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学びのプラスあるふぁ:日常の気付き

人の人生、それぞれが皆オリジナル。街を歩き人に話しかけることから「なるほど」と納得できる発見がある。

猫は「禅」とは何かを知っている

2024-03-12 16:04:20 | 日記
 3月に入っても寒い日が続いている。啓蟄の日が過ぎて土中の虫も低気温に出るタイミングをためらっているのではと想像をめぐらせていた。昨日は久しぶりに太陽が暖かい。我が家の道路を挟んで向かいの猫が屋根のひさしで昼の太陽をあびながらじっと座っている。屋根のひさしだからかなりの勾配があるように僕には見えるがお尻を下ろし前足で体を支えながらなんとも不安定な日向ぼっこだ。驚いたことにもう1匹、隣の家との境界の塀の上で、こちらは頬杖をついたような格好で目をつむって寝そべっているのだ。彼らは外の気温に敏感に反応するのだなぁ。春到来は花や草木が教えてくれると言うけれど、案外猫達もその一翼を担っているようにも思う。
 さて、陽光にまどろむ猫ちゃんからみると僕はどのように映っているのだろう、などと余計なことを考えた。僕は怠けているのだろうか、退屈凌ぎをしているのだろうか、子育てや仕事に忙しい若い人達は家にはいない。ということは、家で猫を観察しているのは一緒に何かをする仲間が周りにいない年寄だけということになる。猫は可愛いわがまま動物とよく言われる。自分の思うままに好きなことをして過ごせるのは”猫と女房”などとハラスメント的なジョークを耳にしたことがある。あの『バカの壁』の養老孟司先生も猫派人間で猫は人生を達観している動物だと言われている。確かにそう言われれば太陽光に昼寝をしている猫を見ていれば落ち込んだ気持ちを持ち直すことができる。猫は生きる極意を知っているようにみえてくるから不思議なことだ。多分彼らは余計な情報を無視、新聞を読まずテレビも見ないからだ、などと僕は結論を引き出した。

美術館は余計なことを忘れる場

2024-03-08 16:19:37 | 日記
 先日の火曜日に書けなかったことがある。久しぶりに女房と二人で美術館に足を向けた。普通なら僕達の足では家から10分も歩けば行ける「東大阪市民美術センター」である。冷たい雨が降っていたので車で出かけた。『ひつじのショーン展』が目的である。イギリスの農家と牧場主と忠犬のピッツア(羊を監視しているというよりショーンの相棒的存在)、そして羊のショーンと仲間たちが繰り広げるコメディ・アニメーションが世界各国でTV放映されて大人気だ。これは登場キャラクタの動作の一コマ一コマを時間をかけて作るクレイ(粘土)のアニメーションである。テレビでは20秒のシーンを一週間もかけて制作すると言う。いろんなシーンや作者の考えなど写真と共に展示され、とくに物語が展開する牧場や農家などの展示に惹きつけられる。
 驚いたと言うか、さもありなん、と納得するというか訪問者で高齢者は僕たち二人だけ ほとんどの人は大学生のカップルをはじめ若い人達だ。僕達老人が座って休めるベンチなどどこにもない。それでも特に足が疲れることはなく展示物と説明を読むことに没頭できるのはなぜだろう。人はインスピレーションを求めて美術館に足を運ぶ。それでは僕達のような高齢者はどうだろう。じっくりと説明を読んでいるうちにいわゆる没頭、夢中と言う世界にひきこまれていくのだ。長生きの秘密というものがあると言う。それは食べ物は腹八分、散歩を毎日の日課とする、笑うことは日に3回以上、余計なことは考えない、等という心がけが元気に生きる秘訣だ。美術館は少なくともよく歩き展示物に没頭することで余計なことを忘れることができるの場なのだ。


もう一度、戻ってみたい頃がある

2024-03-05 16:21:17 | 日記
 昨夜の激しい雨の後、今朝も相変わらず冷たい小雨が降り続いている。特にすることもなくカーポートの下で雨に濡れる芝や植木鉢のくちなしの木の緑の葉にときどき目をやりながらボーと考えていた。日常生活の中で時間が淡々と経過して、一週間の経過が特に早いと感じる時がある。特に胸が高まるワクワク感はもう感じなくなったのはなぜか寂しいと思うことがある。多分、歳をとるということはそういうことなのかもしれない、と思う一方で朝早く我が家の前を駅に向かう若い人々や小学生の生活もみな平凡な同じことの繰り返しだとふと考えた。
 今の自分の何も変えずに戻ってみたいと思う”もう一度あの時”が人生にはある。高校生の頃、アメリカに留学して英語をマスターして世界で活躍したいなどと自分の夢を語っていた時に、「平凡に生きるということは案外たやすいことではない」と言った先生がいた。僕はなぜか時々この時の状況などを寝床て思い出すことがある。あの先生はあの時何を考えていたのだろうか、と思いを巡らすのだ。彼や周りの生徒の日常の平凡さを肯定したかったから、などと考えることもできるけれど、夢を語るのはいいいけれどしっかりと勉強して実力をつけるということは容易なことではないという意味の忠告や激励の遠回しの表現だった、と僕は理解してきたように思う。夢に向かうには勇気もいるし、努力もいる。やり通す信念のようなものも、計画性も必要だ。それでも小さな第一歩が大きな一歩になることも僕は知っている。子供の時と歳をとった時は平凡に落ち着いて、青春時代の挑戦は思い切った第一歩が自分の人生を変える、などと考えていた。

無病息災は欲張り過ぎ

2024-03-01 16:53:16 | 日記
 ブログのテーマが病院での観察が続いている。理由は簡単、今年に入って1月と2月は体調の良くない日が続いた。風邪を引いたり膝が痛くなったり、二月の後半に至っては帯状疱疹で病院だの鎮痛剤だのとどうも身体がすっきりした状態が続かない。昨日は泌尿器科の検査の結果がでた。特に取り立てて騒ぐような異常はなし、である。でも、本人は右の脇腹が痛い。帯状疱疹の痛みは人により身体のいろんな箇所に出るらしい。
 会計と薬を待つ時間が14、5分はあっただろうか。隣に座ったお年寄り(自分もそのうちの一人であることをつい忘れてしまう)の肩掛けカバンに「無病息災」のお守りがぶら下がっていた。お正月に神社に詣ってもらってきた物だろう。なんとなく感じた違和感は場所が場所、病院だからだ。息災とは仏力で災いを止めると言う意味だ。造語かどうかは知らないけれど「一病息災」や「多病息災」などと言う人もいる。一つや二つ病を持っていた方が体はそれに対抗して自助能力を発揮して健康に大した障りがないというい意味らしい。完璧を望めばかえって災いをよぶこともある。「どこも悪いところがない」と言う人に「そら、医者に行った方がええよ」と言う大阪ジョークは確かに的を得たコメントであることが笑いを生む。正月の初詣、神社での祈願の順位は「家内安全、無病息災、金運上昇」と3位まで続くらしい。人生は地震をはじめ、身内の安全をおびやかすものであふれている。後の二つも庶民の切ない願いを表している。世に存在する人々は皆、一人残らず一つや二つ悩みや問題を抱えているものだ。