大阪弁の後悔、「あんなんこと言わんかったらよかった、せんかったらよかった(しなければよかった)」などと言うタイプのものを人は持ち合わせているという。東北大震災の日の登校時に母親との口喧嘩で別れた朝が永遠の別れになるとは想像もしていなかった、という人の話が新聞に出ていた。子供だった話者が生き残り、母親が津波に飲まれて帰らぬ人となったこの日の口喧嘩の思い出が後悔となって残ったという。記録をしていなかったのでその人の名も街の名も全く覚えていないのだけれど、僕の心からは離れない記事である。
人はなぜ後悔というものを経験するのだろうか。後悔とは、を考えてみると、それは人を悲しみや自分を意気消沈の世界へ引き摺り込むという恐ろしい力をもっているものだ。生きるということ、それは過去、現在、そして未来への時間の経過を経験すること、だとするとわれわれは過去に目を向けることは避けられない。理由は過去には失敗もあるけれど楽しかったことや嬉しかったこともたくさんあってそれらが自分という存在を作っていることを知っているからだ。それでも過去の出来事はもう帰ってくることはない。こと後悔に限ってみるとそれは後ろ向き、同じ痛みでも前を向いた不安や痛みの方がマシだと言えそうに思う。言い換えれば、昨日を後悔するのも自分、明日を作るのも自分。過去を見ることに時間を盗られるには人生は短すぎる。後悔とは未来に持ち込んではいけないものなのかもしれない。今日もどこかで誰かが…。そんな人に一言、「昨日は変えられない。でも明日は自分で変えられる」