誰もが知っているモンゴメリーの名著「赤毛のアン」がドラマ化されました。
「アンという名の少女」(2017年カナダ)
今、Netflixで配信中です。
原作にかなり忠実に作られていて、さらに登場人物の内面を深堀りして描いており、心理描写が見事です。
私がこれを読んだのは子どもの頃だったのでもっぱらアンに感情移入したものですが、今回ドラマを見て、
アンの周囲の大人たちが大変興味深く描かれていると思いました。
とくに、アンを養子に迎えたマシューとマリラの兄妹がすばらしい。
こんなに素敵な人たちだったのね、と新たな発見をしました。
進歩的であることを自負する女性たちが、いかに古臭く因襲に囚われているか、学のないマリラとマシューのほうがいかに人間の真の価値を知っているか・・
エピソードが進むたびに、ハラハラしながら涙を流しながら見ずにはいられませんでした。
アンの短気で頑固で意固地なところもすごい。自己主張の激しいところもすごい。
でも、シーズン1の終わりまで見て、これ以上は見なくていいや、と思ってしまった。
なぜかというと、この時代特有の少女小説のパターンが見えてきて、ああまたね、と思ったからです。
「小公女」「少女パレアナ」「あしながおじさん」「大草原の小さな家」・・なんかに共通するパターンといえばいいか。
孤児と意地悪な養母、真の友情で結ばれた友だち、ライバルでありやがて恋人になる少年、強い父親と愛情深い母親、家族の絆・・
これらのパターンは旧世代の家族像を象徴しています。
どんなに味付けが異なっていても(アンの話にはゲイのカップルさえ登場しますが)、苦境にめげず明るく成長する子どもと家族の絆・・という教訓が見え隠れしています。
愛情というのは(家族というのは、と言い換えてもいいかもしれない)、
時に桎梏でもありますね。
罠といってもいいかもしれない。
すべての愛情には罠がある・・
とはいえ、私たちは愛情を求めずにはいられない。誰も一人で生きていくことはできないし、そばに誰かいてほしいと思うものです。
その人が愛情深い人だったらどんなに素敵かしれません。
それでも、その愛情には罠が仕掛けられていて、私たちはその罠にはまりこむと出られなくなる。道徳とか社会通念とか常識とかその他諸々・・。
だから覚悟が必要、
ということは往々にして忘れ去られがちです。
私たちは目くらましに騙されないよう、罠にはまらないよう、しっかり自覚する必要があるように思います。
昔「赤毛のアン」を読んで感動した世代は見てみてもいいんじゃないかと思いますが、
ああ、いい話だわあ、と感動する人と、もう、こういうのお腹いっぱい、と思う人とに分かれる気がします。
あなたはどっちにゃん?