見ようとしない有様なのだ。


 それが今の東京都の都知事選挙にも見事に垣間見られるのではあるまいか。同時にまた、閉会したばかりの日本の国会での、あのテイタラクな様を見てもそうなのだ。いつものことだが、国会では、私たちの生活に致命的な影響をもたらしかねない重要法案が、さほどの注目もなく、次から次にあっさりと可決してしまうのだ。今回に限って言うならば、それは自民党の政治家とおカネの問題に、国会開会中の審議時間を、専ら集中させることによって、「システム」の思惑通りに可決させたのだ、と私はみている。どうしてかと言えば、それらの重要法案には外国政府・企業の利権・利害関係が含まれていると同時に、米国がらみとなれば、日本の政治力では太刀打ちできないことから、そんな日本の政治の現状を、国会審議でもって国民の前に今更さらけ出すことなど、政権党にはできないという相談であろう。


 もしそれが白日の下にさらけ出されたとすれば、国会や政党や政治家など、そもそも不要だということになるのは必至となる。本当に現実はそうなのだ、と私は言わざるを得ない。もはや与党や野党の存在価値など何もないのだ。さらに、財務省、外務省、防衛省、厚労省の各省とその官僚は、米国や米国の世界的多国籍企業に逆らえないどころか、彼らの言いなりなのだ。日本の警察・検察をはじめ司法も同じなのだ。どうしても、私にはそうみえるのだ。だが、ここで注意すべきは、私たちにとってはたとえ不要であるとしても、金の成る木としての「システム」にとっては、なくてはならない存在だということである。もしそれらがなくなりでもすれば、「システム」は私たちの税金を巻きあげるための正当的・合法的手段を失うことになるからだ。それでは元の木阿弥だ。


 それこそ絶対に避けるべきことなのだ。あってはならないのだ。それゆえ、「システム」は選挙の大切さから始まって、政党政治や政治家の使命、普遍的価値を体現した市民的自由の大切さ、議会制民主主義の重要性を、「システム」ご用達の学識者やメディア関係者を総動員して、国民を洗脳するのだ。その努力というか熱心さは、逆に言えば、私たちがこれまで常識としてきた政治の、すなわち「手続き的民主主義」の宿痾を物語っている、と私は感じている。これらの点を踏まえてさらに言うならば、国会での私的な外国権力・利権がらみの重要法案の審議ともなれば、すぐ上で指摘した日本の政・官・学・メディアの彼らとの癒着構造というか「親分ー子分」関係の下に組み込まれているのがはっきりと見えてしまい、もはやどうにもならないことを、私たち国民の知るところとなるのだ。


 だが、私たち国民はそんな政治を前にしても、暴動に出ることもないし、取り立てて何かの行動に打って出ようともしない。そこには、そうした現実の力関係を嫌というほどに国民は感じている・受け入れてしまっているのかもしれない。すなわち、もうどうにもならない、と。誰が政治を担っても、そうそう大差のないことを、知っているのだ。そんな国民に対して、政党や政治家は満足のいくような政治の話がもはやできないのだ。それも国民は知っているのだ。 ある意味で、日本の国民はかわいそうな人間集団だ。もっとも、これは日本にのみ限られた話ではあるまい。




(最後に一言)


 それにしてもなのだ。もう相当に、私たちは私たちの情報を丸裸にされてしまっているのだ。そんな私たちが、何をいまさらの話ではあるのだが、公的空間で、堂々と「異次元の〈セックス〉対策」と声高に叫ばれても、その恐怖を感じなくなってしまった私たちは、それこそ国が戦争へとゴーサインを出したときに、抵抗もなく権力と合体しそうな雰囲気にあるのではあるまいか。


*これまた何度も述べてきたことだが、私の「システム」論はあくまでも「仮説」に過ぎない。だが、私の危惧するのは、現実が私の描く仮説の世界・セカイにどんどんと近づいてきていることなのだ。そのうち、いつの間にか仮説を通り越して、現実となってしまうとすれば、それこそ恐ろしい話ではあるまいか。だが、過鈍感な人々には、そんな声すら届かない。残念なことだが。


*今日のネット記事で、NNAと読売の世論調査(2024、6月21~23日)の記事を読んだ。私も、おそらく選挙結果はそのようになる可能性が大であると懸念してはいるのだが、これまた、どうしようもない。つらいを通り越して、これが現実だということを、今更ながら思い知る。私の語る「システム」論の語り手であるならば、何を今更なのだが、これまた致し方ない。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする