虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

見えないものが見えるように 触れられるように  7

2015-01-07 10:51:04 | 日々思うこと 雑感

(星雲を作っています♪)

 

わたし 「『見えないものを見えるように手助けする』のも、ずっと続けていると、

見えない理由はいろいろで、見えるようにするにはどうすればいいのか……

それに相手の子の頭や心がちゃんと乗っかるようにするってことへの答えが、

『見えるようにさせていく過程』では『外からはほとんど見えない』ってものも

出てくるの。正しい答えというより、経験からくるお母さんの勘が答えだとつかんで

いるものの話だけど。

 

自閉圏の子たちと関わる時には、

特にそういうややこしい『見えなさ』を相手にすることになるわ。

共同注意が難しい子と体験を共有するには、

いっしょに同じものを見るようにする工夫だけじゃ足りないから。

 

共同注意っていうのは、『わたしはこれを見てます!』ってことを相手にわからせて、

自分が見ているものに対して取ってる態度を相手と共有することよ。

『わたしはこれに注目している!』ということを相手が理解して、

それへの態度を共有するってことでもある。

自閉症スペクトラムの子たちは、程度の差はあるけど、それがすごく難しいのよ。

頭がとてもいい子であっても。

 

だから、お母さんは、ただ見るのではなく、

自分の目に見えたものがこちらにも見えているのか

確認するような気持ちが生じるようなシーンを作ったり、

見えているものを、その子も『先生も見てるな』って気づいた上で、

お母さんがそれをどう思っているのかを参照にしたくなる場面をごっこや人形劇や

工作のプロセスで作ろうとしているの。

難しいようで、あらゆる活動で、そこにフォーカスすることで、たいてい成功しているわ。

どのような活動がそうした状況を生むのか、経験を蓄積しているし、

お母さんには、いつもその際が見えてもいる。

 

でも、さっき言った『見えるようにさせていく過程』で、

何に働きかけているのか、何が起こっているのかは、

『外からはほとんど見えない』ということが足かせになって、上手くいかないことが

結構あるの。

すると、お母さんの仕事のほとんどは、子どもに対してどうする、というより、

見えない時期に親御さんの辛抱をどうやって保ってもらうかになってくるわ。

というのも、共同注意が難しい子のお母さんは共同注意が難しい方もいて、

子どもの姿を共有するのが大変なケースも多いから。

 

だから、あれこれ経て、子どもの困り感が激減した時、

何をしたからよかったということより、

子どものお母さん(親御さん)の『見えなさ』に寄り沿い続ける根気の良さというか、

ただただ歩き続ける姿勢のようなものへの尊敬の念だけが自分の中に余韻のように

残っている気がするの。

わたしの言うことやすることをずっと信じてくれた……というんじゃなくて、

ただただいっしょに、一人の子、一人の人間に近づこうとして、

寄り沿い続けてきたという事実が響いている感じがあるのよ」

 

息子 「見えないものを見えるようにする作業は、ほんと、いろいろだよね。

話が変わるけど、『虚数』ってあるじゃん。

負の数の平方根なんて、架空の現実の世界じゃ意味を持たないもの、

役に立たない想像上の数って思われがちだし、実際、ぼくもそう感じていたんだけどさ。

でも、このところ、電気系統をあれこれいじってると、

回路では虚数が役立っているところが見えるというか……

虚数が可視化できているわけじゃないし、虚数計算した値が目に見えているとは

言い難いんだけど、虚数を使って実態のあるものの動作の現象を目にできることに

感動したんだ。

実際には、1、2、3……と見て確かめられると信じられている数にしても、

数自体が目に見えているわけじゃないから、数学と現実の見える世界の関係は面白いよ」

 

 

河合隼雄先生と大江健三郎先生の対談で、大江先生が、こんなことをおっしゃっていました。

「小説家のイマジネーションというものは、いわば不思議なもので、

読者とわれわれ書き手とが断絶しているところと、

その上でこちらで起こったイマジネーションの作用が、

向こうでむしろこちらより深いような共鳴現象を起こしているということを

感じ取る場合がありますよね(省略)」

 

『見えないものが見えるように 触れられるように』は家でのおしゃべりを

記事にしたもので、小説家の文章とは違うけれど、

この記事にいただいたコメントを読んで、この大江先生の言葉が浮かびました。

この記事の締めくくりにいただいたコメントを紹介しますね。

(非公開のコメントには、コメント主さんの親としての視線の確かさが伺えて

素晴らしいいものがいろいろあったのですが、残念ながら非公開なので

紹介できませんでした。)

 

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ここまで読んで「なるほど」とタイトルと内容がつながりました!

見えないものを見えるように」とはそういうことでしたか。

確かに、わたしから見ると、先生の立ち位置って橋をかけているんだなって

おもうことがあります。

わたしはコアな?内向直観タイプというか、普通の人があまり興味ない「見えない世界」

のことを考えるのが大好きな変わった人間ですが(もちろん霊とかそういうことじゃ

ありません…)なおみ先生は教室をやり続けることで、前線でいろんな子どもや

お母さんたちと日々接してらっしゃいますよね。

小さいといえど、教室というビジネスをやることで最前線に立って、

親子のニーズに応えている。

だからもともとの素質もあるのだろうし、立場として見えない部分と見える部分の

橋渡しをしてらっしゃるな、とすごく感じます。

わたしみたいに見えない世界どっぷりの人と見える価値観の世界に住む人とでは

全然話しが通じない、と思うのですが、なおみ先生は通訳のように

その2つの世界を行ったり来たりしているイメージです。

このブログを読んでいて発見したのは、こどもにとって「見えない世界」の栄養が

とても大事なんだな、ということ。

ただ、その2つの世界はまったく違うものだから、

見える世界に上手に対応できればできるほど、自分の中のコアなメッセージとの

矛盾にもやもやしてしまうのかもしれませんね。

わたしからするとその2つの世界を行き来しつつ、ビジネスを成り立たせている

なおみ先生の能力がすごいとおもいますが。

わたしは逆にこのブログを拝見していて、コアなメッセージがたくさんの記事に

埋もれていることで、守られている面もあるな、と感じていました。

なおみ先生が前線で進化し続けているからこその過渡期なのでしょうか。

どっちの方向に向いていくのかはわかりませんが、どちらにしても応援しています。

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ひとつのキーワードとしては、心、頭、感性を自由に働かせる、

それに夢中になって時間のないところまで行く、ということかなとおもいました。


そして、そういうことがなかなか難しいという状況があるということなのですね。

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 “煮え切らない気分になっちゃうのは、読む側にすれば、お母さんのブログ自体、

今日話していたような情報が増えすぎて全体像が見えないものになってるだろうなって

ことなのよ。だからといって、教室での活動を、『こういうことをしています』と

一目でわかる形にまとめてアピールするとなると、

活動のひとつひとつが個別のニーズに応えている面が大きいから難しいの。”

先生のこの考えに納得する部分はあります。

先生のおっしゃる通り、個別のニーズに応える部分の根底は同じであっても、

安易に自分たちのパターンにそのまま当てはめるてしまうのは危険だと感じているし、

昔の先生のブログと今のブログの根底は同じであっても少しずつ表現が変わって、

うまく言葉にできないですが、さらに経験が深まり、より慎重に、より鋭敏になって

きているにも関わらず、時間の変化の部分を考慮せず、安易に一辺倒に扱っては

いけないなと感じているからです。

わたしにとって先生のブログを読んで色々考えることは、

子育ての中核になっていると言っても過言でないです。

その膨大な情報の表面に現れることだけを再現することに躍起になると

本質的なことを見過ごすのではないかなと思っています。

でも無秩序な情報の中から秩序を見いだすことができれば、この膨大な情報の

一つ一つが生きてくるのではないでしょうか。

また先生の考えは先生の考えとして、一旦心にとどめて、自分の考えを展開する

ことは可能だし、私自身、できているかはわかりませんが、

のようにしているつもりです。その他の書物や他の方の考え方も同様です。

私は基本的に、多くの情報は本質的なものに近づく情報に収束させるタイプなので、

比較的混乱はないのかもしれません。確かに状況によって見えないものが

見えなくなったり、触れなくなったときは、先生の考えやその他書物、

各種のHow toなど奥底に流れる本質的なものに気付かないまま、

お手軽に表面上のやり方に固執したり、あれやこれやと試してみたりとしがち

なのかなあとは思います。

でも子どもたちと先生の様子を勉強させて頂くたびに、私も見えないものが見えたり

触れるようになってきていると実感しています。

子どもたちもたくさんの種を植え付けてもらっているなと実感しています。

これは子どもたちを表面上の評価やできるようになったばかりに焦点をあわせて

いると気付かないのだろうなと実感しています。

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以前先生が書かれたブログで取り上げられていたブログを読ませて頂いて以来、

ブラックボックス化を意識して生活をしています。

子どもたちにブラックボックスの世界をどのように伝えていったら良いか、

私なりの方法はまだこれといってないのですが、

意識することでずいぶん違ってくると思っています。

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今回の記事を読ませていただいて、

ふと去年買おうと思ったキネティックサンドのことが頭をよぎりました。

「室内用砂あそび」というキャッチフレーズで、何かのTV番組で紹介されていて

思わず欲しい!と12月の娘のBDプレゼントかクリスマスプレゼントに買おうと

思ったものです。

ただ、何故だかわからなかったんですが欲しかったのに買う気がしなかったので

結局購入しないままでした。

でも、今回の「パッケージ化されて人から与えられた体験」とか

「自分自身の体験」などの言葉を目にして、「そっかぁ、私はこれを娘に与えて

砂遊びの代用にさせるのが嫌だったんだな」…と気づきました。

お持ちの方、スミマセン。私がそういう与え方しかきっとできなかった気が

するので・・・この商品自体を批判している訳では決してないですm(__)m)

砂遊びって、どの位の水を足すと丁度いいとか土のどの部分を使えば固まりやすい

とかから始まって、土の中に何だか触りたくないものが入っていて

友達とキャーキャー言ったり、ビール瓶の割れたのを見つけて親に危ないと

叱られたり、たまたま入っていた葉っぱや棒があればそれを使ってお墓に見立てたり、

まだ出来上がってなくて後で続きをしようと思っていたのに誰かに踏まれて

壊されていたり・・・先が読めないハプニングが沢山あって、

完成してもしなくても色んな体験があって楽しかったのを覚えています。

なのに、汚れず触感もよさそうなこの新商品を見たとき、

そんな過程など全く思い出さずにうちの娘はこれでどんなものを造って、

どんな風に想像力を刺激されるんだろうと、結果にのみ興味をもってしまいました(>_

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「パッケージ化された体験」「昔も今も同じような自然があるのに、

そこに自分の頭や心を使う発想がない」「複雑なものを単純化する」

どれも本当に本当に考えさせられる内容ですね。

息子5歳は生き物の採集や飼育、逆立ち、サッカー、戦隊物、料理、折り紙、

父親の影響を受けギャンブルの予想をするなどやりたいことや好きなものが

いっぱいです。

どれも全力で取り組み、それが彼の一部になっていることがよくわかります。

この前は霜柱を延々掘りだし、氷の山を作っていました。社会的に歓迎されたり

学校教育などで受け入れられるようなものもあるし、全然そうではないものも

あるけれど、息子を見ていると、ずっと今のように、何か好きなことに全力で

取り組んでほしいと思います。

娘2歳も、植木鉢に水をやったり、風呂掃除を手伝ってもらってスポンジを渡すと、

息があがるくらい興奮して一心不乱に取り組んでいるのがわかります。

以前のブログの中に息子さんが「クラス全員が殺しあう内容にはまっている友人は、

今までの人生の中で好きなことをたくさんして生を感じるような経験が少なかった

のではないか」というような話をしているものがありました。

まさに、パッケージ化された中での体験、自分の好きなものにたっぷり取り組む

ことが少ないと、友人同士が殺しあうような内容に強烈な生を感じるのでしょうね。

私も読んだことがあるので、その感覚はわかります。

かなり多くの子どもが自分のブログや同人誌で上記のものと似たような物語を

作って発表したという話を聞いたことがあります。

今どきの子どもたちは…という論調でしたが、

子どもたちがそうするのは何故かも考える必要がありますね。

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新しい年を迎えて子供と向き合うなかでまたひとつ、指針ができました。

今は、物も情報も多すぎて、親も子も、ある意味流されているんだと思います。

パッケージ化された体験に満足しがち…

ハッと考えさせられました。

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いつも読ませていただいてありがとうございます。

最近、過去にさかのぼり必死で2010年位目?まで読ませていただいておりました。

おかげで自分の子が、感覚型ど真ん中らしいこともわかり一歩理解へ進むことが

できました。

巨大な感覚のプールの中に何やら私にはうかがい知れないものをため込んでいく

息子の姿が不可解で、反復を伴いそこに何やら価値を見出しているらしき姿が

またまた無意味に思え、「そんなゴミ情報」と切り捨て、捨てさせようとさえ

してきたこともあったと、振り返れば思います。親の自分自身も、時には感覚に

耽溺することもあるので理解できないこともないのですが、

いかにも価値のありそうなものだけを取って置かせようとするのが、

よくない選別だったかなと思いました。

まあ、どれだけ選別しても底知れぬ感覚パワーであっというまに感覚の世界を

修復してしまうことにも驚きがあったのですが、それが息子の生地なのですね・・。

それはさておき、ブログ、先生と息子さんとで交わされたお話の内容や、

日々の雑感・・などが特に面白くてつぶさに拾わせていただいております。

今回のお話も、さすが、小学三年生の時に「白い紙と鉛筆」一枚の白い紙から

全てを切り出して組み立てていかれたという、息子さんらしさを感じました。

そのとき言われた言葉がとても素敵で、ちょっと初泣きしそうになりました。



 

(今、火山ブーム♪)

 


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4 コメント

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  (ソーイー)
2015-01-08 01:22:18
長編記事の最後に読者のコメント再掲をしていただいて、なんだか映画のエンドロール(スタッフロール)に載せていただいたような気分になりました。
 スタッフ
  誰々
  誰々
  誰々
  誰々
みたいな。

共鳴現象が起きるのも、先生の中の何かが人々にとっては触媒になるからのではないでしょうか。それ自身は変化せずとも、相手の化学変化の反応速度を強烈に速めるといった。
あるいは「親子関係のお医者さん」か・・。
お会いしたことはございませんが、先生のお仕事はワン&オンリーのもはや職人芸に近いのではと推察いたしますので、あまりブログをすっきりとか、分からない人に分からせようとか、もうそういうのは捨てられて今のままでよろしいのではないでしょうか。

「ただただいっしょに、ひとりの子、ひとりの人間に近づこうとして・・」素敵ですね。純粋極まりないと思います。先生のお話からはどんなものからであっても、純なまなざしを感じます。だから、たまさかに一つの記事を読んだだけでも、その感覚を求める人にはすぐにわかると思いますよ。
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Unknown (ワーキングマザー)
2015-01-08 12:56:05
心に残るすてきな記事をどうもありがとうございました。
この記事を通して先生や多くのかたと共鳴現象を起こしていることを実感していました。

共同注意は当たり前にできるようでむずかしいのだなと子どもの困り感に寄り添うようになって痛感しました。
幼少時の子どもの、留まることのない視線の行方をいっしょに経験しておけば良かったと今振り返って感じますが、まあそんなこと考えても仕方がないことですね。私自身目の前に見えるものを淡々とこなし、少し先にあるだろうことをどのようにスマートにこなしていくか考えるのが生活の中心でしたから。
今は忙しい暮らしの中で、なかなかパッケージ化されたような共同注意はできないですが、意識して、ちょっとした日常生活におこる出来事の共同注意を大切にしています。それで良いのだと思っています。

また突然おこるアクシデントにもまあそういうこともあるだろうぐらいの、困りつつも、どこかいい意味で流されて生きていて、全体的な統制とかこうあるべきだという確固たるものがあまり存在せず、もちろん目標的なものも漠然とはありますが、日々の移り変わりをある種受け身的に過ごしています。

これが、先生のおっしゃる『見えなさ』に寄り沿い続ける根気というか、ただただ歩き続ける姿勢のようなものにあたるかはわかりませんが、私と子どもたちの、もっとも楽しく同じときを過ごすための、そして私自身や子どもたちの見えない大事なものを垣間みることができる、私なりの育児なのかなと感じています。

ここまで導いてくださり、どうもありがとうございました。これからもどうぞ宜しくお願いします。
返信する
見えないものを可視化(イメージ化する)その為には? (オヤジパパ)
2015-01-08 17:52:19
始めてコメントします。数年前からブログを見させていただいて、
我が子への対応とそれを通して私の自身のフィードバックにちょくちょく
参考にさせていただいています。(小学2年の娘です。)

見えないモノを可視化=(イメージ化)するのに体験は欠かせない要素だと
私も感じていて、我が子には時間が許す限り本人が興味ある事象を一緒に
寄り添い、本人が次々に「なんで?どうして?」がつきないような返答を心
がけてきました。
(単にその場での正しい答えを教え、それを知ってお終いで無く)本人の好奇心が
より増え自ら探すように体と気持ちが動くように心がけてました。

親と子と住む社会は常に繋がっていて我が子には、今私が理解できている
なかで子供に今の世の中の仕組みを子供に理解できるように心がけ話してい
ます。 (子供でも今の世になんらかの意識を持って接するべきとの考えの元)

(今はそれがなんであるか良くわからなくていい、でもタネは土台に残しておきたい、
本人が自分で必要とするときに、自らが水を蒔けば芽が出て花となり、又次の世代に
タネを残せればいいな)と子にも人格があり個性があり、その個性の開花をなるべく邪魔
せずに手伝うのが私の役目であり、大きな楽しみでもあります。


子が親を感じ、そこから何かを得る間の引き出しに何を蓄えてきたか?
土台に栄養とタネをどれだけ子供自身がバラ撒くのを邪魔をせずにワキから手伝え
るか?

見て触って体感し、その経験を元に脳内にイメージ化し次第に手で触れずとも
好奇心溢れる脳内で自在に変換し色々と試し、さらにフィードバックし思考を深める

その為には元となる楽しい元データー(体験体感)が無いとアイデアの風船が膨らまない。

今の学業に特化した商業ベースの子育て学習(単なる知識の先取り)にその貴重な時間を
奪われ失われていく。

幼い時に(親が寄り添える間)人として生きる為に自由に発想し、そのアイデアを具現化
していく(親目線の出来の良し悪しで無く子の満足度)、その為に先人の(アイデア)知識
を楽しんで習得していく、この事が本当は大事な事では無いかと思ってます。
返信する
Unknown (だふぃめい)
2015-02-13 14:49:38
すてきなお話をありがとうございます

私は見守ることやこどもの心に寄り添うことが上手にできてなくて、こども自らが感じるためには何かが抜けていたのだなと感じます。

体験をすれば自然と感じてくれるだろうと安易に考え、寄り添うことと共感すること、じっくり観察?見守ることができてないなと。

小学生になりもう何かできないのかもしれないけれど、遅くないと信じて 口はださずに手も出さずに寄り添えるようにしたいなと思います。
返信する

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