ないない島通信

「ポケットに愛と映画を!」改め。

日本沈没 by 小松左京

2016-04-30 19:43:31 | 
小松左京のSF小説
「日本沈没」
を読んでいます。
1973年の作品で、当時はベストセラーで一大センセーションを巻き起こしたものでした。

今頃になって読んでみようと思ったのは、やはり相次ぐ地震、頻発する災害、日本列島は
これからどうなっていくのだろうか、という不安からです。
もちろん、これはSF小説で、フィクションです。
日本列島が沈むなどということは、現実にはありえません。

でも、
作家の感性は時に未来の出来事を予感する力を持っているのではないか。
どこかで時空を超えて、未来の出来事を読み込んで、
無意識のうちに作品に反映させている、
ということが、全くないとはいえないのではないか。
たとえば、宮崎駿のナウシカのように。
「日本沈没」もまた・・
というようなことを考えたりしています。

まだ上巻を読み終えたところですが、
全然古くない。
それどころか、プレートテクトニクス理論など、図入りでわかりやすく解説してあるので、
今でも立派に役にたちます。

ただ、
大地に蓄えられたエネルギーは小さな地震で放出されるので、その総和はマグニチュード8.6を超えることはない・・
とあるのは間違いだと、私たちは経験的に知っています。
小さな地震で放出されるエネルギーは決して大きなものではなく、
さらにマグニチュード9クラスの地震が世界じゅうで起きています。
でも、地球の自転軸が傾くことや、磁極が40万年周期で逆転するため、2千年後には地磁気が全くなくなってしまうことなど(実際に2千年後かどうかは別として)書かれていたりして、
非常にエキサイティングで面白い小説であることは間違いありません。

一方で、現実に目を向ければ、熊本地震の余震は少し小さくなったとはいえ、まだ活発に続いており、震源が、中央構造線に沿って東へ移動しつつあるようなのも、不気味です。
桜島もまた噴火したようですし。

東日本大震災でマグニチュード9を経験した私たちにとって、
この小説は決して絵空事とは思えません。
もしも、南海トラフによる大津波が日本の沿岸を襲ったとしたら、
日本列島は沈没はしないまでも、日本という国は壊滅状態になるでしょう。
その瀬戸際に私たちは今いるのだ、という認識は持っていたほうがいいと思うのです。

「日本沈没」は映画にもなりました。(1973年公開)
以前見たことがあるのですが、もう一度見たいと思ってツタヤに行きましたが、ありませんでした。
ちなみに2006年にもリメイクが作られましたが、こちらはあまりいい作品とはいえません。
原作とかなり違うし。

やっぱり、おもちゃみたいな大阪城が出てくる古い映画のほうが、
ゴジラ世代としては、なつかしさも相まって、いいなあと思うのですね。
そういえば、ゴジラも、ジャンルとしては災害モノといってもいいかもしれません。
ゴジラも、モスラも、キングギドラも、ありとあらゆる怪獣たちが、
日本列島めがけてやってくるのですから、
たまったもんじゃない。
日本が沈没してもおかしくないです。

さて、
これから下巻に入るのですが、
小説に描かれていることと、現実とがオーバーラップして、
小説なのか現実なのか、わからなくなりそうです。
何という時代になってしまったのだろう。
つくづくそう思います。

これからの時代を生き抜くには
どうすればいいのか、よく考えたいと思います。
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「バートン・フィンク」を見てモンクを思い出す

2016-04-27 11:14:39 | 映画
「バートン・フィンク」という映画を見ました。
コーエン兄弟監督作品です。
コーエン兄弟というのは、ユニークな映画を作っているようですね。
私は「ファーゴ」しか見ていませんが、これを機会にもっと見てみようと思います。
この映画は、コーエン兄弟がシナリオ執筆に苦しんだ経験から生まれたそうです。

作品が書けなくて苦しんでいる駆け出しのシナリオライター、バートン・フィンクは、
滞在中のロサンゼルスの安宿で、一風変わった保険外交員の男と出会います。
この男と出会ったことから、バートンはとんでもない事件に巻き込まれていくのですが、
全体に漂うのは、彼の妄想まじりの奇妙な現象。
暑さのせいで剥がれてくる壁紙とか、壁にかけられた美女が砂浜にいる写真とか、
有名な作家の愛人とベッドをともにした翌朝の惨劇とか。

どこまでが現実でどこからが彼の妄想なのか、
あるいは全部が妄想なのか、
見分けがつかなくなるような不思議な雰囲気に満ちています。

ところで、
この映画を見て、びっくり仰天したのは、
主人公のバートン・フィンクを演じている俳優。

あらま、アンブローズじゃないの!

しかも、彼の上司が、

エイドリアン・モンク!

「名探偵モンク」の主役エイドリアン・モンクを演じた俳優トニー・シャルーブじゃありませんか。
図らずも、モンクと弟のアンブローズが同じ映画に出演しているのです。

「名探偵モンク」というのはアメリカのTVドラマで、
探偵モノではありますが、コメディタッチでけっこう笑えます。
人情味のある刑事ストットルマイヤー、おっちょこちょいのディッシャー、そして気の強い看護師のシャローナ、そしてシャローナの後継者のナタリーなど、脇を固める人たちもみなとても魅力的。
主人公のモンクには、彼の妻が、車にしかけられた爆弾で殺されたという辛い過去があり、
しかも、強迫神経症で、あらゆることに過敏に反応するので、普通の人の暮らしが出来にくい体質でもあります。

エイドリアン・モンクと弟のアンブローズ・モンクが登場するエピソードは、何というか、人生の不思議、悲しさ、おかしさをそこはかとなく感じさせてくれます。
また、最後のエピソードは、モンクの妻を殺害した犯人がついに明らかになるという圧巻の章です。
何かに行き詰った折など、DVDを引っ張りだしては繰り返し見ています。

で、このエイドリアン・モンクことトニー・シャルーブが「バートン・フィンク」の中では
すごく意地悪な上司を演じるのですね。
モンクの対極にいるような人物を。

役者というのは凄いなあと、こういうのを見るたびに思います。
同時に、
全く予期せぬ映画の中に、予期せぬ人物を見つけたときなど、
昔の知人に街角で出くわしたようななつかしさを覚えたり、
あるいは、ここでは会いたくないと思っていた人物に出会ってしまったような違和感を覚えたりしますね。

あら、スーパーマン!
あなた、どうしてここにいるの? 
(クリストファー・リーが「ある日どこかで」に出演しているのを見たとき)


映画って本当に面白いですね。
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好きなことだけしてちゃダメなのよ (2)

2016-04-24 11:52:53 | 日記
子どもの頃、母から
「好きなことだけしてちゃダメなのよ」
と言われた、という記事を前に書きました。その続編。

私の両親が生きた時代は戦争のただ中でした。
皇国史観で育てられ、青春時代は戦争に明け暮れました。
父は中国に出兵しましたし、亡くなる直前まで、
「天皇陛下、万歳!」の人でした。
日本はアジアを解放したのだ。決して侵略戦争ではなかった。中国を解放しようとしたのだ。
そう言い続けました。

母はすべてにおいて父に従属し、父の思想や言動に逆らうことは決してありませんでした。
(あるいはそういうふりをして生きてきました)
あの時代を生きた人たちというのは、大半がそうだったので、
私の両親が特別というわけではありません。

戦争に勝ち抜くには、
我を通すことは許されないことでした。

我慢が大事。

したがって、
好きなことも我慢しなさい。
みんな我慢して生きているのだから。
好きなことだけしていたい、というのは恐るべき自己中心の考えであり、それは国を亡ぼすことにつながる・・・

戦争が終わったからといって、いきなり人生観が変わるものではありません。
母の言葉は無理からぬことだと言えるのです。

子どもの立場から言えば、たまったもんじゃないのですが。

そして、今、
東日本大震災、今回の熊本大地震、
と大きな災害が続き、
日本人は何と我慢強く礼儀正しい民族だろうかと
世界じゅうから称賛されていますが、
その根っこにあるのは、
あいかわらずの、
「我慢が大事」
という人生観、というか道徳なのですね。
日本人の心に深く植えつけられた感性です。

それが今回は国を亡ぼすのではなく、再建するのに役立ったというわけですが、
(我慢の果てに亡くなった方も大勢いると思います)
本当にこのままでいいのだろうか、
という疑問を抱かざるを得ません。

災害はいずれは収まります。
でも、収まらないものもあります。
たとえば、
原発事故、政権の横暴。

日本人は我慢強い。
だからこそ、
原発事故も政権の横暴も、いずれ過ぎ去る嵐のように、
我慢してやり過ごそうとしているのではないでしょうか。

きっとまた同じことが起きる気がしてなりません。
私の両親のように
我慢は美徳、辛抱が大事、好きなことだけするのは慢心、
そうした道徳がはびこり、
人々が「絆」という都合のいい言葉のもとに、互いに監視しあう社会が
すぐそこまでやってきているような気がして、
(もしかするともうやってきているのかもしれません)、
それは、どんな災害よりも恐ろしいという気がしてなりません。

父と母が亡くなってから、かなりの年数がたち、
私もようやく両親の生きてきた時代を冷静に見ることができるようになりました。

戦争は父にとっての青春だったのだ・・
今ではそう理解しています。
私たちにとっても青春時代が大事なように。
青春時代を戦争の中で過ごさざるを得なかった両親に選択の余地はなかったわけですから、
責めることはできません。
でも、子どもたちには同じ思いをさせてはならない、
そう強く思います。

最近になってようやく、私は、両親にねぎらいの言葉をかけることができるようになりました。
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外国語を習得するということ

2016-04-22 13:15:55 | 日本語
日本語教師をしています。
四月になり、新しい生徒さんが入ってきました。
ベルギー人のJさん。一か月前に日本にやってきたばかり。
彼はバックパックで東南アジアの国々を巡ってきたといいます。
日本のアニメが大好きで、できれば日本に住みたい。でも日本語しゃべれない。そこで日本語レッスンを受けようと決心したそうです。

日本語のレッスンは「ひらがな」から。
ひらがなが読めないと、テキストに入れません。
でも、ひらがなは難しい。
「は」と「ほ」、「ろ」と「る」、「わ」と「れ」、「め」と「ぬ」
とても区別がつきにくい。

「に」は「にんじん」の「に」
と教えたら、
「忍者」の「に」と嬉しそうにいいます。

「も」は「桃」の「も」と教えたら、
「モモの助」の「も」
モモの助、というのはアニメ「ワン・ピース」に登場する人物です。

以前、日本のアニメで日本語を勉強したというイギリス人に会ったことがありますが、
ほぼ完ぺきなイントネーションで日本語を話していました。
日本のアニメ、恐るべし。

日本語のテキスト「みんなの日本語」に登場するのは、
彼らが全く知らない、ワンさんだったり、タワポンさんだったりしますが、
アニメの人物にしたら、きっと勉強がはかどると思います。

それはともかく、外国人に日本語を教えていて、いつも思うのは、
彼らが決して教師のいいなりにはならないということ。
私が「こうしましょう」と提案すると、必ずといっていいほど「こっちのほうがいい」あるいは、「私はそうは思わない」などと言ってきます。

一方、私はNOVAで英会話の勉強もしています。(生徒の方です)
グループレッスンではいろんな人たちと一緒になりますが、
ほとんどの人が黙々と教師の言う通りにしています。
誰一人として、
「それよりこっちの方がいいと思う」とか「こっちのやり方でやってほしい」などと言いませんし、
もしも誰かがそんなことを言いだしたとしたら、白い目で見られること請け合いです(笑)。

なんという違いだろうか。
外国人に日本語を教えるたびにそう思います。
彼らはとても積極的だし、教師だからといって、全てをすんなりとは受け入れてくれません。
自分の意見をはっきり言うし、時に(日本語知らないくせに)こっちのほうが正しいと思う、みたいなことを平気で言ったりします。

人にコントロールされることを嫌う。
誰かの言いなりにはならない。
必ず主張をする。

なんという違いだろうか!

では、そういう人たちに教えるのは厄介かというと、
そんなことは全くありません。
むしろ、一緒に考えながら授業をするのは楽しい。
意見をはっきり言うので、何が足りないかもよくわかる。
相手が何を考えているのか、わからないほうがずっとやりにくいと思います。
NOVAの先生たちはやりにくいだろうなあ。
もっとも日本に長く居れば慣れているでしょうけど。

今回のJさんも例外ではありません。
ひらがなカードを使った簡単なゲームを提案したら、
「ぼくはこうする方がいいと思う」といってちょっと違うやり方を提案しました。
とても積極的。
そして、彼は日に日にひらがなを覚えていき、文章が読めるようになり、
覚えたばかりの日本語で日本人に話しかけます。

「ぼくはかっこいいです」
「ぼくはかっこいいじゃないです」

すると誰かが、「かっこよくないです」と指摘します。すると彼はすぐに、
「かっこよくないです」とオウム返しに言います。

彼はあっという間に日本語をマスターするだろうと思います。
すでに四か国語をマスターしているというので、日本語ができるようになれば、五か国語を操る若者になります。
将来が楽しみです。

日本人の若者たち、いえ、若者に限らずすべての人たち(かく言う私もですが)、
彼に見習って外国語にトライしてみてはいかがでしょうか。
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イタリアの四月

2016-04-21 10:26:40 | 日記
九州の地震は収まる気配がなく、本当に心配ですね。
なんだか、九州が南北に分断されてしまいそうな勢いで、地震のエネルギー、大地のエネルギーのすさまじさを感じます。
これほどの大災害であるにもかかわらず、まだ激甚災害に指定されていない、というのは一体どういうことなんでしょうか。
この分だと、日本が沈没しても、激甚災害にはならないんでしょうね。
くれぐれも、自分の身は自分で守りましょうね。

ところで、こんな時期になんですが、一昨日の夜、とてもいい夢を見ました。
イタリアにいる夢です。
イタリアは憧れの国ですが、まだ行ったことがありません。
そのイタリアのどこかの町に私はいます。ちいさな町です。たぶん丘の上の町。
友人夫婦(日本人。誰かは不明)がその町に住んでいて、招待してくれたのでした。

ちょうどカーニバルがあるというので、これから見に行こうという話をしています。
庭には色とりどりの花が咲き、空気が清澄でおいしい。そして庭のむこうには開けた景色も眺められます。
そこで友人とお茶を飲みながら、

「イタリアの四月っていいわね」と私が言うのです。

カーニバルの音楽もどこからか聞こえてきて、向こうのほうには、パレードの人形などの姿も木間ごしにちらりと見えます。
「早く行きましょうよ」と私がせかすのですが、友人はのんびりした口調で、
「まだ時間はたっぷりあるから大丈夫よ」などといっています。
そうこうするうちに、日は西に傾きはじめ夕方の気配。
ようやく腰をあげた友人と私は街に繰り出していくのです。

お祭り気分、さわやかな春の日ざし、清澄な空気、花々、音楽・・
そういった祝祭の気分に満たされた夢でした。

そして、日本の自宅のベッドで目覚めたのですが、しばらく幸せな気分が続きました。
どうすれば、こんな幸せな夢の中にいられるのだろう。
何か方法はないものだろうか。
幸せな夢に入る方法!

夢の中では、すべてが実にリアルに感じられたので、「夢を見る」というより、「夢に入る」といったほうが適切な気がします。

いずれ、テクノロジーがこうした技術を開発するかもしれません。
ヘッドギア(?)みたいなのを頭に装着して寝るといい夢が見られるとか。
そして、いずれは終末期医療なんかにも活用されたりして。

でも、私は、いい夢に入る方法を自分で見つけたいと思います。
そうすれば、万が一(激甚災害に指定はされないけど)実際のところ激甚災害、という災害に遭遇して、避難所生活を余儀なくされたときに、役立つのではないかしら、
なんてことを考えたりしています。


ああ、でも、その前にイタリアに行きたいなあ・・
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