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虫干し映画MEMO

映画と本の備忘録みたいなものです
映画も本もクラシックが多いです

花粉症と依存症

2006年04月02日 | 
 目は大切に、というお話。
 最近涙が止まらず、日常生活に支障をきたしていました。化粧がまともに出来ない!花粉症かとばかり思っていたのですが、それもあるけれど目の使いすぎによる疲労が主原因だと、お医者さんに言われてしまいました。頭痛も目からのものだそうです。
 思い当たることは
「ドラクエ7のレベル上げのための夜更かし」
 数年前にドラクエをやったときはコンプリート前にソフトが行方不明になってしまい、今回改めて「更なる異世界」までちゃんとクリアしようと、ドラクエ必須のレベル上げのためにメタルキングを求めて世界をさまよっていました。くら~い部屋で、コントローラー握り締めてコックリ、なんて。小学生か、お前は。
 「3日くらいは、見つめるのは動かないものだけにしときなさい。なるべく遠くを見なさい」というアドバイスでした。
 そんなわけで、新作DVDもあさらず、図書館にも行かず、「快傑ズバット4」ハイライトだけピックアップして見て、ジェーン・オースティンを読んで、強風の中お散歩に行くという、いつもとまったく違うすごし方をしました。
 それで目の痛みと涙は少し良くなったのですが、映画見られないとイライラします。

 …本当に依存症っぽくなってきました。
 しかし、BSの3日からの「コンバット」放送をしっかり見るために、他のことは多少我慢します。ああ、早く別のお話のサンダース軍曹やヘンリー少尉に会いたいっ!

「快傑ズバット4」
 この中で大うけに受けていたのが「瞼の母」なんと、さすらいの探偵早川健に生き別れの母が!! 早川健のうきうき・がっくりの演技の振幅の大きさが大当たりでした。妹役のぽちゃぽちゃした女の子を見て、「昔はタレント志望でもやせなくてよかったのか」などという発言が出たり、見るところもそれぞれでしたが、最近では決めゼリフのポーズを、ラジオ体操のようにテレビの前で揃ってやっています。家族の半分が「男は一人で行くものさ~~」とつい歌ってます。全部見終わるのが楽しみのような、悲しいような… 後二巻…

「自負と偏見」ジェーン・オースティン著
 「世界が狭い」というのは、小説を批判する時によく使われる言葉で、確かにそういう意味でつまんない小説も存在しているのだけれど、この小説は3、4軒の家族の様相・交渉が描かれているだけなのに、見事にその社会の価値体系をその中に浮かび上がらせている。お見事であります。これを読むと歴史の復習をしたくなります。実際に少し歴史の勉強をしてから感想書くことにします。

ターキッシュ・デライトとからし入りアップルパイ

2006年03月12日 | 
 ナルニア国物語「ライオンと魔女」でエドマンドが魔女に釣られるターキッシュ・デライトと、からし入りアップルパイは、小学校以来の私の謎の食べ物なのだった。
 もちろん私も訳本でそのお菓子を長いことプリンだと思っていました。ペーパーバックで読めるようになって「あらまあ、ターキッシュデライトで章立てされてるじゃないの」と、それがプリンでなく、「トルコ人の(トルコの)愉しみ」なんて不思議な名前のものであると知って驚いたのであります。
 それから、何とか本物食べてみようと思ったのだけれど、ま、それほど必死に努力したわけではないので今までチャンスには恵まれませんでした。イギリス人の友人に「どういうもの?」と聞いたり、フォートナム・メイスンに注文しようとしたら海外発送不可だったりで「あま~いピンク色の御菓子」以上のことはわからずじまいでした。
 昨日・今日とまたターキッシュ・デライト探索に乗り出し、楽天経由でトルコ物産店に”ターキッシュディライト/トルコの甘い御菓子ロクム フルーツミックス”を発注し、ネットでレシピを探して作ってみて、それにまたもう一度「ライオンと魔女」を見に行って来ました。
 自作のものはなんか、和菓子のゼリーとぎゅうひのあいのこみたいな食感のべチャッとして歯に沁みるほど甘いものでした。友達の「きな粉もち」発言もこれなら当たっているかも。
 自作にしろ果たしてこれでいいのかわからないし、発注した先がイギリスでなくトルコの物産店なので、さて、本に出ているものと同じなのかどうかは不明です。

 からし入りアップルパイとは、アーサー・ランサム全集の「スカラブ号の夏休み」に出てくる。このシリーズの中のディック・カラムこそが私の初恋の人なのである。少女ペギーがディックとドロシアのきょうだいに「ばあやがアップルパイにからしを塗りたくっている」と言うところがあり、私はイギリスはいろんな辛子があるから、お菓子に使うのもあるのか…どんなもんであろう、と思っていたのである。
 で、これもペーパーバックで英文を読めるようになってたまげたんです。「そうだったのか!」と叫ばずにいられないものを発見したのです。思わず岩波書店に手紙を出そうと思いましたがやめました。こんな面白いことは黙っていなくてはいけない…きっとみんなそう思っているのでしょう。いまだに辛子入りアップルパイは本文にあります。

 で、「ライオンと魔女」ばかりでなく「セルラー」も見ました。けっこう面白かったですが、感想はまた明日。

オリガ・モリソヴナの反語法/米原真理

2006年02月27日 | 
集英社

 フィクションの世界で、実在の人物以上にカッコイイと思った女性がいない、なんて書いてしまってから、この本も一応はフィクションだっけと思いついたので出してきたら、またまた読まされてしまった。フィクションとは言っても、これは現実にこの時代この社会を生きぬいたあるいは死んでいった人々を敬意を持って描き、その勇気と苦難に捧げられたものであろう。見事な女性一覧というほど登場する女性それぞれが素晴らしい。
 2002年か2003年の私の年間ベスト3にはいった本。
 話を進めていくのは中年差し掛かり世代の、著者を連想させる女性。
 彼女が少女時代をすごしたプラハのソビエト学校の、見事な反語法を駆使した悪態の使い手で、ダンスの教師としても優れた、しかし見た目はいささか奇矯な老ダンス教師の足跡を追い、難しい政治情勢の中で分かれた旧東側の友人たちとの再会も果たす。

 なんだかんだ言っても今の日本では国家権力によって理不尽に自由を奪われたり、命を絶たれるということが日常化しているわけでなく、今日の生活はたぶん明日も続くだろうな、という見込みを持って生きていられる。しかしスターリンの粛清が吹き荒れた時代、それが当然ではなかった。
 まったく身に覚えのない容疑で殺され、重労働キャンプに送られるのが日常茶飯の時代。しかしそこで生きる意思を支えるのは何か。最低限にも満たない栄養と休息を削っても演じられる、記憶の中から朗読されるシェイクスピアであり「白鯨」であり、芸能がある。アンネ・フランクの父親の手記にも、絶滅収容所で彼の生きようとする意思を支えたのは以前に読んだ文学作品であり、芸術作品のような美しいものの記憶だったという記述があったと思う。人はパンなしでは生きられないが、それだけでも生きられない。
 モスクワの花形ダンサーとプラハのだみ声の教師の間に横たわる謎を追ううちにあらわれるのは政治に翻弄される人々の悲劇。手がかりを追っていくことは、その時代を生きた人の声を聞くことになる。ここでは、オリガの世代、主人公の世代、そして若い社会主義崩壊後に青春を生きる世代と様々な世代の女性が登場する。刑務所やラーゲリほど過酷でなくてもそれぞれが自分の直面するもの、負うものと必死に戦い、苦しみながら誇りを持って生きる姿が見える。ラストでは、悲劇の人生が血という形でなくても、人の絆で命が継承されていくことにあたたかい涙で締めくくられる。
 人間の愚行はなくならないかもしれない。たぶん生きているうちは無理かもしれない。でも…
 キング牧師ではありませんが、"one day...""some day..."への希望と今日を生きる勇気をかきたててくれる本です。
 文庫で出ていますので、是非是非お手許に!

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 これは初めて読んだ時には思いっきり恥ずかしい感想書きそうで書けなかったのですが、2~3年経っても恥ずかしくなるような青臭い形容しかできません。私にとってはそういう本なのでしょう。
 オリンピック終わってしまいました。アルペン皆川選手惜しかったですが、あれが勝負ですね。血が沸きました。さて、やっと平穏に夜が過ごせます。午前2時寝とか3時起きの変則生活の連続はきつかったです。

クマにあったらどうするか-アイヌ民族最後の狩人

2006年02月11日 | 
姉崎等/聞き書き 片山龍峯
木楽者

 アイヌ民族最後のクマ撃ち猟師、クマの行動を知り尽くした姉崎等氏の語りの聞き書き。

 クマにあったらどうするか…私の場合は、もう絶対会わないようにクマのいそうなところには行かない、ということしかありません。人間自分の限界は心得て生きなきゃクマにも迷惑です。ところが昨今はクマさんが人里に現れて、人家や畑にあらわれてはあえなく撃ち殺されるというようなニュースを聞くようになりました。
 結論から言ってしまえば、クマの居場所を人間が無遠慮に侵食しつづけた結果、人間とクマの適切な距離が保てなくなったという現実が、わかっていることですがあらためて認識させられます。もともとが、お互いの気配を感じながらすれ違うようにして生きてきたクマと人であるのに、照葉樹を伐採しクマの食料にならない針葉樹を植林する、殺虫剤を撒き虫を殺して実りをも殺す…クマの生活圏と食料を奪いつづけ、しかも山中にゴミと食べ残しを残すことでクマを人里に誘う。どうしても結論は人間の貪欲さと無神経に行き着いてしまう。

 この本は、北海道の猟師で、クマ撃ちの名人でしかもアイヌの伝統的な方法で送りの儀式も行っているという伝説の猟師、自ら「クマが私のお師匠さん」と言う姉崎等氏の貴重な体験と知識をただ時の流れに任せて消してはならじという片山氏の熱意で著わされた本であり、姉崎氏の独立心の強い、毅然とした人格とその人生が見事に表現されています。
 アイヌの母と和人の混血で、どちらからも受け入れられないような子供時代から、独力で山自体、クマ自体を観察し、学ぶことで猟師として必要なことを獲得し、大学の研究者が発信機をつけたクマが行方不明になっても、そのいく先を見とおしてしまうほどの目を持った達人になるまで。この本は姉崎氏の伝記というわけではないのだが、読んでいてそのひととなりへの畏敬に思わず正座してしまいます。

バッド・マザーの神話

2006年02月02日 | 
ジェーン・スウィガート
斉藤学監訳  橘由子・青島淳子訳
誠信書房

 この本も軽々に感想を書くのは難しい。
 ジェンダー論のレポートの参考資料を教えて、と言われて未読のものも発掘しようと思って読んでみたのだが、これも腹の立つ本であった。
 内容にではなくて、なんとなく読んで腹の立つ本なのだ。
 女であるのはたいへんだ、と思う。真面目に母をするのも一大困難事である。世の中、子供について母親に押し付けすぎてることを訴えているのだが、母ってこんなに報われないものなら、少子化もいたし方ありませんです。
 母親をする…見返りを求めずただ与える、すべてを犠牲にして子どもに捧げる、そして成長したら上手に手放す…これを本能で女性みんなに備わっているのが当然なんてみなされているのはやりきれない。
 それをすべて備えていないことに罪悪感を持たねばならないこともやりきれない。
 映画「遠き落日」で、野口英世の背中のシカさんを見て、「日本の母とはかくなるものか」と涙する人と「ひえ~~~」と呻く人と両方いて、私は時代が違うから仕方ないけど、そこまで子どもにしがみつかんでも…と思う人間なのだ。

 結局女はダブルスタンダードが何時までも付きまとっていて、どんなに職場で有能であっても、母となる以上は自分のすべてを捧げることを当然だとみなされます。そしてそういう能力は社会的評価の対象外です。
 子どもが少なくなるのも当然といえば当然でしょうねえ。だって、今のほとんどの女の子たち、自分の野心をもつことはあたりまえだと思っています。子どもを持って自分の満足以上に得るものを、現在誰が提示できているでしょうか。

着物/幸田文

2006年01月29日 | 
 昨日BS放送で成瀬巳喜男監督の「流れる」をやっていた。
 いい映画なのだが、苦い後味の映画で、女、いや人間というものが底に持っているよどんだ冷えたものが舌に残る…感覚の映画。大女優競演で素晴らしい映画だとは思うもののやはり苦い。

 映画「流れる」原作者の幸田文の、この「着物」という小説も苦い。
 幸田文という人は実にキツイ目を持った人であり、きつい表現を持った人だとどの小説を読んでも思う。実に潔癖な人柄だと思わされ、文章自体もそれにふさわしいものなのだが、そのきつさ・潔癖さに、私はどうも締めつけられる思いがして、主人公に距離をおかずにいられない。
 この「着物」というのは、3人姉妹と男一人の兄弟の末っ子の少女がほぼ大正時代を背景に成長し、結婚するまでを描いた一種教養小説で、その折節に主人公や家族の着る着物、姉たちや自分の嫁入り支度などの着物に、それぞれの状況が反映される。
 私は着物が好きだし、それなりに着ているのだが、読んでいると女の衣装に対する思いいれみたいなものに息苦しくなる。何を着るかというのは重要な自己表現であることは認識しているものの、今の時代は選択肢も多くあり、何よりも繊維自体が潤沢な時代なので、今ひとつぴんと来ない部分も多い。幸田文の主人公にしばしば感じる「今の状況を変えたくて、とりあえず見えているほうへ突き進んでしまう」様な状況はこの本でも幾度も登場し、それはとても私には怖い。
 しかし、この本の中の生活の知識をしっかりと次世代に伝えようとする賢い祖母と、家庭内の些事に普段は口出しをしないようだが家族の要としていざという時に事態を収拾できる父のありようというものは実に理想的なものに思う。

 主人公の結婚式で小説は終わるが、それは主人公の結婚生活の不幸を暗示する終わり方であり、本当に読後感の苦さは決定的になる。
 しかし本当にうまい小説であると思う。

トラベリング・パンツ/アン・ブラッシェアーズ

2005年12月08日 | 
大嶌 双恵訳  理論社

 ティビー、レーナ、カルメン、ブリジットの4人は、母親がマタニティ・エアロビクス教室で知り合って以来の仲良し。それまでいつも一緒に夏休みを過ごしてきた4人が、16歳を目前に初めて別々に夏休みを過ごすことになる。
 4人は、その直前にカルメンが古着屋で見つけた誰にもフィットしてかっこよく見せてくれる不思議なジーンズを順に送ることにし、そのジーンズにその夏の仲間の誓いを立てる。

 これは映画化され、10月に公開されたのだけれど見にいくことは出来なかった。2年ほど前に図書館で借りて読んだ時、いかにも映画化に似合いそうだと思った。今度また借りてきたら、だいぶ人気があるようで、本がずいぶん読み込まれ跡がついていた。
 いかにもヤングアダルト向けな軽い感じだが、そつなく4人の少女たちのキャラクターとその家庭を書き込み、出会う人々の人生をほの見せて、泣かせるところは泣かせて、でも深刻さはさほどなし。まだまだ世界へ出て行くのはこれから、入り口までやってきたばかりという年頃を上手に共感を、また私のようにその歳をはるか昔に過ぎてしまった人間にはイノセントな自分への郷愁も感じさせてくれる、文学というにはちょっと気が引けるけど…という佳作。

 このような書き方だとちょっと皮肉っぽく響いたかもしれないが、一気に読めて爽やかな後味という点でお薦めの作。何より、実に映画化が楽しみな小説だったのだ。4人の少女、それにガンで自分の命の終わりを意識して生きる12歳の少女、ベイリーがいかに映像化されるか楽しみ。
 4人の女の友情というのでは、お年寄り版で「ヤアヤアシスターズ」というのがあったが、こちらは人生の波乱の量では太刀打ちできないので、みずみずしさを存分に味わえる映画を期待している。DVD、早く出ないかなあ。

映画タイトル
旅するジーンズと16歳の夏 (2005)
THE SISTERHOOD OF THE TRAVELING PANTS

オフィシャル・サイト
http://wwws.warnerbros.co.jp/sisterhood/

オフィシャル・サイト(英語版)
http://sisterhoodofthetravelingpants.warnerbros.com/

黒い裾/幸田文

2005年11月02日 | 
新潮文庫(昭和47年7刷)

 幸田露伴から、ひ孫に至るまで4代にわたって作家になっているけれど、ナンバー1は幸田文です。
 露伴に厳しくしつけられ、文章を書くことを禁じられていたというけれど、この人は書けるときを待っていたし、そうせねばならない作家の業を持っていた人だと思わされる。
 彼女の持つ迫力が、そのまま文章になるようで、映画化された作品、成瀬巳喜夫の名作「流れる」でさえも、原作のこの鍛えられた目には負けるか…と思う。人間の挙措のわかる、そこからその人となりを暴き出してしまう文章である。
 その目は結局自分をも暴き出してしまって、映画では優しくよく出来た姉ですんでしまう「をとうと」の主人公も、己が正しい、そして自分の周囲をその正しさで律しなければ神経に障る、といった潔癖さの持ついやらしさまで感じさせてしまう。

「黒い裾」は、人を弔う、そして関係者が一堂に会する時に着る喪服と共に歳を重ねていく、女の16歳から50過ぎまでを書いている。優秀で気働きのいい、勘のいい女性の、だからこそ幸福とは縁の薄いような人生。
 この小説のクライマックスは、年上の最後の縁者…もう送るべき人はいない、という葬式に、いかにも着慣れたものを着る描写から、その着物の裾の「透切れして、ところどころは裾心の真綿が鼠色によごれて、たるんだ吊橋になっていた。」
 そこからはもの凄まじさに息を呑む。喪服の黒と襦袢の白。
「ぱっと蝙蝠が飛んだように着物が両袖を浮かせて畳へ這った。」
「裁ち落された裾は真綿をはみ出させて、死んでいる長虫のようにうねった。」
「縫うでもくけるでもない、ただ裏表を綴じつけるだけの粗い針目を押っ飛ばすと、年代のついた古羽二重は、ぷっつ、ぷっつと音を立てて拒んだ。」
 この恐ろしさは着物を着ない人にも共有できるでしょうか?

屍鬼二十五話 -インド伝奇集-/ソーマデーヴァ

2005年10月16日 | 
上村勝彦訳
平凡社

 10年もの間、毎日宝石の入った果物を王の元へ持ってきていた修行僧にそのわけを尋ねた王は、その僧が呪術を完成するための協力者が必要だというのを聞き、助力を約束する。
 それは夜の墓地から木にぶら下がっている屍骸を運んでくるというものだった。

 というわけで、勇者である王様は、屍骸をかついて運ぶのですが、その屍骸が屍鬼です。死体を動かす鬼で、キョンシーのような感じもします。
 屍鬼は運ばれながら、様々な話をして王に「これはいかに」と問うのですが、王様がそれなりの回答をスパッと出すと、また元に戻ってしまいます。懲りない王様は何度も何度も同じことを繰り返し、二十三話まで収録されています。それでやはり戻って木にぶら下がったところで終わっています。解説によれば、それなりの解決大団円はあるらしいです。
 でも、これは言ってみれば千夜一夜形式のお話を一夜のうちの繰り返しにした、そういうスタイルのストーリーテリングも存在するのでしょう。
 トーマス・マンなどのヨーロッパの文学者にも影響を及ぼし、これを翻案した小説も多々あり、訳者は原文が素晴らしい、と賛辞を送っています。
 私はインドは文学も伝統もさっぱりわかりませんが、読んでいて性愛描写がかなりストレートであること、そのわりに下世話でないのと、王の道徳観がやはり階級性にしっかり根ざしていること、また善悪や責任の基準、ものの考え方が違うなあ、と思わせられること度々でした。

 海中都市の女性との結婚など、まるで浦島太郎のようなものもありますが、違いは主人公が王様なことです。その異世界への道を見つけるのは家来身分ですが、どうも身分の高い人しか幸せになる権利が無いみたいです。

 他にも女と食と布団と、それぞれに繊細な兄弟が誰が一番繊細かを競う話とか…ええと「豆の上に寝たお姫様」のようですね。
 一番上の兄は食事に繊細で、火葬場のある村で育った米がわかってしまう。二番目は女に繊細で、子どもの頃ヤギの乳で一時育てられたので、最高の美女なのに山羊臭くてやだ。末っ子は身代に七枚の蒲団とシーツを重ねても一本の毛で身体に傷がつく。
 なんだかどうでもいいようなことばかりですが、王様はその繊細さを褒め称えてご褒美をくれたのでみんなその後幸せに暮らしました…実はその競争は、父の葬儀のための亀を誰が捕まえるかが発端だったのに、父親の葬儀は忘れられたようです。

 他にも、一人の美女がいて、父親が王に差し出そうとしますが、あまりの美しさに家来が王様が彼女に夢中になっては世の乱れと「凶相がある」と報告し、そのため彼女は王の妃でなく将軍夫人になります。
 ところがある日、彼女を見た王様は恋煩い。将軍は王に妻を譲ろうとしますが、「そんなことは出来ない」と王が断るので、将軍は自殺します。しかし王様は将軍の妻に恋焦がれつつ、しかし我が物にすることはみっともないからといって、とうとう焦がれ死にしてしまいます。
 この話については、「将軍が妻を差し出すのがあたりまえで、王様が偉い」というコメント付きです。(少なくとも当時の)インド人でなくて良かったと思います。

もともと私は伝奇好きで、これも説話類似のものという感覚で、面白く読めました。
1978年の発行なので、図書館の隅にはあるかもしれません。

山田風太郎

2005年10月14日 | 
今日は、近所のシネコンで「ファンタスティック・フォー」の最終日。
何とか見にいこうと、4時半起きしてがんばったのに…
道に迷ったとかで2時間も約束に遅れた人がいて…
上映開始時間までに映画館到着は到底無理な展開になった。
だから「ファンタスティック・フォー」はDVD待ちになりました。
はあ… きっと大スクリーン向きの映画なのに…

まあ、空き時間が出来ちゃったので、
「SHINOBI」と「河内山宗俊」で読みたくなった山田風太郎を読んでいました。

「明治十手架」
 カバー絵は天野義孝です!素敵!文庫版は角川のこれが最高です。このチョーかっこよく描かれた原胤昭は、実在の元与力、明治になってからは前科者・出獄者の更正サポートに尽力した人で、本物の写真は岩波の「戊辰物語」などかなりたくさんの本で見ることが出来ます。実際に面長な人ではあります。
 これも、悪鬼の如き警官獄卒と、世間のはずれ者の前科者たちの心根の底の純情に、清らかな乙女に泣き、えぐい描写におののき、面白さ満載。
「明治断頭台」
 明治初めの警察の前の弾正台の若き川路利良、それにフランス帰りで水干姿、檜扇で強盗ちょいちょいの香月経四郎、それにパリの処刑人の裔エスメラルダなど登場する連作短編。ちゃんとどうしようもない男どもがエスメラルダのために命かけます。これは、推理作家としての山田風太郎の腕も冴えています。凄いような美男でしかも妖気を持った経四郎に、金髪碧眼に赤い袴の巫女姿のエスメラルダと、視覚的にピタリの俳優が揃ったら、目に嬉しい映像が出来そう。

 それに「甲賀忍法帖」講談社文庫で天野義孝様のカバー絵の文庫が出ていたので、また買っちゃいました。帯にオダギリジョーのトサカ頭があったのはちょっと残念です。オダギリジョーは好きなほうです。でも弦之介をトサカ頭にした罪は消えない。

闇の守り人/上橋菜穂子

2005年10月08日 | 
偕成社

 ちょっと鬱屈した気分に風を通してすっきりしたい時などにお薦めのファンタジー。
 
 主人公バルサは「守り人」の名の通り、用心棒を稼業にしている。現在シリーズは6冊、そして外伝が1、2冊出ている。その中でも、私はこれが一番好きなのだが、これは主人公が仕事として経験することではなく、主人公自身とその養い親の運命と、そこにわだかまる感情とを一度解き放ち、そしてまた受け入れるまでのストーリー。このシリーズは物語の世界の構成、ディティールもが細部まで整い、ジュブナイルとはいえ、私のような昔10代だった者の心も掴んで離さず一気に読まずにいられない。

 バルサが死せる養い親と、彼に叩き込まれた武術を尽くして闘うクライマックスはわかっていても私は涙無しには読めない。主人公がなぜ、用心棒という生き方をするに至ったか、いや、それを選択せざるを得なかったか。愛情と尊敬と感謝を捧げる人へそれだからこそ持たざるを得ない負の感情など、人が生きていく上で否応なしに抱えていく重しを、人との関わりを浄化して、いかに我が物として持ちこたえて生きていくのか。いつかそこへ自らが突き当たった時に、道を照らしてくれる灯りの一つになってくれそうなものが心の底に残るような魅力的な物語である。
 この物語は情景描写が好きだ。周囲が描かれ、その中から中心が浮かび上がるような部分。武術の描写は、私には香港功夫映画の素晴らしい武術を思わせるようなところがある。また、食べ物の描写なども見たことも聞いたこともないものなのに、なぜかとてもおいしそう。

 バルサは辛く厳しい生い立ちを背負っている。そしてゲームのキャラの如き17や18のお姉さんではない。30歳超えた経験もあり腕も確かな女用心棒。男装だし美醜よりも、パワーを感じる描き方である。そして彼女に感じるのは受容力とクールな判断力。
 こういうファンタジーの主人公がジュブナイルで受け入れられている(と言っても、作品それぞれに10代の中心人物が配されている)のは嬉しい。女性向けと思われる「スカーレット・ウィザード」シリーズは、男の人にも受けがいいらしいが、いい男に愛されるだけのヒロインではなく、人並み以上の冒険も仕事もして、飛び切りの男と対等に渡り合い、しかも短い生涯でその男の子どもも作り、彼の心をわしづかみにしたまま世を去るなんて、欲張りにもほどがあるヒロインでした。こういうおいしいところを一つも手放さない闘うヒロインが出てくるのは本当に嬉しい限りです。

 ともかく読んで損はありませんし、きっとシリーズ全部あるだけ読みたくなります。

和泉式部日記

2005年09月26日 | 
中原中也も、その詩に陶然となるけれど、凡人の手に負える人じゃないなあ、とため息が出る人です。
和泉式部は女性で、私の「かなわないなあ」の筆頭に上がります。

 冷泉院の皇子為尊親王の恋人だった和泉式部(当時人妻)が、疫病で皇子を亡くした後、その弟、敦道親王と恋に落ち、世間の糾弾にもかかわらず屋敷に移り、皇子の妻が憤激のあまり家を出るまでの10ヶ月を孤独感と恋の至福をともどもに描く。
 恋多き女と評判の和泉式部に、おそらくはじめは好奇心から近づいた親王が、お互いの魂の共感を感じて、恋の虜になっていくのが私にはどこか恐ろしいように感じる。和泉式部本人作説が有力になっているようだが、「憂し」「はかなし」な雰囲気と苦しみと孤独感に満ちて、それがまた、この世で心の寄り添える人と出会えた愛の歓喜の一瞬の至福の輝きを増しているよう。
 これは、自他の感情を深いところで感じ取り、その表現を創造する稀有な才能の行為であって、誰にでもできる恋ではない。残された情緒纏綿たる歌さえも、その余剰部分という気がするほど。その余剰部分たる歌が、生み出されるべくして生み出されたような宝石ぞろいなのだから。その心の呼吸が自然に言葉になったような歌が、私のような散文的な人間にも「これは私の心が求めていた言葉だ」と叫ぶような共感を抱かせずにいない。
 世間の目も痛く、人を傷つけている自覚も、罪悪感も十分すぎるほど感じていてもどうしても離れられない、自分のすべての心を相手に注ぎ込んでしまうような恋。

 私は、それほど深い恋をする能力は無いな、と読むたびに感じさせられる。でも、これは私の待っていた言葉なのだ。

 人間それぞれ能力とか、向き不向きがあって、私なんか事務的なことがきちんと出来ないとか、取扱説明書を読まない男って、むちゃくちゃ嫌いだ。別に親しくなければほって置けばいいようなものだけど、ビデオの再生画面が乱れてるのに、トラッキングも調整せずにそのままぶつぶつ言いながら見ている男は腹が立つ。実生活もきちんと抑えて、その上で芸術的飛躍も求めるのはぜーたく過ぎるし。
 私も波乱を含んだ人生には憧れはどっさりあっても、自分は無理だと思うし。
 座って本を読んで心を泳がせるほうが似合っていて、自分からシュトルム・ウント・ドランクに飛び込むと即座におぼれるだろう。
 無理なだけに、憧れは強烈なのかもしれない。

すべてのまぼろしはキンタナ・ローの海に消えた/ジェイムズ・ティプトリー・Jr.

2005年09月11日 | 
越川芳明訳
ハヤカワ文庫 FT

 メキシコのユカタン半島のマヤ族は、メキシコという国にも属している意識は希薄だろうほど独立心が強い。しかしそんな土地でも、アメリカ資本の進出で否応無くその波に喰われようとしている。そこでのアメリカからやってきたグリンゴ(現地の人がその地に住んだ白人をいささかの軽蔑も含めてそう呼ぶ)を語り手とした幻想譚3篇。

 ジェイムズ・ティプトリー・Jr.というのも、伝説的な作家で女性だが男性名でデビュー、その文体がもっとも男らしいともいわれてしまった人である。私は翻訳でしか読んでいないので文体を云々することは出来ないが、翻訳で読む限りではきびきびしているが、特に男性を感じるということは無い。でもこれはすべてわかってから読んだ人間の感想なので、そういえば…といえば、何でもそうなってしまうだろう。
 これは、SFでなくファンタジーで他のティプトリーの作品とはかなり違った印象。訳は他にも訳のある朝倉さんなので、きっと原文の違いが反映されているのだろうと思う。

 語り手の地位の特殊性がいい。
 その土地に愛着を感じ、ある程度は受け入れられているけれど、決して溶け込めない、あるところに引かれたラインを土着の人びととの間にお互い意識しながら、でもそこを離れられない異邦人性がこの幻想譚に妙なリアリティと深みを加えていると思う。
 その怪異に出会うのは彼でなく、アメリカに根拠地を持つ、ここには短期間尋ねるアメリカ青年だったり、現地のベテランの海の男だったりするが、立場の微妙な彼だからこう語るという気になる。

 海の色、ロブスターの行列、カウチの上のトラなど、不思議で美しい描写も多く、不思議なところへ連れて行ってくれるには違いない小説なのだが、幻想世界訪問後の一種独特な開放感と一緒に、この本の読後感として強く、それも非常に強く残るのが「物質文明の自然の収奪」の収奪の凄まじさ。そしてとてつもないものを秘めた海の大きさ。
 三篇それぞれにエピグラムがついていて、実に内容に響き合うもので、再読時の味わいも一層深くなる。

 解説には彼女のCIA経験と、それが彼女の作家としての特色を形作ったみたいなことも書いてあります。まあ、そうかもしれないですが、ラテンアメリカというところがアメリカの棍棒外交の蓄積みたいなところであるし、特にこの作品に関連付ける必要はあるかなとは思ってしまいました。

性の実験/我妻洋

2005年09月08日 | 
文春文庫

 これもページが黄色くなりかけてる本。第1刷1985年、単行本発行が1980年。
 エイズ以前のそれまでのピューリタン的な性道徳一色だったアメリカの性意識・行動が変革していく様子を、実際にその地での長い生活体験に基づいた深い洞察に基づいた性についての文化論。
 ベトナム戦争とウーマンリブ、何よりも社会構造の変化によって社会全体で共有されていた伝統的なキリスト教価値観が不安定になり、またアメリカ本体の「個」の独立の強調と、人間の評価が「どんな役に立つか」という市場性志向が強くなった反動としての「人間らしく」というヒッピームーブメントなどのなかで、当時行われていた性の実験を丁寧に描写している。
 第2章から7章までの婚前交渉、同棲、婚外性交、スウィンギング、オープン・マリッジ、グループ・マリッジで統計や当事者の声、また図解など著者自身の分析がとてもわかりやすい。
 今の時点では、これがそんなに画期的だったのか、とか思う事象もあれば、グループ・マリッジやオープン・マリッジは坂口安吾じゃないけれど、人間の本性に反してないかと思う。嫉妬は自分でコントロールできるようなものではないから。著者自身もセックスパートナーを複数共有することの困難さを指摘し、性関係を中断したカップルのほうが生活の伴侶を続けていけるかもしれないと述べている。

 ・・・そして今はどうなったのだろう。
 今文化的に性を分析するにもエイズを抜きには出来ないし、太平洋の対岸で見ている限りでは、処女性の価値もゆり戻しつつも元には戻れないような気がする。それに20世紀のウーマン・リブは、その現象が一部でどんなに浅はかに見えてもその影響力は決定的で、リブ以前とは口に出来る事柄がまったく変わってきている。
 それでも、この本を読んでアメリカ人のパワー信仰は今に同じだと思うし、その何事にもじつに真面目に取り組む、読んでいるほうではその真面目さに悲喜劇を感じてしまい、これがアメリカというものであろうかとしみじみ思う。

 最終章で引かれている孤独な独身者の言葉は今現在のものだと言ってもなんらの違和感は無い。
「誰でもいいからしっかり抱きしめていたいんだな。誰かと体と身体をくっつけていたい。セックスとは違うんだ。これはもっと感情的なものなんだ。女の子を抱きしめると心が温かくなる。」(31歳男性教師)
「誰でもいい、僕をかまってくれる相手がほしい。…誰か家にいて俺を励ましてくれる人間が、必要なんだな」(28歳男性株屋見習い)
「「たった一人で食事をせずに済むのなら、今すぐにでも男の人と同棲するわ。でも男の人と知り合う機会なんて無いんです。」(25歳新聞社秘書)

 映画「ミスター・グッドバーを探して」に漂う凄まじい孤独感、これはイギリス映画だけど「ブリジット・ジョーンズの日記」で見た欧米社会のカップルプレッシャーなどを見るにつけても、日本社会にどっぷりつかって育った私は、順応するのが難しそうだ。

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余談になるけれど、最近のニュースで関連性のあるのを見たので。

64人の女子高生が妊娠した高校=米オハイオ州


【ライブドア・ニュース 09月05日】- AP通信によると、米オハイオ州カントンのティムケン高校では、現在、490人の女子高生のうち約13%にあたる64人が妊娠しており、その高い割合が全米で話題となっている。

 アメリカの高校生の妊娠率は下がってきていたのだが、ここ最近上昇しているとのこと。これはブッシュ政権になってからの純潔教育が逆効果になっているのではないかという指摘もある。
 うちにアメリカ留学の準備をしているのが一人いて、先輩からあちらの大学の講義ノートを借りたりしているのだが、こと生理学的に事実に関しては「もう全部書いてあって、図も詳細ですごい」らしい。大学でこれだけやってるのに、高校まではどうなんでしょう? 私は、身体を守るのに必要な知識はきちんと教えないといけないと思っています。日本も最近性教育の行き過ぎなんていっている人もいますが、マンガ雑誌で覚えるよりは学校でそれを見せられて気分悪くなったほうがましです。ただ、中高生の意見をきくと、男女別に分けたほうがいいかなとは思います。みんなの前で保健の本を読まされるのすごく恥ずかしいらしいです。

西部戦線異状なし/レマルク

2005年09月01日 | 
秦 豊吉訳
新潮文庫

 古い本だけれど「ロング・エンゲージメント」を見たら思い出したので読んでみた。
 いつの時代でも戦争は悲惨以外のことではないが、20世紀の戦争は国家の総力戦となり、人的にも物的にもそれ以前とは比べ物にならないくらいの消耗を招いている。
 これは映画化されたのも傑作だったが、中学生の頃に言葉で刻みつけられたものを忘れられない。
 一人の教師の言により志願した少年の、普通の兵士の周りでの戦争の凄惨な現実が、あたりまえの出来事として描かれている。そしてこれが全部ではないのもわかる。
 兵士たちは、怯え、闘うというより、皆殺しへの恐怖に対して闇雲な空しい抵抗をする。本では「みなごろし」に塵殺という字をあてている。人も機械も全て一緒くたに踏み潰されるようなイメージが喚起されて恐ろしい。砲弾と毒ガスと戦車が、踏み潰し噛み破り殺しつくす。そして疫痢と悪性感冒とチフスが蔓延し、ばたばた死んでゆく兵士たち。塹壕と野戦病院と共同埋葬…彼らにとっての戦争はこれに尽きていた。
 そんな中でも仲間を救おうとし、少ない食料を分け合う、彼らが他者に向ける関心に、人間性への救いを見る。
 しかし少年たちは、すべてが帰らぬ人となり、その死も大勢に影響がない限りは「異常なし」の範疇の出来事でしかない。

 これは、1929年、大恐慌の年に発表され、世界的なベストセラーになった。それでも、第2次大戦という再びの悲劇をとどめることは出来なかったのである。

 …「誰も戦争をしたいって奴はねえ。それに急にぽっかり戦争になっちまうじゃねえか。俺たちは戦争なんて、ちっともやりてえと思っちゃいなかったんだ。ほかの奴らだってみんな同じことを言ってる……それにどうだ、こうして世界の半分が、夢中になってかかっているじゃねえか」(236ページ)

 考えるべきは、どうして望まないものに突入して行ってしまうのだろうか、ということでしょうね。