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虫干し映画MEMO

映画と本の備忘録みたいなものです
映画も本もクラシックが多いです

ダメな人のための名言集/唐沢俊一

2005年08月24日 | 
幻冬社文庫

 世に名言集というものは数々あり、だいたいが「努力・誠実・信頼」とか、美徳を謳い、努力と信念で成功を収めた人の実例集みたいなのが多いんではないでしょうか。中にはビアスの「悪魔の辞典」とか、アランの「定義集」にも時々皮肉なのもありますけど、日めくりカレンダーに書いてある偉い人のお小言みたいなのが目に付きます。
 いつも思うのは、家康の「人生は重き荷を負うて長き道を行くが如し」とかいうのがありますが(記憶が性格でないのでこの通りじゃないですが)私としては、是非、ゴールを教えていただきたい、と思うのです。目指すところが死だけだったら、荷物投げ捨てて遊びながら行っちゃいますよ。日々の楽しみがあるから、多少の我慢もして生きていこうと思うので、我慢だけの人生ならやってられない。と、私のイチャモンはともかく、この名言集はそれと違って読後とても爽やか。

 そもそも、冒頭がグルーチョ・マルクス
 私を見なさい。
 無一文から身を起こして、独力で今の極端な貧乏にまでなった男だ。


 さすがグルーチョのギャグですわ!肩の力一気に脱力しません??

 それにジョン・ウォーターズ監督の「ピンク・フラミンゴ」のあのディヴァインの葬儀にウーピー・ゴールドバーグが花輪につけて贈った言葉。
 ごらん、ほめるとどうなるか。

 ディスコの色物ダンサーでドサ回りをしていたディヴァインは、映画によって売れっ子になり、多忙を極めて心臓麻痺で亡くなったそうです。
 しみじみ噛み締めたい言葉です。ゴールドバーグも実にわかっているというべきですね。(でも「ピンク・フラミンゴ」は一度見ればたくさんです。)

 SF映画などに博識なコミックブック編集者ジェフ・ロヴィンの名言。
 この映画(注・「海底一万リーグからの妖怪」)は、1950年代後半に公開された数多くの低予算SFモンスター映画のの一つである。しかし、地球の直径が約1万三千キロしかないのに、海底一万リーグ(約五万キロ)というのは、この生物も辛い目にあったに違いないという点は指摘しておかなければならない。

 ギャーハハハ!これは正確さをよしとするか、それともインパクトをよしとするか人間のタイプの話に振られているけど、でもね、モンスター映画は突っ込みどころはあってあたりまえで、ただそれをいかに面白がらせてくれるか、こちらの気持ちをそれなりの、ハチャハチャでも、ホラーでも、それなりのスポットにきちんと落としてくれるかになるんだよね、などと昼のBSの「水爆と深海の生物」(1955/アメリカ)の録画など見ながら大笑いしたのでした。

 これは第1章の「全ての努力が無駄になった時に、つぶやいてみたい名言」からの引用ですが、「善人過ぎる彼(彼女)に一言言ってやりたいときの名言」などは、実に、実に心なごみます。

アイヌの昔話/萱野茂

2005年08月21日 | 
平凡社ライブラリー

 今年の夏は、アイヌ展や縄文展などの博物館の催し物にかなり出かけてきて、道具類や生活用品を見ることが出来た。もちろん年月にして数千年を隔てる人びとであるし、アイヌ=縄文人説を唱えるつもりもない。他の時代のものでも実際に生活に使い、使い込まれたであろう品物の丹念な出来に驚くが、今に残された数々の細工物の精巧な細工にたっぷり感動してきた。
 石器しかない縄文時代に、木を切り出して作った器の薄さ、飾りの細やかなこと。アイヌの衣装のまったく無駄の無いつくりと意匠に優れた刺繍やカットワーク。鮭革の着物や靴といった自然の恵みの徹底的な利用。アイヌの人は男は木彫りと狩りが出来て一人前、女は刺繍や裁縫、編み物など生活技術が確かになってこその成人という社会だったみたいです。
 それで、自分が使い込むものだからこそ、丁寧に愛着持って作ったのか、とか思ったんだけど、疑問もあって、縄文時代でも土器なんかは工房があって、ある程度専門生産やってたんだろうってことになっているではないですか。どうなんでしょうねえ? 

 まあ、そういう興味からこの「アイヌの昔話」を読んでみました。
 たった一人でアイヌの文化を守る活動を始めた萱野茂氏の集めた昔話集。
 最後に教訓がついて、生活の知恵総覧のような趣もあります。自然と共存して生きる人びとですから、どんなものにも神様の存在を見ていて、それぞれの神様の人間との関係が面白い。人間にありがたがられると神様うちで幅がきくようになる、とかまるで勤務評定のようでおかしい。
 それに、生活のなかで語られたものだからこそ、生活が反映しているようだ。
 食べるもの、その食べ方、そして着るもの、しらみの話など、リアルに感じられる。熊もだけれど、しらみはけっこう登場していて一緒に生活しとったんだなあ、と思うし、「着物のすそを引っ張っておちんちんを隠す年頃」なんて描写には、定型の言い回しではあろうが、あの華麗な衣装がどのくらいのサイクルで作りかえられるものだったのか考えてしまう。
 そして幸福な生活というものが「何が食べたいとも、何がほしいとも思わず暮らす」ということになる。やっぱり飢えずにいるのが難しい生活だったのかなと思う。

 アイヌ語の語りをカタカナで書いたものも納められているが、これはほんとは音で聞きたいところでしょう。
 たった一人がはじめた一歩が、今のアイヌ文化を守る取り組みと、「土人法」であたかも劣等民の如く扱われていたアイヌの人々の誇りを取り戻す元になったようで、その点もすごいと思うものです。

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 ここ2、3日体調がよくなかったので本読んで暮らしていた。土曜には「チーム・アメリカ」を見に池袋へ行こうとお誘いがあったのに行けなかった。悲しい。「英語で読む日本史」(講談社)も読み始めた。内外一流のジャパノロジストが書き下ろす日本史。江戸と明治から読み始めた。昭和まで終わったら、鎌倉へ戻り、そこからまた最後まで読んだらはじめにさかのぼろうと思う。受験時代の勉強法と同じ順番。ページ数も限られているし、それぞれの体制の枠組みからのアプローチが多いみたいな気がする。訳語も、何を選んで書いているかも刺激的で面白い。
 ところで旗本ってbannarmenていうのね。思わず看板かかえた侍の姿が浮かんじゃった。

お菓子放浪記/西村滋

2005年08月03日 | 
講談社BOOK倶楽部 お菓子放浪記

 前に中学校の読書感想文課題図書にもなったので、たいていの図書館においてある本ですが、昨日たまたま本屋で平積みになっていた文庫を見つけたので買ってきました。

 戦争へと向かっていく日本の社会の中でたった一人で生きる子どもが、甘いもの-お菓子-への思いを支えに、過酷な現実の中を生きぬく物語。
 講談社のサイトでは「酷くて哀しい物語なのに、何故こんなにユーモラスなのだろう」と紹介文にありますが、ユーモラスよりも哀しい話です。「巧い」小説という感触はありません。読んでいて結構ごつごつあたる部分が多くて、自伝的なところもも多いらしい、書く側の気迫とか、思いの強さに身体のどこかをぎゅっとつかまれるような気がする本です。

 菓子パン、金平糖、お汁粉…時局が時局だけに、甘いものは貴重品で、主人公シゲルが出会うお菓子はほんのわずか。エクレアなどはとうとう実物は一回も登場しない幻の憧れのお菓子。また、代用食のお菓子もどき。そして、それぞれに切なかったり辛かったりの思いが痛烈にまとわりつきます。それはまた、それにまつわる人間との関係の反映です。
 戦中戦後の苛烈な時期だけに、人間性がもろに露呈されるのですが、一番の悪役「ホワイトサタン」をはじめとして、皆自分を肯定する理屈を持っています。でも、その中でシゲルはごまかしのない「本物」であろうともがきます。「本物」の優しさで接してくれた人にこたえるために。
 著者あとがきの中で、これだけの願望の持てる生活がうらやましい、と感想を書いてきた人がいるとありましたが、私はぞっとします。この有様から今の状態まで来られて本当に良かった、と痛切に思います。

 老人も女もこどももふくめて、上野駅をふくれあがらせている浮浪者のむれ。
 それはなんと言ったらいいのか……ある「豊穣」の景色でした、戦争が栽培した悲惨の、たわわな実り……。見事な豊作でした。
 
 中略

 その(侵略戦争)ために殺されていった多くの人びと。私だけのつながりでいうなら、遠山さん、原爆でやられた富永先生、首をくくった歌章もそうです。仙吉や秋彦だって、結局軍国主義に殺されたのだといえるでしょう。
 それなら、生き残った人々はどうなのだろう。
 生き残った人びとは、生き残ったことを罰せられてでもいるように、恥多いくらしにまみれているのです。

 (本書374~375ページ)

 この本を買ったのは、「亡国のイージス」を見て、BSで「拝啓天皇陛下様」を見て、まあ、いろいろ考えるところがあって手が伸びたのでしょうが、自分の理屈が借り物でないかどうか、耳に快いものだけ選択していないか、考えるためにも良い本だと思います。

西鶴の笑い

2005年07月28日 | 
「大阪物語」を見てつい西鶴を読み出しました。
 俳諧にも多才・多作を持って知られる西鶴ですので、落語みたいなのや、今昔物語みたいなの、「耳袋」みたいなの、好色ものと本当にたくさんです。そしてその多くに笑いがあり、それが見事に成功しているのは西鶴ならではの天才だと思います。

 市井の金にまつわる悲喜劇…落語でも大晦日の掛取りとの攻防が一大テーマでありますが、それ以上にキツイ、主に悲劇なんだけれどどこか滑稽さをぬぐえない、「日本永代蔵」「当世胸算用」「万の文反古」などは、その悲喜劇のなかの人間のエゴイズムを残酷なまでにあっさりくっきり描いています。「大阪物語」の感想で触れましたが、西鶴は
”「好き」というにはちょっと気持ちに差しさわりがあるけど、しょっちゅう読んで”
しまうのです。特に後期になればなるほど、そのペシミスティックな滑稽さに磨きがかかるように思うのですが。
 
有名なものをいくつか。
・脱力系の笑い
「傘の御託宣」(西鶴諸国噺)
 観音様の参詣者のための貸し傘が飛ばされ、なぜかご神体扱いされて拝まれているうちに性根が入って国中のゴキブリを退治しろの、美しい娘を差し出せのと言いはじめる。娘たちがあんなご神体では身体が持たないと悲しむので、ある後家さんが「私が身代わりに」と申し出る。
 後家さんは、一晩中待っていたが、傘のお出ましはなく、朝になって腹を立てた後家さんはご神体を「この見掛け倒しが」と散々に引き破ってしまった。(下ネタですいません)

・声も出ない、顔がひきつるような滑稽
「京にも思ふやうなることなし」(万の文反古)
 嫉妬深い妻に愛想つかして京に逃げた夫が、仙台に残った妻に送る、何とか離縁しようという文。
 この時代でもそれほどあっさりとは離縁できなかったんでしょうか。既に何度も離縁状を送っているのに承知しないのを納得させるために、男のそれまでの妻遍歴を延々と書き綴る。17年で23人の妻をとっかえひっかえ、そのたびに彼自身もその人生も削られていくような羽目に陥る。それをまあ、淡々と語らせることで浮かび上がる彼自身のふがいなさ、性格の悪さ。
 期待はずれの妻たちの生態もおかしいが、懲りない男にも、声出して笑うには男ならずとも背中にひやりという部分が多すぎる。そしてその期に及んで、離縁しない妻と、女は同じなんて達観もせず絶対離縁しようとする男の意地みたいなものに、馬鹿馬鹿しいと思いつつその滑稽さには笑でなくため息が出るよう。

 そんなわけで、たまには西鶴みたいなのも面白いですよ。文庫や古典全集でわりに手軽に読めますので、お暇な時にでもいかがですか。

帰ってきたもてない男/小谷野敦

2005年07月23日 | 
ちくま新書

 今日は土曜というのに、休めない。地震はおきるし、ほんとにやんなっちゃう。

 愚痴はさておき、「もてない男」の小谷野敦がその後の結婚離婚経験を経てあらわした「帰ってきたもてない男」タイトルからしてお遊びが入ってますが、これはちょっと奇妙な感触でした。
 私は、「もてない男」は著者が非モテ系の自分をサカナに展開する恋愛論というか、人間関係と孤独についての本のブックガイドみたいな読み方をしていました。今度はさすがにこの著者らしく引用は多いけどブックガイドとは言えません。

 それにしても、恋愛至上圧力とか、いろいろ言ってはいるんだけど、なんか論が滑っていく感があります。あくまで私に迫ってこない、という意味なのではきちんと読み解いている方はいらっしゃると思います。著者の言う「もてない」というのは、自分の好きな女性に好いてもらえない、ということであって、不特定多数に騒がれたいことではないというのですから、もうこれは未来永劫存在する人間の悩みでしかないです。

 そもそも、人間関係って不条理なものだというのが、私の認識の出発点ですので、
「なぜ東大大学院卒でもてないんだ!」
と言われたところで、(もちろんこれは著者本人もルサンチマン…私怨だと言ってるけど)そうなんだから仕方がないんですね、としか思えない。異性に惹かれる理由には趣味・容貌・経歴にプラス、好み・相性というものがあります。愛別離苦、怨憎会苦の理不尽は永遠です。
 立場の強弱があからさまなもの以外のセクハラ論争にも、私が私見を申し述べることにためらっちゃうのは、「私は人間なので、好き嫌いがあって、同じことでも行為者が誰かに拠って全然感じ方が違います」を認識しているからです。人間て、そういうものだから結婚したり恋愛したりができるんではないかと思います。だからこそ、大勢が顔をつき合わせて仕事しなきゃならない場では、控えめ、抑制が大事になるのではないですか。
 女性がカタログデータ的に男を選別するといわれたって、お互い様だし、その選別基準にイチャモンつけたって空しいだけでしょう。それでもって、もてないことを否応なく認識してしまったら、それぞれ自分を道化にしたり、異性嫌悪になったり、とりあえずお金で解決方向へ走ったり、あくまで赤い糸の人を待ち続けたり、人はいろいろな行動をとるのではないでしょうか。そういう事を描いた小説なら、ドストエフスキーとか、日本の私小説から、それこそ山のようにありますよね!その先に幸せがあるかどうかは運しだいですが。
 私は、著者の言う1.5流大からもはずれている大学出身ですし(いえ、文中におつきあいしたい女性の出身大学指定なんてされてるので)、稼ぎ悪いし、美人とはとても自己申告できないので、まあ、隅から小さい声で言っちゃうのですが、東大大学院修了、ブリティッシュコロンビア大留学経験あり、サントリー学芸賞受賞暦ありの小谷野氏が、自分の異性への理想が満たされない現実に折り合いをつける気なんかさらさらないのに、「どうしろというんだ!」とわざとらしく吼えてるような感じがします。(小谷野氏は負け犬の遠吠えなんか気にしませんよね…やはり私は小心者)

 この本を読んでみると、私がこう感じるのも男と女の、また個人的な性と性行為に対する欲求度の違いに起因するのかもしれないな、と思いますが、やっぱりどこか沁みない議論です。フェミニズム論客やそのほかの人の「もてない男」についての論評や反響についての言及もあるけど、やっぱり私は「女が誰かと対にならなくては生きていけない」強迫観念がないほうがいい世の中だと思ってるので、もてないのはやっぱり自分で解決というか対処しないとなあ、と思うのでした。
 いや、今度も掘り出し物の本を紹介してもらえるかと思ったので、ちょっと辛目の感想かも。

下妻物語 完 ヤンキーちゃんとロリータちゃんと殺人事件

2005年07月15日 | 
嶽本野ばら/小学館

 あの感動作、下妻物語続編。
 ちゃんと試験の点数は稼いでいるロリータの桃子が、体育オール見学が原因で留年。ヤンキーのイチゴは普通に成績不振で留年。卒業できなかった二人がほんとは無いはずの春休みに遭遇してしまった殺人事件で、なんとイチゴが容疑者になってしまいます。面白いからと警察に嘘つきまくって捜査を撹乱する桃子と、おろおろするイチゴ。そしてそんな二人の前に現れる未亡人になったイチゴの恩人、亜樹美さんと、亜樹美さんの亡くなった夫・竜二の友人セイジ。
 今度はミステリ仕立てながら、桃子の旅立ちまでの教養小説的な匂いにあふれてます。

 さすがに前作ほどのインパクトはないものの、最後の315~319ページに泣かされました。この数ページに泣かされるためにはこれだけのストーリーが必要だったわけです。
 自分の美意識を支えに、世の中に対して一人で昂然と生きていた桃子が、イチゴという一直線な友人の心に触れ、自分の大事なものを、感動を洋服という形で世界に問うために飛び立つ、「ダサくてクサくても、思い込んだ道を突っ走る」勇気を育てていくのです。そして世界へ関わるために、そこで自分の場所を得るために踏み出します。
「下妻に愛着なんかない」と言い切る桃子ですが、下妻かどうかではなく、イチゴのいるところが彼女にとってやはり拠り所です。

 前作からのトンチンカンな熟語・ことわざギャグも炸裂しています。イチゴの割れ鍋に閉じ蓋的な2度目の恋の相手、セイジさんにも笑わせていただきました。本当に物知らずで純粋なカップルで、桃子ちゃん、心を猿にして突っ込んであげないと、こんないたいけな二人では悪い人の食い物にされてしまいます。
「井の中の蛙」を「胃の中の買わず=胃袋の中にいたんじゃ何も買えない」もおかしかったですが、私、実は室生犀星の「ふるさとは遠きにありて思うもの…」を最初に朗読で聞いたものですから、「いどのかたえ」を正しく「異土の乞食」とは思わなくて(だって難しい言葉なんだもん)、「井戸のかたえ」だと思って、井戸のそばで商う「かたえ」という、明治時代の坂で車を押して駄賃を貰う人みたいな、かなり底辺の職業があるのかな?と思ってました。セイジさんとご同類かも。

若きウェルテルの悩み/ゲーテ

2005年06月21日 | 
高橋義孝訳 新潮文庫

 婚約者のいる女性ロッテに恋し、その純粋さ・多感さのゆえに破滅していく青年を描いて社会的にも文学史にも重要な傑作。

 今、エキサイトブックスで毎週木曜連載中の「非モテ文化史」シリーズというのがある。最近のは「明治のポジティブ毒男、武者小路実篤の巻」3回で、武者小路とその妻房子を今の毒男風に読み解いて面白かった。もちろん、「お目出たき人」も元祖勘違い君なところばかりでなくて、理想の愛情を求めるとか、自らを高めようとする主人公もまた読みどころではあります。
 小説は人それぞれ自分の読み方で読むものだけれど、やっぱりこういう風に読めるよね~と共感を禁じえない。このシリーズでは「トニオ・クレーゲル」「ムーミン」も登場していて、これからが楽しみ。「ベニスに死す」はあたりまえすぎてダメかな? で、私が期待しているのが「若きウェルテルの悩み」

 ゲーテの名作中の名作で、ゲーテ自身が「この小説が自分のために書かれたと思う一時期をもたない人間は不幸だ」という言葉を残したそう。しかし、中学の時に初めて読んだときには「気持ちわり~」としか思えず、終盤のほうで、完全に周囲から浮き上がってしまったウェルテルに好意を持ち続けるロッテにさえも「なぜ?」と思ってしまった。
 ウェルテルは、誠実や美しいものへの賛美と、俗物性や不正、人間の卑小さへの嫌悪に対する感性が鋭すぎ、それを押し殺して生きるには神経が繊細すぎる。したがって、彼の持つ全ての刃はその純粋さのために自分に向けられることになる。そして彼は自殺する。
 人間生きる年数が長くなると、それなりにいろんな感情を体験するし、そのたびにウェルテルの昂ぶったり沈んだりにも共感を持てるように、彼の感情の一端を知ることになる。ウェルテルほど高くもどん底にも行ってない程度なのだが、それでも「この本は我がためのもの」感はなんとなくわかるようになる。
 それと共に、ウェルテルの痛々しさもだんだん肌の奥まで刺さっていくようだ。
 彼は若く、前途を切り開く意欲に燃え、世界を美しいものと見、理想をわが手で築かんとする清冽な心を持った青年として実にさわやかに登場する。それがかなわぬ恋に捉われ、社会の不合理や醜さに妥協を拒んで追い詰められる。決して彼の憧憬と賛美を裏切ることのないロッテは決して手の届かぬ存在であり、情熱をほかに向けようとした彼の努力は裏切られる。死は恋のためだけのものではない。

 でも、やっぱり傍にこれだけ激しい人がいなくて助かったなあ、と思ってしまう。もちろん私が誰かにこれだけ思いを寄せられることはないだろうが、傍目で見ていてもかなり不気味だ。
 絶対に思いを遂げられない恋する人の傍で、感情が高まってしまって、彼女が演奏している最中にわっと泣き出す、いきなり彼女の小さな妹に強くキスして泣かせてしまう。結婚した彼女とその夫の前で自分をもてあまして大騒ぎしてしまう。
 自分が会いにいけないときには、下男をやって、この男に彼女の目が注がれたと思ってときめく…
 やっぱりまだひいちゃう。

平凡/二葉亭四迷

2005年06月20日 | 
講談社文芸文庫「平凡・私は懐疑派だ」

 明治の文士の述懐のようなぼやきのような半生記。
 可愛がられ家の中の王様のようにして育ち、文学に志し、自分の文名を広める機には恵まれたものの、続かずそして文学そのものにも懐疑を抱き、挫折の上に生活に追われる39歳の今がある。

 ここ10年ほど古い小説が新しい版で出て、きれいな活字や広めの行間で読めるようになって嬉しい限りだが、これもそうなってから読んだもの。ほとんど流れ作業のように読んでいたティーンの頃でなく、今読んだというのもまた人生のめぐりあわせというものでしょうか。
 あらすじはずいぶん乱暴に書いてしまったが、本当に全編ぼやきのようでおかしい、そして切なく恥ずかしく、痛ましい。「浮雲」と同じく文章全体が軽妙なのですらすら進んでしまえるのだが、これまた「浮雲」と同じく自分の自尊心と怒りを扱いかねているような不器用で生きるのが下手な主人公なのだ。そしてキレてしまうには理性がありすぎる。
 自分が何ほどのものか、見えてしまうがために思い切って切れてしまう事も出来ない。これもまたものすごく不幸なことだろう。
 少年期や、青年期の失敗や懊悩は時代とシチュエーションこそ違え、そこに描かれる「やっちまった…」「何でこうなるんだ…」「そんなことがあってたまるか」の身に覚えのある心情には、共感のハズカシさで身もだえしてしまう。きちんと抗議できない、処理できない我に悔しい思いを心のなかに沈めていくことも実にわかってしまう。何よりも志を立て、情熱を注ぎ込んだ文学への懐疑に自分が綻びていくような寂しさが、虚無感が奥から響くようだ。

 明治という時代の特殊さ、現代との違いは、私にはもう実感ではわからない。四迷もまたその急ぐ時代の中で人よりものが見えすぎた人間だったのだろう。この本を読んで四迷という人の精神は、明治には現代人に過ぎると感じるのである。

「平凡」も、「浮雲」も青空文庫で読めます!

タフの方舟 1 禍つ星 (ハヤカワ文庫SF)

2005年05月10日 | 
ジョージ・R.R.マーティン著
酒井 昭伸訳

 人類が宇宙に出て連邦を築いて以後、それが衰亡の道をたどりつつある頃のお話。
 ボロ商船で星の間を商売をしてまわるタフは金に困って、いわくありげな客5人を送り届ける仕事を引き受ける。

 浦沢直樹「プルートゥ」2巻を買いに行って、ついでに買った本。
 本の帯の惹句は「ジュラシックパークの興奮とハイペリオンの愉悦がここにある。宇宙一あこぎな商人ハヴィランド・タフ登場!」
 そうなんですけど、まず第一に、おお!久々めぐり合った爽快なスペースオペラ!
 ダン・シモンズ好きであろうが、ニーヴン好きであろうが、クラッシャー・ジョウ好きであろうが、この本に嬉々として飛びつくこと間違い無しと思われます。
 主人公タフは身長2メートル半、無表情でまっしろな皮膚、はげ頭、太鼓腹、大きな手足という、加藤保憲をもっと魁偉にしたような男。第1話の「禍つ星」で手に入れた過去の遺伝子技術の遺物、どんな生物のクローンも作ってしまう胚種船のたった一つ残された使用可能な船を駆って、「環境エンジニア」を開業して宇宙を行く!
 帯で「宇宙一あこぎ」なんて形容されてるタフは、猫撫でながら腹のたつ慇懃無礼な態度で交渉するけど、それが抜け目なさそうでいて、実は間抜けで、実は誠実で、それでいてどんな時にも泰然自若で最後には言い分きっちり通しちゃうという、涙が出そうにいいキャラなんですね。

 この本は三話収録で、それぞれのエピソード一つ一つ恐竜やらファンタジーじみたおなじみさんな怪物やらの総出演。常識を超えた知性生物、それに宇宙での活劇までお楽しみを各種取り揃えて供してくれます。
 タフの手ごわい相手として配されるのがまた根性ありそうなお姉さまぞろい、それもまたお楽しみ。

 この連作が、5月末刊行の四話収録の本で完結です。それを待ってから通して読むべきだったという思いと、それでおしまいかいっ!という思いで、心は乱れるのです。ああ、もう読んじゃったわ、もったいない!

ファウンデーション アシモフ著

2005年05月04日 | 
岡部 宏之訳/ハヤカワ文庫
 1940年代に書かれた古典SF。繁栄を極めた銀河帝国の衰亡期から始まる未来史。
 1980年から続編が書かれ、彼自身の別のシリーズ、ロボットものと統合され、巨大叙事詩となり完結したが、ほかのSF作家によってなおも書き継がれている。

 読みたくなったのだけれど、もう家にあるのかどうかも定かでなく、図書館で借りてきた。定番図書だからどこでもあるかといえばさにあらず!一つの図書館で全部そろえるのは無理だった。したがって今回は最初の一冊だけ借りてきた。こういうことがあるので本の処分がますます難しくなるのだ。この極めつけの名作も、気軽には読めないなんて。
 初めて読んだのは中学生くらいだったから、どんな読み方をしたのか忘れちゃったけど、この最初の一冊に関してはなんか今の国際情勢に迫ってくるようだった。

 人は目の前の危機に気がつきたくないし、前例で対処することが安心なのですね。それで、それはどこでも変わらないし、どの時代でも変わらない。そのくせ、ヒーローを待ち望んでいる。
 衰亡期を迎えた人類のなかで、その暗黒期を3万年から千年程度に短縮するために人類の知恵のストックの場として、人類復興の足がかりの星ターミナスが心理歴史学者(何をする人なんでしょう?この本では預言者みたいな)ハリ・セルダンによって設立される。これは、金属などの資源をまったく持たず、軍事的な力も持たず、技術を持っての貿易にのみ依存するターミナスがどのようにしてほかからの脅威をしのぎ、生き延びていくかの物語である。

「資源なし、技術を持って貿易に依存」なんてどっかの国とすこ~し似たようなところはありますが、それはそれとして、これを読んで平和(な状態)というものが所詮はイデオロギーでも理想でもなくパワーバランスとストラテジーによって維持されるのか、と改めて思ってしまう。あれこれ考えてみても、第1次大戦後のイギリスの平和運動は結局ヒトラーを利することになったし、長いこと日本は非武装中立って言ってたけど冷戦体制の中でアメリカの軍事体制の一部だったことも事実ですね。でも、だからこそ理想を掲げて理性と共に苦しみながら進んでゆく人々に感動せずにはいられないのだが。

 本日、2001年に海上保安庁の警備船と交戦の末自爆沈没した北朝鮮の工作船という物を見に行ってその武器装備のすごさに震えた。82ミリ無反動砲まであって、ほとんど戦争である。ほんとにぼけてるわけにはいかない。

アムンゼン探検誌(平凡社世界教養全集)

2005年03月27日 | 
 中学生用の英語のサブテキストを探していて古書店で「The Coldest Place on Earth」という全滅したスコット南極探検隊についての本を見つけた。本文20ページ足らず、解説や、内容確認のための設問もすべて易しい英語で、しかも感動的なところははずさずに書いてあって、なかなかお得な買い物だった。
 それにつられて、平凡社世界教養全集(1962年初版・すごい名前の全集があったのだなあ)24を引っ張り出してきてアムンゼン探検誌を読む。この本にはほかにサン・テグジュペリの「人間の土地」アラン・ジェルボー「たった一人の海」が収められている。

 未知なる物への到達を希求する人間の記録や物語は、いつだって胸躍らせずにはいられない。
 アムンゼンのこの記録は、ほぼ自伝だが、彼のまさに鉄の意思に驚きも感嘆もさせられる。15歳の時に探険家になることを決心し、以後彼はそうなるための準備と努力を惜しまない。冬の夜も窓を全開にして眠る。ノルウェーのオスロの冬である。軍隊での訓練も、身体を鍛えるのも、探険家になるため。探検隊のトラブルは、隊長と船長の2人リーダーが原因と考えて船長になるため船員にもなる。すべて探検隊のリーダーになるためであり、観測者としての訓練も必要とあらば短期間で済ませる。
 何が必要かを考え、それに対する備えを微塵もおろそかにしない。
 何度も死に臨むような事態を乗り越えたのも、彼の北西航路をはじめとする数々の成功も、このあらゆる状況を想定した準備と、非情とも見えるような決断力・実行力故なのだと納得させられる。
 南極点初到達をめぐっての、国威をかけた競争では、スコット隊の悲劇もあり、アムンゼンが栄光だけでなく中傷や嫌がらせにも直面しなくてはならなかったのは知られたことだが、この本でもそれについて冷静に触れていると思う。イギリス人もほんとに子どもみたいな嫌がらせしてる。

そこまで周到なアムンゼンが、飛行船時代になって船長を兼務することが出来ずに、飛行船の雇われ船長イタリア人のノビレと若い頃に喝破したようなトラブルが起き、そのノビレを救助活動中に不慮の死を遂げた。そして、まさにそのさなかにアメリカのバードが機械化された最新装備の探検隊を率いて南極へ向かう。誰しもそこにくっきりとひかれた時代の区切りを見てしまうのではなかろうか。

 しかしこの本を読んで、そこに書かれた未開の土地や人(白人を見たことのないエスキモー)、装備の旧式に古い時代を感じても、何よりアムンゼンという巨人(やはり20世紀最大の探検家だと思う)と、人間の可能性への挑戦への感動には古いも新しいもない。

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「坊ちゃん」(夏目漱石/新潮文庫)

2005年03月06日 | 
 「坊ちゃん」というのは竹を割ったような性格の若い男の子が、旧弊な社会に啖呵を切る小説のような印象があるらしい。
 ところで読んで胸がすくか?少なくとも今の私は爽快感より痛ましさが先にたつ。ただ、文体の歯切れのよさはすごく気持ちがよく読めるし、描写のおかしさには突発的大爆笑になります。

 今、周囲の10代後半くらいの子に「坊ちゃん」の感想を聞くと、
「切るなよ」
「切れるなよ」
なんてのが返って来る。
 初めの「切るな」は、あのナイフで指切っちゃったところ。「切れるか」と挑発されれば骨が出るほど指切っちゃうし、「飛び降りられるもんか」といわれれば屋根から飛び降りて骨折るし、何でそこまでやるか…と思うんでしょう。やっぱり親だったら、こういう子は手を焼くかも。次の「切れるな」は、あんまり上手に怒ってないように見えるからでしょうね。それほどすぐにキレてるわけではないのに、そういう印象持たれちゃうんですね。

 松山で中学の数学教師だった彼の正義感は破れ、東京に戻って街鉄の技手になる。職業から言えばかなりのランク落ちだろう。しかし痛ましいのは世間的な位置づけが下がったことでなく、彼の孤独感が痛ましい。山嵐は友人といえるのかもしれないが、彼の孤独感を埋めるものでなく、生徒たちは彼にとって何者でもないような印象を受ける。

 そして彼は清の手紙を風に流し流し読む。寂しさが浮き出てくるようなシーン。そして東京に帰り、清のそばで彼は安定する。それがまた痛ましい。それでも利口に生きない、愚かにも見える坊ちゃんの行動に、私は共感を持たずにいられないのである。

 漱石はどう考えても赤シャツの位置にいる。そして坊ちゃんの育った家では、坊ちゃんの「なまっちろい勉強ばかりしている兄」の位置にいるだろう。私は「お兄ちゃんだってつらい」と思う。
 なにぶんにも明治初期である。跡取りの長男は絶対。次男以下とは格が違う。いま、「条件付の愛(もしいい子だったら、成績がよければ、自慢できる子なら愛してあげる)は子どもにとって虐待です」なんて言われてますが、このおにいちゃんは長男だから大事にされてるんで、その条件付の愛そのまんま。そして坊ちゃんは無条件に、本人にも訳わからないほど「よいご気性」だとほめてくれる、彼の存在をそのまま肯定してくれる下女の清がいたけれど、お兄ちゃんには見当たらない。お兄ちゃんは果たして坊ちゃんにとっての清の如き、安定をもたらしてくれる誰かを、何かを見出すことが出来るのか?

 切ない。

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本の売り方

2005年02月17日 | 
「ネバーランド」の原作、でなくストーリーの元になった本を読んだ。書店の映画コーナーに置いてあった。
「ロスト・ボーイズ―J.M.バリとピーター・パン誕生の物語」アンドリュー・バーキン著
 想像以上にシビアで痛い話だった。バリと、デイヴィス一家の交流が舞台になり、映画になったわけだが、「ネバーランド」(ほかの名前も持っている)が現実と空想の出会う、人間の内容を豊かにもし、また逃避の場所ともなり得るところであるということをつくづくと思わされる本だった。映画では割愛されたナニーが重要なキーパーソンだったり、何より、ヴィクトリア時代のイギリス社会というのがこの話の根っこを押さえているようだ。富んでいて華やかで偽善的。
 バリが貴族階級出身でないというのもかなり周囲の受け取り方が変わっているようだ。古い映画で同じくバリ原作の「男性と女性」を見たときに、その階級の厳しい描き方にちょっと驚いた。「ゴスフォード・パーク」の時代でもあの状況だし、やはり今の私たちの感覚で捉えられないものがある。
 それは別として、「ネバーランド」はスイートだけど、抑制が効いた雰囲気がとても良かった。その中でジョニー・デップの存在感、ケイト・ウィンスレッドの美しさは素晴らしい。声高な映画ばっかりでなく、こういう映画もきちんと評価されると嬉しいなあ。

 最近は、文学系新人賞受賞者に高校生続出。楽しみではあるけど、ちょっと最近の本の売り出し方というのは私にはさびしいものがある。
「インストール」はハードカバー本なのに、20分かからず読み終わった。ちなみに速読法は知りません。なんか呆然とした。
 少し前だったら、この程度のものは2,3篇で、中短編集で本を出していたのではないか。綿矢りさという人は、好きなタイプじゃないけど、独自スタイルを持ってるんだから、そっちのほうが彼女の持つ資質を印象付けられると思うんだが、この出版の仕方は普段読まない人を取り込もうという狙いなのだろうか。でも、この方法が、本当に作家を育てることになるのか、私にはわからない。
「セカチュー」も短かったけど、これは話の長短以前に文体が駄目だった。
 センテンスが短くて、「…だった。」の繰り返し。
 そのうちに頭の中で「だった。」「だった。」だった、だった、だった…と響いてやりきれなくなった。これはあくまで好みの問題です。
 なんか叫びたくなって、内田百間(この字は本当は門の中に月)読みました。
 
 私も若くないみたいです。

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高校生のお休み

2005年02月05日 | 
 昨日は朝から「これはいかん」というような体調で、ノイビタEX3錠でドーピングしたのだが、午後6時過ぎにはばったり倒れ、寝てしまった。金曜の夜に早寝とは何たることであろう。先週の金曜夜は「オーシャンズ12」を見に行ったのだが、やはり疲れ気味だった。それでうまく映画にのれなかったのかな。

 今週は、高校生が入試休みで、私のビデオや本をいくつか持っていって見ていた。そのラインナップがなかなかのもの。
「美女と液体人間」(1958/本多猪四郎監督)
 彼女のお気に入り。3年ほど前に見て、東宝特撮に目ざめてしまった。特に、東宝のキャバレーシーンが好きで大笑いしている。よく液体人間のまね、とかスカーフを巻いて「キノコを食べるとキノコになるのよ」と微笑んで遊んでいる。家族内でも理解する人間は少ない。
「浮雲」(1993/アキ・カウリスマキ監督)
 初見で「なんか不思議なテンションの映画だねえ…」という感想。
 BS2昼の放送の「真田風雲録」(1963/東映・中村錦之介主演)も録画してくれたようだ。「この映画の笑いのセンスが理解できない」と言っていた。
 本のほうは「中国五千年」(陳瞬臣著)「こころ」(夏目漱石著)それにアメリカのアニメ雑誌。「こころ」の感想が「手紙が長すぎる。何であんなに考えてあの結果になるのか?」その感想が私にはちょっと不思議。久しぶりに読み直してみよう。

 しかしその前に、「王の帰還 SEE版」を目いっぱい味わいつくさねば!

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毒舌日本史(今東光/文春文庫)

2005年01月30日 | 
 今東光和尚様(1898~1977 この本の出た1972年当時中尊寺貫主)が博覧強記と雄弁で聞き手に池島信平を得て語りおろし、その速記録も今和尚自身が書き直したという。「悪名」原作者が迫力で語る日本史。

 年寄りのお話のひとつに講談ネタのような歴史のこぼれ話みたいなのがひょいひょい出てくるのは、今でもそうなんでしょうか?私が明治~大正生まれの親戚から聞いた話は、だいたい昔のチャンバラ時代劇の内容に一致するようなのとか、「道鏡、膝ではないか」(キャー、分かったらすいません)なんて話とか、けっこう庶民は言いたいこと言ってたんだなあ…など思っていたのでした。もちろん史実として教えてくれたのではなくて、笑い話のなかまみたいな感じで話してくれました。
 この本では、そういう中で聞いた話ががバンバン出てきて、おっかしかった。
「藤原家の先祖は不比等(鎌足じゃない)」
「後醍醐天皇はケチで暗君だった」
「義経と建礼門院のごにょごにょ…」
眉につばつけなくてはいけないかな~と思うものもございますけれど、仏教と日本の歴史の関わり方への見識など、なるほど、さすが、と思うところ大。
 それに人物や事件に対する見方もはっきりしていて、武士の台頭は奥州藤原氏がメインで平将門はスルー。鎌倉幕府が倒れる必然は棚上げで、建武親政瓦解からそこの話が始まったりして。平安時代が日本で唯一のサロン文化の時代というのは大賛成。
 文章も調子がよくてぐいぐい進めるようになっているし、語句解説もご本人によるもので、いつも間にか今和尚の史観に納得させられそうになります。適当な脱線あり、池島氏の冷静で適切な突っ込みあり、面白すぎるので、「やっぱりこれだけじゃいかん」とかえってブレーキがかかります。

 昭和当時の和尚の毒舌、というものの位置づけが今ひとつぴんと来ないけれど、言いたいことをはっきり言っていることは分かります。時代の空気も捉え切れないので共産党と日教組へのワルクチもインパクトのほどが察し切れないのが残念。

 2チャンネルの歴史板なんかでも、歴史オタ様たちのディープな会話が飛び交っていますが、ちょっとそれを連想しました。

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