尾張広域緑道を歩く一宮友歩会の協力員ウォークが開催されました。
協力員ウォークとなっていますが、一宮友歩会を発展させていく人なら誰でも参加OKですと、会長の言葉です。
この日のウオーキングは、一宮友歩会が愛知県都市整備協会から、実際に歩いて利用者目線で点検をして欲しいというものでした。
尾張広域緑道は犬山市から春日井市に至る20キロほどの水路で名古屋市民の飲料水となる水が流れている水路です。昭和天皇在位60年を記念し、水路に蓋を掛け緑道として整備され、遊歩道と自転車道が整備されました。
愛知県都市整備協会は大高緑地や庄内緑地などを管理する団体で、尾張広域緑道もその1つです。面的な公園と異なり、緑道は線となっています。
自己判断でなく、第三者が現地を踏破して、指摘をして欲しいという整備協会の姿勢を評価したいと思います。
愛知県都市整備協会発行の尾張広域緑道の地図。
犬山駅の東口に集合です。
出発式で挨拶する会長。
犬山駅の自由通路を通り、西口に出ます。
犬山市四日市の交差点まで来ました。
ここが尾張広域緑道のスタート地点となる場所です。
尾張広域緑道を歩き始めました。
右側は木津用水で並行して流れています。
緑道は部分的に遊歩道と自転車道が整備されています。
尾張広域緑道案内図。
この先の歩く道を確認しています。
名鉄犬山線の鉄橋の下を通過します。
鉄橋をくぐり抜けると犬山市と扶桑町の境界で案内表示が設けて有ります。
並行していた木津用水と尾張広域緑道がここで分かれます。
春の花。
レンギョウ。
春の花。
ユキヤナギ。
春の日差しを受けながら歩きます。
上空から雲雀の鳴き声が聞こえました。
公園で、背筋を伸ばす器具や腹筋を鍛える器具が設けて有ります。
国道41号線と川が交差する場所。
緑道は迂回して通過します。
春の花。
ベニモクレンが盛りです。
尾張広域緑道のアーチを潜って進みます。
春の花。
スミレ。
薄い色のスミレで外来種でしょう。
市境の標識。
ここから、犬山市から小牧市に変ります。
緑道から外れて田縣神社へ向かいます。
田縣神社へ来ました。
お昼の時間となりましたので、ここでランチタイムを取りました。
田縣神社の由来。
境内に願掛けの絵馬が掻けて有ります。
日柄が好いのでしょうか。何組も宮参りに訪れていました。
昼食を終え、田縣神社から緑道に戻ります。
名鉄小牧線の鉄橋を潜ります。
春の花。
レンギョウとカワズサクラ。
カワズサクラをアップで。
春の花。
コブシ。
緑道を歩きます。
前方にゴールのフレッシュパークのタワーが見えて来ました。
フレッシュパークに来ました。
フレッシュパークの表示板。
色々の自転車が整っていて、子供たちが戯れています。
フレッシュパークで休憩の後、味岡駅へ戻ります。
味岡駅の周辺地図です。
お疲れ様でした。
ここ、味岡駅で解散となりました。
犬山頭首工
尾張広域緑道は犬山頭首工で木曽川を堰き止めて取水しています。
犬山頭首工は何箇所ものゲートで水を堰き止めています。
堰き止められた水が左の方向に流れていきます。
用水で流れてきて、ここからは完全に地中に入ります。
交差点の信号待ちに撮ったもので、ガードレールが邪魔でした。
ここから水の、長い地下の旅が始まります。
この日は犬山駅からフレッシュパークまで歩き、味岡駅へ戻りました。延長としては12~3キロほどになったと思います。
沿線には色々の春の花が咲き出していまして、春を感じさせ歩いていて、背中が汗ばむような陽気でした。好天に恵まれたウオーキング日和の日で、楽しめました。
誰かが言っていました。提言した事がどのように生かされるか、見守って行きたいと。
2月例会は名鉄木曽川駅から旧木曽川町内を東へ進み、鎌倉街道を歩きます。そして伊冨利部神社や石刀神社を回り南東に歩き、真清田神社を目指しました。
今回は、一宮市消防本部へ寄り特別に救命救急講習を受講しました。
新木曽川駅 ― 木曽川資料館 ― 法蓮寺 ― 籠守勝手神社 ― 白山神社
― 伊冨利部神社 ― 石刀神社 ― 九品寺公園 ― 浜神明神社 ― 平島公園
― 一宮市消防本部 ― 真清田神社 ― 一宮駅
第54回のコース地図です。
新木曽川駅をスタートして、東に向かい、南東へと歩きました。
出発式が行われる木曽川商工会館の駐車場です。
人が集まり始めました。
駐車場の西側は木曽川資料館となっています。
表に町会議事堂と書かれています。
かつては町の議会が開かれていた所なのでしょう。
館内には民俗資料が展示して有ります。
出発式で挨拶する寺沢会長。
名鉄本線沿いに北へ歩きます。
まず、最初に寄ったのは黒田城址です。
説明板には、関ヶ原の合戦より前の時代に、何度も城主が変った事が書かれています。
お城と言うより「館」が有ったようです。
そんな館でも、焼き討ちに有っています。
次に向かったのが法蓮寺です。
ここには黒田城主だった山内親子の墓があります。
山の内一豊の父。守豊と長男十郎の墓が寺の裏側にあります。
お墓で説明がありましたが、このような形のお墓を宝篋印塔というのだそうです。
籠守勝手神社に着きました。
次に向かったのが白山神社です
境内の梅が咲き始めています。
夜鳴き石です。
昔話で、夜鳴き石が、境内で夜になると鳴いたのだそうです。
それで境内から外に運び出したら鳴くのが止ったという話が有るのだそうです。
白山神社の参道。
この道の突き当たりが白山神社です。
伊冨利部神社に到着です。
緩やかに蛇行する道。
今回は、鎌倉街道の一部を歩きましたが、この道。
直線でなく蛇行していますので、鎌倉街道の一部ではないかと思いました。
石刀神社で神主から説明を受けました。
神主に急遽、お話しをを頼みました。
神社の後ろ。木が茂っていますが、古墳の跡に神社が建立されたのだそうです。
訪れた3箇所のお宮さん。
何れのお宮さんにも石の太鼓橋が有りました。
尾張北部のこの地。
神社の勢力が強かったのではと想像しました。
平島公園です。
ここでランチタイムとしました。
奥に見える構築物は一宮競輪場です。
平島公園。
ランチタイムが終わりました。
安井さんの説明です。
今回、最初に訪ねた場所は黒田城址ですが、城址の多くは、河に面した場所に築かれていたのだそうです。
何故、城が河に面した場所に成るかと言うと、年貢を取り立てた時、舟で運ぶので河の近くに築城したのだそうです。
今回歩いたコースで鎌倉街道の部分は、長い歳月で自然堤防が出来た後に、鎌倉街道に形成して行ったのだと言われました。
これから、あの一宮市消防本部へ向かいます。
消防本部で救命救急の講習を受けました。
心肺蘇生で、胸骨圧迫の実習です。
最後は真清田神社で解散式です。
解散式の後、真清田神社にお参りしました。
今回は尾張の北部を歩きました。
特に印象に残ったのが、 籠守勝手神社 白山神社 冨利部神社 石刀神社 の大きさです。規模的に大きく、どの神社にも石の太鼓橋が有りました。これだけの大きな境内。大きな勢力があったのだと思わせました。
今回、50人の参加者が有ったそうです。特に、若い人も一緒に歩いてくれました。若い人にも、このようなウオーキングに関心を持って貰えると嬉しいですね。
一宮友歩会は愛知県一宮市を中心としたウオーキング同好会で、犬山、江南、稲沢、名古屋などと尾張地区地区全般に会員がいます。主に愛知・岐阜県を偶数月に歩いていまして、8月は暑い時期なので7月開催しています。回を重ね、53回目の開催となりました。
12月例会は名鉄大同町駅から南区内の大江川緑地を東へ進み、くつ塚を訪ねます。元成尾町や本星崎町の古い街を通り笠寺公園を目指し、笠寺観音を経由して本笠寺駅へゴールしました。
今回、伊勢湾台風の記憶を呼び起こす記念モニュメントや伊勢湾台風の殉難碑を訪ねたり、かつては川であった大江川緑地を歩きました。また、南区はかつては海で有った処が干拓され、新田となった箇所も多い地域です。
このウオーキングは、単に歩くだけでなく、現地で歴史や文化が学べる面白さが有ります。見所の多い南区を歩きました。
大同町駅(9:20)スタート ― 宝生公園(9:40~9:43) ― 大江川緑地(9:52) ―
くつ塚(10:10~10:16) ― 大江川緑地(10:22) ― 呼続神社(11:08) ―
永井荷風追慕碑(西来寺)(11:27~11:58) ― 蒼龍寺(12:07~12:11) ―
星崎城址(12:30~12:37) ― 本城公園(12:40~12:47) ― 粕畑貝塚跡(12:55)
笠寺一里塚(13:03) ― 笠寺公園(13:08) ― 見晴台考古資料館(13:15~13:20) ―
笠寺観音(13:38~13:43) ― 本笠寺駅(13:48)ゴール
名鉄大同町駅を出発しました。
伊勢湾台風の記憶
東海地方に住む人で、60歳以上のヒトならば、大抵の人は伊勢湾台風の記憶を持っています。今回、歩いた南区は伊勢湾台風が襲来し被害が大きかった地域です。今回のウオーキングでは愛と力の筏像とくつ塚を訪ねました。
愛と力の筏像。
名鉄大同駅の東側に大同高校があり、この像は高校の南側に有ります。
竿の先が、当時水に浸かった水位を表しています。台風の後、2000人もの被災者が大同高校に押し寄せたと言います。高校生たちが、救援物資の移送や負傷者の救助に手作りの筏で行動したという像です。
南区の浜田南公園です。
この場所に多くの靴が流れ着き、この場所に慰霊碑が設けられています。
慰霊碑の有る浜田南公園に来ました。
北側には新しくマンションが建ちました。
伊勢湾台風殉難者慰霊碑。
会長から頼まれて、当時の事を語るSさんです。
あの台風が来た時は高校2年生だったそうです。襲来時水が襲い、天井の高さまで浸水したのだそうです。浸水して来た時、当時の家屋は基礎に固定して有るのでなかって、家が浮き出したと話しておられました。
台風通過後、土壁の土が落ちてしまい、竹が見える状態になったとか。
そこにベニヤを貼ったが、冬は寒くて仕方なかったと語りました。
お昼。西来寺で他の方に話しているのが耳に入りました。
台風の後、南区役所の前に遺体がずら~と並んでいたのだそうです。
棺桶が足らなくて・・・・・と聞こえました。
最高浸水位。
男性の身長と比べてみますと、どれ程、深かったのか判ります。
伊勢湾台風の説明盤。
昭和34年9月26日。
ダレもが覚えている期日です。
あの日は土曜日で、翌日、台風が通過した後は、凄い晴れの日でした。
東海道線に西側はほとんどが水没しました。とうじ、守山区緑区はまだ、名古屋市に編入していない頃です。市内の半分近くが水没しました。
大江川緑地
今回、歩いたコース地図です。
こちらは明治24年の地図です。
東海道線が全通したのが明治22年でした。用地買収も、し易いように民家を避けて敷設しています。多くの場所で干拓が行われ、新田が誕生しています。白地のところは塩田だそうでして、ここで生産された塩が信州などに送られました。その道に塩付街道と、名が残っています。
大江緑地を進みます。
左側のコンクリートが川の堤防だったと想像できます。
昭和50年代に緑地の工事が始まったそうです。
今では、木が太くなっていますが、このようなコンクリート堤防がなかったら、かつて、ここは川であったと想像できません。
木の葉が紅葉しています。
最後の紅葉の時期です。
大江緑地を歩きます。
イチョウの葉が落ち、黄色いジュウタンとなっています。
歩く人。走る人。
市民の憩いの場所となっています。
Yさんの解説です。
この大江川の近くに大同特殊鋼と言う会社があります。大正の頃福沢桃介は基礎川にダムを設けて発電に努めたのですが、なかなか、電気が売れない時期だったそうです。余った電気を活用する方策として、電気炉を始めたのだそうです。
また、この大江川辺りは県営の工業用水が豊富にあり、三井東圧化学などの工場が有りました。川の周りに工場が多く、ヘドロを垂れ流していました。そんな状況から進み、大江川を埋め立てて緑地化したのだそうです。その時、緑地化に周りの企業に金を出させたそうです。
歳月が流れ、木が大きく成長しています。
永井荷風追慕碑 西来寺
西来寺です。
寺の境内に永井荷風追慕碑が設けてありました。
時々雪が舞い、雨も振ったりと言う空模様となりました。
予定ではこの先の本城公園で昼食でしたが、急遽、お寺にお願いして軒先をお借りしました。
星崎城址
星崎城址の石碑と説明看板。
星崎小学校の校内にあり、中には入れませんでした。
星崎城の規模は大きく、名鉄が城跡を横切る形となりました。
Mさんが星崎城跡の時代背景を解説しています。
笠寺一里塚
左側の道路は東海道です。
前方の小山が笠寺の一里塚です。
榎の大木が枝を広げています。
笠寺公園
笠寺公園に来ました。
ここでも木の紅葉。
住居跡へ入ります。
住居跡の入口と内部で再現されていた当時の生活の模様です。
マネキン人形が生活状況を表しています。
見晴台考古資料館の入口と内部です。
笠寺観音
笠寺観音に来ました。
宮本武蔵の石碑が設けてあります。
笠寺観音の建物です。
笠寺観音で人質になっていた家康が交換されたと記して有る石碑が有りました。
ゴール。
本笠寺駅に着きました。
お疲れ様でした。
10月例会は名鉄豊明駅から豊明市内を北東へ進み、東郷町に入って祐福寺を目指します。祐福寺からは東へ歩き境川右岸を下ります。途中から境川の左岸を歩き、刈谷市に入ります。伊勢湾岸道路の下を通って南西に向かい、最後は東海道の境橋を渡って豊明市に入り、豊明駅まで戻るコースでした。
豊明駅(9:17) ― 阿野八劒社(9:27~9:31) ― 中島公園(9:45~9:50) ―
大久伝八幡宮(10:07~10:12) ― 長盛院(10:30) ― 一之御前安産水(10:42~10:44)
― 円福寺(10:50~10:57) ― 祐福寺(11:38~12:20) ― 境川緑地 ― 見性寺
― 草野池 ― 酒井神社 ― 永福寺 ― 豊明駅
今回は17キロのコースを歩きましたが、参加者は25人でした。何時も、顔を見せる人が居なくて若干寂しいウオーキングとなりました。明日は天気が崩れるという予報が出ています。会長曰く、天気が良くて他の行事と重なって参加者が少なくなったのかな・・・・でした。
カミさんが、足が痛いと言いましたので、途中でリタイヤしました。もう、朝の段階で完歩は無理かも知れないと思っていました。
境川は文字通り国の境を流れる川で、この川はかつては尾張と三河の境でした。今は住宅が立ち並んでいますが、その中にこんもりとした森に包まれた神社が点在しています。そのような神社やお寺は、桶狭間の戦いの頃は前線の砦ではなかったかと想像しました。
今回、境川沿いを歩きましたが、昨年は境川が衣浦湾へ注ぐ下流部分でした。今回はその上流であり、境川の中流部分を歩きました。27年度の計画では、今回の上流部を歩く予定となっています。河口から上流へ遡って行き、川の様子が変わるのが面白いです。
第52回例会の地図です。
田畑は耕地整理で綺麗に整備されています。
点在する農業用の溜池。旱魃の時は農耕に苦労したのでしょう。
豊明駅前での出発式。
ストレッチ体操を行い、ウオーキングの体調作りです。
豊明駅の連絡橋の横を通れ、ウオーキングがスタートしました。
前方の木立の森。
あの場所は阿野八劒社です。
阿野八劒社の境内に入ります。
立派な阿野八劒神社由緒記。
本殿に色々の神様がお祀りして有ります。
神様の中でも、仲の好い神様。仲の悪い神様って、有るのでしょうか。
幕末の時期に寄進された石燈籠。
豊明市の文化財に指定されています。石燈籠は右と左で1対となっていますが、左側の物は木が茂り、正面からは眺めれません。
阿野八劒社の本殿に向かいます。
中島八劒社に向かいます。
神社の境内では、女性たちがグランドゴルフをしていました。
毎日、やっているのでしょう。下見の時もやっていました。
道の横ではコスモスが満開となっています。
花を眺め、秋の風情を感じます。
大久伝八幡宮へ来ました。
この大久伝八幡宮の扁額は池大雅が揮毫したものを欅板に彫ったもので、市の文化財に指定されています。
扁額が市の文化財に指定された由来を説明しています。
右はその扁額で、お拝殿の中に安置して有りました。
お拝殿の中にはお囃子の楽譜がありました。
チャン、チャン、チャラスコなどと書かれています。
調子を合せて練習し、祭りに披露するのでしょうか。
寿がきや食品。本社豊明工場の前を歩きました。。
寿がきやは東海地方を中心に即席めんと調味料を主力とする加工食品メーカーです。寿がきやの小牧工場が小牧市に在ることは知っていましたが、ここ豊明に本社工場が在ることは知りませんでした。
ウオーキングをして、このような場所に寿がきやを見つけました。歩いていて、発見するのも面白い事です。
長盛院に着きました。
前方の小高い山。
木が茂っていますが、一之御前安産水のところです。
泉で水がが湧き出て居たようですが、泉が枯れて居ます。
一之御前安産水の由来が立てられていました。
この仲に泉が有ったのか、確認できませんでした。
次に来たのが、円福時です。
私たちが円福時に着くと、お庫裡さんが中から出てきて、みんなに煎餅をくれました。
戴いた煎餅です。
袋に2枚入りとなっています。焼印で福の字が円く描かれています。
東郷町に入ります。
溜池には睡蓮。別の場所で、池の土手に栗の木があり実を付けていました。
春日社の前を歩きます。
このお宮さんのところもお祭りのようです。
幟旗が立っています。
明日、餅投げが在るのでしょう。棚が作ってありました。
木の茂った場所。
祐福寺が見えてきました。
正面は勅使門で菊の御紋がついています。
右手の山門から境内に入ります。
両側に立派な仁王像が安置して有りました。
こちらの境内を使わせてもらい、昼食を取りました。
昼食を終え、全員の写真を撮り、午後からのコースに出発です。
祐福寺から東に進み、境川の堤防に向かいます。
道路わきの稲に稲穂が実り、頭を垂れています。
実りの秋を迎えたという感じがします。
もう、間も無く稲刈が始まります。
別の田では既に稲刈が始まり、コンバインが忙しそうに走り回っていました。
境川の堤防から河川敷に下ります。
遊歩道として整備してあります。
河川敷が境川緑地として整備してあり、パターゴルフができるようになっています。
ここでリタイヤし、みんなを見送りました。
カミさんが、足が痛いと言いましたので、祐福寺でリタイヤしました。でも、何んと言っても、このコースのメインは境川です。列から離れるにせよ、境川だけは見ておきたいと思い、最後に皆さん方を見送りました。
天候に恵まれた秋の日。
稲穂が頭を垂れ、コスモスが満開となっていました。
神社仏閣に寄るだけでなく、秋の雰囲気を感じることが出来ました。
このように秋の雰囲気を感じることが出来るのも、ウオーキングの面白さです。
秋のウオーキングを楽しめました。
一宮友歩会のウオーキングで各務原市の東部を歩きました。今回は美濃三不動の内の山中不動と日之出不動を訪ねました。これまでの例会のコースは平坦地を歩くことが多かったのです。今回は少し坂を登る箇所があり、フーフー言いながら登る人も居ました。コース的には東海自然歩道を踏破する部分が多く、緑が溢れるコースを歩けました。
時々、雨が降ったりする空模様でしたが、ジリジリと焼け付く様な天気ではなかったので、良しとしなければなりません。
今回の参加者は36名でした。ホームグランドとしている愛知県から離れているので、参加者が少なかったのでしょうか。
苧ヶ瀬駅 → 苧ヶ瀬池 → 村国座 → 山中不動 → 法福寺 →
各務野自然遺産の森 → 各務原公園 → 日之出不動 → 車折神社
→ 鵜沼宿 → ライン大橋 → 犬山遊園駅
今回のコース地図です。
名鉄苧ヶ瀬駅で下車し、苧ヶ瀬池の広場で出発式を行いました。
苧ヶ瀬駅から苧ヶ瀬池へ向かいます。
この頃は、日差しが強く、晴れていました・
苧ヶ瀬池の睡蓮。
一時、絶滅しましたが復活させるべく、網で保護して生育しています。
苧ヶ瀬池の池畔広場。
参加の受付をしています。
公衆トイレを掃除している人を見かけました。
言葉を交わしたら、この先の企業の人で、月に1回ボランティアでトイレ清掃をしているのだそうです。
会社の名は「昭和企画」と言う所でした。
今回、スタート前にトイレを利用させて貰いましたが、このように清潔にして貰えることはありがたいです。
出発式。
寺沢会長の挨拶です。
ストレッチ体操をしてウオーキングに備えます。
ウオーキング。
村国神社の参道を進みます。
国指定の重要文化財「村国座」
江戸末期から明治時代にかけての時期。舞台建築の状態が残されています。
村国神社の境内にあり、毎年、秋には子供歌舞伎が演じられています。
美濃さん不動の1つ。
山中不動に寄りました。
列になってのウオーキング。
この道路は各務原パークウェイと名付けられた道です。
東海自然歩道を歩きます。
この辺りの東海自然歩道は犬山、各務原、岐阜と繋がっています。ここ各務野自然遺産の森をかすめて、岐阜市芥見そして千鳥橋へ向かうコースとなっています。
各務野自然遺産の森の一部を歩きました。
広い自然遺産の森ですので、一部分を歩き、全体を想像して貰えればと思いました。
各務野自然遺産の森の庄屋の屋敷で休憩です。
こちらの庄屋の屋敷は平成15年に那加地区から移築して復元したものです。
江戸末期の庄屋家屋の様子が判ります。
内部には囲炉裏やクドが有り、懐かしそうに話している人も居ました。
東海自然歩道の坂道を登ります。
この坂道は、本日でただ1つの坂道ですが、登るのにキツがっている人も居ました。
県立各務原公園に到着です。
ここでランチタイムとなります。
思い思いの場所で昼食を取ります。
この県立各務原公園は交通公園となっていて信号や踏切があります。
子供が自転車で園内を走る事が出来、交通ルールを学べます。
県立各務原公園を出発します。
ここまで来る途中雨に降られましたので、傘を差している人が居ます。
日之出不動まで着ました。
お不動さんの堂守の方が説明してくれました。
こちらは車折神社です。
試験の神様で受験の時期に受験生で賑わいます。
また、境内に芸能神社が祀られています。
中山道鵜沼宿の脇本陣。
ここの見学を終え、ライン大橋に向かいます。
中山道鵜沼宿の男性と喋っていて、この後、何処へ向かうのと聞かれ、ライン大橋に向かうのだと答えました。それなら大安寺川の東側を歩きなさいと言われました。
このコースは13.12.13に下下見。14.05.17に下見をしました。いずれの時も大安寺川の右岸を歩きました。その道が東海自然歩道になっているからです。
その男性が教えてくれなかったら、また、右岸を歩いていたことでしょう。
大安寺川遊歩道は国道21号線をボックスカルバートで潜り、JR高山線と名鉄各務原線の橋の下を通過しています。折角、立派な遊歩道が整備されても、旧中山道から大安寺遊歩道に入る箇所に遊歩道の表示が有りません。道路を設計した人が利用者目線で考えていないので、みんなに利用される遊歩道になっていません。あの男性の言葉が無かったら、大安寺遊歩道を歩けなかったでしょう。
何箇所か、このような指示ポストが設けてありました。
大安寺川遊歩道の標識がありました。このような標識は道の途中でなく、遊歩道の端に設けてあれば遊歩道を歩く導線となります。設置すべき箇所を誤っていると思えます。
大安寺川遊歩道。
大安寺川の東岸を進みます。
カラー舗装となっていて市道とは区分けが出来ます。
JR高山線と名鉄各務原線の下を潜るため階段で下に降り、通過します。
道の途中の指示標識。
別に、この標柱が無くても構わないと思えます。
大安寺川が木曽川に流れ込みます。
向こうには、この後歩くライン大橋が見えます。
城見公園を通過します。
ライン大橋の北詰まで着ました。
犬山城が見え出しました。
ライン大橋。
車道と分離して歩道が設けられましたので、安全に歩行できます。
犬山城をクローズアップ。
沢山の登城客が来ていたのでしょう。多くの人が天守閣から外に出ているのが見えました。
犬山城の下まで歩いてきました。
先に見えるのがツインブリッジです。
ゴールが見えました。
ゴールが近くなりました。
渡ってきたライン大橋が見えます。
お疲れ様でした。
ゴールです。
今回、一宮友歩会の7月例会の開催が各務原市で行われましたが、私がリーダーを努めて歩きました。
資料を準備したりして、無事に終えることが出来ました。
朝の内、日が差していて暑くなると思いましたが、雲が出て雨に降られたりしました。しかし、ザーザー降りではなかったので、良かったかも知れません。ゴールする頃になって晴れてきまして皮肉な空模様でした。
無事に歩き終えて、ヤレヤレと言った気分です。
一宮友歩会のウオーキングが平成18年3月4日に第1回を実施して以来、回数を重ねて今回が第50回と言う記念の例会となりました。
今回は名鉄の国府宮駅が最寄り駅となっていました。出発点は国府宮神社となっていまして国府宮神社から歩き始めました。
50回と言う記念となる例会であり、第1回に辿ったコースをアレンジしたものです。
参加者は42名でしたが、80パーセントほどは男性の参加者でした。
国府宮駅 → 国府宮神社 → 赤染衛門歌碑公園 → 美濃路街道 → 稲沢公園
→ 荻須美術館 → せんき薬師 → 性海寺 → 国分禅寺 → 矢合観音
→ 愛知県下水道科学館 → 鷲尾農村公園 → 上丸渕駅
当日歩いたコース地図です。
国府宮神社をスタートし、上丸渕駅がゴールでした。
資料として配られた明治22年の地図です。
東海道線は、まだ工事中なのか、白と黒の鉄道の線にはなっていません。
一宮市はまだ村の時代です。右から一宮停車場と読めます。
解説が有ったのは三宅川ですが、右上から左下に流れています。
〇が直径6ミリで描かれていまして、50,000分の1ですので300メートルとなります。
300メートルの川幅で蛇行しているのが良く判ります。下流に向かい、勝幡村で日光川に合流しています。
水が米の出来不出来を左右しており、水の取り合いが有ったそうです。
左上から右下に美濃街道が判ります。街道の両側の丸は並木が植わっていたことを示しています。
左上が木曽川で萩原村、稲沢村となっています。
国府宮神社の前で出発式が行われました。
かつての美濃街道です。
稲葉宿を通過します。
田植えが終わった田を横見ながら、歩きます。
荻須美術館に寄りました。
許しを貰い、館内の写真を撮らせてもらいました。
せんき薬師に着きました。
赤や黄の派手な幟旗が迎えます。
せんき薬師の西側に有る性海寺です。
あじさいの時期で、境内ではあじさいまつりが開かれています。
あじさいのシーズン。
あじさいの画像をもう1枚。
ステージで若い娘が歌って踊って。
何でこんな、ステージをやる事が必要なのでしょうね。
ゆっくり、あじさいの美しさを味わえばいいのにと思います。
国分禅寺でお昼です。
昼食の後に向かったのが矢合観音です。
矢合観音の境内の井戸。
遠くから見た井戸。
井戸水を汲み上げます。
時々雨が降ったりする天候でしたが、今の時期にしてはマズマズでした。
夕方に予定がありましたので、丸渕駅まで行かずに、矢合観音までのウオーキングとしました。
今回は名鉄の津島駅に集合して、南西に愛西市へ向かい、東に向かってから北上して名鉄尾西線の日比野駅に着くコースを歩きました。
コースの延長は14キロとなっていましたが、15キロに近いのではと思いました。
今回のコースは尾張地方の西部で、いわゆる0メートル地帯でした。佐屋街道が東西に横切り、往時は家康や松尾芭蕉がこの街道を通過したと有りました。
そんな、佐屋宿辺りを歩いてきましたが、古さは感じませんでした。
一宮友歩会のウオーキングは総合学習です。
所々で説明を受けますが、歴史や文化、いにしえの様子などを知る事が出来ます。
今回歩いたコースです。
下へ下って行き、東に行ってから北上しました。
スタート前の会長の挨拶。
津島の町の中。
左は鍛冶屋だっただろうと思う店。
標識で「農」の字が隠れていますが、農工具となっています。想像ですが農家がクワを持ち込み修理して貰ったのではないかと思いました。
右は廃業してしまった銭湯です。
六地蔵へ来ました。
この六地蔵は、普段扉が閉まっているのですが、関係者が特別に扉を開けてくれました。
六角柱の上に祠がもうけて有ります。
六地蔵は全ての生命は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天と言う六つの世界を輪廻している、そして、それぞれの世界を6人の地蔵菩薩が救ってくれるという仏教の教えから地蔵菩薩の像を六体並べて祀ったものです。
祠に6体の地蔵が有りました。
天王公園の池に来ました。
池の横には祭りで使う船が置いてあります。
上にむけて有りますが、舟の中に雨水が溜まるのではないかと思いました。
列で池の淵を歩きます。
公園に有った枝垂桜が満開を迎えていました。
歩いていて、見かけた海抜の表示。
0mの表示が胸の辺りに来ます。
と言う事は、立っている足元は0メートル以下です。
0メートル以下ですから水害にあうと、中々水が引かないでしょう
佐屋川原の地蔵堂。
左は話をしている会長。
右は五輪塔。江戸時代の武術家・山田真龍軒はこの佐屋宿で荒木又右江衛門と出合い、佐屋川原で決闘をして負けたとされています。
佐屋宿の説明板をじっくりと読みます。
佐屋宿の説明。
佐屋宿を通った人たち。
家康や家光が通りました。
吉良上野介の名も有ります。
佐屋宿や三里の渡しの説明です。
この佐屋宿から桑名宿へ川を下りました。
川を下る料金と逆に桑名から佐屋へ来る料金では佐屋へ来る料金の方が高かったのだそうです。川を遡るので、それだけ労力を費やしたからです。
三里の渡しの石碑が有りますが、佐屋川の姿が無く、ここから船が出ていたと言われてもピンと来ません。
こちらは水鶏塚(くいなつか)芭蕉の句が刻まれて居ます。
水鶏塚の前で。
星大明社へ向かいます。
道の脇の松が立派です。
星大明社の前。
桜が見ごろを迎えています。
路傍のつくし。
凄い数のつくしで土筆を探す手間は要りません。
車田の石碑へ。
市江車と言う山車に与えられた田です。
車田と言うから高山や佐渡に伝わる円形の田なのかと思いましたが、それは違っていました。
石の隙間から顔を出したスミレ。
困難な条件で花を咲かせたスミレ。
丈夫なスミレですが、多分外来種でしょう。
今回のコースは濃尾平野の真っ只中と言った感じです。
要所要所で説明して貰えるのが一宮友歩会の特徴です。色々と参考になることを説明して貰えました。
今でこそ、名鉄の尾西線で電車が走っていますが、かつては蒸気機関車が列車を牽引していたのだそうです。
一緒に歩いていた人が教えてくれました。
その人の子供の頃のことだったそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E5%B0%BE%E8%A5%BF%E9%89%84%E9%81%93
尾西鉄道が名鉄に吸収合併されたのでしょう。
その男性が話していました。
その頃の蒸気機関車が犬山の明治村で動いていると。
春らしい陽気。
暑くなく、寒くなくウオーキングには持って来いの陽気でした。
花が咲き始め、ウオーキングを楽しめました。
今回は名古屋市千種区を南へ北へとジグザクと歩き、そして東に向かい、最後は地下鉄の本山駅まで歩くコースでした。
このコースは第42回の瑞穂区。第43回の昭和区と同じように真っ直ぐな道路はかつては、畑や田であった所であり、曲がった道の所は丘陵地です。小高い丘のような場所ですが住宅地となり、燃料用に木を採った山野の面影は残っていません。
今池は、繁華街となりましたが、かつては馬池と呼ばれていました。馬が今に変わり、今池と呼ばれるようになりました。その今池で遊んでいた子供が溺れる事故があり、慰霊する地蔵が設けられました。その今池の跡は埋め立てられ今池中学校となりました。
用地買収するより池を埋め立てた方が進めやすかったのかもしれません。
千種駅(9:00) → 今池西公園(9:19) → 高牟神社(9:22~9:26) → 今池地蔵(9:36)
→ 吹上観音(9:52) → 吹上公園(10:10~10:18) → 一畑山薬師寺(10:54~11:02)
→ 池下駅 → 千種公園(11:38~12:20) → すいどうみち緑道 →
日泰寺(12:52~13:00) → 城山八幡宮(13:42~14:00) → 性高院(14:26~14:29)
→ 桃厳寺(14:41~14:46) → 地下鉄本山駅(15:00)
今回のコース地図です。
千種区を南へ、そして北へと歩きました。
地図が面白い。
資料として配られた明治24年の地図です。
この頃はまだ、今池が残っています。
今池の南に吹上観音が有りますが、吹上と言うのは、この辺りでは水が吹き上げるから吹上と呼ばれたのだそうです。
東部には、何箇所も農業用のため池があります。
大きな蝮ケ池は、今は残っていません。ほとんどの池が無くなり、現存しているのは名大の鏡ケ池位です。
蝮ケ池の左下に池下が有りますが、蝮ケ池の下となったので池下と呼ばれるようになったのかも知れません。
今池西公園をスタートします。
高牟神社で説明する丸井さん。
元古井伝説の地です。
境内に名泉「古井の清水」があり、ポンプから水が流れ出ていました。
水を大切にという趣旨の看板とお水をいただく人たち。
水は暖かかったです。
冬暖かく、夏は冷たい。温度差の少ない井戸水です。
今池観音まで来ました。
今池観音が出来た由来を聞きました。
吹上観音です。
吹上公園では安井さんの説明が有りました。
右側は配られた資料で昭和33年頃の航空写真です。
まだ、100メートル道路が作られる前で名古屋刑務所が残っています。
名古屋刑務所がみよし市に移転しその跡がこの吹上公園や吹上ホールの場所となりました。100メートル道路を設けるのに住宅移転などの苦労話が語られました。
リーダーを先頭に吹上公園を出発しました。
塩付街道を歩いていると馬頭観音が有りました。
街道をの往来で荷役に馬を使っており、その馬が死に、霊を慰めるためのものかも知れません。
一畑山薬師寺の名古屋別院です。
もともとはこちらが本院でしたが、岡崎が立派になり、岡崎が本院として、名古屋を別院としました。
寄った私たちに、アメが振る舞われました。
一畑山薬師寺の方から、ようこそお参りいただきましたと云われ、お話が有りました。
蝮ケ池龍神社を過ぎると登りとなりました。
この辺りは、かつては山であった場所でしょう。
丘陵地を登ります。蝮ケ池八幡宮へ来ました。
正面が蝮ケ池八幡の本殿です。
千種公園まで来ました。
公園内に先の大戦で爆撃を受けた外塀が保存されています。
この千種公園は陸軍造兵廠だった場所でアメリカ軍の爆撃を受けました。
外塀は爆撃で穴が開いています。
その前の石には説明文が刻まれています。
すいどうみち緑道を歩きます。
坂道を登りますが、前方に東山給水塔が見えます。
周囲にマンションが立ち並び、給水塔が見難くなってしまいました。
鉈薬師です。
この日は門が閉まっていました。
毎月、21日に門が開きます。
覚王山日泰寺へ来ました。
日泰寺の本堂に向かいます。
本堂では読経が行われていました。
次に向かったのが揚輝荘の北園です。
揚輝荘は大正から昭和に掛けて、松坂屋の伊藤社長によって建てられた別邸です。
近年、名古屋市に寄付されました。
城山八幡宮に来ました。
城山八幡宮はかつては末森城で、織田信秀の居城でもありました。
城山八幡の階段を下りてきました。
マンションの裏側に性高院殿の遺骨が納められた碑が有りました。
その横には双体地蔵が安置されています。
桃厳寺に来ました。
桃厳寺の本堂と織田信秀の廟所の石碑です。
桃厳寺は織田信秀の菩提寺となっています。
寺の東側には名古屋大仏が有ります。
大仏をアップで。
この後、整理体操を行い、解散しました。
ウオーキングの面白さ。
一宮友歩会のウオーキングは単に、街中を歩くだけでなく、現地で解説があります。言うならば歩く現地学習会です。
千種公園では、爆撃痕の残る陸軍造兵廠の外塀を見ました。桜山八幡宮では末森城跡を見ました。
以前に一宮友歩会で歩いた時、古渡城跡や勝幡城跡を訪ねました。
小牧、長久手の戦いが有った長久手市を歩いたことも有ります。
それらの場所と関連付けて捉えることができます。
カミさんは山には一緒に行く事が出来ません。
でもウオーキングなら、一緒に歩く事が出来ます。
今回は、千種区を13キロ一緒に歩きました。
良く歩いたと思います。
この日は54名の参加者が有りました。
6割~7割の参加者が男性です。
風が無く、穏やかな陽気の中、ウオーキングを楽しむことが出来ました。
今回は名古屋市営地下鉄のいりなか駅をスタートして南に向かい、昭和区を時計回りに歩くコースでした。
このコースの特徴は昭和区でも高級住宅街、そして下町。それにこの辺りは文京地区で南山大学、中京大学など多くの大学や高校が有ります。
又、途中の八事あたりはお寺の多いところでした。
地下鉄いりなか駅 → 南山教会 → 檀渓址 → 塩付街道 → 飯田街道 →
川原神社 → 川名公園 → 香積院 → 南山大学人類学博物館 → 般若台 →
浄昇寺 → 徳林寺 → 興正寺 → 隼人池公園 → 地下鉄いりなか駅
今回、歩いたコースの地図です。
いりなか駅から南に向かい、そして西へと大きく昭和区を歩きました。
下の地図と対比すると判りますが、真っ直ぐの道路となっている所は、かつては畑や田であった場所です。
http://www.geocities.jp/jk2unj/datagazou/47map.pdf
資料として配られた明治24年の地図です。
左側は田や畑が多く、右側の等高線は丘陵地です。
何箇所か池が点在していますが、農業用の溜池でしょう。
塩付街道が左で下から上に向かっています。
左上から右下へは飯田街道が延びています。
街道の両側の丸い点は並木の印です。今の飯田街道では並木が有った想像できません。
ウオーキングの面白さの1つに往時を想像する面白さがあります。
今では飯田街道の両側には家が立ち並んでいますが、当時はのどかだったのでしょう。
いりなか駅をスタートし、準備運動を済ませてウオーキングの開始です。
開始して、すぐに坂を登ることになりました。
この辺りは昭和区の中でも高級住宅街の地域ですが起伏の多い場所です。
昭和区には2箇所の美術館があり、歩いていて見かけました。
左は昭和美術館。右は桑原美術館です。
檀渓址へ来ました。
檀渓和尚が隠棲した場所を檀渓と呼んでいました。
橋のたもとに設けられた石碑。
尾張名所図会が石に刻まれています。
「絵」でなく「会」と描かれていますが、これで「え」と読むのでしょう。
塩付街道を歩きましたが、往時の様子を描いたタイルが地面に貼って有りました。
右側は道路に挟まれた細い三角形の家屋で、壁一面に絵が描かれています。
飯田街道を歩きます。
ビッシリと家が続き、先頭の古地図のような、のどかな様子は想像できません。
川原神社に着きました。
ここでトイレ休憩しました。
大きく木が延びていますが、神社の森として戦前から有った木々なのでしょう。
川名公園に来ました。
この公園は防災用の公園として整備されています。
昭和区の中では、かなりの面積の公園です。
年数を掛けて整備を進めているのではと思いました。
右の白いシートが架かっている所は空き家で、近日中に取壊しをする家屋なのでしょう。
都市計画区域なら、都市計画税がかかります。
多分、この公園の整備には都市計画税が使われていると思います。
災害のための公園整備。典型的な都市計画の例ではないでしょうか。
Yさんの説明です。
香積院へ
香積院です。
香積院に入ります。
先に珍しい丸門が有ります。
香積院は尾張名所の1つになっているところで、南側の眺望が開けています。
今では、前面に住宅が立ち並んでいますが、かつては、遠くまで見渡せたことでしょう。
観音堂に入らせてもらいました。
予定では、上がり込む事は予定していませんでした。
観音堂の天井画です。
みんなが寝転んで天井を見上げました。
香積院のお庫裡さんに案内され、香積院の北の墓地に有った、小塚鉞助の碑に寄りました。
明治時代の小作争議の指導者小塚鉞助(こずかえつすけ)の碑 です。
この碑には小塚鉞助が明治14年に亡くなったと書かれていますが、部分的な意味は判りますが、漢文なので読めませんです。
南山大学へ
南山大学のキャンパスに入っていきます。
大学のキャンパスでは、テニスの試合が開かれ、一方ではラグビー部が練習していました。
秋の終わり。
カエデの葉が綺麗に紅葉しています。
南山大学はキリスト教系の大学です。
クリスマスが近いことからキリストが生誕した様子を人形を使い再現していました。
ベツレヘムの馬小屋で誕生したキリスト。
東方から3博士がお祝いに駆けつけた場面です。
大学の中で昼食をとりました。
人類学博物館へ。
南山大学人類学博物館は、この10月にオープンした新しい博物館です。
地下に有り、階段を下りていきます。
学芸員の竹尾さんが説明してくれましたが、この博物館は4つのカテゴリーで構成していました。
1信仰と研究
2南山大学の人類学・考古学研究
3南山に託す
4昭和のカタログとなっています。
今泉隆平さんの今泉コレクションで、オセアニアの民俗造形美術品である品々が鶴ヶ島市へ寄贈されました。
膨大な資料であり、散逸するのを避けて保存するため、南山大学人類学博物館等に寄せられた、資料が展示されていました。
カヌーの舳先です。
魔よけの意味があるのでしょうか。
昭和のカタログ。
役目を終えた機器。
見学者にとって、懐かしい品々です。
ケースに入った神獣鏡がまじかに見れます。
この博物館のコンセプトに、触れて感じるが有り、特別な物を除いて触る事が出来ました。
普通は触れない事が前提であり、触ることを許されても、手を出すことに抵抗感が働きました。
般若台へ
般若台。
この付近は高台になっており、かつては名古屋の城下町が眺望できた絶景の地でした。
「電柱が邪魔やね」言葉が有りました。
前方には名古駅周辺の高層ビル群が見えますが、電柱だけでなく、家々がなければ素晴らしい眺望が得られます。
右の家屋の屋根の無効には名古屋テレビ塔が見えます。
史跡:般若台。
安永年間(1772から1781)、香積院4世の雲臥和尚(うんがおしょう)が引退した後、この地に籠もり「大般若経」を写経したので、この名が付いています。経本六百巻は、香積院に宝物として所蔵されています。
こちらの入口には香積院別院と表札に書かれていました。
まだ新しい本堂の横にお稲荷さんがあり、このような像が有りました。
お稲荷さんだけ有って、キツネに跨っています。
中京テレビのタワーがすぐ近くに見えます。
浄昇寺へ
浄昇寺に向かいます。
こちらはお宮とお寺が一緒になったところで、階段の途中に鳥居があります。
お寺とお宮さんが一体となった建物で、左の額には浄昇法堂。右には北辰殿と描かれていました。
こちらは内部に神馬が収められています。
この馬は木造ですが、日清日露の戦争を無事に帰還した馬で「水遊号」と言う名だそうです。
各地に妙見さんが有りますが、妙見さんは芸事にご利益のあるお宮さんですと住職の説明が有りました。
浄昇寺を後にします。
最後のモミジが綺麗な色をしていました。
八事の興正寺に来ました。
トイレ休憩の時間です。
この先、階段を登ります。
この写真。1枚だけを見て、京都の写真だと言われたら、信じてしまいます。
それほど良い雰囲気の場所でした。
センバツ発祥の地。
マンションが並ぶ中庭に記念碑があります。
周りはマンションが林立していて、かつてはここが球場だったとは想像できない場所です。
センバツ発祥の地の石碑。
石碑の盤をアップで。
選抜の第1回の試合がここで開かれ、次からは甲子園に変わったと説明があります。
岐阜の者にとっては、関心の有る部分です。
戦前。岐阜商業の黄金時代です。
隼人池に着きました。
隼人池を中心に隼人池公園となっています。
隼人池の名は前から知っていましたが、この池の名が成瀬隼人正の名からきているとは知りませんでした。
成瀬隼人正は犬山城主でしたが、尾張藩の附家老をしていた人です。
田畑の利水のためにこの池の掘削を指揮したのでしょう。
この池の水は檀渓址へ流れて行き、山崎川を樋で越えています。
先日、附家老サミットを聞きに行きましたが、成瀬隼人正の名を聞いて身近に感じました。
この日の参加者は42名でした。
週間天気予報では土曜日だけが雨マークでしたが、日が進むに連れて曇りとなり、実施日には晴れ時々曇りの空で、
マズマズのウオーキング日和となりました。
今回は大学の博物館へ入りました。
各地を回り、歴史的なことに触れる事が出来ましたが、博物館に入館したのも面白かったです。
今回は名鉄豊明駅をスタートして豊明市、大府市を歩き、刈谷市でゴールしました。
豊明市、大府市は尾張の東端。刈谷市は三河の西端で国境(クニザカイ)の地、一帯を歩きました。
名鉄豊明駅(豊明市) → オシロ池(大府市) → 極楽寺(大府市)→ 普門寺(大府市)→
藤井神社(大府市)→ 日高公園(刈谷市)→中手山貝塚(刈谷市)→医王寺(刈谷市)→
椎の木屋敷(刈谷市)→亀城公園(刈谷市)→本刈谷神社(刈谷市)→名鉄刈谷市駅
今回のコース地図。
10月でも暑かったです。
コースが15キロとなっていましたが、暑さでヨタヨタになり、15キロよりも多いような感じがしました。
豊明駅を後にして歩き出しました。
この坂道を登り切ると国道1号線の歩道となります。
境川ので坊を歩きます。
夏の雑草が綺麗に刈り払われていました。
近崎神明社へ来ると「おまんと祭り」の柵が整っていました。
後は祭りの本番を迎えるだけでしょう。
右は昨年のおまんと祭りでしょうか。ポスターの一部分です。
大府市神田町に来ると公民館祭りが行われていました。
公民館祭りのために通行止めにするのは、とても熱心なことです。
右は公民館の前に差し掛かりました。
左は整頓して並べられた自転車です。子どもたちの自転車なのでしょうが、キチンと並んでいます。
太鼓や金管楽器の演奏です。
神田町を挙げての公民館祭りです。
日頃の練習の発表の場で有ります。
五ケ所村の記述のある石碑を覗き込みます。
古い字体で読み難くなっています。
極楽寺に着きました。
この寺は知多新四国の2番札所になっています。
普門寺から出てきました。
こちらは3番札所です。
神明社での説明です。
ここには中手山貝塚が有ります。
神明社に貝塚があり、Yさんの説明がありました。
貝塚と言うと、その近くに居住していた人が貝を捨て、貝塚になったとものと思っていましたが、そうでは無いらしいのです。
海から採ってきた貝を茹でて干し、山の地域に持つて行って、物々交換したのではないかと言うのです。
縄文時代ですから、当然、米作はまだ、遣っていません。
山の地域から何を貰ってきたのでしよう。木の実なのか。キノコなのか。また、獣の干した肉と交換したかも知れません。想像は膨らみます。
当時、海はもっと奥まで来ていて、入り江を形成していました。貝塚は干した貝を生産した工場跡だと言う説です。
貝だけでなく、魚を捕らえたでしょうが、イルカの骨が出たりする遺跡がありますが、魚の骨は出土していません。
今までは、貝塚は普段の生活で出た貝が体積したものだと思い込んでいましたが、今回の説のように大量に干した貝を生産していた工場の跡となると見方が変わってきます。
色々と想像をめぐらせて見るのも面白いことです。
こちらは椎の木屋敷で説明するMさんです。
刈谷城は何度も城主が代わっています。三河の西の端で、今川氏の支配を受けた時期も有り、織田氏の支配を受けたときも有ります。勢力が弱いと他国の支配を受けてしまいます。
椎の木屋敷の由来と於大の方のブロンズ像。
この説明に有るように於大の方は戦国の世で波乱な生涯を送りました。
刈谷球状へ来ると女子ソフトボールをやっていました。右は豊田自動織機。
左は日立とデンソーです。
ソフト部用に立派なバスで来ていました。
球場では佐川急便と豊田自動織機の試合が行われていました。
右はダッグアウトの後ろからです。
境川と逢妻川の堤防を歩いています。
左が逢妻川。右が境川です。
平成大橋から上流を眺めました。
逢妻川が分かれ、再び合流し川の中に島を形成しています。
平成大橋から下流を眺めました。
背割り堤防が下流へ続いています。
この先は衣浦湾になります。
海が近くなっています。
平成大橋を歩きます。
この橋の下を五ケ村川。境川。逢妻川が流れています。
この辺りの川が一箇所に集中しています。
平成と名が付くのですから平成に架橋されたものでしょう。
平成大橋から下に農作業をする人が見えました。
良く見ると農作業をする人に見える案山子でした。
本刈谷神社に到着です。
こちらにも貝塚が有ります。
本刈谷神社では神事が行われていました。
境内には明日に備えてでしよう。白線で町内会の名が書かれていました。
これは神輿を留め置くためのものでは無いかとの声が有りました。
左は黒い礼服を着た人たちです。「ヤク落しの人たちでは無いか」という声が有りました。
右は舞を舞う少女です。
お疲れ様でした。
刈谷市駅に到着です。
この刈谷市駅がゴールでしたが、5人ほどの男性がJR刈谷駅まで歩きました。
歩いていて、「金木犀の香りがする」と女性の声。みんなが、その香を嗅ぎました。
惣作遺跡ではコスモスが風に揺れていました。こうして、歩いているから季節を感じれるのが良い点です。
近崎神明社ではおまんと祭りの準備が整った状態を目にしましたし、本刈谷神社では人々が並び、神事が執り行われているところを目にしました。
このように祭りに触れる事が出来るのもウオーキングの面白さです。