虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

集団生活になじめない子と過ごすかけがえのない時間 

2022-03-28 20:00:15 | 不登校
 
いきなり個人的な話から入って悪いのですが、わたしは、子どもの頃からの夢だったこともあり、虹色教室の合間に物語を書いています。
これまで3作書いたのですが、そのうち2作は原稿用紙300枚を超える長編になってしまい、字数制限の厳しい新人向けの公募先が見つからず、いつかチャンスがめぐってくるまで家で寝かしておくことになりました。
そうやって物語を書きながら、子育てについて感じたことがあるんですよ。
 
物語を書いていると、書いているうちに、「生む」行為に夢中になって、だんだん何が何やらわからなくなって、どこか客観的に自分の書いているものを見ていない親バカ状態になるんです。
すごくいいとか思っているわけじゃないんです。
わが子だから、どんなだってかわいい!という心境です。
そんなことを考えるうち、実際の子育てでも、そして物語の創作でも、夢中で生んで育てている間、子どもが自立しはじめて、世の中に出ていく準備を自分で始めるくらいまで、それでいいのかな、という感じがしたんです。
 
物語の場合も、書きあがるまでの自分と自分の創作物との蜜月は、一度、誰かに読んでもらう段になると、ぎくしゃくし始め、ゆっくりと終わりを迎えます。
それからは自分もそうした外にある客観的なまなざしで、自分の作品を眺め始めるので、「ここもだめ」「あそこもだめ」とダメな部分も大いに出てきて、欠点を底上げしていく作業に四苦八苦するわけです。
でも、そうやって四苦八苦できるのも、長い親バカな期間がしっかりあったからなんですよ。
とにかく自分の作り出したものが愛しいという気持ちがベースにあるからこそ、そうした厳しさを自分に課せるし、創作物自体がそれ固有の命を持っているかのように私の予測を超えた成長を遂げてもくれるんです。
 
虹色教室の「私も親バカ万歳の1人です」とおっしゃるやんちゃくんのお母さんが、
「ダメなところというかきっと外の世界では?でしょうけど、その時までゆっくり温かく育んでいくことが、外に出た時の力になるのだろうなと思います。
かといって甘やかせば良いのではなくて、その子の力を見くびらないで、接するようにしたいです。
うちの子の中心は輝いています。大切に育つよう見守りたいと思います。」
とおっしゃっていました。
 
その時、うかがった「中心の輝き」という言葉が、その通りだな、と強く心に響きました。
 
教室にはいろんな子が来ていて、まるで台風の目のように、周囲のいっさいがっさいを投げ飛ばしていくような荒っぽいエネルギーを持った子もいるんですが、その中心にはその子固有の命が輝いています。
その子だからこそ、その子にしかない輝きがあるのです。
密にずっとつきあっていると、困らされることも含めて全てが愛おしくなってくるから不思議です。
 
 教室にはいろいろな理由で、(単に時間の調節の難しさなどからの子もいます)グループから離れて、個別で見ている子がいますが、たとえ、最初の理由が「困りごと」を発端にしていても、ひとりの子とじっくり関われるということは、ありがたいことだな、と感じています。
 
先に書いた物語を生み出す過程にも似ていて、その子の存在を自分の世界にいったん取り込み、外の世界から離れた狭い暖かな世界で、育み守っていく期間を持つようなところがあって、子どもと自分の間にまるで親子のようなきずなが生まれることも多いのです。
 そうした閉鎖空間の中で、ただただ親バカならぬ教師バカの期間を経ると、その後で、その子は自分の置かれている外の環境を生きていこうとする力がついているのがわかります。
 
子育て期間で、子どもが他の子や環境と合わなくて、外の世界から引きこもってしまう時期があるとしたら、それはそれで、そうした秘密の庭のような自分たちだけの世界で、子どもと過ごすことが許されている特別な時間でもあると思ってもいいのかな、と教室で個別レッスンの子どもと私だけの至福の時間を味わうたびに、そう感じました。
「許されている」という言葉を使ったのは、たとえ親が望んでも、子どもが新しいチャレンジや同年代の子との関わりを求めて動き出す時には、自分たちだけの世界で遊ばせておくわけにはいかないでしょうから。
 
子どもが、環境にあわない時期は、同時に個性的な才能なり、その子が愛情を注ぐものとの関係なりが、育つ時期でもあります。
 
ですから、子どもが幼稚園や学校で集団活動がうまくいかないような時に、まるで戦地にわが子を送り出すような気持ちで集団に適応することだけを目標にして、親も子も追い詰められる必要はなく、その期間が許してくれる特別な時間を満喫してみるのもいいんじゃないかと思ったんです。
園や学校に通えなくなっている場合はもちろんですが、園や学校でうまくいっていないわが子を見て、やきもきする場合もそうです。
 
そういえば、先日も、「うまくいかない状況」が作ってくれたこんな時間に、子どもも私もふたりで元気をもらいました。
 
その子は昨年まで、他の子の物を奪ったり、他の子に手をあげたりすることが多かったので、ひとりでレッスンに通ってもらうようになった子です。
それで、この1年ほど、親御さんにも席をはずしていただいて、わたしとふたりきりで、ひとつひとつの物事にじっくりていねいに関わることや、想像力や思考力を使って遊んだり学んだりする時間を過ごすようにしてきました。
 
その日も、教室に着くなり、次々と目移りし、おもちゃを出して遊ぼうとするので、
「まず、気に入ったおもちゃをいくつか出してきていいけど、それを見て、こんなものがほしいな、あんなものがあればいいな、と思ったら工作して作ろう」と言うと、
おもちゃをあれもこれもと両手に抱えるように取ってきて、
「セブンイレブンを作ろうよ」
「それからマクドナルドと駐車場のところとダンプカーを作ろう」
と言いました。
 
「それなら町を作ろうか」といって紙工作の道具や材料を用意したところまではよかったのですが、「そうだ、ケーキ屋さんもいるね」「それから公園も作らないと」「それからコンクリートミキサー車も」
と次々と作りたいものが膨らむ中で、
本人は、ちまちまと緑の紙を切って、「草」を作り、その後、灰色の紙もちまちま切って「レンガ」を作って、それまで作ろう作ろうと言っていたセブンイレブンやらマクドナルドなどは、「先生、作っとき」と私に丸投げしようとするんです。
「さぁ、マクドナルド、作らないと」と私を催促します。
思いや言葉と実際にすることとできることの落差のようなものが大きくて、困り感を抱えているのです。
 
それで、「Aくんの工作はAくんが作るんだよ。先生じゃないよ。どうしても難しいところはお手伝いしてあげる。さぁ、お店の形を作る方法を教えるから、ちゃんと見ていてよ」というと、「うん、わかった」と返事はいいものの、目はそわそわと空を動いていて、
「次は、駅を作ろう」
「次は、工事現場作ろう」と作りたいものばかり増えていきます。
私が簡単な工作の手本を見せている間も、新しくひらめくアイデアに夢中で、こちらの手元に注意をとどめておくことはできませんでした。
 
Aくんは、この頃、園であまり問題を起こさなくなったようですが、まだ互いに思いを通わせて遊びを共有するには、もう少し時間が必要なようです。
(虹色教室で、こうした困り感を抱えていた子らは、小学校の2,3年ごろには、友達を大事にするようになり、仲良く楽しく遊ぶようになっています)
 
それで、私は2,3度紙を折って、切りこみを入れたら、建物の形になる作り方の見本を見せました。
すると、「そうだね、そうだね!」と機嫌よく見ていたAくんは、「じゃあ、火山と川と公園を作らないと」と作るものを3つも増やしていました。
 
これでは、一向にらちがあかないので、タイミングを見て、「次から次へと作りたいものが増えているけど、先生に全部作っときっていうのはバツです。
ダメダメダメダメ。Aくんが自分でちゃんと作ってください!」とはっきり言うと、はじめて、気づいたように、ちょっと考え直して、ぼちぼち作りだし、しまいにすごくうれしそうに創作に関わっていました。
というのも、最近、文字の練習をしているので、「まくどなるど」とか「せぶんいれぶん」などの看板を作って、紙に貼り付けると、自分の作りたいものになると発見したようなのです。
また、トラックの作り方を習った後で、荷台に自分がちまちま切り刻んだ紙のレンガを乗せるうちに、だんだんやっていることに興味が出てきたようでした。
 
私が、弟くんにお母さんと公園に行くための地図を描いてあげたことを思い出した様子で、「そうだ、地図を描こう」と言いながら、町にする画用紙の土台に、道や「公園の裏の壁になっている家」(お母さんと私の話を聞いていたんです)や駐車場の車を乗せるスペースを描いて、満足そうな笑みを浮かべていました。
そうして、工作をしあげた後で算数のプリントをする時、本人にすると120%くらいの集中力を注いで、一生懸命取り組んでいました。
 
こうした子どもとふたりだけで過ごす時間というのは、こちらが子どもに教えるだけでなく、子どもの発想や知恵、今超えようとしているものなどが、ごくごくささやかなものでも見えてくるような余裕があるし、そのひとつひとつに感動や喜びというフィードバックをしっかり返してあげることもできるんです。
 
ちょっと話が脱線するのですが、先の「中心の輝き」という言葉を使っておられた親御さんが、
「子供のやっている遊びが一見生産性のない遊びだったりしても、その中に広がりを感じることがあります。
子供の行為の裏に、面白いという感情を感じたり誰かのために一生懸命だったり。
そういうものを感じると、ムダだとか、それをしてくれなくて良いとか、とてもいえなくなります。歓迎されないものであっても」
とおっしゃっていたことがあります。
 
子どもの行為の中に「広がりを感じる」という、子どもとの繊細な関わりは、集団の場ではなかなか叶わないもので、ちょっとそこから引きこもったのんびりおっとりした無駄のあふれる時間の中でこそ、見出せるものかもしれません。
 
たとえば、「看板作り」は、次々思いつくけれど、ひとつひとつに関わるのが難しいAくんが、今、自分ができる力で、自分の思いついたものに一通り関わったという自信を与えてくれる飛び切りの秘策だと思いました。
そこにも広がりがありますよね。
 
Aくんは、絶え間なくおしゃべりしていて、作業の方は亀の歩みで進んでいるわけですが、そうしておしゃべりしながら、いっしょに行動を調整するうちに、次第に自分の言葉で自分を励まして、やらなくてはいけないことに方向を見出す力を蓄えているのです。
それは、算数のプリントをしている最中にわからないところにぶつかるたびに、言葉で自分を導きながら、乗り越えていく姿に垣間見ることができました。
 
環境への不適応は、ある意味「負け」のようで、一度は撤退を余儀なくされることもあるけど、そこに適応している方が優れていて、適応できていないから劣っているとか、適応していることが正しくて、適応していない状況が間違っているわけではないな、と感じています。
そこにある豊かさのようなものを味わう余裕があってもいいな、と。
 
子どもが元気で「そうしたい」という意志を持てば、親がどんなに子どもとふたりきりの時間を過ごしたくても、手を放していかなくてはなりません。
子どもに必要なのは安全な膜で、安全な壁ではないんです。
でも、不適応という機会が、特別な不思議な時間を作ってもくれるのだと感じました。
 
私はそうして教室の子らとふたりっきりで遊ぶ時、お互いを癒してくれ、成長させてくれる魔法のようなプロセスが展開していくのを実感する時があります。


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