虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

機能不全家族について 3

2022-03-11 12:48:35 | 機能不全家族・アダルトチルドレン

 

父がどうして、少し話をするだけで、相手の弱みやコンプレックスや罪悪感のありかを嗅ぎ付けて、それを掌握してしまうことができたのかといえば、おそらく父にはちょっとした仕草や戸惑いや躍起になって弁解する瞬間や、言葉にしたこととあえて言葉にしなかったことから、相手の心の動きが手に取るように見えていたからでしょう。

 

また父には、何かを観察する時に、結論を急がず、ひとつひとつ詳細に分析していくところがありました。

学問の世界とは無縁で、仕事も肉体労働に終始していた父ですが、時折、「ああ、またか」と家族をうんざりさせる形で、父の頭の使い方を知る機会が何度かありました。

 

母の療養のため、父母が田舎に移り住むことになった時、「日曜ごとに競輪や競馬に通い詰めている父が、退屈な田舎暮らしに我慢できるのか」と心配していたところ、母から、「父さん、近所にいくつかパチンコ屋があるから、けっこう楽しそうに過ごしているわ。うまくある分でまわして、お金はほとんどかかっていないみたい。」という報告を受けたことがありました。

が、それから少しして、母が、「どのパチンコ屋にも出入り禁止になったらしい」と伝えてきました。

理由を聞いたところ、それぞれのパチンコ屋ごとの台の性質やどんなサイクルでどんな出方をするかといったことを細かく調べ上げていたようです。またそれらすべてを頭に納めて、出る台から出る台へ移っていたところ、あまり何日も勝ち続けるので、出入り禁止を言い渡されたそうなのです。

 

父は粗暴で毒のある性格で、母に手を上げることも多かったけれど、わたしは疎ましく思うことはあっても、あまり恐れてはいませんでした。

それこそ、父の顔が怒りで蒸気して、まるで射抜くような目でこちらを睨んでいるような時も、こちらはこちらでひるみもせずに父の顔を見返していた記憶があります。

気の強いはずの妹がまるで引きつけたように泣き叫んで父の剣幕におびえているのに、おっとりのんびりした性格の弱々しい感じの子だったわたしが、よくそんなことができたものと呆れるけれど、父が人の弱みやコンプレックスや罪悪感をすぐに嗅ぎつけるのと同じように、わたしには、虚勢の下に隠れた父の気の弱さやコンプレックスや罪悪感、空虚さや不安といったものが、はっきり見て取れたのです。

 

子ども時代の話を書くと、たびたび、「機能不全家族に悩まされながら、どのように精神衛生を保ち、子育てをされていたのですか」「どのようにして、世代間連鎖を断ち切ったのですか」といった質問をいただくことがあります。

簡単にまとめられそうになかったので、これまで、そうした質問にお答えしたことがなかったのですが、私的な話が長くなったついでに、それについてもわたしの思いを書いておくことにします。

 

機能不全家族やアダルトチルドレンという概念に出会ったのは、長女を産んで少しした頃です。

大人になって、穏やかで安定した暮らしを送るようになってから、わたしは自分の心がいかに家族の問題で深く傷ついていたのかを思い知ることになりました。

一時期は、凍結したり抑圧していた記憶がどっと押し寄せてきて、涙が止まらなかったり、不眠が続いたり、激しい吐き気や頭痛に悩まされたりしました。

 

特に母が問題行動が激しくなる妹を道連れにして自殺未遂を図った出来事は、自分もそれに加担されそうになったことへの怒りや罪悪感や、どんなことがあっても妹を守らなくてはという思いや、心が担える限界まで苦しんでいた母をかわいそうに思う気持ちや、自分の落ち着いた学生生活を奪われたことへの不満など、未消化の感情を呼び覚まして、思いだす度に、心が掻き乱されました。

 

そんな状態の中で、客観的に過去を見つめ直したり、感情を整理したり、自分の今の生活を大切に守っていくために、機能不全家族の問題を扱った著書の数々はとても役立ちました。

 

心身がかなりまいっていたとはいえ、わたしは自分の子どもを愛情をかけて育てるのには、何の努力もいりませんでした。

せいぜい過度の甘やかしを控えるのに苦労したくらいです。

たとえ未熟な関わり方でも、両親から強い愛情を受けてきたからなのでしょう。

 

機能不全家族とかアダルトチルドレンという言葉は、自閉症スペクトラムといった言葉同様、人の抱えている問題や困り感を明らかにして、苦痛を減らすための指針を与えてはくれます。

 

でも所詮、言葉で表せる概念は、便利なマニュアルや小道具にすぎなくて、そんな言葉の中に人の全てが収まりきるわけはありません。

 

 わたしは父が相手のコンプレックスを自分が優位に立つために利用する姿を見て育つ中で、人が何に縛られているのか、何を恐れているのか、何を恥じているのか、何を見ようとしていないのかに敏感になりました。父とわたしはそうした部分で似ているところがあるのでしょう。

父はそれを利用したけれど、わたしは、それに気づくことで相手が囚われている何かから解放してあげることができるし、袋小路に迷い込んだり、悪循環に陥っている考えから抜け出す手助けもできます。

トラウマとなるものを、被害的にだけ捉えるのは、わたしの性に合わないので、毒のあるものも、自分なりの活用法を考えてきたのです。

 

人の心は多面的で豊かで、同じひとつの経験からも、一方では深く傷ついても、他方では、それをきっかけに自分の人生にとって大切な意図を見つけたり、自分の視野や限界を広げる役に立ったりすることもあります。

何もかも奪われることがあっても、それを機会に自ら生み出すこと、創り出すことを学ぶことはできます。

 

子どもの頃を振り返ると、確かに父が母に暴力をふるうことで心が引き裂かれそうになるほど傷つき、母と妹の争いに終始、胸を痛めていたけれど、それに触発されて、ずいぶん早い時期から、自分が人生でやり遂げたいことを意識して自分の夢を育んでいたことも事実でした。

目に浮かぶ子ども時代の光景は、暗いものより美しくて神秘的な輝きを放っているものがほとんどで、ひとりで過ごしている時の多くは、心配ごとよりも、ワクワクする思いや幸福な気持ちで満たされていました。

 

わたしの夢というのは、物語の作家になることでした。

聞くのも読むのも語るのも物語好きだったわたしは、ごく普通の子どもの好みそうなストーリーも好きだったけれど、ちょっと風変わりな自分なりの好みも持っていました。

幼稚園のお話の時間に語られたグリム童話や怪談話や冒険物語を妹や従妹に語って聞かせるのが好きで、特に少し残酷な『ネズの木』の話が十八番でした。

 

カトリックの幼稚園だったので、園長先生に勧められるまま日曜日に、園の隣に併設されている日曜学校に通っていました。

おそらく大人向けの話の中にあったのでしょうが、そこで耳にした『放蕩息子』のたとえ話が、深く心に響きました。

こんな話です。

「ある人のふたり息子の弟の方が、放蕩して財産を使い果たした父の元に戻ってきます。それを父は喜んで迎え入れます。

さんざん好き勝手した上、ちやほやされる弟にずっと父のそばでつくしていた兄が不満を抱くと、父は、お前の弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから、一緒に祝おうではないかとたしなめるという話。

教会では、この話は、神の愛の偉大さを諭したもので、放蕩息子とは神から離れた罪深い人のことでわたしたちのことだと説明されましたが、わたしは牧師の解釈では気に入らず、「もし牧師さんの意見と違う考えで、どんどん考えていっても、放蕩息子が帰ってきたのを喜ぶ神様なら許してくれるはず」と考えて、自分なりにあれこれとイメージを膨らませたり、解釈してみたりしながら、ずっと心にとどめていました。

 

小学生になって、『ゲド戦記』を読んでからは、先の放蕩息子の話と自分の影と対決するゲドの姿が重なりました。

ゲド戦記は面白かったけれど、わたしには、自分自身の暗部である影と戦うゲドのストーリーは少し物足りませんでした。

「わたしなりの影をテーマにしたストーリーを作り上げたい」というのが、それからのわたしの終始変わらぬ願望でした。

できれば、放蕩息子のたとえ話のように、最終的には自分の影を抱きしめるような、最後に丸い円を描くようなイメージで終わる物語にしたいと思っていました。

 

高校生になると、ユングの元型やシャドウの話や荘子の詩に惹かれました。

その頃から自分でも詩を書き始めました。

『数えきれない太陽』というホームページに載せている 出逢い という詩と 友情 という詩は、実は、どちらも妹に向けて書いたものなのです。

わたしと妹が歩んできた道と自分が描きたいと思い続けているテーマが、その詩の中に結晶されているのを、今、読み返すと感じます。

 

結局、物語はどうなったのかというと、「これから書きあげてみたい」という思いもあれば、自分の今暮らしている生活の中で、子ども時代に旅立たせた物語の主人公たちの帰還をすでに味わっているような気持ちも感じています。



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