一宮友歩会の10月例会に参加しました。
今回は河川探訪シリーズで新川を歩くものでした。近鉄伏屋駅を出て伏屋公園に向かいました。この公園で出発式です。初めは新川の堤防を歩き、その後に赤星神社や行雲寺を廻りました。一部、佐屋街道を歩きました。河川探訪シリーズです。庄内川の堤防を歩いたりする箇所も有りましたが、多くは新川沿いを歩きました。開削記念碑や新川堤防が決壊した場所の近くに有るあし原公園を廻り、最後は名鉄の上小田井駅にゴールしました。
川の開削で出来た新しい川で、新川と名付けられました。そんな川の歴史を学ぶ事が出来ました。
近鉄伏屋駅 → 伏屋公園 → 正明寺 → 嶋井公園 → 赤星神社 → 行運寺 →
自性院 → 八屋孝女塚 → 庄内川河川敷グランド → 開削記念碑 → 清須市役所
→ 宮前公園 → あし原公園 → 平田橋殉職記念碑 → 名鉄上小田井駅
この日の参加者は30名だったそうです。朝の内、生憎の空模様でしたので、参加を躊躇した人がいたのかもしれません。公式には15キロの距離となっていますが、恐らくそれ以上の距離が有ったと思います。全員が完歩しました。
第64回例会のコース地図です。
http://www.geocities.jp/jk2unj/datagazou/64map.pdf
名古屋市中川区から名古屋市西区まで新川沿いを歩きました。
伏屋公園です。
出発式。そして体操をしています。
歩き始めました。
前方に見えるのが新川の堤防です。
新川の上流に向かって歩き出しました。
堤防上で後ろを振り返ります。
近鉄の電車が鉄橋を渡っていきます。
この辺り、川幅が広いです。
前日までの雨で水量が多くなっています。
関西線の踏み切りに差し掛かりました。
踏切りの警報機が鳴り出したところです。
鉄道の写真を撮る人たちが居ました。
私たちの前を上りのワイドビュー南紀2号が通過して行きます。
速いスピードで走る特急列車。アッと言う間でした。
三脚を使って撮影している人達。この列車の姿を収めていましたす。
堤防のヒガンバナは今が盛りです。
前日の雨が花に露として乗っています。
新川を渡ります。
長松橋のプレートが着いていました。
最初に寄ったお寺は正明寺です。
国道302号線の歩道橋を渡ります。
道路の先には千音寺の名古屋西JCTが見えます。
嶋井公園まで来ました。
ここで休憩です。
下見の時。高齢者のグループが、ここでグランドゴルフをやっていました。
赤星神社に着きました。
赤星神社の由来について、Mさんから説明です。
赤星神社は星をお祀りしているのだそうです。
神社にお祀りしてあるご神体で、隕石の場合が多いそうですが、こちらの神社はそのような事はないそうでした。
赤星神社の横の千音寺スミレ保育園です。
運動会をやっていました。
親さんはカメラを構えて居ます。
千音寺地区を歩いていて、市場之割。南之割。それに中ノ割と言う自治会の掲示板を見かけました。その横にはお堂が有りました。この辺りは冨田荘であり、条里制の区割りからこのような地名が残っているのだそうです。
行運寺に来ました。
入口左側の掲示ケースの中に面白い事が書いて有りました。
閉籠門の額が有り、ミンナが見上げました。
名古屋市中川区と海部郡大治町の境界です。
佐屋街道を歩き始めました。
佐屋街道は東海道の七里の渡しのバイパス的な道です。
設置してから時間が経つのでしょう。路面のプレートが読み難くなっています。
こちらは街道に面した場所で高札場跡の標識が立っています。
街道らしい姿をした道です。
自性院に来ました。
ここからは佐屋街道から分かれて北に向かいます。
自性院でYさんから説明を聞きます。
新川の橋を渡ります。
右は下流を眺めました。
歩いていて、見かけた柑橘類。
民家の塀から枝が出て実がなっていました。
ザボンではないかと言う声が聞こえました。
稲が実り、穂が垂れています。
このあたりの家々。
石垣が出来ていて、高台に有ります。
新川を開削した時に出た土の上に家を構えたのかも知れません。
少しでも高い場所に家を構えようとしたのでしょう。
前の方で立ち止まって居ます。
八屋孝女塚です。
2人の娘が孝養を尽くして亡くなり、村人が碑を建立したものです。
庄内川の堤防に上がります。
庄内川の堤防を歩きます。
河川敷を使ったゴルフ練習場が有ります。
庄内川河口より1キロのプレートが立っています。
堤防の上を歩くのは、右左の視界が広がり気分の良いものです。
黄色い管は大治浄水場から名古屋市へ水道水を送っている送水管です。
犬山から鍋屋上野浄水場へ送水していますが、こちらの水も名古屋市民の命の水です。
庄内川の堤防の向こうに名古屋駅前のビル群が見えます。
以前より、ビルの数が多くなってきています。
まだまだ、増えるのでしょう。
堤防に腰を下ろし、昼食の時間です。
広いグランド。
ここでは野球の練習をしていました。
胸に中京何とかと描かれていました。
中学生くらいの年代だと思いましたが、リトルリーグかも知れません。
前方の高層ビル群を眺めながらの昼食です。
トイレのために堤防下へ降りました。
ここは、野球の練習場になっており、簡易的なトイレを使わせて貰いました。
昼食の時間を終え、再び歩き始めました。
堤防から降りて川沿いの遊歩道を歩きます。
前方に煙突の有る清掃工場のような建物が見えます。
地図で調べましたら、名古屋市の五条川工場です。
名古屋市だけでなく、清須市や北名古屋市など名古屋市の北西部の街のゴミをいってに引き受けています。新川に五条川流れ込んでいます。五条川は入鹿池から流れ出し、犬山市、扶桑町、岩倉市を流れて来てあの場所で合流しています。
新川に架かる新川橋を渡ります。
この道は美濃路の一部です。
新川橋の上から新川の下流を眺めました。
開削記念碑で休憩です。
新川開削の説明です。
東海豪雨に寄る新川の決壊。
美濃路の歴史。
開削記念碑の有る場所はポケットパークのような場所になっています。
3枚の解説板が有りました。
ここでは、Yさんから新川開削の歴史の説明です。
尾張名古屋の北側を庄内川が流れて居ます。上流の矢田川が木材の乱伐に寄って、たびたび氾濫しました。
それに伴って庄内川も氾濫を繰り返しました。そんな状況を打開するため新しい川の開削が計画されました。庄内川のバイパス的な役目を果たす河川です。
開削を命じたのが徳川宗睦です。宗睦の少し先の殿様が徳川宗春です。宗治は将軍吉宗から倹約するように言われた人です。開削工事が何時ごろか判らなくても吉宗の享保の改革より、少し後の時代であっただろうと想像できます。
清須市役所に来ました。
市役所の庭に新川開鑿頌徳碑がありました。
ふれあい小橋を渡り、振り返ると清須市役所が見えました。
車の通行が多い道路から下に降ります。
宮前公園まで歩いてきました。
宮前公園の横に小場塚弁才天が有ります。
説明板を読んでいます。
宮前公園から再び堤防に上がり、歩きます。
前方に見えるのは名古屋高速6号清須線です。
あし原公園に寄りました。
この辺りは東海豪雨で堤防が決壊した所です。
ここでは、Yさんから東海豪雨の説明です。
平成12年9月の集中豪雨です。
秋雨前線を台風が刺激して、時間当たり90ミリの豪雨とか、豪雨の合計が600ミリ近くに及んだと話されました。
この集中豪雨は、それ程古いことでは有りません。
参加者の口から色々の記憶が語られました。
また、堤防に上がります。
堤防の上からチクノ祭りが見えました。
中小田井四丁目とあります。
祭りが終わったタイミングのようです。
ミンナで一致協力してやったお祭なのでしょう。
お疲れ様でした。
堤防を歩きます。
道の隅に彼岸花が見えます。
前方の道路は名古屋環状自動車道です。
平田橋を渡り、平田橋事件殉職記念碑へ来ました。
この記念碑は自由民権運動に伴って起きた事件で殉職した警察官を悼んで建立された記念碑です。
記念碑の前からと裏側を眺めいてるところです。
字が読み難くなっています。
自由民権運動と言っても集団で蜂起し、略奪に走る輩もいたのだそうです。2人の巡査の殉職。そして、この事件をきっかけに20名あまりが検挙されました。この一連の事件を名古屋事件と呼んでいます。
上小田井駅の近くまで歩いてきました。
ここで解散式と体操です。
解散となり、上小田井駅まで歩いてきました。
今回、殆ど新川の近くを歩きました。新川が開削された歴史。それに東海豪雨などを勉強できました。
充実したウオーキングでした。
一緒に歩いたMさんのホームページです。
http://www.geocities.jp/jk2unj/no64.htm
一宮友歩会の7月例会が開催されました。友歩会の例会は、通常は偶数月に開催しています。8月が開催月となりますが8月は暑いので、7月に開催しています。今日は、梅雨の合間でありながら、気温30度を越える暑い日でした。
今回はJR千種駅の出口から向かい、今池西公園で出発式を行いました。その後は北の徳川園に向かって歩き、途中は建中寺、徳源寺に寄りました。貨幣資料館や名古屋市政資料館に寄ったりして地下鉄の新栄駅にゴールしました。
JR千種駅 → 今池西公園 → 物部神社 → 建中寺 → 徳源寺 → 徳川園 →
ルーテル復活教会 → 了義院 → 三菱東京UFJ銀行貨幣資料館 → 二葉館 →
山吹谷公園 → カトリック主税町教会 → 名古屋市市政資料館 → 烏ケ池 →
貞租院 → へちま薬師 → 地下鉄新栄駅
第63回例会のコース地図です。http://www.geocities.jp/jk2unj/datagazou/63map2.pdf
名古屋市東区内を歩いてきました。
JR千種駅からでて、東側の今池西公園で出発式が有りました。
出発前で、ラジオ体操をしています。
この公園へ来て、クマゼミの鳴き声を聞きました。
クマゼミの鳴き声は今年初めて耳にしました。あの鳴き声を聞くと一層、暑さが増ます。
公園からスタートしました。
物部神社へ来ました。
都会の中で、木が繫る場所でした。
建中寺に来ました。
建中寺の名は知っていましたが、この寺に来るのは初めてです。
立派な門が有ります。
木陰で会員の安井さんの説明です。
説明に使った資料です。明治20年の名古屋市の地図です。
明治であっても、江戸の頃と、大して変わっていません。
東海道線が載っていますが、まだ全線開通はしていません。今の名古屋駅は名古屋のハズレとなっています。
大正のはじめに下水道が開通したそうです。下水が出来ても、処理場へ流れていくのでなく、川へ垂れ流しだったのだそうです。堀川や新堀川に流れていきました。未処理の汚水が流れていったので、汚かっただろうと言う事でした。
この地図。まだ、中央線が出来ていないし、今朝の千種駅の東辺りは何も無い状況です。名古屋城の南は武家屋敷が並び碁盤の目の状態になっています。
地図の解説で、名古屋台地と言う言葉が出てきました。台地上に家々が並び、大地のしたが畑や田です。そのような観点で地図を見ると、地図を見る事が面白くなります。
一宮友歩会の例会は、単に歩くのでなく、会のブレインが解説してくれます。このような事で、知識を深める事が出来ます。
門が2箇所有るように感じます。
あの奥が建中寺です。
徳源寺へ来ました。
境内の建物に相撲部屋の表札が下がっています。
7月10日から名古屋場所が始まります。
東京から九重部屋が部屋を構えています。
多くの人が稽古を見に着ていました。
タマタマ、7月例会が東区を歩くこととなっていました。
こうして、相撲部屋が名古屋場所で来ているところを見られたのは、ラッキーでした。
境内に幟旗が立っています。
裏返しで読み難いので、反対にしてみました。
千代の国や千代大龍。
千代皇は東京世論会と有ります。与論島の出身なのでしょうか。
九重部屋はみんな、千代が付きます。
外国人力士の多く、が上位を占めている今の時代です。
日本人力士に、少しでも、上位を目指して欲しい所です。
http://www.chunichi.co.jp/event/sumo/about-lodgings.html
http://www.chunichi.co.jp/event/sumo/lodgings/19.html
徳源寺の佛殿。
徳源寺の境内です。
これから寺を出発します。
徳川園へ来ました。
徳川園の内部です。
左がお庭で、正面は徳川美術館です。
徳川園の中の通路。
緑が一杯です。
次に来たのはルーテル教会です。
日本福音ルーテル復活教会。
予定に無かったのですが、牧師からお話が聞けました。
話の後に教会の中に入らせて貰いました。
船底天井となっています。
歩いていて、歩道にルート表示があるのを見かけました。
この表示に沿って東区を歩く事が出来ます。
貨幣資料館に来ました。
資料館の内部です。
各国の貨幣や、わが国の貨幣、紙幣。色々の資料が展示して有ります。
今の時期。特別展で、「広重 富士三十六景の世界」が開催されていました。有名な樽の中に小さい富士が見えるものや岩の上から投網を打っているもの。色々並んでいました。
こちらは金のなる木です。
大判小判が下がっています。この大判に触れる事が出来ました。
右側の人は眼が不自由な人です。
大判を触って感触を確かめています。
館内の資料展示。
紙幣が出来る行程を解説しています。
文化の道。
二葉館の前を歩きます。
山吹谷公園へ来ました。
ここで昼食時間を取りました。
時間となり、これから出発します。
町並み保存地区の説明です。
次に来たのはカトリック主税町教会です。
教会の敷地内に「ルルドのマリア様」と、ルルドを模した洞窟が復元されています。
以前にこの教会へ来た事が有りますが、敷地内にこのようなルルドの洞窟があるとは知りませんでした。
洞窟とマリア様。
予定していなかったのですが、教会関係者の人が説明してくれました。
白壁地区。
武家屋敷街を歩きます。
武家屋敷外を歩きました。
この一角に名古屋拘置所がありました。
高層のビルです。
名古屋市市政資料館に来ました。
資料館の内部。
立派な階段です。
ここは何度も映画やテレビのロケで使われています。
資料館から出ます。
暑い中を歩いて来て、多くの人は休憩室で休憩していました。
この資料館へは幾度も来ていますので、改めて見学しようと言う気には、なりませんでした。他の方のソウだったのでしょう。
烏池です。
圓明寺の石鐘。
先の大戦で寺の鐘を供出し、その後に石鐘が吊るされました。
その姿が今も続いています。
圓明寺の石鐘の説明板です。
貞租院へ来ました。
内部が極彩色となっているようです。
へちま薬師へ来ました。
本殿とへちまの下がった手洗場です。
へちま薬師を出て松山公園に来ました。
地下鉄新栄駅がゴールですが、その近辺には解散式を行える適当な場所が有りませんので、この公園で解散式を行います。
感想
梅雨の合間の暑い日に名古屋市の東区を歩きました。名古屋場所を控え、相撲部屋の宿舎で稽古の様子を見る事が出来たのはラッキーでした。このような事。夏の盛りを迎える名古屋の風物詩かも知れません。
暑い中。良く歩きました。
一緒に歩いたMさんのホームページです。
http://www.geocities.jp/jk2unj/nagoyap7.htm
一宮友歩会の6月例会が開催されました。今回は大垣駅の北口を出発して大垣市の北部、主に赤坂町辺りを歩きます。その後は、勝山に寄ってから御首神社に参ります。その後は養老鉄道の北大垣駅に戻るというコースの予定でした。
時間が経過したことや会員の疲労度合を勘案して、御首神社で解散式を行いました。そして、全員がJR赤坂線の荒尾駅からワンマンカーに乗車して帰途に着きました。
6月例会です。私、Kオジサンがリーダーを勤めました。
JR大垣駅 ― 日吉神社 ― 荻神社 ― 笠縫の里碑 ― 受円寺 ― 大垣輪中堤
― 赤坂港跡 ― 赤坂本陣公園 ― 旧清水家住宅 ― 妙法寺 ― 金生山化石館 ― 昼飯大塚古墳 ― 旧早野邸セミナーハウス ― お茶屋屋敷跡 ― 御首神社
― JR荒尾駅
第62回ウォーク例会の地図です。
http://www.geocities.jp/jk2unj/datagazou/62map.pdf
JR大垣駅北口です。
出発式で会長の挨拶。その後は準備運動をして、歩き始めました。
歩き初めです。
この辺りは鎌倉街道が通ってたことを想像できる道で、直線の道ではありません。
左は笠縫の里碑。この場所へは第55回例会の時に寄りました。誰かから、「この場所。以前来たこと有るねー」の言葉が出ていました。
右は、その石碑のところに信号機が有り、信号待ちです。
受円寺の門が見えます。
お寺に寄りますので、挨拶をしに先を歩く会長です。
受円寺の境内。ここで休憩です。
水分補給をするようにと、声が掛かっていました。
右は境内で咲いていたショウブです。
受円寺を出て、鎌倉街道を歩きます。
まだ、新しい鎌倉街道の碑が設けて有りました。
国道21号線の下を通過してきて、堤防に上がります。
右はピンボケでした。お許しください。
大垣輪中堤を歩きます。
サクラの古木が有ります。
大垣輪中の水防倉庫があります。
輪中堤防を歩いています。
田植えの準備の整った田を横に歩きます。
後ろの家屋。
4月の下見に来た時は工事中でした。
右は木に包まれた神社です。
こちらの田も準備が整っています。
田に水が入り始めました。
中山道を歩きます。
昔の街道と言う雰囲気がします。
これから赤坂の町。赤坂宿へ入っていきます。
今日のKオジサンの後ろ姿です。
今日はリーダーを勤めていますので、トップを歩いています。
右はリーダーで旗を持ちながら歩く羽島市のKさんです。
大垣市赤坂商工会発行のパンフ。
美濃赤坂から引用させて頂きました。
美濃赤坂駅から北が西濃鉄道で、貨物列車の路線です。
左で大久保や昼飯へも線路が延びていますが、今は廃線となっています。
赤坂宿の入口です。
左側に中山道の浮世絵が掲げて有ります。
赤坂港跡へ来ました。
前方の建物は赤坂港会館です。
右側に川が流れています。
港跡で、かつては、ここから船で物資を運び出していました。
地図を手元に説明するYさん。
Yさんが説明に用いた明治時代の古地図です。
東海道線が敷設された頃のモノです。敷設が完全に終わっていないのでしょうか。鉄道が今のような黒と白の線になっていません。
大垣駅でなく、大垣停車場となっています。
中山道や美濃路が確認できます。
街道で、並木の印がついています。
古い地図ですが、地図を眺めるのが面白いです。
旧清水家住宅です。
外壁が綺麗に整備してあります。
清水家の内部です。
ここに常駐する係員が説明してくれました。
清水家は江戸時代の住宅で、米屋を営んでいて、近代に入ってから医者となったと言っていました。
館内に展示して有った赤坂宿の航空写真。
姿が変わったのが判ります。
赤坂から石灰岩が貨物列車で運び出されると、みんなに、説明しました。
清水家にいた時、踏切を貨物列車が通過しました。
ピーピーと警笛を鳴らしながら空の貨車をディーゼル機関車が引っ張っていきました。
先頭の機関車は見えませんでしたが、貨物列車が通ると教えてくれたのです。
妙法寺の参道です。
赤坂宿のボランティアガイドの方が説明してくれています。
向こう側の二階建てが探訪館です。
赤坂宿は中山道の中でも大きい宿場町です。
皇女和宮の降嫁の際、街道の家々が整備したそうです。
金生山化石館へ向かいます。
登り坂になっていて、歩くのが少しキツイです。
金生山神社の境内で昼食の時間となりました。
思い思いの場所でお昼と成りました。
昼食時間を終え、全員写真の撮影です。
今日の参加者。全員で53名だそうです。
元気な人ばかりです。
撮影を済ませ、化石館に入ります。
館長が説明をしてくれました。
金生山からフズリナなど海の化石が発見されます。
金生山が海底だった訳ですが、この位置で海底だったのでなく、大陸が移動したしたように、赤道近くの南方からこの場所が移ってきたのだそうです。
館内の説明です。
化石館の東側の眺望です。
遠くに岐阜の金華山が見えます。
美濃赤坂駅を見下ろします。
単機。電気機関車が見えます。
金生山から下山して来ました。
昼飯大塚古墳へ来ました。
私たちが来た時に、他の人たちが登っていました。
古墳の階段を登ります。
私たちは歩いてこの古墳へ来ました。
後から、先ほど説明してくれたボランティアガイドの方が来るまで追いかけて来てくれました。
この古墳や関が原の合戦などを説明してくれました。
古墳の解説です。
この昼飯大塚古墳は前方後円墳で、150メートルの長さがあるそうです。
この東海地方では名古屋市の断夫山古墳は151メートルで最大だそうです。
1メートルの差で、2番目の大きさだと言っていました。
昼飯大塚古墳から旧早野邸セミナーハウスへ向かい、その後に勝山に行く計画でした。昼飯大塚古墳で説明してくれたボランティアガイドから勝山は入山が出来ないと言われました。
安楽寺の境内となっていますが、裏側から表側へ通過するだけなのです。勝山を通ろうと思っていましたが、断念しました。
勝山はお勝山と呼ばれ、関が原合戦の時、陣が張られたところです。歴史観点からも価値のあるところなのですが、こり現状なのは惜しい場所です。
勝山に寄らない代わりに、お茶屋屋敷跡に寄りました。
ここは綺麗なボタンが見れるところですが、時期が終わっていました。
歩いて来て、御首神社に来ました。
この神社は平将門に由来する神社です。
http://www.mikubi.or.jp/profile.html
字の如く、首から上の大神様です。
神社の境内で体操を済ませ、解散式を行いました。
神社で解散式が済みましたが、全員がJR荒尾駅から乗車します。
列車の待ち時間。
石灰岩を運ぶ空の貨物列車が美濃赤坂駅へ向かっていきました。
You tebeに石灰岩貨物列車が有ります。
https://www.youtube.com/watch?v=JN-Mk1iOrFI
https://www.youtube.com/watch?v=XOEZbmpRdYg
石灰岩貨物は、日に3本走るそうです。
新日鉄へ運ぶのですが、そのウチに石灰岩が枯渇してしまわないかと思います。
15時43分の大垣行きが来ました。
今日は第62回の例会でした。
今回は大垣市の北部。赤坂地区を中心に歩きました。
毎度、なじみの人達と顔を合わせました。
何れも健脚な人ばかりです。
宿場町の雰囲気を味わうと供に、巨大な前方後円墳を見る事が出来ました。
一緒に歩いたMさんのサイトです。こちらもご覧下さい。
http://www.geocities.jp/jk2unj/62reikai.htm
一宮友歩会の4月例会が開催されました。今回は弥富市の近鉄弥富駅をスタートして、逆時計回りに弥富市内をウォークし、元の近鉄弥富駅まで歩きました。弥富市は海抜0メートル地帯で、古くから水との戦いがあった所です。水郷の塔が木曽川の堤防の横にありここで昼食なりました。ここには伊勢湾台風で被害を被り、復旧工事がなされ、一先ず工事の区切りが付いたとして記念のモニュメントが設置して有りました。また、水郷の塔は塔に上がる事が出来、この一帯を眺めれるようになっていました。
ここから「弥冨ふるさとガイド」に案内をして貰いました。丁度、桜の時期で、弥富市文化広場の前では「やとみ春まつり」が開催されていました。桜を愛でながら弥冨の街を歩くことが出来ました。
近鉄弥富駅(9:21) ― 鯏浦(ウグイウラ)城跡(9:36~9:50) ― 興善寺地蔵(10:06) ―
荷之上の力石(10:17) ― 服部家住宅(10:26~10:28) ― 金樹寺(10:31~10:45) ―
御着船所跡(11:01) ― 黒川治愿君功徳碑(11:08~11:15) ―
内藤十左衛門自刃地(11:23~11:27) ― 水郷の塔(12:00~12:55) ―
歴史民俗資料館(13:08~13:30) ― 立田輪中人造堰樋門(13:46~13:55) ―
森津の藤(14:11~14:26) ― おみよし松(14:45~14:50) ― 近鉄弥富駅(15:18)
この日の参加者は52名でした。ウオーキング日和の空の下。全員が完歩出来ました。
弥富市を逆時計回りに歩きました。
http://www.geocities.jp/jk2unj/datagazou/61map.pdf
近鉄弥富駅の横の駐車場です。
ここで出発式。
会長が挨拶しています。
ラジオ体操。そして準備体操をしました。
これから出発です。
歩き出した時。頭上を大型の飛行機が飛来して来ました。
この後も次から次へと飛来して来たのです。
時間にして5分置き位でした。
風向きでこの辺りから中部国際空港に向かうのだろうか。
頭上の騒音が気になりました。
実は、中部国際空港が開港する前は名古屋空港に降りる飛行機が我が家の南西方向を次々に飛んで行きました。コースになっていたのですが、頻繁に飛んでいました。あの時はうっとおしかったです。
スタートしました。
民家が並ぶ中を歩きます。
最初に寄ったのは鯏浦城址です。
城址と言っても、砦のようなものです。
樹齢600年といわれる大楠です。
大楠は戦や人々の生活。色々の場面を見てきたことでしょう
樹齢600年といわれる楠の大木です。
それに鯏浦城址の説明板が設置して有りました。
鯏浦城址について説明する丸井さん。
丸井さんはお城や歴史に詳しい人です。
言うならば、一宮友歩会のブレインです。
そして、みんなが丸井さんの説明を聞いています。
説明用に配布された資料です。
明治24年の地形図です。
今は関西本線ですが、地図では、まだ関西鉄道となっています。ウィキぺディアでは明治28年に名古屋駅 - 前ヶ須駅間が開業したと有ります。この地図には長島駅は載っておらず、加筆したものです。そして同年に全通しています。今の名鉄弥富線は、まだ、尾西鉄道となっています。当時は蒸気機関車で運行していて、合併後か合併前か。後から電化したのでしょう。
歩いた、御着船跡ではすぐ傍が川となっています。ふたつやの渡し跡も近くが川となっています。地図に渡しの記号が載っています。今の状態から近くに川が有った事が想像できませんが、現実には、川が有りました。
明治の東海道。それに鍋田川や筏川もはっきり載っています。古い地図を見る事が面白いです。
興善寺地蔵。
弥富町史に記載されている最古の石仏とあります。
祠の中にお地蔵さんが安置して有りましたが、帽子を被っていてお顔は拝見できませんでした。
服部家住宅へ来ました。
服部家です。
服部家は重要文化財に指定されて居ます。服部家は見学できますが、予約してなく見学しませんでした。茅葺きの立派な門です。茅葺きを維持していくだけでも、大変だと思います。
塀の向こう側でどのような建物なのか判りませんが、位置から離れではないかと推測します。ここも茅葺きの家屋です。
金樹寺へ来ました。
門の前に立派な松が有ります。
御着船所跡へ歩いてきました。
明治天皇焼田港御着船所跡。
明治天皇が遷都に寄り、京から東京へ向かった時、桑名から乗船して、この地で下船しました。
いま、ここの辺りは住宅街で川が流れていたとは想像できませんが、明治28年の地図では、直ぐ近くまで木曽川が来ています。
裏に解説文が描いて有りますが読み難くなっています。
弥富市五之三自主防災格納庫と書かれています。
青い表示が付いていて、海抜0メートルを表しています。
この辺りの地図を見てみますと、海抜が0かマイナス表示となっています。
五明神明社へ来ました。
ここには黒川治愿(ハルヨシ)君功徳碑が設けて有ります。
黒川治愿は、簡単に言うと愛知県で河川改修などの土木工事に骨折った人です。名古屋市で黒川が流れていますが、黒川は彼の名から取ったものです。
河川の土木工事に詳しい安井さんです。
黒川治愿にちなんで、碑のある神明社で解説しています。
安井さんの用意した資料です。
五明神明社を後にします。
右は木曽川水管橋です。安井さんは三重県に水を送っているのだと言っていました。
東名阪の下を歩きます。
桃の花が満開となっていました。
証玄寺。
左の石柱が内藤十左衛門自刃の地の碑です。
表は内藤十左衛門自刃之地となっています。右は裏側で岐阜県本巣郡巣南町教育委員会と彫られて居ます。内藤十左衛門は幕府方の役人で、十左衛門の上役に責任が及ばないようにとの思いから自害したのだそうです。巣南町教委が設置したのは十左衛門の居所が本巣郡十五条村(岐阜県巣南町で今は瑞穂市です。)だったからでした。
こんなサイトが有ります。
http://www.cbr.mlit.go.jp/kisokaryu/gakusyu/ijin/6.html
県道沿いを歩きます。
アスファルトの割れ目から出たスミレが咲いています。
このような状況下で咲く事が出来るのですので、恐らく外来種なのでしょう。
国道1号線を横切り、水郷公園に向かいます。
筏川の橋を渡ります。
サクラが見頃を迎えています。
水郷公園へ来ました。
「やとみ春まつり」が開かれていて、その駐車場となっています。
水郷公園へ来ました。
前方に水郷の塔が見えます。
水郷の塔の下に来ました。
お昼の時間となりました。
ここ、水郷公園の思い思いの場所でお昼とします。
水郷の塔に上がってみました。
尾張大橋が見えます。
川の向こうは三重県で、桑名市です。
水郷の塔から関西線が見えます。
前方に上り特急南紀ビューが見えます。
12時27分です。
ガイドがやってきました。
会長が弥富ふるさとガイドを依頼していました。
多分、12時半にでも、来て欲しいとなっていたのでしょう。
弥富ふるさとガイドのあいさつです。
これからふるさとガイドに案内してもらいます。
ガイドに付いてもらい、水郷公園を後にして、出発しました。
ふたつやの渡し跡。
今は川から離れた場所となった渡し跡です。
地図では、このの場所の所まで木曽川が来ています。
御囲い堤を歩きます。
弥富市歴史民俗資料館へ来ました。
この資料館は弥富町の役場だった建物です。
資料館の職員が少し、説明をしてくれました。
その後は自由に見学してくださいとなりました。
幾つも金魚を飼育している水槽が並んでいました。
金魚の種類が判りませんが、デメキンだけは判ります。
この辺りはゼロメートル地帯です。
伊勢湾台風では、甚大な被害を被りました。その事を紹介しています。
右は、ボランティアが御囲堤や輪中について
右は金魚Ⅰ金魚の選別を紹介しています。
左は金魚の出荷で昭和40年頃の写真。そして今は、ビニールに酸素を注入して出荷しています。
ガイドに案内されて資料館から出ました。
山口誓子の短歌で「群金魚流なして槽廻る」と書かれています。
昭和61年にこの地を訪れた時に詠んだものだそうです。
弥富にはこの他にも、金魚が詠まれた短歌が有ると説明していました。
ガイドに案内されてサクラの下を歩きます。
左手が祭りの会場です。
筏川に架かる橋を渡ります。
祭りの会場です。
祭りの会場です。
弥富市文化広場の前が会場となっています。
輪中公園の中を歩きます。
輪中公園で南東に歩いて来ると立田輪中人造堰樋門へ来ました。
人造堰樋門で、明治34年9月竣工の文字が読めます。
人造堰樋門
人造堰樋門の裏側はこのようになっています。
鍋田川の堤防となっていたところで、コンクリート跡が残っています。
門をくぐり、中に入ります。
森津の藤です。
まだ、藤の花の時期には、早いです。
藤の古木。
ボランティアガイドが森津の藤の事を説明してくれました。
古木で、ここの藤が他所に行き、藤棚で枝を伸ばしていると言っていました。
おみよし松へ来ました。
おみよし松。
高くて立派な松です。
ボランティアガイドの案内はここまででして、ここでお別れしました。
金魚を飼育している池です。
池と言わず田と言っているようです。
近鉄弥富駅が見える所まで歩いて来ました。
お疲れ様でした。
お疲れ様でした。
近鉄弥富駅に着きました。
ここで解散式をして、解散です。
13キロのコースとなっていますが、それ以上の距離が有ることでしょう。
感想
今回歩いたコースは愛知県の西の端で西側に木曽川の堤防が有りました。堤防を越えれば木曽川でその先は三重県になるところでした。この辺りは海抜0メートル地帯です。水郷公園には伊勢湾台風災害復興竣工記念碑が有りました。当時の高潮の高さを表すように5メートルの高さのモニュメントが有りました。弥富市歴史民俗資料館では伊勢湾台風に冠する展示が有りました。改めて、水郷地帯だということを感じさせられたのと、伊勢湾台風の記憶を甦らせました。一緒に歩いた人同世代です。同様の気持ちを抱いたのではないかと思いました。
弥富と言えば金魚の産地です。歴史民俗資料館では色々の金魚を見る事が出来ました。歩いていて、金魚の飼育池を目にする事も出来ました。
弥富の歴史を知ることも出来ました。初めに寄った鯏浦(ウグイウラ)城跡で説明を受けましたが、信長の弟。信興の戦が有ったことを教えて貰いました。渡された資料の地図では、木曽川が載っていましたが、今の姿の木曽川からは想像できないような地形です。今日の整った形は、幾度と無く繰り返された災害の結果だと思います。
水郷地帯の弥富を歩き、色々の事を学ぶ事が出来ました。
次回、は平成28年6月4日(土)、JR大垣駅へ9時集合で行います。私がリーダーを勤めます。皆様の参加をお待ちしています。
会長。寺さんのサイトです。
http://terasan.dousetsu.com/wa190.html
参加したMさんのサイトです。
http://www.geocities.jp/jk2unj/61reikai.htm
一宮友歩会のサイトです。
http://terasan.dousetsu.com/uho.html
一宮友歩会の協力員親睦ウォークが開かれました。協力員と言うと会に協力している人でなければならないように思えますが、誰でも参加できますとは会長の弁です。
昨年は協力員ウォークでは犬山から、小牧のフレッシュパークを歩きました。
http://blog.goo.ne.jp/nkataoka1948/e/f2c30a9d4c83e67c7659ab8d16d82cc4
今年は点検を兼ねて、利用者目線で南側の半分であるフレッシュパークから庄内川までの区間です。昨年の続きで、今回は逆に南から北へ歩きました。
JR勝川駅に集合し、一旦は庄内川の堤防に上がりました。ここから、尾張広域緑道のウオーキングをスタートしました。JR中央線の踏切りを渡ったり、国道19号線を横断歩道で渡り、国道155線は地下道を通りました。尾張広域緑道を北へ北へと歩きました。
ソメイヨシノは枝の先に花がチラホラ。ユキヤナギは枝を真っ白にしていました。
陽気が良く、春のウオーキングを楽しめました。
公益財団法人 愛知県都市整備協会のおでかけナビ・愛知の公園で遊ぼうから引用しました。
http://aichi-koen.com/special/owari/walkingmap/index.html
愛知県都市整備協会は大高緑地や庄内緑地など公園を管理する団体です。尾張広域緑道もその1つの公園ですが、面的な公園と違って、尾張広域緑道は何市にもわたる線となった異種な公園です。
朝。JR勝川駅に集合しました。
会長の挨拶で始まり、全員でラジオ体操。
そして、出発です。
歩き初めです。
勝川駅前ですが、スクランブル交差点になっていました。
振り返ると、JR勝川駅が見えます。
勝川駅前の印象ですが、整備された駅前だと感じました。
庄内川の堤防を目指して歩きます。
Kオジサンの後ろ姿。その1.
庄内川に向かう道です。
右側に何か施設のようです。
地図で調べましたら春日井市南部浄化センターとなっています。
恐らく、下水処理施設で処理した処理水を庄内川に放流しているのだと思います。
段下公園と言うところです。
「十五の森」案内図が設置して有ります。
段下公園から、更に南に歩き庄内川の堤防の下まで来ました。
尾張広域緑道の案内板が設置して有ります。
庄内川の堤防に上がってみます。
堤防上から東を臨みました。
少年野球でしょうか。
自転車が何台も並べられています。
手前はこれから試合が始まるみたいです。中央は試合中。そして、その向こうは練習中。
野球場が何面も有ります。
庄内川の遊水地ですが、都会の中の貴重な場所です。
先に見えるアーチ型の橋は名古屋第2環状自動車道の庄内川大橋です。
庄内川の対岸。
アサヒビールの工場が見えます。
対岸の水道施設です。
3本の流水調節装置が見えます。
一宮友歩会で、庄内川ウォークとして13.07.06.にJR神領駅からアサヒビール名古屋工場までをウオーキングしました。
上の2枚は、庄内川の松川橋を渡り、アサヒビールに向かって歩いた時の写真です。歩いている道は、すいどう道緑道です。
地図で調べましたら、庄内川堤防の南側に名古屋市上下水道局 川北ポンプ所となっています。地図に青い点線が乗っていて、その先に鍋屋上野浄水場が載っています。ここの下のパイプが鍋屋上野浄水場に向かって行きます。
あの時は、木が植樹された道を歩いたという印象でしたが、今回は、木曽川に向かって遡って歩く訳です。過去に見たことと、今、目にした事が結びつく事が面白いです。
堤防の階段から降り、これから本格的に歩きます。
尾張広域緑道から少し、横道に外れます。
ここは、先ほど段下公園で案内図の有った「十五の森」へ向かいます。
「十五の森」の石柱。
裏面の文字は読み難くなっています。
「十五の森」クロガネモチの木と説明板。
前方の高架橋。
名古屋環状自動車道で、下は国道302号線です。
302号線を渡りました。
照明灯の柱にフレッシュパークまでの距離が表示して有りました。
照明灯の柱に貼られているもので、気をつけて見ないと見落としてしまいます。
ユキヤナギ。
満開と言う感じがします。
Kオジサンの後ろ姿。その2.
ソメイヨシノ。
花がチラチラと咲き始めています。
広域緑道。
こんな休憩場所が整備してあります。
中央線の踏切りを渡ります。
踏切りの名称が水道踏切となっています。
踏切事故が生じないよう気をつけて渡らなければなりません。
瑞浪行きの快速が通過します。
快速が通過した後、反対方向から来る列車のライトが見えました。
私たちが渡り終えると警報機が鳴り出し、列車が通過しました。それ程、頻繁に列車が通過していました。
ライオンズクラブの記念碑が設置して有りました。
ボケの花です。
誰かがボケの花と言いました。
私も、見た途端、ボケだと思ったのです。低木ですが綺麗な花が咲いていました。
サクラの根元は個人でお花畑にしても良いようです。
耕していた人と会長が話しをしています。
サクラの並木の中を歩きます。
フェンスの横を歩きます。
サクラが並木になっていますが、ここのサクラは里さくらと、プレートが下がっていました。ソメイヨシノより、少し開花が遅いのでしょう。
フェンスに下げられたプレート。
名古屋市上下水道局 名古屋浄水場となっていますが、この施設は鳥居松沈澱池です。
水槽で魚を飼育しています。
右は鳥居松沈澱池です。
広い鳥居松沈澱池。
高い所からですと、大きく捉えれるのですが、無理でした。
フレッシュパークまで距離。
ここの表示も小さいものです。
尾張広域緑道の運動広場のアーチ。
アスレチック ゾーンとなっています。
アスレチックゾーンの中の説明板。
小牧、長久手の戦いの説明が有ります。
左は石に岩崎城と刻まれています。
犬山城とか小牧城と刻まれた石が並んでいました。
春日井市総合体育館まで歩いてきました。
アソコでトイレ休憩。そして昼食とします。
明日から、高校の県道の選抜大会が開かれます。
父兄でしょうか、列を作っていました。
会場内で席を取るためだと言っていました。
総合体育館の内部です。
正面です。
明日からの準備が整っていました。
総合体育館の隣。
グランドが有りまして、接地して芝生広場が有りました。
そこで昼食を取りました。
この女性。体育館の職員のようでした。
私たちが食事を終えた頃に現れました。
彼女が現れて、言ったのは、芝生広場を使用するのは許可を得て貰わなければならないと言うことでした。規則でそのようになっていたのでしょう。私たちは通りかかって、タマタマここでお昼を取っただけです。彼女から規則の事を言われました。
誰かが言っていました。ここへは、2度と来ないと・・・・。
規則の事を触れに来た彼女に、全員写真のシャッターを頼んでしまいました。
再び、尾張広域緑道へ戻りました。
腹筋を鍛える遊具などが揃った場所です。
左側で女性が座り込んでいました。
私は気に留めずに歩きました。
この女性は座り込んで、ツクシのハカマを取っていたのです。カミさんはそれに気が付いたのだ言っていました。孫たちは遊具で遊んでいます。
春の情景の1コマです。
鉄管が展示して有る場所に来ました。
1000ミリと2000ミリの鉄管が展示して有ります。
国道155線の跨線橋です。
歩くのも終盤になってきました。
階段を登るのも、辛くなってきました。
ユキヤナギの横を歩くカミさん。
カミさんは山登りには、一緒してくれませんが、ウオーキングなら一緒に歩けます。
白い塀を建てた工事現場。
平成31年までの工事。
まだ、3年ほど工事が続きます。
塀に設置してある説明。
このような説明板を掲示してもらえると、どのような工事が行われているのかが判ります。
国道155線の下を地下道で通過します。
前方の高架。ピーチライナーの高架橋だったものです。
ピーチライナーは、今は運行されていません。この高架橋は、どうなるのでしょう。
フレッシュパークまで歩いてきました。
フレッシュパークのタワーが見えてきました。
タワーをアップで。
フレッシュパークの案内図です。
フレッシュパークでは、色々のおもしろ自転車に乗る事が出来ます。
色々なおもしろ自転車が並んでいます。
左上はペダルを分で走るもので無く、足の開閉を動力として前に進みます。運動不足の体で乗ると、足の内転筋が翌日に痛くなりそうです。
尾張広域緑道の拠点となっている所です。
フレッシュパークの建物の中に都市整備協会が入っています。
ここ。フレッシュパークを起点として南と北へ。
終点までの距離が表示して有ります。
冒頭の地図では、4.9キロに3.8キロとなっています。鳥居松沈澱池の分を加えると9.3キロになるのでしょう。ウオーキングを終えて、フレッシュパークから名鉄味岡駅までと、開始前にJR勝川駅から庄内川まで歩いた分を加えると12~13キロ程となります。これだけの距離を良く歩きました。
昨年は木曽川の取水口からフレッシュパークまでを歩きました。そして、今年は庄内川からフレッシュパークを歩きました。尾張広域緑道を完全に踏破したこととなります。それに13.07.06に庄内川の南の「すいどう道緑道」の一部を歩きました。地図で調べてその先に浄水場が有る事が判りました。道を歩いて、歩いたコースが「水の道」となっている事が判りました。このように知る事が出来た事が面白いです。
一緒に歩いたMさんも協力員ウォークを上梓しています。ご覧下さい。
http://www.geocities.jp/jk2unj/okryokudou2.htm
一宮友歩会の2月例会が開催されました。今回は一宮市の真清田神社をスタートして鎌倉街道沿いを稲沢市のJR稲沢駅まで歩きます。まず、最初に浄土宗寺院の常念寺に寄ります。常念寺は鉢の蓮の花のお寺です。次は牛野神明社の境内にある照手姫袖掛の松を見ます。歌舞伎などで有名な照手姫が小栗判官助重と鎌倉街道を通って京へ向かう途中、ここで小袖を掛けて休憩したと言われています。
次に一宮市博物館へ向かいました。ここではトイレ休憩しました。その後、妙興寺に向かいました。妙興寺は梵鐘や勅旨門がある臨済宗の大きなお寺です。新陰流開祖上泉信綱が修行した無刀取り発祥の地です。修行道場として僧堂が設置されています。この後、特定区画整理事業で整備された多加木緑道を歩き円光寺を経由してJR稲沢駅に向かいました。
一宮市の中心部に有る真清田神社をスタートしました。歩くにつれて、中心部から住宅地へ。そして田や畑が見えるところを歩きました。歩いていて、住宅の多い所から郊外の住宅の少ない場所へ推移していく様子を眺める事が出来ました。
真清田神社(9:30) ― 常念寺(9:35~9:40) ― 照手姫袖掛けの松(10:07~10:12)
― 東市場社(10:26) ― 妙興寺(10:45~10:53) ― 三十八社(11:32) ―
多加木緑道 ― 下赤池児童公園(12:15~13:00) ― 下津城跡(13:22~13:30) ―
鎌倉街道碑(13:40) ― 円光寺(14:03~14:22) ― JR稲沢駅(14:02)
今回のコース地図です。
真清田神社からスタートして、部分的には鎌倉街道を歩きます。
http://www.geocities.jp/jk2unj/datagazou/60map.pdf
真清田神社
真清田神社に着きました。
真清田神社は一宮市の中心部に有りますが、神社の真ん前に一宮市道路元標が埋め込まれています。 真清田神社へは、七夕祭の時に来た事が有りますが、祭で沢山の人がいて、気づきませんでした。このように道路元標が神社の正面に埋め込まれているとは知りませんでした。
例会の集合時間は9時です。
その時間まではまだ、早いので 真清田神社にお参りしました。
手洗舎で手を清める二人に巫女さん。
朱の袴が輝いているように見え、カメラを向けました。
朱色には五穀豊穣等に結びつく色だと言っているのをテレビで見た事が有ります。
本殿に向かいます。
本殿でのお参りです。
こちらのご夫婦も例会に参加される方でした。
本殿の中に先ほどの二人の巫女さんの他にも巫女さんが居まして座っていました。朝の神事が始まる時だったのでしょうか。
出発式
例会に多くの人が集まってきました。
右は出発前に準備体操をしているところです。
常念寺
真清田神社から出発して、常念寺に着きました。
境内に梅の木が有ります。
枝が下に垂れ下がっていますので、枝垂れ梅なのでしょう。
一厘だけ咲いています。
境内に入ります。
右側に立派な門が有りました。
門の前に鉢に入った蓮が有ります。
常念寺を出て、住宅街を歩きます。
前方に牛野神明社の森が見えてきました。
照手姫袖掛けの松
牛野神明社に着きました。右側は境内を掃き掃除をする親子が居まして、微笑ましい姿をカメラに収めました。
照手姫袖掛けの松です。
牛野神明社の境内に照手姫袖掛けの松が有ります。小栗判官と照手姫が鎌倉街道を通って京に向かう途中にここで休み、小袖を掛けたと伝わっています。松の寿命は100年から200年程度と思います。何代目の松でしょう。
牛野神明社の境内に有る狛犬です。
Mさんがこの狛犬は砂岩で出来ていると解説してくれました。砂岩の狛犬が奉納されているのはこの地方と徳島地方だけだそうです。
狛犬の話をしていて横から、最近、狛犬が盗られていると言う声が有りました。それは私もテレビでやっているのを見た事が有ります。備前焼の狛犬が盗まれると報じていました。一対の狛犬で、片方だけが盗られていました。
妙興寺を目指して歩きます。
参加者が大人数で列が長くなっています。
一宮市博物館の駐車場に来ました、
博物館の駐車場は広いところです。
一宮市博物館です。
駐車場にトイレが有りましたが、一時にトイレを使う人が集中しま下ので、博物館のトイレを使わせて貰いました。博物館では「くらしの中の民具」と言う企画展が開かれています。
妙興寺
博物館の北側に妙興寺が有ります。妙興寺は臨済宗の大きなお寺です。
妙興寺に来ました。説明があります。
境内の立て札を見ます。
立て札に上泉伊勢守信綱巨士修道跡と有ります。
信綱の弟子に柳生宗厳は無刀取りを完成させ信綱より印可状を受けたと有ります。このようなことから無刀取り発祥の寺となりました。
立派な門です。
この門は勅使門なのでしょうか。
額には祈祷と有り、上の額には妙興報恩禅寺と有ります。
立派な門です。
その門をくぐり、次へ向かいます。
鎌倉街道
三十八社を過ぎて、鎌倉街道を来たに歩きます。
県道513号線を東に向かいますと、東海道線の踏切です。
丁度、列車が通過しました。
東海道線の踏切です。
左はこの踏切から来たの方角で、高架となります。
右側は稲沢方面です。
上り線で、貨物の線路が分岐して行きます。
多加木緑道
踏切から東に来ました。
ここからは多加木緑道を歩きます。
道路と立体交差となっていて道路の下を通ります。
道路の下を通るのですが、両側の壁にはモザイク画が施されています。
単に、壁と言うよりもこのように壁絵が有るのは安らぎにつながります。
整備された多加木緑道を進みます。
左は前方に向かっていく様子です。
右は流水の湧出し口でそこから水が流れ出ています。
前方にブリッジが見えます。
ブリッジで道路と交差しています。
右はブリッジの上を歩いた時に、後ろを振り返りました。
緑道を歩いて来て、案内表示を眺めます。
多加木緑道の案内板です。延長が700メートルほどの道ですが、公園の中を歩いているように感じる道です。都市景観大賞を受賞していて、受賞を表す石碑が設置して有りました。
区画整理で出来た緑道のようです。
立派な道ですが維持費に多額の費用がかかるのではと思いました。
赤池地蔵
右の道路は旧国道22号線です。
歩いて来た所が赤池地蔵の有る場所で一里塚跡のような場所です。
赤池古蹟と言う石碑が設置されていますが、漢文で読めません。
赤池里とか鎌倉街道の文字が有ります。
この場所白い札に太平洋と日本海を結ぶ桜。奥美濃の桜守 佐藤良二氏植樹と有ります。
白い札が小さく誰も、この桜の木を木に留めていませんでした。一緒に歩いたカミさんもこのプレートに気が付いていませんでした。桜が植えられて、もう、30年以上経っているでしょう。写真を見ると桜の木がノコギリで切られています。誰かが故意に切ったのでしょうか。
田んぼの横の道を歩きます。
左側の高架は名神高速です。
下赤池児童公園で昼食としました。
公園の隣が金龍寺です。寺の境内で分散し、昼食を取りました。
昼食後に、今日の参加者、全員で写真を撮りました。
金龍寺の境内に咲いていたスイセンです。
前を歩く3人の女性。
一宮友歩会では、氏名と住所地のカードを希望が有れば無料で作っています。
このカードで何処から来た、なんと言う名の人か判ります。
私はカードが付けていて、各務原市・・・・・。と言われました。
左。稲沢市に入りました。稲沢市のマスコット。いなっピーと言うのですね。裸祭の裸男の姿で植木鉢を持っています。
下津(オリヅ)城址
Mさんから下津城について、説明を受けています。
電柱の向こうに石碑が有ります。
出発したときに渡された資料です。
説明を聞きながら資料に目を落とします。
下津城跡の説明資料です。
資料の地図です。鎌倉街道、青木川と自然堤防。今の現地の姿とはかけ離れています。
立派な門の家屋。その前に鎌倉街道の石碑が有ります。
豊田佐吉が滞在した野村織工場跡
豊田佐吉が滞在した野村織工場跡で説明板が設置してあり、説明文を読みます。
説明盤は設置されてから歳月が経ち、かなり痛んでいます。
読み難いですが、野村職工場でバッタン織機の試作機研究に打ち込んだと有ります。その試作機が野村家に保管されていたが、昭和23年に豊田家へ引き渡されたと有ります。
豊田佐吉記念館
2013年1月に湖西市の豊田佐吉記念館を訪ねました。生家を復元したものなのですが、茅葺の平屋家屋です。屋内には佐吉の母が機織をする像が有りました。母親が苦労して機を織る姿を見て、母の手助けをしたいという気持ちから織機の発明に結びついたのでしよう。
豊田佐吉記念館。
http://www.toyota.co.jp/jp/about_toyota/facility/sakichi/
豊田佐吉記念館へ訪れた際、別棟で織機の体験をさせて貰ったカミさんです。
手と足と、両方動かします。
想像では有りますが、豊田家へ引き渡された織機は恐らく、湖西市の記念館へ行ったものだと思います。かつて行って来た記念館と今回のウオーキングで訪ねた場所。点と点で有ったものが線として結びつきました。
あの記念館に行った時もトヨタの社員のような人が来ていました。トヨタの物づくりの原点がこのような織機の開発からだと思います。
ウオーキングで、タマタマ見た事が、かつて出かけた場所と結びつく事が面白いです。
朽ちて来ている案内板。新しく設けると同時に、豊田家に引き渡されたと有ります。その当時の事を、もう少し掘り下げてみてはどうかと思います。
圓光寺
圓光寺に着きました。
黄色い帽子を被った男性が待っていてくれました。
待っていた男性は、郷土史研究会の松田と名乗られまして、圓光寺の解説が有りました。
解説する松田さん。
圓光寺の檀家は、2軒しかないと説明されました。
それでは、何で維持しているのだろうと思いました。
圓光寺の東側。本堂です。
本堂に上がってお茶を飲んで、と言われて、本堂に上がりこみました。
JR稲沢駅
今日のウォーキングのゴール。
稲沢駅まで歩いてきました。
電気機関車が見えます。
JR稲沢駅東広場で整理体操をして、その後に解散式です。
帰路。
稲沢駅で列車を待っていましたら、貨物列車が入線してきて、停車しました。
乗務員の交代が有りました。
東海道線の駅で、名古屋駅や大垣駅で乗務員の交代を見た事が有ります。それらの人はJR東海の社員だから名古屋や大垣が乗務員交代の場所となるのでしょうか。
となると、JR貨物は稲沢機関区が乗務員の活動拠点となっているのでしょう。
貨物列車を見送る運転士。
この貨物列車は何処まで行くのと聞きましたら東京までと応えてくれました。東京まで乗務して行く訳は無いので、何処で乗務員の交代をするのだろうと思いました。
感想
この日の参加者は59名でした。このところ、30人ほどの参加者の例会が続いていましたので、多くの人が参加した例会となりました。一宮友歩会のウォークは男性の参加者が多いのも特徴です。男女比は7対3程度でした。
一宮友歩会のウォークは現地で解説が有る事も特徴です。妙興寺や下津城址で説明を受けましたが、活きた社会科の勉強が出来ます。
コース上で設定されていて、寄った場所が野村織工場跡でした。以前、出かけた湖西市の豊田佐吉記念館と結びつきました。このように点と点だったものが、関連付けて考察できたのも面白いことでした。
真清田神社から JR稲沢駅までの13キロを歩きましたが、好いウオーキングでした。
この日、一緒に歩いたMさんのホームページです。
http://www.geocities.jp/jk2unj/nisiowarip13.htm
一宮友歩会の12月例会が開催されました。今回は近鉄戸田駅をスタートして戸田集落を歩きます。前田城跡で、前田氏ゆかりの前田速念寺に寄ります。庄内川を渡った後に梓ノ木公園で昼食。荒子城跡や荒子観音を経由してあおなみ線の荒子駅へ。そして西生寺を経由して近鉄烏森駅にゴールしました。
この中川区は戸田城、前田城、荒子城など戦国時代の城址が点在する地域です。そのような地域を歩きました。現地で、古い地図を使って解説して貰いました。歴史的なことを学習できて良かったです。
近鉄戸田駅を出発し戸田集落を歩きました。そして東へ、東へ。
前田城址や荒子城址に寄り、最後は近鉄烏森駅へゴールです。
この日の参加者は42名でした。初冬の時期でしたが穏やかな陽気の中、ウオーキングを楽しめました。
近鉄戸田駅(受付)(9:05) ― 直会公園(出発式)(9:17~9:27) ― 鈴宮社(9:38)
― 旧富田町役場跡(9:47~10:00) ― 前田城跡(10:59~11:24) ―
土之宮神社(11:33) ― 梓ノ木公園(12:11~12:47) ― 宝珠院(12:56~13:00)
― 荒子城跡(13:16~13:18) ― 荒子観音(13:28~13:31) ―
あおなみ線荒子駅(13:47) ― 西生寺(14:07~14:10) ― 近鉄烏森駅(14:10)
今回のコース地図です。
中川区を西から東へ歩きました。
http://www.geocities.jp/jk2unj/datagazou/59map.pdf
戸田駅で受付
右は近鉄戸田駅です。
集合場所が近鉄の戸田駅なっていました。駅の前で受付を行いましたが、準備体操をするには狭い場所です。ここでは受付だけとし、出発式を直会公園で行いました。
出発式を行う場所。直会公園へ歩きます。
直会公園で出発式
直会公園での出発式です。
まず、会長の挨拶。
そしてリーダーの紹介。アンカーの紹介が有りました。
その後、今回のコース説明です。
ラジオ体操。
そして、ストレッチ運動をして、ウオーキングできる体に持って行きます。
戸田地区を歩きます
歩き始め。
浄栄寺の前を通過します。
鈴宮社(れいぐうしゃ)へ来ました。
左は本殿。
右は山車の蔵です。シャッターに三之割と書かれています。
前方に天満宮が見えてきました。
左は天満宮の本殿。
右は山車の蔵です。天満宮らしくシャッターに梅鉢が描かれています。
天満宮は二之割です。
戸田まつりは一之割から五之割に有る5台の山車を引き出して町内を練ります。山車の上で文字書きからくり人形や越後獅子からくり人形が笛太鼓の音に合わせて踊ります。
これらの山車がヨーロッパに出かけて演じた事が有ると説明が有りました。
冨田村道路元票の道しるべの説明板。
左の石柱には読み難いですが、富田村道路元票と書かれています。
左は、富田町役場跡まで歩いて来たところです。中は役場跡地の石碑です。
右は伊勢湾台風の後の状況を説明するプレートです。
この辺りはいわゆる0メートル地帯です。
伊勢湾台風で甚大な被害を受けました。説明プレートに伊勢湾台風の後に浸水し、その時の水位が表示して有ります。
説明プレートを拡大しました。
旧富田役場跡で説明が有りました。
その時に使った資料です。
冨田荘と条里跡で、鎌倉の円覚寺に冨田荘の絵図が伝えられているそうです。富田荘は荘園で、北東域に「冨田荘十二ヶ里」と呼ばれた6町至宝の十二の区画が規則正しく並んでいます。この条里制の遺構「十二ヶ里」はごく近年まで遺存しており地名や地割と一致していると説明が有りました。
国道302号線の歩道橋を渡ります。
前を歩く人。
目の不自由な人です。
左側の人が、手助けして歩いています。
新川を渡ります
まもなく、新川に差掛かります。
新川。伏屋橋の上から上流方向を見ました。
関西線の鉄橋が見えます。
こちらは下流方面です。
近鉄特急が橋を渡っています。
伏屋橋を渡ります。
近鉄の立体化
近鉄の立体化工事現場に来ました。
右は10月17日に下見で歩いた時のものです。この時は、まだ名古屋方面も四日市方面も並んでいました。
左は今日の状態です。名古屋方面行きは平面ですが、四日市方面は高架となっています。1ヶ月余りで工事がこれだけ進捗しました。
工事のお知らせです。
平成30年3月末までとなっています。後、2年余りで完全な立体交差となります。
となるとここの踏切が廃止となり、通行が便利になります。
前田速念寺へ
前田速念寺が見えてきました。
前田速念寺の正面です。モミジが紅葉しています。
ここで、安井さんの説明です。
安井さんは河川関係で詳しい人です。
この時の説明は、したの地図に有る川で右から庄内川、新川、戸田川、福田川、蟹江川、日光川が流れています。これらの河川で、昔から有った川。新しく作った川が有る。一番右の庄内川から旧新旧新旧新と並んでいるとの解説です。
地図上で古い河川は蛇行していて氾濫したのでしょう。そして、旧河川では水防的に充分でなく、新しい河川が開削されました。
こちらは丸井さんのレクチャーです。
丸井さんは歴史に詳しい人です。
赤い線で示すように条里制の姿が良く判ります。
それに、点在する城。
資料に城主の名も書かれています。
渡された資料です。
明治24年の地図です。
関西本線は開通していますが、近鉄はまだ開通していません。
佐屋街道。東海道。それに百曲街道が載っています。旅人はこの街道を歩きました。
河川も旧来から有る川は蛇行しています。新川や日光川は新しく作られた河川ですので、真っ直ぐです。
古い地図を眺める事が面白いです。
前田速念寺に入ります。
速念寺の境内に入りました。
前田利家のカブトを象徴するような、特徴の有る屋根です。
ここ、速念寺は前田氏発祥の地です。
前田與十郎の石碑が有ります。
代々與十郎を称していたとの説明が有りました。
速念寺の住職から御話しが有りました。
土之宮神明社へ
土之宮神社に来ました。
左は本殿。右は境内の奥の方に有った石碑です。
読み難いですが、福留将監古城跡と刻まれています。
盲人の人に触ってみたらと勧めました。
土之宮神社を出て庄内川に向かって歩きます。
庄内川。
見える鉄橋は関西線の鉄橋です。
新前田橋を渡ります。
橋の上へ来ると、名古屋駅の高層ビル群が近付いてきました。
梓ノ木公園で昼食
お昼の時間です。
梓ノ木公園でランチタイムとなりました。
日向ぼっこをしながら弁当を広げます。
ランチタイムを終えました。
会長が出発の前に少し時間を取ると話しました。
紹介されたのが、渡辺さんと言う盲人の人です。
盲人が白杖を縦に立てている姿はSOSの印です。
こう言う姿を見かけた時は手を差し伸べてと言うものでした。
何日か前の中日新聞です。
第1面の記事でしたが、気に留めていませんでした。
その記事の人が渡辺さんでした。
宝珠院へ
昼食を終えて向かったのが、宝珠院です。
宝珠院に来ました。
主殿の屋根の鳩尾瓦が金色に光っています。
これから宝珠院の内部に入らせていただきます。
境内にスイセンが咲いていました。
スイセンを見ると冬でも、春を連想します。
左は宝珠院の隣の不動さんです。
右はお不動さんから次に向かって歩いています。
荒子城址へ
荒子城址に来ました。
石柱には富士社天満社と刻まれています。
富士社。天満社由緒記です。
前田利家誕生遺跡の石碑
前田利家と荒子城の説明板。
荒子観音へ
荒子観音に向かって歩きます。
荒子観音の門へ来ました。
中の仁王像が見難くなっています。
こちらは荒子観音の本殿です。
荒子公園
荒子公園の中を歩きます。
初冬の穏やかな日差しがさしています。
荒子駅
あおなみ線の荒子駅へ来ました。
駅前に騎馬像が設置して有りました。
騎馬像をアップで。
この若武者の姿。
何処かで見た事が有ると思いました。
後から発見したのは荒子城址に有った説明板に乗っていた絵です。
若武者の絵から像にしたのでしょう。
この絵。
何処かの寺か博物館が保持していると思います。
駅前に平面交差する鉄道の写真と説明が有りました。
路面電車と貨物列車の平面交差です。
この交差点。信号が有ったのでしょうか。
あおなみ線。荒子駅の横。
ガードをくぐります。
八幡社へ
八幡社に寄りました。
樹木が紅葉しています。
道路の向こう側に篠原郵便局が見えます。
この郵便局。都市景観賞を受賞した建物です。
西生寺へ
西生寺に寄りました。
立派な樹木です。
木の標柱が有り、「イブキ」となっていました。
ゴールまではもう直ぐです。
JR東海の名古屋工場の前を歩きます。
ここは車両整備の大きな工場です。
烏森駅へゴール
お疲れ様でした。
近鉄の烏森駅に着きました。
ここで、閉会式です。
次回、2月のウオーキングを約して解散となりました。
今回の万歩計です。
歩き終えた歩数から歩き始めの歩数を引くと23121歩なります。
距離は。今日の距離が12キロでしたので21.2キロは多くカウントし過ぎです。
脂肪は90グラム程を燃焼させたことになります。
でも、家に戻り、ビールを飲んだら・・・・・。
それにしても、良く歩きました。
最後に
第59回例会として名古屋市中川区を歩きました。この辺りは、いわゆる海抜0メートル地帯です。伊勢湾台風で痛めつけられた状況を解説板が設置して有りました。
解説と言えば、、一宮友歩会には丸井さんと安井さんと言う強力なブレインが居ます。度重なる水害で河川を改修したり、新しく開削したりと低湿地地帯ならではの苦労が有りました。そのような水害の多い場所について、河川関係に詳しい安井さんが解説しました。
また、ここの集落。戸田では戸田一族が出た場所であり、同じく前田集落では前田一族が出た場所です。そのような歴史面は丸井さんから解説が有りました。
ウオーキングで歩くだけでなく、このように解説して貰える事が勉強につながります。
初冬の時期では有りましたが穏やかな陽気の中でウオーキングをする事が出来ました。
一緒に歩いたMさんのホームページです。
http://www.geocities.jp/jk2unj/59np6.htm
一宮友歩会の7月例会が開催されました。今回は名鉄犬山線下小田井駅をスタートして花咲公園に向かい、その後は庄内川の堤防を歩きました。そして美濃路を歩き、その後、清洲公園を訪ねました。清洲城、貝殻山貝塚資料館を回りカルチバ新川と言う施設で一旦は解散とし、希望者がキリンビール名古屋工場に向かいました。
清須市は平成17年7月7日に西枇杷島町、清洲町、新川町が合併して誕生した市で、後日、清須市と春日町が合併して、現在に至っています。今回、歩いたのはその清須市で、清須市の中を美濃路が通っています。美濃路は家康が関が原の合戦の後に、戦に勝利した家康が通ったことから吉例街道と呼ばれています。
古い街道筋。その中では、地元の人達が茅の輪作りに取り組む姿を見ることが出来ました。
名鉄下小田井駅(9:15) ― 花咲公園(9:26~9:29) ― にしび夢だいこん(10:06) ―
問屋記念館(10:19~10:23) ― 松原神社(10:27~10:29) ― 飴茶庵(10:41~10:45)
― 新川開削頌徳碑(10:55) ― 清洲公園(12:04~12:30) ― 清洲城(12:37) ―
貝殻山貝塚資料館(12:54~13:31) ― カルチバ新川(13:51) ・・・・キリンビール名古屋工場
第57回のコース地図です。
下小田井駅をスタートして清須市内を時計回りに歩きました。
下小田井駅前の上新公園です。
出発式の後、ウオーキングに備え準備運動をします。
花咲公園
最初に寄ったのが花咲公園です。
この公園には枇杷島町にまつわる琵琶の彫刻が展示して有ります。この琵琶は「恋待白菊」と名付けられていますが、藤原師長が村娘との分かれ際に与えた琵琶が「白菊」と言う琵琶でそれに由来しています。
藤原師長(フジワラ モロナガ)が配流となったときの説明板が2箇所の場所に設けて有りました。
左は名古屋市西区枇杷島の清音寺の門前に設置してある説明板です。右は13.02.02の瑞穂区ウオーキングの際に見かけた説明板です。こちらの説明板は瑞穂区妙音通りの嶋川稲荷の前に設置して有りました。
井戸田学区を歩いた時と言い、枇杷島を歩いた時と言い、歴史的な事柄を関連付けて考察できるのも、歴史的ポイントを歩く面白さです。
庄内川の堤防を歩きます。
後ろには庄内川に掛かる名古屋高速の橋が見えます。
名鉄電車の鉄橋下まで来ました。
にしび夢だいこん
堤防下の近くには、にしび夢だいこんの石造があります。
ポケットパーク的な場所になっています。
石の道標には東西南北の方角が刻まれています。
石碑に刻まれた字は読み難いですが、説明板に解説が有ります。
説明文と絵。
この絵は「尾張名所図会」の絵で、この絵に描かれているだいこんが夢だいこんの石像となりました。
美濃路を歩き始めます
美濃路に入りました。
頭上を新幹線が通過します。
問屋記念館
問屋記念館に着きました。
問屋記念館の内部です。
野菜のサンプルが置かれ、当時の野菜問屋を表現しています。
松原神社へ
美濃路沿いの松原神社へ来ました。
神社では茅の輪造りの真っ最中でした。
珍しい茅の輪造りを見学です。
松原神社の役員の人たちが茅の輪造りに奮闘していました。
少し言葉を交わしましたが、近くの庄内川で「茅」を刈って来たのだそうです。
このような風習。
若い人に伝えていかなければ途絶えてしまいます。
茅の輪造り方。
茅の輪を通る意味をこれからの世代の人に継承して行って欲しいと思います。
力を合わせて茅の輪造りに奮闘しています。
男性の背中は汗がビッショリとなっていました。
松原神社を後にします。
神社を去る時、11日に行われるので、おいでと言われました。
美濃路を歩く
問屋記念館からは自由歩行で飴茶庵へ10時40分に集合となっていました。
ここ、美濃路は自動車の交通量が多く、各自で歩きました。
ここは一球庵です。
屋根に屋根神様が祀って有ります。
屋根の上の屋根神様です。
一休庵の前には笠が下がっています。
一休庵を出ます。
美濃路を歩く皆さん。
バラバラに歩行します。
以前に美濃路を歩いた事が有ります。
そして、事前に下見でも歩きました。
でも、このような銭湯が有ることには気が着きませんでした。
こちらが飴茶庵です。
ここにも屋根神様が祀られています。
飴茶庵の内部です。
中では駄菓子を売っています。
童心に返って駄菓子を買い込みます。
私も駄菓子を買いました。
透明の容器に入っているのは4分の1にカットされたカルメ焼で、1個10円でした。
瑞正寺へ
瑞正寺へ入ります。
瑞正寺には南妙法蓮華経と彫られた宝塔が立っています。
そして、この地の近くに尾張藩の刑場が有りました。
罪人の菩提を弔うと、由来の説明が書かれています。
歴史の権威。丸井さんの説明です。
新川開削頌徳碑の場所で
こちらは河川学会の権威。安井さんです。
ここは新川開削頌徳碑の有るポケットパークです。
この辺りを庄内川や五条川が流れていますが、度重なる水害に悩まされていて、川を開削しました。
新しく造成した川で、新川となりました。
新川が開削された時代背景が説明されて居ます。
度重なる水害で、民百姓が困っていました。そんな窮状を訴え出て・・・・新しい川の開削工事が始まりました。
この場所は新川端のたもとに有り、ポケットパークのような場所です。
そのような所に、新川開削頌徳碑が設けて有ります。
美濃路の説明と旧新川橋の柱です。
地図が面白いです。
その、説明で配られた地図です。
明治24年のモノのとなっています。東海道線が全通したのは明治22年です。この地図には下から左上に向かっていくルートが有ります。まだ工事中なのか、正式な鉄道の地図記号になっていません。
名古屋城の位置は名古屋衛戊となっています。空襲で天守閣が焼けましたので、この時代の時は現存したのでしょう。
地図記号では田の揮毫が載っています。真っ白の所は畑です。畑では野菜が作られ問屋に出されたのでしょう。この辺り。野菜の生産地でした。
長谷院へ
長谷院まで歩いてきました。
この辺りまで来て、雨が振り出しました。
雨の中。
五条川の五条橋を渡ります。
新幹線の五条川橋の下を歩きます。
清洲公園へ
清洲ふるさとやかたに到着です。
ここで昼食の時間を取ります。
晴れていれば清洲公園で昼食となるところでしたが、雨で、ふるさとのやかたの中での昼食です。
清洲城に向かいます
昼食を終え、清洲城へ向かいます。
甲冑武者姿をした人に迎えられました。
柴田勝家の姿をした人です。
橋の上で全員写真を撮りましたが、この方にも加わって貰いました。
城の門に入っていきます。
雨の中、城の下を通過します。
雨中ですが、天守閣に出ている人を見かけました。
清洲城を模した門。
貝殻山貝塚資料館へ
貝殻山貝塚公園へ来ました。
貝殻山貝塚資料館に入ります。
資料館の館内。
学芸員が朝日遺跡について説明してくれました。
資料館には火起こしを体験できる道具が有りました。
棒の先が回転で熱くなり煙が立ちました。
外でも学芸員が説明してくれました。
公園には竪穴式住居が復元してあります。
カルチバ新川で解散式
カルチバ新川に到着です。
カルチバ新川の温室を借りての解散式です。
歩いてきて整理体操を行います。
東海豪雨の痕
左は清須市西枇杷島庁舎が入っているビルです。この辺りも東海豪雨で浸水した場所だそうです。
誰かが言っていましたが、このビルにその時の痕が残っているのだそうです。
右は歩いていて、見かけた東海豪雨での浸水位置を示すものです。
今から15年前の事となりますが、これも歴史の一部だと言えるでしょう。
新川開削頌徳碑に設置してあった東海豪雨の説明板です。
平成12年9月11日から12日にかけて、豪雨が有ったことを説明しています。
今回のウオーキング。
全部で53名の参加者が有りました。
はじめの内は曇天でしたが、途中から降られました。もう少し遅い時間から振り出せばと思いました。何と言っても、今回のメインは美濃路を歩いたことです。古い街道の雰囲気を残す道。関が原の合戦が終わり、その後に家康がこの街道を通ったそうな。
そのような事を想像するのも面白いことです。
今回見かけた花咲公園の大きなブロンズ製の琵琶の彫刻。
以前にウォークした場所の説明板にも琵琶の由来が書かれていました。以前の事と今回の事とが関連付けられる。これもウオーキングで歴史を探求する面白さだと思います。
この後はキリンビール名古屋工場に向かいました。
出来立てのビールを試飲。 キリンビール名古屋工場を見学
http://blog.goo.ne.jp/gifu2212/e/a41104cb016675f6ce3905424a6bc47f
をご覧下さい。
一宮友歩会の6月例会が開催されました。今回は名鉄本線鳴海駅をスタートしてから東海道を歩き、その後、鳴海城跡公園を訪ねます。善照寺砦跡。中島砦跡。丸根砦跡そして大高城跡へと歩きました。
この辺りは桶狭間の合戦が有った古戦場に近く、城や砦が多く分布しています。450年の昔はどのようだったのだろうと想像を膨らませるコースを歩きました。
名鉄鳴海駅(9:16) ― 城跡公園(9:29~9:37) ― 鳴海球場跡(10:00) ―
瑞泉寺(10:20~10:25) ― 中島砦(10:33) ― 常夜灯(10:44) ― 琵琶ヶ池(10:58)
― 大高緑地(11:17~12:03) ― 丸根砦(12:10~12:13) ― 春江院(12:40) ―
万蔵醸造(12:46) ― 大高城跡公園(12:51~12:53) ― 長寿寺 ― 鷲津砦跡(13:23)
― 明忠院(13:28) ― 鳴海八幡社(13:42~13:44) ― 名鉄鳴海駅(14:00)
第56回のコース地図です。
鳴海駅をスタートして時計回りに歩き、鳴海駅へ戻りました。
http://www.geocities.jp/jk2unj/datagazou/56map.pdf
名鉄電車の鳴海駅前です。
ウオーキングの開始前に体操を行いました。
鳴海宿の本陣跡の説明板が設けて有ります。
このシャッターの建物。
形から山車の車庫ではないかと思います。
東海道を歩きますが、アスファルトの道に弥次さん喜多さんをイメージしたタイルが埋め込まれています。
東福院へ来ました。
ここには弁天様が祀って有ります。
説明板には、ここの門が鳴海城の古材を用いていると書かれています。
鳴海城跡公園に来ました。
丸井さんが鳴海城の説明をしています。
誓願寺へ来ました。
ここには芭蕉最古の供養塔が設けてあります。
http://www.asahi-net.or.jp/~gi4k-iws/sub33-12.html
ここでも丸井さんの説明が有りました。
芭蕉が門下がアチコチに居たのだそうです。
復元された鳴海宿の高札です。
何枚もの高札が掲げられていて、どのような高札が掲げてあるのか、説明しています。
高札は8枚残っており、復元されたレプリカ5枚が掲げてあると説明しています。
この高札場は東海道から離れた道路にありますが、当時は東海道沿いに設置していたのでしょう。
高札を覗き込んでいます。
成海神社へ来ました。
こちらは鳴海の字でなく成海の字が使われています。
根古屋城(鳴海城)の一部であった所で、鳴海城の広さが想像できます。
そんな広い城域でしたが、真ん中に道路が設けられてしまいました。
旧鳴海球場跡に来ました。
説明板には、「日本初のプロ野球開催の地 鳴海球場」と有ります。
当時の写真が載っています。
昭和11年2月9日。名古屋金鯱軍と東京巨人軍が試合をし、10対3で名古屋金鯱軍で勝利したと書かれています。東京からはるばる汽車に揺られて来た東京巨人軍。名古屋金鯱軍に地の利があったのかも知れません。その時の東京巨人軍の投手が沢村栄治だったとなっています。
今では、その球場跡が自動車学校として使われています。
車庫として使っている所がスタンドです。その状態から、当時は球場だったと想像する事が出来ます。
善照寺砦跡に来ました。
今は公園として整備して有りました。
砦跡が高台となっており、視界が広がります。
瑞泉寺に来ました。
ここでも丸井さんの説明が有ります。
こちらの建物。重要文化財とまでは成っていないが、文化財だと解説していました。
瑞泉寺の門と都市景観重要建築物へ指定された指標。
扇川と手越川の合流地点です。
こちらは河川分野の権威。安井さんの説明です。
この辺り、集中豪雨で川が氾濫した事が有るのだそうです。
今は護岸工事が進み整備されています。
中島砦に来ました。
こちらの砦は山でなく平地に有ります。
砦の敷地が個人所有ですが、自由に見学できるようになっています。
なお、敷地内には中島城址と書かれた大きな石碑が立っています。
手越川沿いを歩きます。
東海道がこの道の北側を通っていますが、車の交通量が多いので、避けてこの道を歩くコースとしました。
途中、手越川沿いの道から東海道へ出ました。
もう直ぐ常夜灯です。
平部町常夜灯に来ました。
この常夜灯。鳴海宿の東の入口となる場所に設けてあるのでしょう。
大高緑地へ入って来ました。
大高緑地は緑の多い公園です。
琵琶ケ池の横を歩きます。
大正9年の地形図にこの池が有りますので、古くから有った池なのでしょう。
スワンボートが浮かんでいます。
市民の憩いの場と言った所でしょうか。
大高緑地公園の恐竜広場でランチタイムと成ります。
鬼頭さんが重いビワを持ってきて、みんなに配ってくれました。
左は氷を入れて持ってきたクーラーボックスから取り出します。
左はポリ袋の中を撮らせて貰いました。
袋から4個づつ取って先に進むことに成りました。
袋に手を入れて、取らせて貰います。
いただいたビワ。4個です。
少し、酸っぱいのも有りましたが、ウオーキング時の体です。
酸っぱさは苦になりませんでした。
恐竜広場で、思い思いの場所で昼食を取ります。
大高緑地の案内図です。
左下の現在地から右上の21番。恐竜広場へ歩いてきました。
大高緑地公園の恐竜広場で昼食を終え、午後の出発です。
まず、向かったのが丸根砦跡です。
砦跡は小高い山で、坂を登ります。
木の茂る中、階段を登って来ます。
右は丸根砦の供養碑です。
丸根砦に付いて丸井さんが説明しています。
松平元康(徳川家康)に攻められて400名に及ぶ兵が戦死したのではないか、との事でした。
丸根砦の説明板です。
説明盤には松平元康(徳川家康)が攻めて全滅させたと有ります。この時は今川軍としての戦です。
幼少期、今川義元に人質として預けられていた身。ある時は今川義元と同盟を結び、ある時は織田信長と同盟を結んでいます。これが戦国時代の処世術でしょうか。
春江院へ来ました。
立派な庫裡です。
重要文化財とまでは行かないが、文化財と言っていい建物で、往時は東海道を行き来した武家が泊まったと説明が有りました。
万蔵醸造に来ました。
酒造所で大きな建物です。
大高城址への登り坂。
坂道なので、登らずに、ここで待つという人も居ました。
城址からの眺望が広がります。
大高城址からの眺めです。
この方角に鷲津砦が有ります。
大きな寺の屋根。それに民家が並んでいますがこれらが無かった時代。
原野や田畑が広がった当時。
砦の状況が手に取るように見えたことでしょう。
大高城址の説明板です。
林の中の登坂。鷲津砦に登ります。
右は鷲津砦の石柱です。
鷲津砦の説明板です。
この砦でも今川軍の攻撃で全滅したと書かれています。
史跡散策路の標識。
このような標識が各所に立てられています。
標識に沿って、ルートを辿ると、かつての戦場めぐりが出来ます。
明忠院へ向かう途中の高台です。
南方に視界が広がります。
遠くには大きな名港大橋の橋脚が見えます。
手前のスレートの屋根はJR大高駅です。
鳴海神社に来ました。
大きなクスノキの御神木が見えます。
終盤で、足が重くなっています。
間も無く、鳴海駅に戻ります。
この辺り、道路が真っ直ぐで碁盤のめのに区画されています。
恐らく海だった場所で、土地を開墾した地域なのでしょう。
お疲れ様でした。
鳴海駅に戻ってきました。
今回の資料です。
大正9年の地形図ですが、江戸時代の地形と変っていないのでしょう。江戸時代に街道が整備されましたが、その前は海が入り込んでいて、鎌倉街道を使ったのだそうです。鳴海の海の字は海にちなんだ字です。かつてはこの辺りまで海が入り込んでいました。鳴海駅の南に田の地図記号が書かれていますが、干拓か埋め立てで農地を広げたのでしよう。
古い地図ですが、文字は右から左へ読みます。
大高緑地の琵琶ケ池は既に地図に乗っています。
東海道線が明治22年に全通しました。大高駅が大高の町を避け、離れた場所に設けられています。鉄道が出来駅が出来ても駅前には余り、家屋が有りません。そんな、ゆっくりした時代だったのでしょう。
古い地図を読む事が面白いです。
桶狭間の合戦は多くの人が知っている合戦ですが、今回のウオーキングで丸根砦や鷲津砦の将兵が全滅したと聞きました。普通に歩くだけなら、このような合戦の内容を知ることは出来ません。丸井さんや安井さん。知識豊富なブレイン。この様なことを知る事が出来るのも「一宮友歩会」のウオーキングの魅力です。
今回、一緒に歩いたMさんのホームページです。
http://www.geocities.jp/jk2unj/nagoyap5.htm
一宮友歩会の4月例会が開催されました。今回は大垣駅をスタートしてから大垣城の周囲を歩きます。その後は、杭瀬川沿いの堤防を北へ歩き、笠木公園から大垣駅に戻るというコースでした。
前半はボランティアガイドに案内されて水門川を歩きました。丁度、桜が満開の時期を迎えていて、花見をしながらのウォークでした。後半は杭瀬川堤防をひたすら歩くと言うものでしたが、こちらのコースにも多くの桜があり、花見を楽しめました。
JR大垣駅(9:35) ― 堀抜井戸発祥の地(9:52) ― 大垣城東総門跡(10:00) ―
本陣跡(10:21~10:33) ― 住吉燈台(10:48) ― 奥の細道むすびの地記念館(10:56~11:01)
― 八幡社(11:30~11:34) ― 大垣公園(11:56~12:59) ― 西公園(13:17~13:24)
― 芭蕉・木因遺跡(13:30) ― 常夜灯(杭瀬川公園)(13:48~13:53) ―
笠木公園(14:31~14:40) ― 笠縫の里碑(14:50) ― 北公園(15:00) ― JR大垣駅(15:13)
今回、観光ボランティアガイド「ふるさと大垣案内の会」のお世話になりました。この日の参加者が41名でして、2班に分割してのスタートとなりました。
昨日が雨で、明日がまた雨となるラッキーな日でした。
一緒しましたMさんのホームページを紹介します。
http://jk2unj.dayuh.net/gph8sakura.htm
今回のコース地図です。
JR大垣駅して南に向かい、ぐるっと大垣城を廻ってから西へ行って、その後は北に向かうと言うコースを辿りました。
本陣跡に設置してあった地図です。
歩き始めは、赤い先の美濃路を辿りました。
大垣駅前の広場で出発式。
2名のガイドボランティアの紹介が有りました。
歩き始めです。
大垣駅前を東に向かいます。
岐阜町の道標へ来ました。
桜が並ぶ水門川沿いを南に歩きます。
堀抜井戸発祥の地へ来ました。
前を歩く、第1班。
ガイドに説明を受けています。
ここは貴船広場です。
男性たちが折畳みのカヌーに空気を入れていました。
歩いていて、後で大垣市役所の西辺りで彼らを見かけました。
川の水面から上の桜を見上げるのは絶景でしょう。
田中屋せんべい総本家。
ガラスが反射して旨く見えませんが、ガラスの向こうで煎餅を焼いています。
みんなで、焼いているのを見ていると店の女主人が出てきて、ウチのせんべいは日本で一番固い煎餅ですと話しました。
女主人が、この職人は40何年煎餅を焼いていると言っていました。
ご主人が出てきて試食を勧めてくれました。
田中屋せんべい総本家の前。
みんなが試食させて貰いました。
問屋場跡まで来ました。
大垣宿本陣跡です。
ここでは、建物の内部が明けてあり、屋内を見学しました。
内部には本陣の模型や山車の人形が展示して有りました。
美濃路沿いに設置して有る道標。
この街道が美濃路で有る事が判ります。
柿羊羹の「つちや」の前に来ました。
古い看板が有り、カメラを向けます。
住吉灯台の所まで来ました。
橋の上から水門川を眺めます。
桜が満開で、今が一番好い時です。
赤い毛氈の敷いてあるところが船着場です。
左はガイドボランティアから説明を受けています。
右は芭蕉と木因の像が置かれている所です。
船着場に船が着きました。
船着場に船が着き、乗船客が下船します。
川上から船が次々と流れてきます。
船をアップで。
住吉灯台の横に係留されている船。
この舟の名は第二神島丸と言う船で、木札が貼り付けて有ります。
ガイドの説明では、昭和35年まで大垣と桑名の間を行き来したそうです。
ここから桑名まで行くのは、一日かがりとなるのでしょう
ゆったりと行く。のどかな時代でした。
桜の並木を歩きます。
四季の里に来ました。
乗船客を降ろした船が上流の乗船場へ戻っていきます。
桜の間から見えた船。
枡工房ますやに寄ります。
ガイドの話ではこの枡屋は全国シェアの8割を生産しているそうです。
戸田家の菩提寺。圓通寺。
戸田家の歴代の殿様の廟所となっています。
八幡社へ来ました。
八幡社の境内に大垣の湧水が有り、ペットボトルを持参して水を汲みに来ている人がいました。
水門川を船が下って行きます。
ここが船下りの発着場です。
船下りのパンフです。
パンフの裏側。
乗船場と下船場を30分で結びます。
船下りの受付と看板。
事前予約制となっています。1隻に6人しか乗れません。
この日は予約が一杯となっていたようです。
この下が船の出発場所です。
漁業組合が運営しています。
大垣城の東門へ来ました。
ボランティアガイドが大垣城の説明をしてくれました。
城域の中に入りました。
石垣は赤坂の石灰岩で築かれています。
明治29年の大洪水の石柱が設けられています。
石垣に当時の洪水位が刻まれています。
城のこの高さまで水が押し寄せました。
城で、これだけの高さであると言うことは、他の所は全部水に浸かり、周りは海のようになったのでしょう。
午前中に歩くのは、ここ大垣公園までです。
ガイドして貰うのはここで終りとなり、ボランティアガイドとのお別れとなります。
大垣公園で昼食を取りました。
12時40分。
公園内で分散して昼食を取っていましたが、集合時間です。
洪水などに付いての、Y井さんの解説です。
再び歩き始めました。
水門川に掛かる橋を渡ります。
芭蕉・木因遺跡に来ました。
杭瀬川公園へ来ました。
公園と言っても工事中で公園らしい姿をしていません。
ここでも、Y井さんの解説を聞きます。
今の川は杭瀬川となっているが、かつての揖斐川はこの場所を流れていたのだそうです。
この後、上に向かって歩きましたが、川幅が広くなっている箇所が有り、巨大な川を想像する事が出来ます。
歩く予定では、先に小さく見える常夜燈へ行くことになっていましたが、この辺りが工事中で近寄る事が出来ません。
離れた場所から眺めることとなりました。
塩田の常夜燈です。
以前、美濃路を歩いた時のものです。
常夜燈の見える場所から東に戻り、杭瀬川の堤防を歩き始めました。
大きな桜の木が切り倒され、切り株が残っています。
河川改修工事のためとは言え、桜が切り倒されたのは残念なことです。
堤防には大きな桜の木が続きます。
ウオーキングして行くと、先方にオバアチャンたちの団体が桜の下に居ました。
デーサービスセンターから引率されて来ていました。
私たちが通りかかると手を振ってくれました。
東海道線の鉄橋を通過するしらさぎです。
若い桜の木となりました。
若い桜ですが、両側に植えられ、桜のトンネルとなっています。
笠縫堤の桜。
ゲートが設けられ第46回と書かれています。
この後、笠木公園で休憩し、再び歩き始めました。
笠縫の里の石碑まで来ました。
大垣北公園。
前方は大垣市北公園野球場です。
お疲れ様でした。
JR大垣駅北側の広場へ到着し、整理体操です。
大垣は水都と呼ばれていますが、市内、各所で水が湧き出て居ます。それだけ地下水が豊富だと言う事です。左下の飯沼慾斉像の後ろでも、コンコンと水が湧き出ていました。
最後に
前日は雨でした。
そして、明日は雨と言う悪天候の谷間の日。私たちが歩く日だけが好天でして、ラッキーでした。
桜はほぼ、満開。
最良の状態の桜を愛でる事が出来たのも、ラッキーでした。
大垣駅をガイドに引率されて出発し、水門川沿いを歩きました。各所に自噴泉が各所にあり、水都大垣のイメージがします。
今回のウォーク。前半はガイドの案内で大垣城の周りを歩き、後半は杭瀬川沿いの桜並木のウオーキング。最初から最後まで、桜を愛でる事が出来ました。
2班に分けてガイドと一緒に歩くのも良かったですし、大垣の街の郊外を歩いて史跡を訪ねる事が出来たのも良かったです。
春爛漫。
桜ウォークが楽しめました。