虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

鍋いっぱいのプリン と ひっくりかえったがんもどき

2019-02-13 09:22:59 | 私の昔話 と 物語
母の実家の田舎のだだっ広い家に対して、都会のわが家は、
2Kの団地住まいでした。
2DKだって、4人家族にすれば、狭苦しいわけだけど、
2Kとなると、ダイニングと寝る部屋が昼夜で忙しく入れ替わらなきゃ
ならないわけで、まるで芝居の舞台みたいに、
ひとつの部屋がこたつや布団といった舞台道具で、
キッチンになったり寝室になったりと、忙しい家でした。

そんな狭っ苦しい家に暮らしながらも、
人って幼年期や子ども時代に染み付いた身体感覚が
抜けないもんなんでしょうね……
母は、電子ピアノじゃなくて、どでかい本物のピアノを購入してみたり、
食べきれないような料理を作ってみたりと、
母の実家の9人きょうだい仕様の暮らしを引きずっていました。

私も妹も夏生まれで、誕生会には母のお手製のフルーツポンチが
登場しました。
特大サイズのすいかを、ギザギザした切り口でふたつに分けて、
中身をくりぬきます。その時、アイスクリームをすくう
道具の小型版みたいな、すいかをクリッとした丸い形に抜く道具を
使ってました。
そうして、大きなすいかの容器を作って、中にサイダーや
果物のかんずめを注ぎ込み、丸いぶどうの粒のようなすいかを
浮かべてできあがりです。

よく言えば豪華、正しくは大ざっぱで豪快な料理が母の得意で、
グレープフルーツを半分に切って、中身をくりぬき、
ゼリーの粉や砂糖を混ぜて、もういちど注ぎ込みます。
そんなグレープフルーツゼリーが冷蔵庫によく入っていました。

クッキーの種も、おそらく料理本の材料の3倍は作って、
私も妹もねんどで遊ぶように、クッキー人形を良く作りました。
服にフリルをつけてみたり、帽子をかぶしてみたり、
靴や日傘やペットの犬猫、小鳥まで作って、大きなオーブンで
たくさん焼きました。
食べるときには、あまりの量にたいていうんざりして、
ビニール袋に入れてうろうろするうちに粉々になって、
何だかわからない形のクッキーを、
近所の友だちが「おいしい、おいしい」と食べていた記憶があります。

母は母なりに、都会風のこじゃれたものが作りたい気持ちは
満々だった気がします。
シュークリームやアイスクリームやカルピスやクロワッサンなど、
母のこしらえたおやつは、名前だけ連ねれば、
デパートの屋上のレストランで注文するようなものばかりでしたから。

それがどう間違うのか、
あるとき、プリンを作ったときは、大鍋いっぱいのプリン液を
弱火で煮立てて、それをグラタン皿に注いで冷やしてました。
グラタン皿なんて、そういくつもありませんから、
どんぶり茶碗や、タッパーウェアーや小型のボウルまで総動員させて、
プリンを冷やしてましたから、冷蔵庫の棚という棚が、
黄色で埋まってました。
プリンが大好物の私と妹は、最初こそ、飛び跳ねて喜んでいましたが、
途中から、「一生、プリンなんて名前も聞きたくない!」
ってほど、うんざりきてました。

今もプリンを見ると、大鍋でタプタプ煮つめられていた
黄色い液体が思い出されて、
懐かしいです。母はそんな田舎ものの一面を持ちつつも、
その天然キャラで他人から慕われて、
のんびりまったり自分の生をまっとうしました。
もうじき、母の一周忌です。

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思い出ついでに、過去記事の
<ひっくりかえったがんもどき>もよかったら読んでくださいね。

私の父は、以前の記事にも書いた通り、
粗暴で困った人ではありましたが、
気持ちが優しく、ユーモアがあって、話し上手な一面もありました。
私の父のことを、周囲の人はよく、「芸能人」に似ていますね……と
評することがありました。
若い頃は石原裕次郎にそっくりだと言われ、
年を取ってからは、北野たけしと梅宮アンナの父を足して2で割った
ような感じに見えるそうです。
機嫌が良いときの父は、子どもの頃の話を、面白おかしく、
時にはしんみりとしてくれるときがありました。
そんな話のひとつで、心に印象深く残っているのが、
「ひっくり返ったがんもどき」の話です。

父は兄や姉のたくさんいる子沢山の家に生まれたようです。
でも実際に父が何人きょうだいであるのか、私は詳しく知りません。
一方的に自分の話したいことを話す父の話は、
どれもバラバラのパズルのピースのように断片的で、
何年たっても肝心の部分がわからないところもあるのです。

父の家は豆腐屋を営んでおり、
ペットなのか食用なのかわからないたくさんの動物…
やぎやら、にわとりやら、たぬきやらを飼っていたそうです。
そんなごちゃごちゃした家には、
変わり者で乱暴な父親や頭の良い美人の姉や、
知恵の遅れた兄など、さまざまな人が暮らしていました。

くわしいことはわかりませんが、今で言う知的障害であったろう兄は
ゆりちゃんという女の子のような名前でした。
近所の幼い子からもからかわれ、ばかにされ、
当時の父にはふがいない兄であったようです。

そのゆりちゃんは、いつも乱暴者の父親のもとで、
豆腐屋の手伝いをさせられていました。
そのころは、子どもが家業を手伝うのは当たり前で、
父も学校から帰ったら、
揚げ終わった厚揚げやがんもどきをならべさせられたり、
使いっ走りをさせられたりしていました。
そんなときにも、覚えが悪く手先が不器用なゆりちゃんは、
始終父親のげんこつをくらったり、どなられたりしていて、
父は要領よく立ち回りながら、びくびくしていたのだとか。
父は何も言っていませんでしたが、もしゆりちゃんが、
この厳しい父のもとから逃げ出したいと思った日には、
乞食しか、今でいうホームレスになるしか、
生き方が残っていないように感じていたふしがあります。

あるとき、ゆりちゃんと二人で、店番をさせられていた父は、
慌てていて、がんもどきの入っていたケースを、
床にぶちまけてしまったそうです。
それは、うっかり1個落としてしまっても、殴られる、
大事な商品でした。
が、箱ごとひっくりかえした……となれば、
検討もつかないような損害です。
父親がどれほど怒るものか、想像すらできなかったでしょう。
殺されてしまうかもしれない…と感じたかもしれません。

すると、いつもはぼんやりで、
頭の働きが悪そうなゆりちゃんが、
「おれがひっくり返したことにするから、何も言わんでいい」
と言ったそうなのです。
その後、ゆりちゃんは、殺されるほど、父親に叱られたそうです。
でも決して、本当のことを言おうとはしなかったのだとか。

父はあったことを話すだけで、自分がどう感じたのか……
といったことは、いっさい話しませんでした。
が、時々、思い出したようにこの話をしていました。

父は非常に毒舌で、
いやみや皮肉を言わない日はないくらいでしたが、
知的障害かと思われる人と、ホームレスの人の悪口だけは、
決して言いませんでした。
母と結婚して間もない頃、橋の下で、凍えているホームレスの
人を見たとき、まだ買ったばかりの布団の一式を
橋の下まで持っていってしまい、
母が大変な思いをしたことがあります。
父を突然、そういった行動に駆り立てたもの……は
ゆりちゃんという兄との思い出だったのかもしれません。
 
写真のイラストは『どんどんやまのどんこさん』という絵本を作った時の山であるどんこさんの姿です。

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