(立体迷路)
わたし 「何もかもが、そうなってしまうことが気になる……なんて歯切れの
悪い言い方になってしまうけど、自分でも自分の思っていることを整理して
捉えられていない状態なのよね。
話が脱線するけど……
子どもの頃住んでいた団地の敷地にある土で、お母さんたち当時の子どもは
よく遊んでいたの。棒を拾って、お姫様や絵描き歌のコックさんを描いたり、
ケンケンパや陣取りゲームの線を描いたり、水で周囲を囲った島を作って
蟻の世界を作ったりもした。掘ると粘土が出てくるのが面白くて、
半日かけて土を削ってみたり、泥だんごには向かない土なのに、
大量のどろだんごをこしらえて、
1階のベランダの下にある隙間に隠しておいて、何日もかけて磨いてた。
当時の子の目には、土は遊び道具のひとつとして映っていて、
さっき★が言っていた『単体で存在しているねじ』のように、
途方もないくらいいろいろな種類の可能性のイメージを重ねることができたのよ。
でも、今、砂場以外で、土があっても気づかない子も多いわ。そんなものに
自分の想像力や思考力を重ねていってもいいんだ、と思ったこともないはず。
わたしが子ども時代の情景を思い返すのは、
昔はよかったとノスタルジーに浸りたいわけでも、
昔の子はおもちゃもなしに上手に遊んでいたと自慢したいわけでもないのよね。
正論を振りかざしたいわけでも、自分のやっていることは正しいって再認識したい
わけでもない。
たぶん、今の幼い子や小学生たちと接していると窮屈そうに感じる自分がいて、
どうして自分がそう感じるのか正確な理由をつきとめたいんだと思う。
昔も今も、雨も降れば星も月も太陽も空にあるのに、不思議を感じて、
どうして?なぜ?と周囲や自分自身に問いかける子は少数派になりつつあるわ。
目に映るものに、自分の頭や心を使えるんだ、使っていいんだって気づいていないの。
お母さんが教室で教えたいのは、やっている内容がごっこ遊びであれ、
物作りであれ、実験であれ、算数の問題であれ、それに自分の頭や心を使えるし、
使ってもいいんだよ、ということにつきるんだと思う。
ただ、実際、教室という形を取って教え始めると、
他人から評価されるようなアウトプットやどんなすばらしい体験をしたのか、
新しく何を吸収したのかという点だけが注目されて、
それぞれの子がどんなものに対して自分の頭や心を使っていいと認識しているかを
気にかける人はあまりいないんだけどね。」
子供と向き合うなかで
またひとつ、
指針ができました。
今は、物も情報も
多すぎて、
親も子も、
ある意味流されているんだと
思います。
パッケージ化された体験に
満足しがち…
ハッと考えさせられました。
本年も宜しくお願いします。
以前先生が書かれたブログで取り上げられていたブログを読ませて頂いて以来、ブラックボックス化を意識して生活をしています。子どもたちにブラックボックスの世界をどのように伝えていったら良いか、私なりの方法はまだこれといってないのですが、意識することでずいぶん違ってくると思っています。