虫干し映画MEMO

映画と本の備忘録みたいなものです
映画も本もクラシックが多いです

水鏡綺譚/近藤ようこ

2007年02月06日 | 
青林工芸舎

 中世を舞台に狼に拾われ育てられたワタルと、守りの水鏡をなくしたために記憶をなくした鏡子の旅を描く。

 近藤ようこという漫画家は、時代物はともかくとして、現代ものは強烈にショウもない女性の人生とか、はまり込んで抜けないドツボみたいな気分が落ち込むようなものばかり読んでいた。そのためか余り積極的に手を出す作家ではなく、これは友人が貸してくれるまで知らなかった。そのときにこれも買わなくてはと思ったのに忘れてしまい、最近映画「どろろ」を見て思い出して購入。
 中世版のボーイ・ミーツ・ガールであり、ファンタジーであり、おのれの求めるものを知るための旅の物語である。

 ワタルは狼と育ち、異世界に通じ悪霊などを鎮める力を持ち、鏡子は仏の申し子であり、しかも欠損があるがゆえの力を持っている。
 連作短編形式で、彼らは鏡子の家を探す途中で、不幸なもの、妖しい者たちとかかわりあっていく。狐の親子、長いときを生きつづける白比丘尼、切り倒された松の精、龍神、シンデレラ・鉢かづき姫のような境遇の美しい娘…
 そして異世界と人間の世界がもっと近かった時代の、別れを約束されたラブストーリーが進行していく。

 完結編はなんと12年のブランクを経て描かれたそうだけれど、読む回数を重ねるだけ、切なさが深まるラスト。ワタルとの旅の記憶を失った鏡子に、見知らぬ他人として会ったワタルが口にできるのは「いつか会おう」のはかない約束だけ。

 高橋留美子の「犬夜叉」も戦国ボーイ・ミーツ・ガールであり、やはり切ないラストを予感してしまう…「どろろ」も続編あるならラブストーリーは上手に作って欲しいものです。あの二人ではどうも不安ではありますが。

貧困の世界化

2007年01月23日 | 
ミシェル・チョフドフスキー著 郭洋春訳の1999年出版の本。

 貧富の格差の拡大と階層固定の世界的な構造を、IMFと世界銀行がその本来果たすべき精神とは大違いな作用を果たしてしまったことを告発したようにも思った書。数年前に一回読んだのだが、思うところあって再読してます。

 現在日本でも、格差の拡大は衆目を引くところとなっています。
 それに、景気拡大の期間がいざなぎ景気を超えたそうですが、ぜんぜん実感はありません。戦後の好景気は、国民が実際に景気を感じられたそうで、春闘のベースアップでは、半年さかのぼって昇給なんてあって、その差額分が月給やボーナス丸々分くらいの額になったのだそうです。信じられないですね。なんかそういうのがあると、ああ、ちょっと生活が上昇したと実感できるかも。それに「会社が儲かると私にもお金がもらえる」というのは会社のためにもがんばろう、この会社をつぶしたくない、とか思っちゃうだろう。
 今は、会社は自分を庇護してくれるとは信じ難い時代です。え~っと昔、全日空でしたっけ?「会社は永遠です」って書き残して、汚職事件の取調べ中に自殺した人がいるって読みましたが、今は詰め腹切らされてもそういう発言はまさか出ないと思います。
 つい思い出したことをづらづら書いてしまいましたが、要するに、今の好景気って誰がいい思いをしてるのかということです。いることはいるのでしょうが、実に見えにくい。人が幸せにならない好景気ってなんか不毛じゃないですか?

 見事に雑文になったので、ついでに疑問を。
 郵政民営化についてですが、国内どこへでも郵便が届くっていうのは近代国家として作り上げた公共インフラですよね。確かに非効率はあったかもしれないけど、公金投じても維持しなきゃならないインフラっではなかったのですか?民間は採算の取れるところで勝負するんですよね。
 私も財投は問題だったと思うけど、結局全部一緒くたで「民営化してしまえ」の一括で終わってしまったように思えます。
 ここのところ、どなたが、どういう風に説明してくれたか、不明にしてぜんぜん分からないのです。

ものを言う自由と輿論(戦う石橋湛山)

2006年10月08日 | 
 ロシアのジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤ氏の殺人は衝撃でした。ローザ・ルクセンブルグの暗殺などアタマをよぎり、私がうろたえたところで何がどうなるということはありませんが、また一つ不安の種が増えてしまいました。核実験も心配でたまりませんのに。

 今、石橋湛山について読んでいるところで、中でも半藤一利氏の「戦う石橋湛山」(中公文庫)は日中戦争から対米開戦までの時期に絞って、一人変節を拒み「軍縮・植民地の放棄」を敢然訴え続けたジャーナリストを描いて、同時期のマスコミと大衆が暴走する軍部へ擦り寄るように熱狂していく様が浮かび上がる本。不況の閉塞感、他国から非難されることへの反発などがいかに内向きのナショナリズムをあおり、大衆が勇ましい言説を望むようになるかの描写も過去のこととばかり言っていられない。心底ぞっとする。「自由にものを言うこと」がいかに困難で、貴重なことであるか!
 石橋湛山は「植民地を、満州のみならず台湾・朝鮮など以前からのものも含めてすべて捨てる。これこそがその唯一の道でり、同時に、我が国際的位地をば、従来の守勢から一転して攻勢に出でしむるの道である。」と主張する。そして植民地経営が経済的にも安全保障にも日本にとってメリットは少ないと、きちんと経済学的にも解説している。
 もちろん彼の論は当時受け入れられるものではなく、警察や軍部に敵視されるものでした。
 しかし、戦後の日本は彼の主張した道を歩んだように見えます。
 
 同じ様に時局批判したジャーナリスト桐生悠々の、都市空襲を受けるならば日本の敗北は必至であるとした1933年信濃毎日新聞社説『関東防空大演習を嗤う』も、後でその通りになっています。

 正論必ずしも世に容れられるものではないということです。
 私の考えていることだって、誰かの受け売りになっていないか、まず自分から検証しなければいけません。

 そして戦後。山田風太郎の昭和21年の日記。
(新宿でA級戦犯を乗せた護送バスを見て)
この20年、10年亜細亜と全地球を震撼せしめた風雲児たちがギッシリつめられているのだ。彼等が残虐極まる戦犯であることを、今疑うものは一人もないが、もう十年たつと、やっぱり日本の英雄達に帰るから、輿論とは笑うべきものである(5月6日)

 山田風太郎の日記では、戦後の日本の手のひら返しの如き輿論の実態もきっちり読めます。

 ちなみに、湛山は戦後にもGHQから「戦争協力者」としてパージを受ける破目になりました。要するに、占領軍にも言いたいことを言っていたからです。連合軍の占領終了後首相になりましたが健康上の理由で2ヶ月で退陣。後に立正大学学長にもなりました。立正大学では、湛山の精神はどう生きているのでしょうか?

みおのょっ! はときいんっ!

2006年09月11日 | 
知る人以外には訳のわかんないタイトルですが。
この記事は

レンタル(不倫)/姫野カオルコ著
角川文庫

についてです。

 姫野カオルコのエッセイでは彼女自身が「なかなか男の人に性の対象に見てもらえないかわいそうな私」のポーズしてます。この本の主人公もそれにオーバーラップするような、SM系ポルノ小説家だけど実体験のない30歳過ぎの処女(文字通りの意味)小説家。その彼女が、名前からして霞という色男デザイナーとの不倫の機会に臨んで…というお話。

 自己欺瞞と全く無縁な主人公は恋愛とも無縁。なんか分かる。結局みんな「ドロドロ」「ズルズル」「頭で分かっていてもどうにもならない私」が好きなのね。
 私もそうなのよ。はしばみとピーナッツとさんざしのお菓子については。男については将来はいざ知らず、今のところは大丈夫。

 主人公・力石理気子がセックスしてしまう霞というナルシズムのカタマリみたいな男がものすごい。文節ごとに「フ」という息の音が入り、口から出る言葉は「。」にたどり着くまで400字詰め原稿用紙1~2枚までをおフランスな形容で飾り立てる。彼の発する文章それぞれに著者の言語能力(いや、それに加えるに観察とパロディのかな?)に圧倒され、感心しつつも、つい飛ばしそうになるのを必死で全部読みました。引用したいところですが、余りにも長いのでちょっと無理。
 ともかく理気子は彼の言葉に

 みおのょっ! はときいんっ!噴火だ! ゴジラ!

 と火を吹いてハズカシさに悶えつつセックスの前段としての恋愛ごっこの「手間」に付き合うのです。だってそうしないと彼は「しおしおのぱー」なんですもの…

 ページを繰っていて笑わないページがない!共感を誘われつつ、だけどその笑いは自分をも嗤わずにはいられないというものです。笑いを成立させるためには意地の悪さとニヒリズムが必要だと思いますけれども、それが爽快にブレンドされております。
 ラディカルで優れたアフォリズムに満ちた作品です。できれば「姫野『処女』三部作」のあとの「ドールハウス」「喪失記」もどうぞ。

ノーベル賞受賞者にきく子どものなぜ?なに?

2006年09月05日 | 
ベッティーナ・シュティーケル編/畔上 司訳
主婦の友社

bk1の内容説明では

どうして1たす1は2なの? どう答える? 子どもたちの究極の質問。親では答えられない難問・奇問に、ノーベル賞をもらったその道の天才たちが答える。

なんて書いてありますが、奇問というのはそれほどないです。
 確かに答えにくい質問(説明の中の1たす1は、みたいなの)とか、答えはなんとなく分かってるけど自分でうまく説明できないの(電話ってどうしてつながるの? どうしてプリンはやわらかいのに石は固いの?)とか、考えたくない質問(地球はいつまで回っているの?)とかはあります。
 どの質問もまっとうに聞きたい事ばかりだと思います。
 回答もまた、まっとうなものですが。
 その中でも、口の中で「う~~~」と唸ってしまうような解答もないわけではありません。
 ノーベル平和賞受賞者といえども個々の思想は平和主義とかでくくれるようなものであるはずは当然ながらありません。
 一つの事象に対しても捉え方は別々なのだろうと思わせられます。個々の体験の深い絶望が伺えるものもあります。が、子どもに対しての回答ですからもちろん相互理解と理性と希望を訴えるものになっているのがほっとします。
 なんか身につまされるのが、経済学賞受賞者担当の回答です。
「どうして貧しい人とお金持ちの人がいるの?」に対するダニエル・マクファーソンの答えは
「まず運の良し悪し。人生は不公平なものです」
これは実にミもフタもない真実です。このことを踏まえた上で生きていかなきゃいけないのよね。

8月は

2006年08月16日 | 
 世の中が戦争があることを思い出す月になっているようで、新聞雑誌の特集とかTVの特番だので日本が負けたことを確認してくださいます。
 
 15日は総理の靖国参拝で騒がしい1日でした。
 私は私個人のことと、知っていることしか申し上げられませんが、戦没者遺族と言っても、あたりまえのことながら一様ではありません。

 一人息子を南方で亡くした曾祖母は絶対に靖国へは行きませんでした。千鳥が淵へ行っていました。
 大叔父は日本兵の大多数(7割)の死因と同じ餓死です。現地調達の仕様もない農耕とて不可能なサンゴ礁の島へ補給も無しに置き去りにされてじりじりと弱って死んでいったのでしょう。
 私も靖国へはごくたまに行きますが、無念や悲しさに心が乱れるばかりです。

 やっと危ういとはいえレバノン停戦が眼に見えるようになりました。
 このところエドワード・サイードの「ペンと剣」をずっと読んでいました。ちくまで文庫化されておりますので多くの方に読んでいただきたい本です。
 これは10年にもわたるラジオ・インタビューを集めたものなので、サイードがずっとアピールし続けた「パレスチナ人の存在」とそこにある悲劇、その間のパレスチナとイスラエルの問題の移り変わりをも学習できます。
 絶望的な状況の中でも、なおも理性による世界への希望を持ち続け、訴え続ける素晴らしい思想家の姿を知ることができます。

 こころ、とかどうにも取れるような一言で片付けてはいけないことがあると思います。卑屈にならず言葉を尽くして、しかしあくまでもひるまず訴えることが肝要ではないですか。

Who was Sacagawea?

2006年08月11日 | 
 本屋に行って彷徨っていたらこの本を見つけました。
 Sacagaweaってチラッと聴いたことはあるけど本当にどういう人?
 正確な発音は?

 子供向けの偉人伝シリーズみたいなものの一冊で、易しい英文です。高校入試程度で楽勝な感じです。他にアインシュタインとか、アメリア・イヤハート、ハリエット・タブマン、ベンジャミン・フランクリン、ヘレン・ケラー、モーツァルト、ルーズベルトの納得のメンバーのほかに、アニー・オークリー、ハリー・フーディニ、なんとロナルド・レーガンなんて入ってる!
 表紙の絵柄は全部こういう雰囲気なのですけど、赤ちゃん背負ってるし、名前に惹かれて手にとって拾い読みしていたら面白いので買ってきました。

 前頁挿絵付きです。インディアン住居内部とか、なかなか興味深い図解も入っています。

 サカガウェア、またはサカガウィアと読むのでしょう。アメリカ北西部を探検したルイス・クラーク探検隊に同行したアメリカインディアンの(2002年発行のこの本にはアメリカ・インディアンと書いてあり、ネイティヴ・アメリカンは使っていない)ショショーネ族の少女で他部族にさらわれ、そこからまた毛皮商人のインディアン妻の一人として売られる。
 この男が探検隊に雇われ、そして16歳のサカガウィアが同行し、探検隊の知恵袋・ガイド・通訳として最も頼りになる存在となるが、その間に子どもも生んで、その子を背負って探検したのである。アメリカの3つの州に彼女の名前にちなんだ名のついた山がある。
 ルイス、クラークの残した記録などからは如何に彼女が(夫なんか問題じゃなく)その能力を認められていたかがわかるそうだ。でも彼女は給与は一切無かったし、探検成功後は夫の毛皮商売に同行し、二人目の子どもを出産後ちょっとした病気で25歳の若さで亡くなってしまう。
 ポカホンタス以外ではもっとも有名なインディアン女性らしいけれど、二人とも若死にって、なんてことでしょう。
 昔、「卵と私」のシリーズを読んでいたときに、白人女性である作者が居留地のインディアンたちを「だらしが無い、みっともない、怠け者、ポカホンタスの面影も無い」とものすごく失望し見下した調子で書いていて、「ソルジャー・ブルー」以後にアメリカ史を齧ったものとしては、インディアンから生活手段も何もかも奪っておいていい気なもんだなあ、と思ったことがある。
 この本も子供向けではあるし、サカガウィアや探検隊の経緯や業績についてがほとんど。 探検行は何年にも及ぶものだし、未知の土地への決死行、行く先々食料も必需品もほぼ自給生活だったわけでその部分は普通に探検ものとして面白かったり、簡略描写ながらも冒険にはちょっとワクワクする。
 その後のことは彼女の子どもの消息がちょっと書いてあるだけ。その書いていない部分はどうしても考えてしまう。特に子どもを背負っていたサカガウィアを攻撃してくるインディアン部族が皆無だったことは、その後のインディアンの歴史-ほとんど白人による圧迫と滅亡の歴史を考えると、どっちが野蛮人でありましょうかとため息を禁じえない。
 今はなんとしてもこういう視点を抜きには読めないが、子どもの時に読んでいたらどういう感想を持ったのだろうか。

 2000年にアメリカの彼女のドル・コインができ、ノースダコタやワシントンDCにも銅像があるそうです。チャンスがあったら見たいものです。どっかの映画に出てこないかな。 

絶望の精神史/金子光晴

2006年07月16日 | 
講談社文芸文庫

 ここ数日持ち歩いて読んでいた本。微熱が出ていたのだが、この本のせいではないかと思うほどで、後からじわじわと効いて来る言葉に満ち満ちている。東京オリンピックの翌年に書かれた本で、日本は高度成長真っ只中で、ようやく世界の中で肩身の狭い思いしなくていいかな、と思い始めたような時期だろうか。
 金子光晴が、彼自身と、彼自身で見聞きした日本人たちを自他共に容赦なく露骨に描く。

・ 湿っぽい気候と閉ざされた地理的条件から、抑圧された精神が異常な発酵をし、それらが近代日本人の歴史的性格まで作り上げた。それは時代が移り、壊され、なくなったと思っていても人々の生活習慣好みに絡み合うだけでなく、人々の迷信深さを利用して不条理な世界へ追い込んでいる。
・日本のような孤立した国は、ある意味では恵まれているが、他国と優劣をきそうような機会は少ない。しかしその代わりに進展は自己批判も生まれにくく、本当に自分たちが幸福なのか不幸なのかわからない。統治者が言ったことが全国民の合唱になる。それが根拠の無いものであった場合、傲慢不遜・狂信的な国民が出来上がってしまう。

 書かれた当時の状況、明治100年の日本の行き方を善しとする見方と、敗戦後の20年の平和こそが善しとする見方の対立と双方の論の持つ危険を書いた最終章などは今に当てはめてもその通りなのだ。

 この本は、次の言葉で結ばれる。

 日本人の誇りなど、たいしたことではない。フランス人の誇りだって、中国人の誇りだって、そのとおりで、世界の国が、そんな誇りをめちゃめちゃにされたときでなければ、人間は平和を真剣に考えないのではないか。人間が国をしょってあがいているあいだ、平和などくるはずはなく、口先とはうらはらで、人間は、平和に耐えきれない動物なのではないか、とさえおもわれてくる。

 日本を考えるなら一度は読んでみなくては。
 愛国心とか国家の誇りなどの言葉は口当たりが良くて受け入れやすいのでつい目をくらまされてしまう傾向があります。

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 今晩の港の花火の前に浴衣完成できました。本日朝7時にやっと最後の袖付け終了。
 ここ3日くらいは朝5時起きで作業してましたのでヘロヘロです。
 肩はがちがちに固まり、細かい作業用の眼鏡かけっぱなしで痕が鼻にくっきりで冴えないですがともかくできました。
 昼間に雨がしょぼしょぼ降り出したときは、アタシの苦労をふいにする気か!(誰が?)と怒りました。
 幸い、雨も上がってますので行ってきます。

ヴェニスの商人

2006年06月23日 | 
 本日は「ヴェニスの商人」。
 最近アル・パチーノのシャイロックで映画になったのが初の映画化だそうで、私はまだ見ていないのですが、ちょっと気になって読んでみました。
 友情に篤いアントーニオが、友のバッサーニオの結婚のためにユダヤ人の金貸しシャイロックから金を借りるが返せなくなる。借金のかたは胸の肉1ポンド。しかしバッサーニオの新妻ポーシャの機智により絶体絶命のピンチから逃れて、悪いユダヤ人は財産没収・改宗強制。場面変わってポーシャの知恵が讃えられバッサーニオ・ポーシャ、それぞれの従者の2組の夫婦が仲良く消えるところで大団円。

 ハッピーエンドの喜劇でも後味が悪い、というのが普通の感覚ではないでしょうか。そりゃあ、人死にがなくなったのは良かったけど、じゃあそれまでものすごく侮辱し馬鹿にしてる相手から金借りるなよ、とは誰しも思うでしょう。
 ユダヤ人というのは西欧社会で差別され、それがどういうものか、日本で暮らしているとぜんぜんピンと来ません。アメリカ映画「愚か者の船」でも、ユダヤ人の商人が手ひどい扱いを全く見ず知らずの人間から受け、それを抗議するでもなくやり過ごし、そしてラストで彼と世界の未来を暗示するが如きナチスの制服の威圧感に満ちた地へ船は入港します。
 もともとの戯曲(もちろん翻訳で)読んでも、どう考えてもシャイロックがあれだけひどい目にあうほど悪いとは思えません。もちろんシェイクスピアの生きたユダヤ人差別バリバリ時代に書かれたものです。しかし、今のように差別が糾弾される以前からシャイロックに同情する人はいました。名前は忘れたけどドイツの詩人が劇を見た後、シャイロックのために泣いたという話が残っています。
 私も子どもの時はともかく、大人になって読むと、ポーシャは素直に賞賛できないし、アントーニオ、バッサーニオの独善性、というかキリスト教の独善性に嫌気が差します。実際に劇を支えるのはシャイロックのそれまで抑えて来た怒りがとどめられなくなった一種の狂気と、彼が全てを失う…改宗までさせられアイデンティティのを失う悲劇性だと思います。
 私がこの劇中で一番まともに好感持てるのは、キリスト教徒と結婚してしまうシャイロックの娘。
 劇中にシャイロックのセリフで

「(娘に)夫を迎えるなら キリスト教徒なんかより、(キリストに代わって放免された盗賊)バラバの子孫のほうがまだましだ」

 というのがありますが、キリスト教徒がこんなに心の狭いものなら、私もキリスト教徒との結婚はやめておいた方が良いと思えてきます。何かあったら出自についてとんでもな言いがかりでいじめられそう。

 シェイクスピアの意図は今となってはわかりませんが、今の私には勧善懲悪のスッキリお芝居というより、「我のみ正しい」と信じるものたちの意識しない残忍さを突きつけるドラマに見えます。
 
 エルンスト・ルビッチ監督の映画「生きるべきか死ぬべきか」ではこの劇のセリフを実に効果的に使って、ユダヤ人、ひいてはすべての人間を差別することの不正と醜さを描いています。あれは素晴らしかった…

 というわけで、アル・パチーノに関しては、シャイクスピアの「リチャード3世」を巡る「リチャードを探して」もなかなかエキサイティングだったので、それなりに期待しちゃいます。

われらが英雄スクラッフィ / ポール・ギャリコ

2006年05月27日 | 
山田 蘭訳/創元推理文庫

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』のジブラルタルの項にも

岩山の猿

アフリカから連れてこられた猿達が岩山に棲息している、この猿達がジブラルタルからいなくなったら英国がジブラルタルから撤退するとの伝説があるという。この猿達の世話は英国陸軍砲兵隊の管轄だそうである。また第二次世界大戦中に物資不足から猿の個体数が減少したがチャーチル首相が直々に猿の保護を命じたという逸話が残っている。


という記載があります。
 実際にチャーチルが猿の個体数維持の命令をしたは事実で、イギリス人と猿に関する伝説があるのも本当のことですが、「その他は、すべて私の想像が勝手に生み出した物語である」と冒頭にギャリコの言葉があります。

 個性豊かな動物たちに、わが道を行く素敵な変人たちなど、ギャリコの小説に登場する魅力的なキャラクターの総動員といった感のある巻を置くあたわずな小説。
 タイトルの「スクラッフィ」というのはサル山の猿の中でも飛び切り大きくて醜くて乱暴で、エサをくれる人間には必ず噛み付き、嫌がらせと破壊が何より好き、という手のつけられない猿。
 そして猿担当にされてしまったお人よしの陸軍大尉ティム・ベイリー。しかし彼は猿たちに、特にスクラッフィの誰にも馴れない孤高の姿に魅入られてしまう。そして20年も猿の世話をしてきたラブジョイ砲兵とともに真剣に猿のために働いてしまう。
 ところがその努力はうるさがられるだけで報われぬまま、ある事件が原因でベイリーは猿担当もはずされ、それ以下の最低の冷や飯喰いの地位に追いやられる。
 そして第二次世界大戦に突入、スペインがドイツにつくかどうかという危ういところ。なんと放って置かれた猿とイギリス人の伝説がスペインの去就を決定しようかという事態に!!!

 大戦中の話であり、背景にドカンドカンと大砲の音は鳴り響くがとりあえずは猿の命が先決問題な小説。

 そしてスクラッフィに鬘をとられて恥をかかされ、真剣に反イギリス工作をしてしまうラミレス氏。
 猿仕官ベイリーに恋をするぽっちゃり少女から最高の美女となる海軍提督の娘フェリシティ。
 緻密で高度な作戦を猿のために展開する情報部の頭脳クライド少佐
など、今風の言葉でいえば「キャラの立った」登場人物。
 しかし何よりも、人間様が自分たちの都合で猿相手に右往左往する中で、そんなことには超然とあくまで気難しく乱暴で頑固で孤高の猿であるスクラッフィがやはり英雄なのです。大団円にほっとしてギャリコのほかの小説のように爽やかな気持ちで本を閉じることができます。そして岩山の上に大きな醜い猿の哀愁に満ちた姿が浮かび上がるような気がします。

バラとゆびわ

2006年05月26日 | 
サッカレー 岩波少年文庫
 
 岩波少年文庫でも、堅い表紙の復刻版。
 サッカレーが読みたくなったのに、なんと大人向けは図書館に「バニティ・フェア」も全部揃っておらず、古いこの本がえらいきれいな状態で児童書コーナーにありました。

 これはグリムなどのおとぎ話のその後の世界というか、おとぎ話をちょっと皮肉ったようなもの。
 魔法使いは「魔法は世のためならず」というわけで魔法をやめてしまい、王子様とお姫様とは生まれたときに不幸をプレゼントされる。「それが本人のため」だから、というわけで。
 叔父に地位を奪われた王子様と、謀反で両親の死亡後、一人残されてボロを着てさすらっていたお姫様が、愛し合い最後には結ばれるのだが、その途中の困難や波風はけっこう笑える。
 お姫様、とか王子様はとりあえず地位が安定していればみんなからちやほやされ、誉めそやされ、自分でも何でもできる気になってしまう、とか。ま、こういううぬぼれも王様として必要な素質かもしれません。
 魔法使いも重要なポジションだけど、なんだかもったいないばあさんみたいに正しくて、人が聞きたくないことを言う役回り。持っていれば誰からも愛されるバラやゆびわといった魔法の品も登場し、でもそれがさして本人たちのためにはなっていない。
 お姫様の復権に味方しようと集まったのが爺さんばかりで、役に立つようなことは何もせず、姫が王位に返り咲いたらこいつをやっつけて、こいつを処刑して、とそんな取らぬたぬきの皮算用のリストつくりしかせずに、いざとなったらぜ~んぜん役立たずというのが楽しい。
 王子様が自分を捕らえに来た軍隊に対して3日3晩の演説の末、自分の指揮下に置くところは(おかしくて)涙なくしては読めない。いやあ、これ以上聞かされるのはたまらなかったんでしょうなあ。
 「不幸に負けず学び、力をつけて幸せになった」なんて教訓つきの解説がついてるけど、どう考えても、おとぎ話の予定調和の中にサッカレー節を盛り込んだというところでしょう。

 最近の良い子の皆さん、名木田恵子とかもいいけど、こういうのも読みましょうね。私は小学校の時にアーサー・ランサムさんに教えてもらいました。
「すべての学説はいずれ論破される運命にある」
児童書といえども古典は面白いのよね。

闇の奥/コンラッド

2006年05月01日 | 
中野好夫訳 岩波文庫

「地獄の黙示録」の原作として知られています。
 かなり前に読んで、文章の読みにくさに閉口して、そのときもただ字面を追うだけの読み方しかできなかったのですが、歳をとってもぜんぜん受ける感じに変化無く、読みにくいのに変わりなし。
 船乗りが仲間に語る話なのだが、一文が長く、ページいっぱい字が詰まったようにひしめいているよう。これは文章から来る印象だと思う。読みにくい、と思いつつも結局一気に読まされてしまう、妙なパワーがある。
 映画と違って、本のほうの舞台はアフリカ。やはり風土の違う土地で西欧人の人格が崩壊してしまうのだが、映画のほうがずっとおどろおどろ。それに設定の違いだけでない、風土の違いが本と映画の決定的な違いをつくっているように思う。

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続き(5月8日)
 ともあれ、「闇の奥」の映画化が「地獄の黙示録」とはとても言えない。あまりにも違いすぎる。それは風土のこともあるが、やはりベトナムとアメリカのかかわりと、ヨーロッパ人のアフリカ搾取の違い、それにアジアとアフリカの風土のちがいだろう。
 本のほうでは、クルツという人物は全く何をしたのか、どういう人間なのかわからない。アフリカのジャングルの奥でどうにかなってしまい、その場で支配者として振る舞い、周囲に畏怖され、象牙を集めて、そして病気で死んでいったことが描かれているが、実際に何をしていたのかは読者にははっきりした内容は与えられない。
 ただ語り手であるマーロウが彼の魂の苦闘を感じ、それに取り付かれて、婚約者に会いに行ってまで彼の記憶の始末をつけたがった、それほど強烈な体験だということがわかるのみである。
 マーロウはこれが始めてのアフリカ行であり、そのほかのアフリカのヨーロッパ人ほど感覚を鈍磨させていない。クルツをとりまく象牙への欲に取り付かれた白人の描写は浅ましいばかりであり、黒人たちの描写もそれに劣らず恐ろしい。

 ところで、10代でこの本を読んだ時の記憶で何が一番残っていたかというと、この部分でありました。
「…その頃はまだこの地球上に、空白がいくらでもあった。」
 俺様思想は他所の人のはわかりやすいです。
 

これでおあいこ/ウディ・アレン

2006年04月14日 | 
伊藤典夫・朝倉久志訳 河出文庫

 ウディ・アレンの短編小説集。けっこう古くて、今は古本屋で探さないと入手困難かな。「プロディーサーズ」を見てなぜか読みたくなった本。

 ウディ・アレンの映像作品よりもややスノビッシュで、哲学だの歴史だの文学だの、様々な知識があればあっただけ楽しめます、と感じるもの。でも知らなくてもおかしいことはおかしいし、彼の映画でいつも感じる神経の先に何かが当たっているのを払いのけられないピリピリ感も味わえます。その上でアレンの大嘘世界の巧妙さに身を任せてクスクス笑ってしまいましょう。

 巻頭作の「ミスター・ビッグ」は若い娘に「神」探しを依頼された探偵のおはなし。
 
 駆け込んできたブロンド娘との会話
 「で、《彼》の顔つきとか特徴は?」
 「わかるわけないでしょう、見たこともないのに」
 「じゃあ、なぜ存在するとわかるんです?」
 「それをあなたが調べるんじゃない」
 「なるほど、すばらしい。顔つき、特徴はわからんというわけだ。 どこから手をつけるかもわからないわけですな?」
 「まあ、そういうことね。ただ、どこにでもいるんじゃないのかしら。この大気の中、ひとつひとつの花の中、あなたやあたしの中-この椅子の中にも」
 「ふむふむ」
 とすると、この女は汎神論者か。


はい、こんな調子です。ハードボイルド文体に哲学・神学の用語がちりばめられその取り合わせの妙がたまりません。
 ハードボイルドのパスティーシュですし、ラストにいたっては彼女との対決ですから、読んでいるとどうしても「三つ数えろ」的映像が浮かんでまいります。それで主役は顔がボギー、声がアレンね。
 この「ミスター・ビッグ」と「わが哲学」は落語の「こんにゃく問答」を連想したりもします。勉強しても実はわかんないわよっ!という普段隠してる本音の共感とか、深遠をおちょくる爽快感とか、それが共通してるんでしょうか。
 まあ理屈無しでも十分面白いので、ハードカバーで復刊してくれないかなあ。

自負と偏見(その2)

2006年04月08日 | 
 この小説の構成でジェントリー、紳士階級の中身を端から端までわかるように書いているのには、本当にうまいなあ、と思わされる。

 主人公エリザベスは年収2000ポンド(下限に近い年収)の父親の5人姉妹の次女。それも父親の土地に男子限定相続の縛りがあるので父親が死ねば親戚の男性が継ぐことになり、彼女たちには夫しか経済的な後ろ盾は無くなる。しかも紳士階級の娘だから自分で稼ぐための準備なんてまったく無い。そして母親は若いころは可憐な美人だったらしいが、今ではただの俗物。その縁戚の行動は、主人公に夢中なダーシー青年をしても、エリザベスと結婚して、縁続きになるのをためらわせるに十分な下品さ。

 片やダーシー青年は母が貴族の娘で年収が1万ポンド。しかも正しい倫理観を持ち、男友達に尊敬され、娘たち・親たちには絶好の婿がねと切望され、周囲には相応の気を配るという非の打ち所ない青年なのに、無愛想でどうもエリザベスの初対面の印象がよくない。そのためにエリザベスはかんたんに彼についての中傷を信じてしまい、ダーシーの求婚を断り、あまつさえ彼が「紳士らしくない」という非難までおまけにつける。

 紳士というのは、経済的裏づけと「紳士らしい態度」の両方を要求されてしまうのですなあ。それに、紳士階級の上と下で、そのまた上と下の階級との結婚を伴う結びつきがそれなりの階級ステップアップになる…もわかる仕組み。
 貧乏なエリザベスのほうが「態度」に重点置いて、エリザベスの父親の母に対する態度なんてとっても紳士らしいとは言えないのに、ダーシーを「紳士でない」といいきっちゃうのはいい度胸だと思う。もちろんその誤りを自分の思い上がりとともに思い知り、訂正する部分がこの小説のクライマックスのひとつ。

 だがしかしダーシーは、それだけ手ひどい拒絶をされても「あの生意気女!」なんて思わない。あろうことかそれまでの自分を反省すらしてしまう!エリザベスの妹の駆け落ちを秘密裏に金で始末をつけたり、二人の仲を引き裂こうとする叔母キャサリン夫人の非難で彼女の彼への気持ちの変化を確信したり、誠にうらやましく都合のいい展開。
 結婚後は、夫につき従う妻でなく、溌剌と夫に対等に発言する妻になる、というのもなんか少女向けラブコメを思い起こさせる原因の一つ。

 作者の適度のいじわるとか、穏やかな展開のユーモアもさすが名作です。
 最後にどうでもいいことで意見を言えば、私は(本人の気持ちはさておいてダーシーを争うライバルになる)キャサリン夫人の娘はあれほどナサケナイ存在でなく、意思の無いお人形のような、でもきれいな女の子でも良かったかもねえと思う。

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 本日で目の使用制限やっと解禁です。
 今夜はやっと録画した「コンバット」新シリーズが見られます。それから「ズバット5」を見て、明日は何を見ようかなあ。一週間長かった…… もう真っ暗な部屋でテレビだけつけてゲームするのは止めます。ちゃんと明かりつけて取説の注意を守ってすることにします。
 やっぱり小学生みたいだな。

自負と偏見 /ジェーン・オースティン著

2006年04月05日 | 
中野好夫訳 新潮文庫

 十代で初めて読んだ時の感想は、確か「少女漫画、少女小説みたいだなあ」といようなものだったと思う。
 美しい長女に個性的な光を放つ次女(主人公)とその他3人と形容したい5人姉妹。俗物な母に、出来のいい上二人の娘には優しいが、そうでない娘にはいささか冷ややかな、そして妻には距離を置く父。
 最後には近所に越してきた気さくで優しい好男子は長女と、またその親友で大金持ちのちょっととっつきにくい美青年は次女と結婚し、めでたしめでたしになる。主人公がちょっと気を引かれる美男の駄目男は妹と駆け落ちするというおまけつき。
 きっと万人に認められる美人ではない次女の、その内面からの輝きを男性が愛するといった展開がそう思わせたのではなかろうかと思う。私はジェーン・オースティンは向いてないみたいで大好き、とかものすごく面白い、とは思えない。ただやっぱり読むとすごいと思う。実に女の目線のみで描いているようなのに、その当時のイギリス社会というようなものを考えさせる、また今に至る社会の「男と女の力関係」まで考えさせられる妙な本。男同士の会話の描写ほとんど無し。

 釣り合いとか打算妥協、母親を交えた女同士の権謀術数のなかで、いかにいい夫を捕まえるかという探りあい突っ張りあいの競争のゴールが「結婚」みたい。独身男はまったく獲物のよう。また男のほうからも妻を計算上有利になるように獲得したいのがありありというのもでてくる。主人公とその姉はその中でも結婚レースに目が血走っていない清々しい存在で、こういうところも大量に読んだ少女漫画主人公を連想する原因。

 この小説は当時のイギリスの貴族階級より下、労働者はお呼びでない紳士階級だけ、その上から下まで、という部分を描いている。そして紳士階級=ジェントリーというものがどんなものかな、と興味を呼び起こされる。今日は時間がないので、ジェントリーについては次回。