goo blog サービス終了のお知らせ 

学びのプラスあるふぁ:日常の気付き

人の人生、それぞれが皆オリジナル。街を歩き人に話しかけることから「なるほど」と納得できる発見がある。

「もしもあの時…」が自分を育てる

2025-03-14 17:48:25 | 日記
 大阪弁の後悔、「あんなんこと言わんかったらよかった、せんかったらよかった(しなければよかった)」などと言うタイプのものを人は持ち合わせているという。東北大震災の日の登校時に母親との口喧嘩で別れた朝が永遠の別れになるとは想像もしていなかった、という人の話が新聞に出ていた。子供だった話者が生き残り、母親が津波に飲まれて帰らぬ人となったこの日の口喧嘩の思い出が後悔となって残ったという。記録をしていなかったのでその人の名も街の名も全く覚えていないのだけれど、僕の心からは離れない記事である。
 人はなぜ後悔というものを経験するのだろうか。後悔とは、を考えてみると、それは人を悲しみや自分を意気消沈の世界へ引き摺り込むという恐ろしい力をもっているものだ。生きるということ、それは過去、現在、そして未来への時間の経過を経験すること、だとするとわれわれは過去に目を向けることは避けられない。理由は過去には失敗もあるけれど楽しかったことや嬉しかったこともたくさんあってそれらが自分という存在を作っていることを知っているからだ。それでも過去の出来事はもう帰ってくることはない。こと後悔に限ってみるとそれは後ろ向き、同じ痛みでも前を向いた不安や痛みの方がマシだと言えそうに思う。言い換えれば、昨日を後悔するのも自分、明日を作るのも自分。過去を見ることに時間を盗られるには人生は短すぎる。後悔とは未来に持ち込んではいけないものなのかもしれない。今日もどこかで誰かが…。そんな人に一言、「昨日は変えられない。でも明日は自分で変えられる」

何だかんだと言いながら今も生きている

2025-03-11 16:54:15 | 日記
 僕の人生の大半は黒板や白板を背に、英語、国際交流、アメリカ社会の研究などを学生に話すことであった。だからとは言いたくないのだが細かい注意を漢字に払うことは怠って来たような気がする(黒板にチョコチョコと字を書くくせに…)。ま、それはそれとして最近は他の老人仲間と同じように漢字をド忘れすることが多くなって来て、国語辞典だの漢和辞典などを手にすることが面白くなって来た。今朝は「悩みと脳」の漢字について調べてみた。
 新聞には悩み相談や人生相談などそれぞれの人の日常の大なり小なりの苦悩が毎日のように記事となって登場する。悩むと言う字はコザトヘン、脳のヘンは月で二つの漢字の違いはそこだけだ(人間の体内の重要臓器はなぜか月ヘン)。脳にもいろいろあって大脳、中脳、小脳、などまだまだあるのだが我々が通常“脳”と言う時は大脳のことで意識活動の中心存在だ。とにかく悩みに対しては脳がその人に大きな影響を与え、心を表すコザトヘンの悩みに結びついていく。
 我々を苦しめる悩みには何か自分が失敗をして作り出すものと他人が影響するものとがあるように思うのだが、いずれにしても自分で解決できるものはなんとかするとして、自分がどうにもできないものもある。僕の人生相談や悩む人へのアドバイスは “自分がどうしようもないことには悩んでいてもどうしようもないのだから悩むことはやめよう” というスタンスだ。そんなスタンスにやっと辿り着いたと言うのが正直なところだ。ものごとは結局「なんとかなるさ」。実際振り返ってみればなんだかんだと言いながら“なんとかなってきた”から今日も生きている。

期待のし過ぎは“ガッカリ”への道しるべ

2025-03-07 16:14:35 | 日記
 昨日と今日連続して“がっかり”ということばを耳にした。一つは気温がまた逆戻り、せっかく春が来たとはしゃいでいたのにがっかりだという声がそこらじゅうで聞こえた。もう一つは先日のトランプ大統領の施政演説。アメリカミネソタ州の友人からの電話、彼の“がっかり”はこれからの方向を示すべき演説が大統領の自慢話に偽情報、おまけにバイデン大統領のこきおろし、なんとかならないかこの横暴振りに、ということだった。そう言えばミネソタ州は民主党の人が多い州、さもありなん、などと思いながら相槌をうっていた。とは言え「古き良き時代をもう一度」、アメリカの保守的な人達はトランプ氏を選んだ。
 僕はブログで政治の話はしたくない。人は皆自分の信条があり考えがある。とはいえ、テレビで見た演説会場は完全に真っ二つ、これではアカンと僕までがっかり。人生にはがっかりすることが目白押しである。天候や政治はちょっと横に置いておいて、日常生活に起こるがっかりや落胆には考えようによっては何か救いのようなものが用意されていると僕は考えている。期待と現実の厳しさを結ぶ橋のような役割をがっかりや落胆は担っているように思う時がある。がっかりした時は不思議となにか次に起こる肯定的なことや未来への期待が頭に浮かぶ。なぜかわからない。多分、がっかりで終わっていたらそこで人生は終わりのような気がするからだ。どのように表現すればいいのかちょっと迷うけれど、どこかに「回復」という言葉が見え隠れする。未来に挑戦するべき何かが待っているように思うのだ。

春はやっぱり行動の季節だ

2025-03-04 17:08:53 | 日記
 冬の寒さを乗り越えたと思ったら、エアコンの室外機の調子が悪かったり、室外の給湯器の水漏れ、そうかと思えば井戸の室外の給水ポンプが壊れたり、家のあちこちで不調になる機器に軽いストレスを感じながら、自分と同じように家のあちこちで老齢化が進んでいることを実感する。何か冬の厳しさと関係があるのだろうか。なんとなく不気味な関連付けをしながら、それでも春がやって来たと思わせる3月1日の大阪の最高気温18.1度の気温にある種のワクワク感が…と思っていたら、また7度や8度に逆戻り。お天道さまは気まぐれやなー。
 それにしても春という季節、どうしてワクワクするのだろう。冬という季節が前にあって、何ヶ月か続いた寒さにウンザリ。そんな気持ちから解放してくれるのが春が伝える期待感だ。結婚適齢期の女性への戒めのように、“白馬に乗った王子様”が花を持って来てくれるのを待つなどといったようなことは春にするべきことではないなどと聞いたことがある。花は自らが植えていろんな彩りの花が周りに集まるようにするのが春にするべきことである、などという人がいた。
 大学関係の仕事をしていると3月は最も自由になれる時、退職直前の3月にやってみたかったひとり旅行でアメリカのオハイオ州ダブリン市の友人宅に4、5日世話になったことがある。奥さんが花を「植えなければ」となんども自分に繰り返し言い聞かせていたのを思い出す。人はなぜ春に花を植えたくなるのだろう。花は明日という日への期待感をもたらしてくれるからからだ。

春は出発を感じさせる希望の季節

2025-02-28 16:57:46 | 日記
 大雪に悩まされる日本列島。豪雪地の人々の奮闘の報道に同情以外になにもできなくて歯痒い思いをしていたこの一週間、やっとのことで厳しい寒さから解放される兆しが昨日、今日に感じられた。日差しが間違いなく春そのものなのである。なんとも言えない暖かさというか柔らかさというか優しさを感じて待ち遠しかった春の到来に喜びを感じた。“春”という季節は本当に不思議な季節でとにかく“希望”という言葉が頭に浮かぶ。日本では、教育の場では入学式が、新社会人の入社式が、桜の開花に合わせたように挙行され、世間が喜びに満たされる時節だからだろうか。
 僕はと言えば、春はやっぱり鶯の鳴き声と共にやってくるという感覚がある。現役の頃、大学の研究室の窓の外の小山から例の「ホーホケキョ」が聞こえたからである。かつて半世紀以上も前に住んでいたアメリカでも人々は春は小鳥のロビン(コマドリ)やブルーバード(ツグミ)と共にやってくるなどといっていたのを思い出す。アメリカの芝生と木々がいっぱいの広い公園に彼の鳥たちのさえずりを聞くために出かけたものだ。そのときもやはり同じ太陽の優しい暖かさを感じたことを思い出す。留学中の大学では「春がすぐそこにきている。もう少しの辛抱だ。人生がきっと暖かくなるからね」などと詩を読まされたアメリカ文学の授業を思い出した。春とは、単に季節のサイクルの始まりといったようなものではない。草や花や鳥などと共に何かが生まれ変わるのを感じさせる季節なのだ。