Kオジサンの新・山歩きの記


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春の陽気  旧木曽街道を歩く その3 (小牧口駅から味鋺駅へ)  

2017-05-02 23:24:15 | 街道歩き

3月30日に旧木曽街道を今渡駅から羽黒駅までを歩きました。そして、その2 として4月18日に、羽黒駅から小牧口駅までを歩きました。
街道歩きを2回やりました。街道歩きは小説を読むのと似ています。 本を読み出したら、面白くないストーリーは別ですが、大抵は最後まで読んでしまいます。それと同じように街道歩きを重ねていまして、旧木曽街道を歩くのの続きを歩きました。今回は小牧口駅から味鋺駅までです。
ゆっくり歩くと、見えないものが見えてきます。廃線となった小牧基地への引込み線を見かけました。ドローンのスクールも有りました。「発見する」。そう言う事も面白さの1つです。 

街道歩きで、このサイトを参考にしました。
http://network2010.org/article/234

カメラ画像の記録タイムから行程したものです。
小牧口駅(10:24) ― 相撲の石碑(10:38) ― 外山神社(10:54) ―  神明社(11:33)  ― 
小牧基地引込み線跡(11:40) ― スーパーヤマナカ ― 白山神社古墳(13:24)  ― ハニワの館(13:51)
 ― 二子山古墳(13:56)   ― 味鋺駅(14:05)

小牧口駅

小牧口駅で下車しました。
前回の続きの再開です。
小牧口駅は線路が掘割となった線です。
駅の前に自転車が溢れています。



旧木曽街道へ来ました。
ここから、街道歩きの再開です。




小牧南小学校の横を通過します。
休み時間なのでしょう。
子供たちが校庭へ出てきて遊んでいます。


相撲の石碑

墓地の中に名前を連署した石碑を見かけました。
頭取と力士。頭取は勧進元なのでしょうか。
行司と言う字も読めます。
それに〇〇山とか〇〇川の字が有ります。
本格的なシコ名も散見できます。
外山、楽田、古知野、布袋。この辺りの地名が読めます。




石碑の表と裏です。
読み難いですが、為故愛知角力追善・・・。昭和四年と有ります。
大日本相撲協會と五ケ国聯盟相撲協會と有ります。五ケ国とはどの国を指すのだろう。
娯楽の少ない時代です。
相撲の一大イベントが開かれました。
何処で開かれたのだろう。
弁当持ちで近郷近在から多くの人が集まった相撲大会。
想像が膨らみます。




木曽街道は南に下って行きますが、途中、広い道路で遮断されています。


外山神社

外山神社へ来ました。
大きく立派なお宮さんです。




本殿と説明板。
銅鐸が出土したと説明して有ります。




今は県道になっていますが、かつての国道41号線を歩いています。
反対側を歩くウォーカーを見かけました。
彼も街道歩きをやっているのでしょうか。




木曽街道が旧国道と一緒になったり離れたりします。
ここは、国道41号線の東です。
街道らしさの有る道です。




今日のKオジサンの後ろ姿です。




離れていた木曽街道ですが、再び旧国道41号線と一緒になりました。
右側のフェンスは小牧基地のものです。




小牧基地のコントロールタワーが見えます。




道の脇に、ひっそりと馬頭観音がありました。




春日寺の神明社へ来ました。
春日寺会館と言う建物がありました。
地区の集会所の役割をしています。


神明社

神明社の本殿です。




神明社の境内です。
ナンジャモンジャの花が開き始めていました。
こんな事にも、季節を感じる事が出来ます。


小牧春日井市境

小牧市から春日井市に入ります。


小牧基地引込み線跡

小牧市と春日井市の市境近くに廃線の線路が有りました。
ここを見た時、何の線路か判らなかったのです。
廃線のサイトが有りました。
https://www.google.com/maps/d/viewer?ll=35.255292000000004%2C136.93174799999997&spn=0.008411%2C0.01369&hl=ja&t=m&gl=jp&oe=UTF8&msa=0&z=15&source=embed&ie=UTF8&brcurrent=3%2C0x600373a7eaf2a3c7%3A0x1446fffd6173e0b9%2C1&mid=1yNOyFr4ppdmZVmX0udT6jtQHUk8
この先に見えるコンクリート塀が基地の中です。
架線は撤去されて居ますが、電柱は残っています。



前方が県道で旧国道41号線です。
廃線の上をアスファルト舗装しています。
線路の上を舗装してしまっています。廃線となったのは、相当古いことなのでしょう。




錆びた信号機。
通過するの貨物列車が少なく、国道の車を停車させて踏み切りを通過しなくてはなりません。完全に遮断機が下りてから、列車が通過したのでしょう。
他のサイトで、何人かがこの小牧基地引込み線跡を取上げています。基地の中へ航空燃料を運び込んだと有ります。名鉄の黒い貨物用の電気機関車がタンク車を牽引して行く場面が想像できます。
でも、疑問なのは何処からタンク車が来たかと言う事です。上飯田線は上飯田まででJR線とは連絡していません。と言う事は高山線の鵜沼駅から来たのだろうか。かつては名鉄線とJR線が連絡していました。
名鉄のホームページを検索しましたら、鵜沼連絡線のSL-1017号というのが出ました。蒸気機関車が牽引していて、後にディーゼル機関車に変りました。

私の住む各務原市には岐阜基地が有ります。かつてはキャンプと呼ばれていました。キャンプに貨物列車で石炭を運び込んでいました。名鉄線で来た貨物列車が三柿野駅から基地内に入って行っていました。基地内に大型のボイラーが有りセントラルヒーティングで湯を供給していたのだと思います。
子供の時の記憶でして、航空燃料も運び込んでいたのかは、判りません。高山線の那加駅と名鉄の新那加駅で連絡していたようです。新那加駅に1段と高くなった石炭置き場が有り貨車に積み替えたりしていたのを覚えています。その時に牽引していたのがC11かC12だったのではと想像します。


芭蕉句碑

芭蕉の句碑が有りました。
碑の文字が読め無くなっています。


ドローンスクール

沿道にドローンのスクールが有りました。
こんな学校が出来るのも次代の流れでしょうか。





表側の網に操縦機がひっ架けてありました。
右は網の間から中を覗いたのです。





この当たりは名古屋空港の進入路の下の地域です。
すぐ頭の上。
車輪を下ろし、着陸態勢の機が降りてきました。



味鋺原新田一里塚

一里塚の石柱を見つけました。
字が読めなくなっていますが、味鋺原は判ります。
味鋺原新田一里塚と書いてあるようです。
ちゃんと読めるようにして貰いたいものです。



一里塚の石柱の近く。
側溝の中にスミレが咲いていました。
他のは花の時期が終わっています。
最後のスミレなのでしょう。




名2環の下を横切ります。
木曽街道はこの先で、南西方向に向かっています。
次回はここから再開しょうと思い、南へ直進し二子山古墳へ向かいます。


白山神社

白山神社の参道です。
前方に森が見えます。




白山神社へ来ました。
小高くなっていて、石の階段が見えます。
石柱には愛知県指定史跡、白山神社古墳と刻まれています。
石橋があり、池となっていました。そして小さい噴水が有りました。




白山神社から南東に向かいました。
丸い椀を伏せたような小山です。
これは、ヒョットして古墳ではなかろうかと思いました。
左側は東から眺めた姿です。
右側は鳥居が有り、螺旋状に道が付いています。
頭頂部に小さな社が祀って有りました。
相宮で白山神社の御旅所となっており、御旅所古墳でした。


二子山公園

二子山公園。ハニワの館です。
公園として整備して有り、その一角にハニワの館が有りました。





ハニワの館の館内です。
埴輪のレプリカが展示して有り、その横に古墳の解説がして有りました。
説明の中の西上免遺跡は覚えの有る遺跡です。
東海北陸自動車道の下に有った遺跡で、一宮友歩会の例会に訪ねた場所です。





大きな二子山古墳の表示柱が有ります。





二子山古墳の石柱と解説板。
この公園は三箇所の古墳が有り、味鋺古墳群と呼ばれています。






二子山古墳の周溝を確認できます。
前方後円墳なのですが、木が繁茂していて前方後円墳か否か判らない状態です。
二子山公園は広大な公園です。
三箇所の古墳が有り、古墳公園と言った感じの公園でした。


味鋺駅

味鋺駅まで来ました。
今日は味鋺駅で歩くのを終えようと、歩いてきました。
旧木曽街道のルートからは外れましたが、大規模な古墳の公園に寄る事が出来ました。


感想
小牧基地引込み線跡を見る事が出来ました。直接、街道には関係ないのですが、このような場所を発見できたのも街道歩きの面白い所です。名鉄電車の黒い電気機関車が黒いタンク車を牽引して基地の中に入ってく姿が想像できます。
街道歩きでドローンスクールも見つけました。最近、ドローンの画像が多用されますが、ドローンの技術を学校で学ぶ。そんな時代が来ているのだと実感しました。
相撲興行の石碑を見かけました。石碑は墓地の中に有り、どのような所で相撲場所が執り行われたのか判りません。それでも、人々は近郷近在から集まったのでしょう。それに相撲見物となると当然、昼飯持参で寄ったのでしょう。マイクもスピーカーも無い時代。呼出しの越え。人々の声援。そんな場面が想像できます。
前回はスミレのオンパレードでした。今回は路傍の側溝の中。1輪のスミレを見かけましたが、終期を迎えていました。これも季節の流れだと感じました。
木曽街道から離れ、二子山公園を経由して味鋺駅で終えました。次回は城北線の味鋺駅からスタートしたいと思います。






 

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スミレ・すみれ・菫  旧木曽街道を歩く その2 (羽黒駅から小牧口駅へ)  

2017-04-18 23:48:48 | 街道歩き

3月30日に、木曽街道を今渡駅から羽黒駅まで歩きました。今回はその続きで羽黒駅から小牧口駅までを歩きました。陽気が良くなり、街道沿いにはスミレが沢山咲いていました。中には、アスファルトの隙間から顔を出しているのも有りました。色々のスミレ。種類が判りませンが、色々のスミレを目にする事が出来ました。
三月に第1回で歩きました。その続きを歩きたくなりまして行動に移しました。
カメラ画像の記録タイムから行程したものです。
羽黒駅(10:08) ― 木曽街道出合(10:35) ― 観音寺(10:43~10:50) ―  羽黒追分(11:20)  ― 
楽田城北門跡(11:32) ― スーパーアオキ ― 田縣神社(12:15~12:55)  ― ラピオ(13:48~14:01)
 ― 岸田家(14:22)  ― 啓運寺(14:25)  ― 木曽街道出合(14:37)  ― 小牧口駅(14:42)
参考にしたホームページです。
https://www.google.com/maps/d/viewer?ll=35.343779137707934%2C136.94871752823633&spn=0.038503%2C0.05476&t=m&msa=0&z=15&source=embed&ie=UTF8&brcurrent=3%2C0x6004bad5499332e7%3A0xeb5fa65d181541a7%2C0&mid=1eW8M6GGWDTr3cOu1Z7IvjPwhvso

 
羽黒地区コミニティ推進協議会が設置してしていた案内図。


羽黒駅

羽黒駅で下車して、乗ってきた平安通行きを見送ります。
右は羽黒駅です。
今では無人駅となっていました。
駅から、前回に歩くのを辞めた木曽街道に向かいます。



木曽街道に向かう途中。
道路がアスファルトでほそうされて居ますが、路傍には雑草が生えています。
雑草に混じってスミレが顔を見せていました。




こちらも雑草に混じって顔を出していたスミレです。




もう、1種類。
〇〇スミレです。





木曽街道出合い

木曽街道出会いまで来ました。
ここから、前回の続きを再開します。


観音寺

観音寺の門前へ来ました。
参道を老女が掃き掃除をしていました。




観音寺の参道に設けてあった木曽街道の説明板です。




木曽街道の説明板です。






観音寺の参道に咲いていたスミレです。
〇〇スミレ。




新しい家屋が並びますが、道は曲がりくねっていて、街道らしさが有ります。




鯉のぼりが春風を受けて泳いでいます。
このように鯉のぼりを挙げれるのは用地にゆとりが有るからです。
都会では無理でしょう。


羽黒追分

羽黒追分まで歩いて来ました。
右が歩いて来た木曽街道。
左は稲置間移動で犬山に向かいます。




街道らしい雰囲気の道。
犬山市追分東辺りです。





楽田城北之門跡

楽田城北之門旧跡と言う石柱が立っています。こちらはまだ、新しい石柱です。右は古いもので石仏の敷地内に有りました。






石仏群です。
左のは中央の大きな馬頭観音です。
右側に安政と刻まれています。




今日のKオジサンの後ろ姿です。
街道らしい道です。




街道らしい道から旧の国道41号線に出ました。
市境のロードサインを裏側から眺めています。
ここが犬山市と小牧市の境界です。
そして、少し歩くと右に入り、再び41号から離れます。




41号から離れた木曽街道です。
道幅が狭くなりました。
道の横が水路になっています。


田縣神社

田縣神社に来ました。




田縣神社の本殿と由緒です。




田縣神社の奥宮です。
女性がお参りしていました。




境内の絵馬。
子供が授かりますようにの願い事が多いです。




民家の庭先。
道端にスミレが咲いていました。



岩崎清流亭の藤

川にせり出した藤。
愛知県指定天然記念物。
「岩崎清流亭の藤」と書かれています。
伸び放題です。手入れが必要なのではと思います。




旧国道41号線で見かけたお堂。
馬頭観音が祀られています。






こちらは旧国道41号線の歩道です。
アスファルトの隙間から顔を出していました。


アピオ

アピオと言う複合施設です。
1.2階が「アル・プラザ小牧」で、4階がえほんの広場・学習広場のフロアー。
5階は小牧市まなび創造館となっていました。




信長の出来事が歩道の地面に描かれています。




小牧駅をスタートして小牧城に至るコースです。
「信長公 夢・チャレンジコース」と銘打って有ります。
織田信長の成長していく過程を表しています。



木曽街道の案内板です。
本来の木曽街道はアピオの西側でしたが、東側を歩いてしまいました。
ここから岸田家に向かったのですが、道が判り難かったです。


戒蔵院

戒蔵院の前の道標です。





小牧城を見上げます。




小牧宿の説明板。



岸田家住宅

岸田家住宅。
古い町家で解体修理されました。




啓運寺まで歩いてきました。
高札場がここに有ったと書かれています。




街道らしさの有る道です。


木曽街道出合い

木曽街道で電線の工事をやっていました。
この場所は小牧口駅の西に当たります。
今回は、この場所で区切りを付けることとしました。


小牧口駅

小牧口の駅です。
犬山行きの電車が入って来ました。



感想
木曽街道出合から歩き始め、程なくして、観音寺の参道に設置して有る木曽街道の説明板を目にしました。その案内板の下に羽黒地区コミニティ推進協議会と表示してありました。羽黒地区コミニティ推進協議会を検索してみましたら防災、防火訓練等、また、校区ふれあい運動会、ウオーキング等に取り組んでいると有りました。地区住民同士の「輪と和」高めていく活動なのでしょう。見かけた木曽街道の案内板。このような取り組みは街道を歩くモノにとって、有り難いです。

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春の訪れ  旧木曽街道を歩く (今渡駅から羽黒駅へ)  

2017-03-30 23:32:01 | 街道歩き

木曽谷を尾張藩が所領として治めていました。尾張と木曽を結ぶ街道で、今の国道19号線に沿った街道を下(シモ)街道とか善光寺街道と呼んでいす。同じく、もう1本の街道で、尾張と木曽を結ぶ街道で上(ウワ)街道が有ります。またの名を木曽街道と呼んでいまして、名古屋城の東大手門前の志水口を起点として、小牧宿、善師野宿、土田宿と経由して中山道に至る街道です。
多くのホームページで、木曽街道を名古屋から北に向うコースで紹介されています。私は北から南に向かって歩いてみました。
木曽街道を歩いた人の記録を事前に準備し、地図を片手に歩いたのですが、街中では道に迷ってしまいました。街道の指示標識など、何もない状態なのです。先人の歩いた古の街道です。何か対策をとって貰えたらと思いました。
道端にスミレが咲いていたり、歩いている先へ先へとチョウが道案内をしてくれました。陽気が良く、春の訪れを感じながら歩きました。
参考にしたホームページです。
https://www.google.com/maps/d/viewer?ll=35.41430600000001%2C137.00105699999995&spn=0.031478%2C0.054932&t=m&msa=0&z=14&source=embed&ie=UTF8&brcurrent=3%2C0x600314104053e367%3A0xc2f572441cc9e60d%2C0&mid=19jTw3dvmnEVSLAcYxPyYQHqeCuE
http://aroundgifu.web.fc2.com/kisokaidou/00_kisotop/00_kisotop.htm
http://fumiki.travel.coocan.jp/furoku6/uwakaido6.html
カメラ画像の記録タイムから行程したものです。
今渡駅(9:33) ― 木曽川 ― 太田の渡し跡(9:53) ― 県道交差点(10:10) ―  土田宿本陣跡(10:49)
 ― 石原公民館(11:32) ― 石拾峠(12:07~12:37)  ― 大洞池(12:51)  ― 善師野宿説明板(13:11)
 ― 清水BS(13:20)  ― 新池(14:05)  ― 羽黒駅(15:07)


名鉄日本ライン今渡駅に着きました。
これからウオーキングスタートです。
駅を出て中山道へ、そして木曽川に向かいます。

善師野駅でご夫人2人が下車しました。
そして、可児川駅では10人以上の人たちが下車しました。
何れも鳩吹山を目指す人達です。それも、ご高齢の人達ばかりです。
改めて、鳩吹山は人気が有ると思いました。




木曽川に向かう途中に見かけた、まだ新しい案内板です。
今渡公民館に設置してありました。
この案内板で表示してあるコースを歩いたのですが、途中には何も表示が無く、案内板を設置しただけと言う感じのモノです。途中のポイント、ポイントに標識を設けたらと思いました。




木曽川の川岸まで来ました。
前方が木曽川で太田橋が見えます。あの場所。日本ラインの川下りのスタート場所で、中の島乗船センターが有った場所です。もう、建物は取り壊されています。ライン下りが中止となって数年が経ちます。でも、この案内表示板。残されたままとなっています。撤去を忘れているのでしょう。




木曽川渡し場遊歩道へ来ました。
石畳の遊歩道になっています。




かつて、この地と対岸の太田宿を結ぶ渡し舟が運行していました。
渡し場の説明板が設置してありました。




ここは県道84号線の交差点です。
これから向かう先。
真っ直ぐ道となっています。



土田宿本陣跡。
石柱が設置して有ります。




土田宿の説明板が有りました。




本陣跡を出て西に向かい、途中で左に折れなければなりませんでした。
地図を見ながら歩いたのですが、この道で良いのか、不安でした。
牛乳配達中の明治乳業の人。
この人に、コースを聞きましたら住宅地図を見て、この道で間違いないと応えてくれました。




前方に見える山は鳩吹山です。




歩いて来て、この親子連れに出合いました。
「カタクリの所へはどのように行ったら良いですか」と声を掛けられました。
カタクリの場所への行き方を教えてあげました。
そして、「写して良いですか」と許しを得て、撮らせて貰いました。
笑顔が返ってきました。



この先に橋が見えます。
そして、橋の下には可児川が流れています。
谷のように深くなった川です。




歩いて来て、土田城の石碑を見ている男性が居ました。
男性は名古屋から来たそうでした。
そして、これから鳩吹山に登ると話しました。



土田城の石碑の表と裏です。
戦国時代の城と言うより、砦のようなものなのでしょう。
石碑の南が山となっています。
平常時は麓で生活し、戦の時は山に駆け上ったのでしょう。




切通しの馬頭観音。
右ハかち(徒歩)道。左ハ馬道、川渡(太田の渡し)ハ東道と書かれています。





民家の塀越しにサンシュユの花が見えました。




石原公民館まで来ました。
ここ、木曽街道は東海自然歩道でも有ります。




これから住宅地の中を進んで行きます。
曲がりくねった、街道らしい道です。




左右がゴルフ場となっています。
コースをつなぐ橋の下を通過します。








道が二股に分かれます。
右が大平林道で左が木曽街道と東海自然歩道のコースです。左に進みます。




旧木曽街道の石柱。
左側と右側です。




街道らしい道です。




石拾峠から下りて来た男性。
自転車を引っ張ってきました。
言葉を交わしたのですが、「カタクリの所」へ行くと話していました。




石拾峠まで登って来ました。
この峠は東海自然歩道の恵那コースと愛知県コースが合流する地点です。
ここで合流して、犬山城の方へ向かいます。
テーブルとベンチが完備しています。ここで、昼食にしました。




石拾峠から下ってきました。
たどり着いたところが大洞池です。
道の両側に池があります。
釣り人と挨拶を交わしました。
その向こう。
ここは溜池のようで、アノ施設は水門みたいでした。



歩いていて、正面にドーンと、大きな岩が目に入りました。
その岩に祠のように祀られたところが有りました。
信仰の対象となった大岩なのでしょう。






ショウジョウバカマが群生しています。




〇〇スミレ。
スミレも街道沿いで見かけました。





左はヒョウモンチョウの仲間だと思います。
タンポポの密を吸っていました。
右はテングチョウです。
まるで道の案内人のように先へ先へと飛び、戯れている。そんな感じがしました。





大洞池の所から出てきました。
道が二股になっています。
どちらに進んで良いのか判りませんでしたが、右に進みました。
それで、正解でした。




馬頭観音があり、一里塚の跡に石柱が立っています。
観音様に花が供えて有ります。




石柱の右側と左側です。
裏側の前田四郎と言う名前は、この先で見た説明板でも見かけました。
前田四郎さんが私費で建立したのでしょう。




これから進んでいく木曽街道。
善師野宿です。
先に見える高架橋は尾張パークウェイです。




善師野宿の宿場概要図が掲げて有りました。




名鉄の踏切まで歩いてきました。
後ろを振り返りますと、歩いて来た善師野宿が見えます。
直線でない道路ですので街道らしさが有りますが、宿場跡を想像させるものは有りません。




木曽街道。善師野宿の説明板です。
文を書いた人が前田四郎さんです。




名鉄の踏切を渡り御嵩街道を右折しました。
途中から、道路を左へ入ったのですが、この道で正しいのか、判りませんでした。
集会所のような所から出て来た男性たちに、城東中学の方向はこれでいいのかと確認したら、良いと返事が有りました。




清水寺の前のバスストップです。
城東の歴史を知る会の説明板がありました。




今日のKオジサンの後ろ姿です。




歩いていて、塔野地地内で街道から外れてしまいました。
そして、修正するために辿った所に新池が有りました。
この池も溜池なのでしょう。
土手を登りましたら、カモが一斉に飛び立ちました。




尾張富士の見える所まで歩いて来ました。




歩いて来た後方を眺めました。
今回はここまでとして、街道から離脱します。


幹線道路を外して田の横の道を歩きます。
この道を羽黒駅に向かって進みます。




羽黒駅に着き、しばらくして電車が入ってきました。
犬山行きの電車です。



感想
太田の渡、つまり木曽街道が中山道と合流地点です。そこから楽田までを歩きました。北から南へ歩いたのです。尾張藩は木曽谷を領地として持っていましたので、藩士が役目を終えて戻ったのと同じ道程を辿った事になります。
歩いていて出会ったのは、カタクリの里に向かう親子連れ、これから鳩吹山に登る人。石拾峠から降りて来た男性。それに牛乳屋さんには道を教えて貰いました。一期一会の出会いが有りました。こう言うのもウオーキングの良さです。
道中、ジンチョウゲが芳香を放ち、ツバキやカワヅサクラが色を添えてくれました。春が始まる時期で、春の訪れを感じました。
途中、城東小学校区コミニティ推進協議会、郷土城東の歴史を知る会の説明板を目にしました。このような地域住民の手による活動が取り組まれていることに敬意を表したいと思います。道に迷った事も有りました。行政で何とかして貰えたらと思いました。

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美濃路を歩く。④  清洲宿~熱田宿

2013-05-18 20:04:13 | 街道歩き

美濃路は江戸時代に東海道と中山道を結ぶ街道として発達したものです。
その経路は熱田宿で東海道と別れ名古屋・清洲・稲葉・萩原・起の宿を経て美濃に入り
墨俣・大垣を経由して垂井で中山道に合流しました。その延長は57キロと言われています。

これまでに3回、回を重ね今回は最終回で清洲宿から熱田宿までの13.8キロを歩きました。
公式的には13.8キロとなっていますが、若宮八幡や熱田神宮に寄りまして7時間程掛かりました。お昼の昼食時間を差し引いても6時間はあり、20キロ程は歩いたと思います。 

JR清洲駅(8:04) - 五条橋(8:38) - 石丸(8:41)~(8:59) - 清洲川護陣屋(9:41) - 

問屋記念館(10:01)~(10:10) - 琵琶島橋 - 巾下公園(11:23) - 四間道 - 

 伝馬橋(11:56) - 白川公園(12:27)~(13:00) - 若宮八幡(13:05)~(13:16)

 - 熱田神宮(14:18)~(14:.35) - 熱田宿道標(14:46) - 七里の渡し公園(15:03)




今回、歩いていて、街道沿いに何枚も美濃路の垂井と熱田を指すプレートを見かけました。
このようなプレートをこれまでは目にしませんでした。
特に、旧新川町で多く見かけました。
このようなプレートを街道の自治体が共通して設置して貰えればと思います。
それに街道は歩いていれば判ることですので、曲がり角に設置を望みたいです。



朝、8時に清洲駅に着きました。
ここから歩き始めます。


五条橋。
今はコンクリートの橋となっていますが、かつては木の橋でした。
むかしを想うように擬宝珠が付いています。



甘味処の喫茶店に寄りました。
店の名は石丸です。
表の看板に色々のモーニングが乗っていました。
ピザトーストを注文しましたが、看板のピザトースト程は具が乗っていませんでした。


モーニングでプリンや餡子が付いていました。


旧新川町の丸の内。
電柱が有りますが、旧街道の雰囲気が残っています。


旧新川町の川護陣屋。
ポケットパークとして整備され、石柱にはここから津島へと書かれているものが有りました。
このようにポケットパークを整備するのなら、街道を歩く人のために、併せてトイレも整備すればと思いました。


この辺りは五条川や庄内川が流れて水の押し寄せる場所となっています。
古く江戸時代から「水」に悩まされて来た土地です。
窮状を訴え出ただけで蟄居を命ぜられる。
そんな封建の時代です。


問屋記念館に寄りました。


青果問屋を再現しています。



どっしりとした建物。
往時、多くの人で賑わったことでしょう。



琵琶島橋を渡ります。
ここを渡ると名古屋市に入ります。


堤防下に旧琵琶島橋のモニュメントがありました。
かつてはここから舟で渡っていて、後には橋が架かり、人々が行き交っていたのでしょう。


尾州殿茶屋跡。
今は民家の玄関脇に説明の札が建っています。


国道22号線の上の渡道橋を歩きます。


同士とすれ違いました。
言葉を交わしましたが、彼は今日から美濃路を歩き始め、第1回だと話していました。
美濃路を歩く人。
同士に会えたという気がしました。


四間道。
幅が広い道で、名古屋市の街並み保存地区に指定されています。


桜通りまで着ました。
名古屋駅近辺の高層ビルが見えます。


伝馬橋。
今は鉄筋の橋となっていますが、かつては清洲から持ってきて架橋されました。


ビジネス街の昼食。
ここで300円の弁当を買いました。


お昼の弁当の店をウオッチングしました。
丸の内のビジネス街のあちこちに弁当を売る店がありました。
300円から500円の値です。

そけぞれの店にテリトリーが有り、客の取り合いなのでしょう。
今日は財布にゆとりが有るから500円の店。
今日は、財布が困窮しているから300円の店となるのでしょうか。
昨日の弁当が美味しかったから、また、行くということも有るのでしょう。
お昼は弁当屋戦争が繰り広げられ短時間の勝負です。
客が並ぶ店。
並んでいない店と色々でした。




白川公園で弁当を食べました。


弁当で、揚げ物が多くこれらは冷凍食品です。
300円ですが、値段からいったらこんな物かも知れません。
ご飯はしっかり入っていました。
ビールは水分補給用です。


若宮八幡社でお祭りが行われていました。


15日は試楽でした。


屋台蔵から福禄寿車が引き出されていました。



奉納のお囃子です。
山車には鼓や大鼓、笛の音色が聞こえました。


熱田神宮に寄りました。


境内では店が並び、金魚を売る店も出ていました。


東海道と美濃路の分岐点です。


標柱の説明です。



七里の渡しまで着ました。


ここから船に乗り、桑名へ向かいました。
今は、埋め立てが進み近くまで土地が来ていますが、かつては海岸線はもっと遠かったことでしょう。


4回に分けて美濃路を歩きました。
街道を歩く面白さの1つに往時を想像してみる事が有ります。
侍も歩いたでしょう。坊主も歩いたでしょう。
駆け落ちがあったかも知れません。
象がこの街道を通りました。
朝鮮通信使も歩きました。

この美濃路には揖斐川。長良川。木曽川が流れています。
川が穏やかなときなら、支障なく渡れたのですが河川が氾濫し舟が出ないときは宿で待たされたことと思います。
非常の時は難儀したことと想像します。
今は家々が多く立って居ますが、家がまばらな昔を思って歩く事が面白かったです。

 

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美濃路を歩く。③  萩原宿~清洲宿

2013-05-04 01:27:25 | 街道歩き

前回の続きで萩原宿から清須宿まで11.8キロを歩きました。
名鉄萩原駅で下車し南東に向かって歩きました。今回のコースは一宮市、稲沢市、清須市です。
稲沢市では比較的新しい美濃路の説明板が設置されていましたが、一宮市では指導道標が無く、美濃路に対する取り組みで自治体の温度差を感じました。


名鉄萩原駅(9:12) - 高木の一里塚(9:33) - 中嶋宮(9:52) -  コメダ稲沢西店(10:03)~(10:40)

 - 稲葉宿(11:04) - 小沢の一里塚(11:17) - 東屋(11:51)~(12:05) - 

長束公園(12:15) - 四ツ家追分(12:55) -  清洲城(12:00)~(11:50) - 

清洲公園(12:21) - 清洲宿本陣跡(12:52) - 名鉄新清洲駅(13:28)



稲葉宿の稲沢市シルバー人材センター前に有った美濃路の案内板。
この地図が今回歩いた行程です。


行きの電車の中で見かけたお年寄りのグループ。
10人ほどの人数でした。


お二人と言葉を交わしました。
各務原市の方々で、会の名は「ふるさと散策の会」だそうです。
今日は津島市内を巡るのだそうでした。
彼女は、杖を使っていました。会の中には山に登りに行く人も居る。私がみんなの足を引っ張っていると笑って話していました。
丁度、津島の天王川公園が藤の見頃を迎えている時期でした。
月に一回出かけているそうでして、会の世話をしている人が前回の写真や次回の予定表を配っていました。
こうして、会としてまとまっているのも、世話をする人が居るからだと思います。


歩き始めの萩原宿。


都市近郊の農業。
温室の中で苗を育てていました。


こちらも苗を育てていました。


高木の一里塚後。
うっかりすると見落としてしまいそうです。


稲沢市は苗木の生産が盛んなところです。
まだ、一宮市内ですが、稲沢市に近づいてきました。
稲沢市の影響を受けて苗木の生産をしているのでしょう。


遠くに養老山地が見えます。
遠くに山が有るだけで、この辺りは有りません。
濃尾平野の真っ只中です。



街道が広くなったり狭くなったりします。
古い家が並んでいるところは拡幅が難しく旧のままですが、家の無いところは拡幅し易くこのような形態になってしまいました。


現代の茶店。
コメダで一服しました。


稲葉宿に入ってきました。


シルバー人材センターの前に美濃路の案内板が設置して有りました。


アップで。


杉玉が下がった酒屋。


美濃路のプレート。


小沢の一里塚。



保育園の中に設置された美濃路の指示標識。
美濃路を歩いていて、曲がり角が判り難かったです。
このように進む方向がはっきりした場所よりも街角に設置して欲しい物です。


まだ、整備されて新しい道。
カラー舗装になっていました。


長束公園。


長束梅の説明板。


ヒトツバタゴ。またの名をナンジャモンジャです。


整備された街道と東屋。


JR東海の踏切を渡ります。


四ツ家リ追分は京都方面と岐阜方面の分岐となります。


この石碑は、もともとは上の四ツ家追分に有ったのが、折れて、長光寺に移設されました。



清洲城です。


天守閣から見えた御嶽山。
城の中は充実していて見学をするのに長時間を費やしました。


清洲公園に有った若き信長像。


清洲宿本陣跡。


本陣跡の説明板。


新清洲駅に着きました。



萩原宿から清須宿まで歩きましたが、花の苗の生産や苗木の生産を見かけました。
都市近郊であり、このような農業が営まれたりするのだと判りました。
清洲城の内容が充実しており、じっくり見てきたら意外と時間が掛かりました。
信長が清洲から小牧、岐阜へと移っていた事が判りました。

清洲と清須。
清洲町や西枇杷島町、新川町が合併して清須市が誕生しました。
発音は一緒でも、はて?
どちらの字が正しかったか。迷ってしまいます。

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美濃路を歩く。②  墨俣宿~萩原宿

2013-04-11 13:20:52 | 街道歩き

墨俣宿から萩原宿まで13.7キロを歩きました。
まず、墨俣バス停から北に歩き、墨俣宿脇本陣に行ってみました。脇本陣は古い家屋ですが大きくドッシリとした建物で風格を感じます。
その後、東に向かい犀川堤防に上がりました。桜並木が続き屋台が並んでいますが、桜の時期が終わりを迎え閉店するようです。
長良大橋を歩き、長良川を渡り続いて大江川、境川を渡り羽島市に入りました。境川堤防を歩き途中から堤防を降り木曽川に向かって歩きました。
正木小学校の脇に一里塚の石柱が有りましたが、フェンスの向こう側に設置されフェンスが邪魔でした。
堤防に上がり木曽川に架かる濃尾大橋を渡りました。木曽川を挟んで羽島市側の金毘羅神社は小さく、尾西側は立派な金毘羅社が有ります。金毘羅サンは海の航行安全の神様ですが、川の航行の安全を祈願して祀られています。
起宿から南東に進むと富田に一里塚が残っています。街道を挟んで塚の形が残っています。旧態を残す一里塚で現存するのはここだけだとありました。
この後、萩原宿を通り萩原駅に向かいましたが、萩原の商店街はひっそりとして、かつて繁盛していた面影はありませんでした。


墨俣宿(8:53) - 墨俣宿脇本陣(9:00) - 長良大橋 - 小熊の一里塚(9:40) - 

名鉄南宿駅(10:23) - 不破一色の一里塚(10:0) - 正木の本堤跡(11:16) - 濃尾大橋

 - 金刀比羅社(11:30)~(11:50) - 起宿本陣跡(12:00) - 富田の一里塚(12:21)

 - 市川房枝生家跡(12:52) - 萩原宿本陣跡(13:00) - 名鉄萩原駅(13:28)



岐阜駅で墨俣行きのバスを待ちました。予定時間に10分ほど遅れて、バスが到着しました。
出発した時は10人程の乗客が居ましたが、墨俣に着く頃には、誰も乗っていませんでした。


墨俣宿の脇本陣です。


大きな建物で、ドッシリとし、風格のある建物でした。


墨俣宿の東の入口です。
道が真っ直ぐでなく、宿場の感じがします。


犀川の堤防に上がりました。
桜が終わりを迎え、屋台は後片付けと言った感じです。


これから長良大橋を渡ります。
旧国道21号線を車が、多く走ります。


左手には墨俣城が見えます。
花盛を過ぎた桜が醜い姿となってしまいました。


橋の上から北の方角を眺めます。
遠くに金華山が見えます。


羽島市に入ると美濃路を紹介する案内板、2枚が設置してありました。


まだ、設置されて、歳月が経過していなく、新しい案内板でした。
この場所から少し東へ行ったところに美濃路の案内板が有りました。
古くなって、字が読みにくい状態となっていました。折角、新しい案内板を設置したのなら、古い案内板は撤去すれば良いのに、と思いました。


小熊の一里塚です。
石碑が有り、この場所が一里塚だったのです。


堤防から右の道へ降りて行きます。
地図を片手に歩いていましたので、右へ向かへば良いのだろうと推測しましたが、このように場所に道標が欲しいです。


石柱に刻まれている親鸞聖人は読めますが、その下は・・・


説明板です。
美濃路が消えてしまった事を説明しています。


名鉄の南宿駅まで来ました。


不破一色の一理塚。
正木小学校の校庭に石柱が設置してありました。
石柱の前にフェンスが有り、邪魔していて石柱を撮影しようとすると、斜め方向からしか撮影できません。


大浦の道標の説明板と道標です。
道標は民家の玄関前に有りました。


大浦の金毘羅神社。
小さなお祠です。


これから濃尾大橋を渡り愛知県に入ります。



起宿の堤防から岐阜県側を臨みました。
堤防が高くなったり、橋が架ったりした景色は、江戸の頃の景色とは変わりましたが、遠くに伊吹山の見える風景は変わっていません。暖かくなって伊吹山の雪が解けて来ましたが、先日の寒波で雪が降り、再び白くなっていました。


金毘羅者に着きました。
ここの境内でお昼を食べました。


起宿のメイン道路です。
かつて宿場町だった様子が想像できます。
往時は、夜になると三味線の音色や嬌声が聞こえて来たのでしょう。


歴史民俗資料館となっている脇本陣。


富田の一里塚。
左の塚が道路の東側で右の塚が道路を挟んで西側に有りました。
この一里塚のように両側の一里塚が残っているのは珍しいです。


富田の一里塚の説明板。


市川房枝生家跡。
トイレが整備されていました。


市川房枝生家跡の説明板。
読んでみると、彼女が政治の方向へ向かった決意がわかります。


ウオーキングの面白さに寄り道することが有ります。
橋本屋と言う店。
団子やお好み焼の店ですが、ここで大判焼を買いました。
1個90円でした。


萩原の商店街。
道に花飾りが飾って有りましたが、商店街はひっそりとして、通る人は少なかったです。


萩原商店街の東側から。


お好みはうすと言う店です。
ここではタコ焼を買いました。
280円と安かったのですが、美味しく有りませんでした。


萩原駅に到着です。


今回は大きな川に架かる橋を渡りました。かつて長良川は墨俣川と呼ばれ、木曽川は起川と呼ばれていました。墨俣宿は長良川の西にあり、起宿は木曽川の東に位置します。
川が穏やかな時は問題なく渡れますが、梅雨時などで川が増水した時は、何日も足止めを食った時も有ったのでしょう。
今のように水源地から河口までが同じ川の名で呼ばれていなかったのでしょう。平常時は渡り船が運航していましたが、朝鮮通信使や将軍が通過する時は舟橋を付設しました。
近隣から舟を確保し、大変な準備だったのでしょう。

街道を歩いてみて、昔は、どの様な様子だったのだろうと想像することが面白いです。今回、歩いた時間は4時間余りです。簡単に長良川と木曽川を渡る事が出来ました。当時なら船が出る時間まで、待たなければならなかったでしょう。路銀も必要ですし、旅は楽でなかったと思います。

これで美濃路を2回歩きました。
始めて美濃路の名を目にしたのは、境川の桜を見に来た時でした。境川に美濃路の案内板が設置して有ったのです。それまで美濃路の事を知りませんでしたし、その時は気に留めていませんでした。一宮市尾西歴史民俗資料館で美濃路の地図を手に入れまして、何時か歩いてみたいと思っていました。
また、時間を作って続きを歩きます。

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美濃路を歩く ① 垂井宿~墨俣宿

2013-04-06 15:49:46 | 街道歩き

東海道と中山道を結ぶ街道が美濃路です。
岐阜県垂井町の垂井宿から名古屋市の宮宿がその街道で、その間には大垣宿、墨俣宿、起宿、萩原宿、稲葉宿、清洲宿、名古屋宿の7箇所の宿があります。その美濃路を垂井宿から墨俣宿までを歩いてみました。

垂井駅(8:56) ― 追分(9:16)  ― 綾戸交差点(9:55) ― 久徳一里塚(10:50) ― 塩田の常夜灯(11:01)

 ― 奥の細道むすびの地(11:43)  ― 大垣公園 ― 高札場跡(12:57) ― 

東町常夜灯(14:04) ― 町屋観音(14:32) ― 犀川河川敷(15:04)  ― 墨俣バスストップ(15:15)




米原行きの列車です。
4両編成でしたが、とても、混雑していました。


垂井駅です。
駅の北口に降り立ち、ここからウオーキングのスタートです。


相川へ来ると、カメラマンたちが鯉のぼりに向かってシャッターを切っていました。


相川の上にロープを張り、鯉のぼりを泳がせています。
町民が不要となつた鯉のぼりを寄せ、川の上を泳がせています。
5月の子供の日まで泳がせているのでしょう。相川の桜とマッチして垂井の春の景色となりました。
遠くに見えるのは伊吹山で残雪が少なくなっています。


相川の人足渡しの説明板
今は、橋が架かり簡単に渡れますが、当時は苦労したのでしょう。
川の深さで膝までなら何文、腰まで何文と金額が決まっていたのでしょう。


中山道と美濃路の追分です。
石碑が有りました。左へ進むと中山道。右に行くと美濃路となります。


街道らしい雰囲気の松並木が続きます。
右側の松は枯れ瀕死の状態です。


大垣市長松町へ来ると寺の門の修理を始めていました。
この寺には11面観音が安置されていました。
工事を始める人に挨拶の言葉をかけましたら「中に入って見せて貰って行けば」と、声を掛けられました。


長松町に有った石の道標です。
裏側には昭和五年二月長松青年団と有ります。
昭和に入り、東海道線は全通して列車が運行していたのですが、歩いて旅をする人が有ったのでしょうか。
今の洋服姿でなく、着物姿の青年団の人たちの姿が想像できます。


久徳の一里塚。
榎なのか、大木が残っています。


街道の路。
直線の道でなく、微妙に曲がっています。


塩田の常夜灯。
行きかう船の目印となっていました。


塩田橋から南の方向。
杭瀬川は改修されて綺麗な川筋となり、往時の姿が想像できませんが、かつては多くの船が往来したことでしょう。下りは川の流れに任せて下ったのですが、上って来る時は帆を掛けたのか、竿で船を操ったのでしょうか。


杭瀬川の川岸に桜が植えられ満開の時期を迎えていました。


奥の細道のむすびの地へ来ました。
桜が満開です。


住吉灯台が有り、舟が繋留されています。
この場所も川港として利用した場所でしょう。


美濃路の案内板。
大垣は城下町ですが、美濃路は城下をかすめるようにして伸びています。


こんな風景。
大垣公園に寄りましたら、親子連れが桜と城をバックに記念撮影。


アップで。


本町筋に高札場跡が有りました。
今は説明の標識が有るのみです。


佐渡常夜灯。
ここから渡し舟で揖斐川を渡ります。


町屋観音のところに歴史の道の説明板が有りました。


ここから墨俣まで、堤防の上を歩いていきます。
堤防で両側より高くなっています。
輪中の堤防なのでしょう。


地図を片手に歩いていた男性。
言葉を交わしましたら、木曽川から歩いて来たと言っていました。


犀川の河川敷に車が一杯停まっています。
桜が満開を迎え、花見の人たちの車でしょう。
遠くに墨俣城が見えます。


墨俣のバス停にたどり着きました。


ここから始発の岐阜バスです。
定刻になり、バス停に来ました。


バスから見えた犀川と墨俣城です。



垂井宿から墨俣宿までの距離は18.4キロとなっていますが、揖斐川で橋を渡るため大きく迂回しましたので、20キロ程歩きました。
今回は、垂井町。大垣市。安八町。瑞穂市。大垣市墨俣町と歩きました。歩いてみて、自治体によって美濃路への取り組みに温度差を感じました。垂井町は東西に中山道が走っており、追分が有って道標が整備して有りました。松並木が有り雰囲気的にも旧街道を歩いたと言う気にさせてくれました。大垣市は芭蕉の奥の細道の結びの地として句碑が整備されたりしていますが、美濃路を表す道標が整備されていなく、案内看板が有るくらいでした。
地図を手にして街道を歩きましたが、それでも、迷いました。
指示道標が有れば、助かると思いました。1自治体だけで設置するのでなく、協調して進めて貰いたいものです。
歩いてみて、街道沿いに多くのお寺を見かけました。古くから有る寺。多くの旅人を見てきたことでしょう。

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