虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

機能不全家族について もう少し 続きです

2022-03-18 00:16:00 | 機能不全家族・アダルトチルドレン

 

過去は変えられないものなのに、世代間連鎖を断ち切ることができた理由のひとつに、親以外の大人たちから注がれた愛情を挙げると、そうした縁に恵まれなかった方に対して、何のアドバイスにもなっていないようで心苦しいです。

でも、そんな方も、自分の子どもたちに負の連鎖をつなげないための方法として、こうした捉え方があることを知っていただきたくもあり書くことにしました。

 

機能不全家族で育つと、何に対しても強い責任感を持つようになる方が多いと思います。

子育てをするにしても、親のような子育てはしたくない、子どもには幸せな人生を歩んでほしい、世代間連鎖を断ち切りたいと強く望むため、親のがんばりだけで子どもの人生をコントロールしようとしてしまいがちです。

でも、そうやって、一生懸命がんばる方角に向けていた針を、あまり無理をせずに、自分が楽しく安心して暮らすことや、子どもがより多くの人と関わり、異なる価値観に触れることを受容するような方角に向けることが、長い間続いてきた問題を消滅させるカギとなることもあると、自分の体験から実感しています。

 

子ども時代を通して、わたしはいろいろな人から、可愛がってもらい、わたしの個性を大切に扱ってもらった記憶があります。

 両親が自分の問題でいっぱいいっぱいの時も、わたしがわたしらしくあることを望み、ありのままのわたしを好きでいてくれる人たちをいつも身近に感じていました。

だから、わたしも教室の子や近所の子らと会う時は、ひとりひとりの個性の輝きとていねいに接していきたいと思っているのかもしれません。

また、自分の子ども時代のことをこうした記事に書くのも、他所の子もわが子と同じように愛せる素地のある人が、今の時代でもそうして良いと思うきっかけになればと期待しているのかもしれません。

 

今もはっきりと記憶に刻まれているこんな出来事があります。

友だちとおしゃべりしながら近所をぶらついていた時、やっと目が開くか開かないかくらいの子猫を見つけました。

わたしはそれまで何度も捨て猫を拾っては、さんざん周りに迷惑をかけてきたという自覚がありました。

一件家に住んでいる親友のお母さんは、わたしが何年かおきに拾っては押しつけた猫を飼うのに苦労していて、わたしに会う度に、「猫拾いさん、絶対、もう猫を連れてこないでよ。おばちゃんはもう猫は飼えないよ!」と苦言を呈していましたし、田舎に帰省した際は、わたしが子猫を拾ったために、母が駅前で子猫を入れた箱を抱え飼い主探しに奔放しなくてはならなかったこともありました。

そのため、普段なら、妹たちが捨て猫にエサを与えているのを見かけても、「団地じゃ、猫を飼えないのよ」と注意して、猫に近づくこともためらっていたはずでした。

ただ、その日、思わずその子猫のそばにしゃがみこんでしまったのは、子猫の皮膚がむき出しになった白い身体を、無数のゴマ粒のようなものが這っているのが目に着いたからでした。

それがあまりにむごたらしかったのと、>こんなに気味の悪い虫にたかられていたら、誰も子猫を拾ってくれないと心配でならなかったので、友だちとふたりで家の風呂場で洗ってやって、もう一度元の場所に戻しておこうと決めました。

母はパートに出ていて、留守でした。

まだふにゃふにゃした子猫ですから、最初はおそるおそる濡らしたタオルで拭いて虫を取ろうとしていたのですが、相手はしつこい猫ノミで、それではとても埒が明きません。

そこで、ベビーバスで赤ちゃんを洗うようなあんばいで、洗面器にぬるま湯をためて洗ってやりました。

すると、もともと弱っていた子猫が身体の力が抜けたように、くたっとなったのです。

自分のせいで子猫が死んでしまうのではないかと血の気が引きました。

それからタオルにくるんで移動する間も、子猫の容態が気になってしかたがありませんでした。

いざ、子猫を元の場所に置いて去ろうとした時、駆け寄ってきた女性から、猫を捨ててはいけない、捨て猫なんてとんでもない、とすごい剣幕でののしられました。

仕方なく、ふたたび子猫を抱いて歩きだしたわたしを、その女性はずっと睨みつけていました。

猫を抱いている間中、わたしの余計なおせっかいで猫が死んでしまうのではないかと思うと、頭がまっ白になって、足がガタガタ震えていました。

そうして近所中をぐるぐる歩き回った挙句、「絶対、もう猫を連れてこないでよ。」と言い渡されていた親友の家に向かいました。

わたしの姿を見て、呆れかえっていたそこのお母さんは、「飼えないよ」と繰り返し釘をさしていましたが、泣いているわたしの顔を見るに忍びなかったようで、しまいに、「猫拾いさん」と言って、わたしの頬を少しつねる真似をしてから、子猫を引きとってくれました。

しばらくしてから、遊びに行くと、部屋のあちこちに積み上げてある本の上を猫たちが占拠していて、そのそばにわたしが連れてきた子猫もいました。

そこのお家の気立てのいい母猫が世話を焼いてくれたようなのです。

 

親友の家のリビングは、壁一面が本棚になっていて、何の本が並んでいたのか定かではないのですが、分厚い百科事典がずらっと並んでいるコーナーがあったことは覚えています。

わたしが何かたずねると、そこのお母さんがいちいちそれを取りに行っては、事典の一節を説明してくれていました。

その内容はひとつも思いだせないのですが、百科事典を引き出す後ろ姿は記憶に焼き付いています。

 

わたしが本好きなのを知って、数駅先の図書館まで連れて行ってくれたのは、別の友だちのお母さんです。

遊びに行く度に、美しい色板や工作素材や質のいい児童文学に触れさせてくれる方でした。

ガラス張りのベランダでセキセイインコを放し飼いにしていました。

せっかく訪ねたのに友だちがいない日には、甘いミルクティーを入れてくれて、しばらくそこのお母さんとおしゃべりした後で、抱きしめてから家に帰してくれました。

 

前回の記事にこんなコメントをいただきました。(子どもさんのお名前があったので、非公開にしています)

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先生の猫拾いさんの記事を拝読して、子どもたちは地域社会でお育てする、その意味をかみしめました。
先生は幼いころの出来事を社会的な意味を見出して覚えておられるのです。私事ですが、ギャンブラーな父と宗教家の母という対照的な2人に育てられ最近までインナーチャイルドに苦しんできました。
誰でも、完璧な親になる必要はなくて、みんなで子どもをお育てする意識が潜在的にもあれば、うまくいく雰囲気になるのかなぁと思いました。

ここからは、個人的なことですが、先日小学校一の息子のクラスで絵本の読み語りをさせていただきました。私の感受性が強いのは中学生のころからですが教壇に立ったときのくらすの 雰囲気が異様で、イライラした感じの空気がクラスの真ん中にあって敏感な子どもたちはほかの子どもをけったり叩いたりしていました。そうでない子どもたちはどこか、ぼーっとしていて何も受け付けない様子。
絵本を読み始めると、ぼーっとしている感じの子たちは絵本を見つめているのですが、世界に入り込んでいる様子ではない感じの子もいて私には衝撃的でした。
うまく書けませんが、教室のイライラ感(雲?)はなんなのでしょう?謎です。こんな中で何を学ぶのかふしぎです。とりとめなくてすみません。

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わたしの記事から、地域社会で子どもを育てていく意味を見出していただきありがとうございます。

 

話が少し脱線しますが、うちの子らがまだ小学生だった頃、「地域で子どもを育てていく」大切さと難しさについてしみじみ感じたことがありました。

それを『本当に悪い子なの?』 という記事にしたことがあります。(時間がある方は読んでくださいね)

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 『本当に悪い子なの?』 

息子が小学3~4年生の頃、同じクラスに暴言をはいたり、暴力を振るったりすることが多く、クラスになじめない男の子がいました。息子とは正反対のタイプで、おまけに息子には他に仲の良いお友達が何人かいたのですが、その子は毎日のように息子と遊びたいから…と言って遊びに来ていました。せっかく遊びに来ても、数分もすると、その男の子のワガママが過ぎて、息子たちはよそで遊び始めてしまい、私とその男の子でいっしょにゲームをしたり遊んだりする日々が続きました。
この子は、私が友達でもいいんだな…と思うとちょっとおかしくもあり、時間が許せば遊んであげるようにしていました。

そのうち、6年生になったその子は、ますます問題行動が増えたようで、たびたび悪いうわさを耳にするようになりました。
その子のお母さんは、ずいぶん前に家出していて、暴走族に入っている兄と、粗暴な感じの父親と暮らしているという話もうわさの中で知りました。

その頃になっても、その子は私の元にちょくちょく遊びに来ては、兄のバイクに乗せてもらったことや、白バイへのあこがれなどを話して帰りました。

息子と同じクラスの他のお母さんたちは、その子の不良っぽい言動を気にして、子どもを近づけないように注意していましたが
私自身は、その子が息子に暴力を振るうとは思えないし、息子もその子に誘われたくらいで悪いことをするとは到底思えなかったので、気にせず遊ばせていました。

あるとき、その男の子が青い顔でやってきて「学校のガラスを割ってしまった…。」と言いました。
わざとやったのか、カッとなった時に乱暴が過ぎてしまったのか、事情はわからなかったけれど、「私も子どもの頃、妹とけんかしてトイレに飛び込んで隠れていたら、妹がどんどんトイレのドアを叩くもんだから、しまいにガラスが割れて、すごくびっくりしたことがあるよ。ガラスがある時はカッとしていても注意しなくちゃいけないね。」と言うと、少しホッとしたような涙目になって帰って行きました。 息子が6年生のある日、いつも何ヶ月か置きに演劇を見に連れて行ってたのですが、ちょうどチケットが一枚余ったので、その子を連れて行くことにしました。
誘ったのは、息子の仲の良いお友達はみんな塾で忙しく、その日に都合が良いのは その子くらいだったからです。
それで、親御さんに伝えていっしょに劇を見に行きました。
終始、予想以上のはしゃぎっぷりで、もう楽しくてしょうがない様子でした。
劇場で会った私のお友達は、その子を連れてきたことにひどくびっくりしてあきれ返っていましたが、思い切って誘ってよかったと思いました。

その時すでに年上の非行少年たちとの交流があったようですし、もう一年経ったら、道で会ってもそっぽを向くのかもしれません…。
ふつうに暮らしているだけで悪い道を進んでいきそうな環境で、その子の夢が「白バイに乗ること」だったことが救いで、少しでもいっしょにいれるうちに「がんばって警察官になってね。☆くんはきっと良い警官になれるよ。」と繰り返し言っておきたかったんです。


少しして6年生の修学旅行がありました。
息子の帰りを学校の校庭まで迎えに行くと、子どもたちが大きすぎるリュックをしょって帰ってきました。
引率の先生は、ひとりの生徒をつかまえて、がみがみと叱りながら歩いていました。
見ると、あの子なのです。
きっとよほど悪いことをしたのでしょう。
でも、どの子も迎えに来た親がリュックを持ってやったり、「どうだった?楽しかった?」と声をかけたりして楽しく帰宅していく中、その子ひとりお迎えがいないんです。
そんな心細い状態で、まるで見世物のように叱られているのです。

たまらなくなって、その子のそばまで行って「自転車にまだリュックを乗せれるから、乗せて送っていってあげるよ。」と言いました。すると、そばにいたさきほど怒っていた先生に「あなた、だれですか?」と冷たい口調で聞かれました。
「この子は息子の友達なので…。」と言うと、ちょっとイライラした様子で どこかへ行ってしまいました。
その日とても辛かったのは、他のお母さんたちの視線が冷ややかに感じられたことです。でも、おそらく、この子についての嫌なイメージが先行しすぎていたために、場の空気が凍り付いちゃっただけだと思うんですが…。
悪意があったわけでもないのに、しばらく落ち込んでしまいました。

その子の粗暴な行動は、発達障害にあるのか、環境のためなのかはわかりませんが、どちらも根本的にはその子に因があるわけではないと思うのです。

私は今も、その子について、「本当に悪い子なの?」と、疑問に感じています。

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文章の中では触れていないけれど、当時は、自分の選択でわが子たちを苦しめているんじゃないか、先々、わが子に危害が加わるようなことにつながらないか、という不安が頭から離れませんでした。

それでも、そうしたのは、その子の子ども時代は、今後、もう2度と体験しなおすことはできない、という焦燥感にかられたからですが、心配が取り越し苦労に終わってほっとしました。

 

話を前回の続きに戻しますね。

子どもの頃、さまざまな方から、単に地域の子として構ってもらうだけではなくて、人と人とのつながりや絆を感じるような可愛がり方をされていたのを思い出します。

 

高校時代、定期テストの前に「いっしょに徹夜でテスト勉強しよう」と誘ってくれる友だちがありました。

徹夜どころか、夜更けに散歩に出たり、繰り返し休憩を取ったりした挙句、早々と寝てしまうのですが、快く迎えてくれる友だちのお母さんに甘えて、度々お世話になっていました。

 

そこのお母さんは和装や手芸が得意な方で、ある時、わたしと友だちに浴衣の縫い方を教えてくださることになりました。

美しい色の布地を裁って、いざ縫い始める段になると、わたしも友だちもたちまち飽きて、仕事を放り出して、おしゃべりばかりしていました。

それで結局、2着の浴衣を仕上げていくのは、友だちのお母さんとなりました。

 

そこのお母さんは、何かたずねると、遠慮がちに笑って、穏やかな調子で、よく練られた思慮深い返事を返してくださる方でした。

わたしは悪びれもせずに、一針一針と自分の代わりにそのお母さんが縫い進めていく傍らで、あれこれと自分が聞いて欲しいことをしゃべり続けていた記憶があります。

 

高校生にもなって、ずいぶん幼い振舞いなのですが、家では母子の役割が逆転して、わたしは母の悩みの相談役であり、支え役と指南役も兼ねていましたから、こんな風にわがままな子どもの状態で過ごせる場所を必要としていたのだと思います。

結婚後、わたしと友だちはめったに会うことがなくなったのですが、友だちのお母さんは時折、こちらに連絡をくださいました。

数年前に母が亡くなる直前にも、田舎に療養に向かう母のことを心配して、親身になって相談に乗ってくださったことをありがたく覚えています。

 

数駅先にある図書館の司書の女性も、図書館に通い始めた小学校低学年の頃から、ずっとわたしを可愛がってくださった方です。

図書館に顔を見せると、貸出の受付の仕事を他の職員と交代して、わたしの本選びに長い時間つきあってくれていました。

その方がたびたびカニグスバーグの作品を勧めるのに、表紙の絵が暗いため、なかなか手に取りたがらなかったのですが、ある時、思いきって読んでみたら面白かったということがありました。

他のカニグスバーグの作品も探していたら、その方が駆け寄ってきて、こっちの作品はこんな話、あっちの作品はこんな話と説明しはじめて、その姿が本当にうれしそうで、はしゃいだ様子だったことが印象に残っています。

たまたまその方の新しい勤務先の図書館が高校の最寄り駅のそばだったので、そうした関係は高校生になっても続いていて、資格もないのに、司書の臨時アルバイトとして雇ってもらったこともあります。

 

こんな風に子ども時代に可愛がってもらった人々というのはまだまだいて、挙げているときりがありません。

面白いことに、自分が大人になって子どもと接する時には、そうして子ども時代に出会った大人の方々の語り口調や癖やユーモアや喜び方や好みなんかが知らず知らず、自分の内に蘇ってきて、自分の性格の一部のように感じられることがあります。

そんな時は、子ども時代の不思議に触れる気持ちになります。

 



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