ないない島通信

「ポケットに愛と映画を!」改め。

ブルックリン

2019-05-29 10:18:06 | 映画



この映画について書くのは、二度目です。
今回見て、改めていい映画だなあと思ったので、同じような内容ですが、書いてみたいと思います。

ストーリーを知っているせいか、もう冒頭から涙があふれてきます。
田舎から東京に出てきて、寂しい思いや辛い思いをしたことのある人なら誰でもそうなるでしょう。エイリシュに感情移入し、ああ、私もそうだった、エイリシュ頑張れ! と応援したくなります。

私が四国の片田舎から上京してきたのは15歳の夏のことでした。
母と一緒だったし、まだ中学生だったので、エイリシュとは事情が異なりますが、田舎から出てきた少女が都会で味わうみじめさや辛さは、やはり独特のもので、世界共通なのでしょう。

さらにこの映画では、アイルランドから見知らぬ世界にやってきて、悪戦苦闘しながらも自分の人生を切り開いていく勇敢なエイリシュの姿も描かれます。

エイリシュがアメリカに上陸して、入国審査を通過し、ドアの向こうの光あふれる世界へ一歩を踏み出すシーンは、何度見ても素晴らしい。

ああ、私も若かった頃、エイリシュみたいに未知の世界に飛び出していきたかった、どんなに行きたかっただろう・・
それを思い出すと、年月の経過の残酷さを思い知らされる気もします。

辛いことの多い移民ですが、それでも前を向いて人生に果敢に挑戦しようとするエイリシュは素晴らしい。でも、何があっても大丈夫、だって、若いってことはそういうことだから。

そしてまた、二つの故郷の間で揺れ動くエイリシュ。多くを語らない母。 自分の辛さを決して表には出さず、静かにやさしく、けれども厳しくエイリシュと向き合います。激しい口論や感情の行き来がない分、余計に見る者の気持をゆさぶり、激しい感情を引き出します。
この物語を書いた脚本家タダ者じゃない。

アイルランドとNYブルックリンという対照的な世界を描き分け、あなただったらどっちを選ぶ? と見る者に問いかけてもいます。

そしてまた、故郷の持つ魔法。

人は生まれ育った土地や人々と深く繋がっていて、その縁を断ち切るのは容易ではありません。
ブルックリンにトニーを残したまま、魔法にかかったエイリシュは故郷で暮らすことを本気で考え始めます。

まるで、「リップ・ヴァン・ウィンクル」のようなお話でもあるんだなあ。

そして、再びNYに向かうエイリシュは、初めてアメリカを訪れた時の田舎の少女ではもう全くなくなっていたのでした。

時を置いて何度でも見たくなる映画。
宝物、といってもいい映画です。

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ウォルター少年と、夏の休日

2019-05-25 19:33:45 | 映画

 

(これは2018年の記事です)

女性が主人公の映画が続いたので、今日は男の子が主人公の映画を紹介します。

「ウォルター少年と、夏の休日」
(ティム・マッキャンリーズ監督 2003年公開)

主人公のウォルター少年を演じているのは、「シックスセンス」で有名なハーレイ・ジョエル・オスメント君。あの頃から見るとかなり成長していますが、まだまだ少年です。

物語は、ウォルター少年と夏の間彼をあずかる大叔父二人、この三人でほぼ進みます。男三人の物語。

ウォルター少年は、シングルマザーの母に連れられて大叔父である老兄弟の家を訪ねます。
この老兄弟(ハブとガース)に扮するのが、名優、ロバート・デュバル&マイケル・ケイン。

彼らはギャングのアル・カポネから奪った大金を家の中に隠しているのよ、と母は言います。
どうせ人から奪った金なんだから、こっちが奪っても罪にはならないわ。
だから お金のありかを探るのよ、ウォルター。
母はそうウォルターに言いつけ、仕事のための勉強をするからといって、彼を置き去りにします。

実は、母はラスベガスに行っていたことが後にわかるのですが、この困った母親を持つウォルター少年はまっとうで賢い。

老兄弟は少年に若い頃の冒険譚を語るのですが、それが事実なのかファンタジーなのか、よくわからない。

ここら辺は「ビッグ・フィッシュ」にちょっと似てます。若い頃の冒険譚で、三つの部分に分けて話されます。

ハブは恋人のジャスミンをどうやって見つけたか・・

ハブは彼女とどうやって一緒になったか・・

なぜ、今、ジャスミンはいないのか・・

ここにアラブの王様やアフリカの話やライオンなんかもからんできて、一大冒険譚になり、しかも、彼らの財産を狙う別の親戚も現れて・・

のんびりした夏休みの思い出かと思いきや、ウォルター少年の過酷な現実も語られ、こういう母親を持つ子どもは大変だろうなあ、そして意外と多いんだろうなあと想像できます。

老兄弟がとてもいい。
彼らは実際アラブで戦ってきた人たちで、腕力も凄いし、やたらと銃も使う。彼らの家を訪れた人たちに向かって、ところかまわず銃をぶっ放すシーンには驚かされますが、まあ、実際のところ、荒野で生きているとこうなんだろうなあ、そして、アメリカは今もなお、こうした荒野が広がっていて、人々は銃を必要としているのだろうなあ、という想像もつきます。

やはり風土が日本とはまるで違うので、銃規制の問題も一筋縄ではいかないわけです。
「女神の見えざる手」は銃規制の法整備についての映画でしたが、今回は、やたら銃をぶっ放す年老いた荒くれ兄弟の話、というわけ。

ハブが少年にスピーチをするシーンがあります。ハブは言います。

「人には、真実かどうかは別として、信じるべきことがある。人は生来善なるものだ。自らの誉れ、勇気、高潔さこそが全て。権力と金は全く意味がない。善は必ず悪に勝つ。そして、愛は、真実の愛は永遠に滅びることはない・・」

このじいさんたち、カッコいいんだよねえ。
そして、最後はスカッとします。
お勧めです。

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ルイの九番目の人生

2019-05-23 22:54:27 | 映画

 

(これは2018年の記事です)


今日の映画はネタバレ全開で進めたいと思います。
なぜならネタバレしないと説明できない映画だから。
これから見る予定の人は、映画を見てからまた来てね。

「ルイの9番目の人生」(2016年公開。イギリス・カナダ・アメリカ合作。アレクサンドル・アジャ監督)

ルイは生まれた直後から事故や食中毒、感電等で毎年死にそうな目に合い、事故多発少年と呼ばれるようになります。
そして、何とか生き延びて9歳の誕生日を迎えます。
ルイが猫ならもう8回は命を使っている、これ以上使わないで、と母親はルイにいいます。
ルイ自身のこうしたナレーションで、映画は始まります。

ここで勘のいい人ならピンとくるはずです。
私も、まさかなあ、と思いつつも予感は感じていました。
中盤にさしかかると、さては、と思い、最後のどんでん返しで、やっぱりそうだったのね、となったのでした。

大体9歳の少年が毎年死にかけるなんて尋常じゃない。
児童虐待か、あるいはそれにからむファンタジーか。

映画は、父親が犯人であるかのようにミスリードします。
彼は酒飲みの元ボクサーだから。
そして、ルイは彼の実子ではなく、妻の連れ子だから。
夫婦仲もあまりよくない。
動機は十分ですね。
父親がルイを殺そうとしているのかもしれない。
でも、
大の男が子どもを殺そうとして、8回も失敗するかしら。
殺すつもりならとっくに殺しているはずです。

そんな状況の中、ルイの9歳の誕生日のお祝いに、家族でピクニックに行きますが、ルイは崖から転落して、一命は取りとめたものの、昏睡状態に陥ります。同時に父親が行方不明になります。

警察は父親がルイの転落に関係していると見て、捜査に乗り出します。
母親のナタリーは昏睡状態のルイにつきっきりで看病します。
その献身的な看病ぶりに、担当医のパスカルはすっかりやられて、ナタリーの虜になっていきます。

何せ美人なのよ、この母親。
楚々として美しく、弱々しげで思わず手を差し伸べたくなるタイプ。男ってこういう女性にとことん弱いよね。
パスカルは美人妻がいるくせに、ナタリーと不倫に走ります。バカだね。

でも、彼女、実は
代理ミュンヒハウゼン症候群という精神疾患を患っていたのでした。

つまり、ルイが死にかけたのは全部彼女のせい。
死なない程度の毒を盛ったり、感電させたり、事故に合わせたり・・
毎回、ルイは死にかけるけれど死にはしない、そういうぎりぎりのところへルイを追いこんできたのでした。
そして献身的に看病をする。
周囲の誰もが彼女を献身的な愛情深い母親だと思い同情し、彼女に注目する、その同情と注目を得たいがために、何度もルイを追いこむのです。

ルイ自身もまたそれが母親の愛情だと思い込み、誰にも相談せずむしろ母を庇う行動に出ます。

崖から転落した時のルイは叫び声も上げず、絶望の表情をしていました。
ルイ自身が母の要求に応えようとして自らの運命を選び取ったともいえるでしょう。

どんだけ酷い母親なんだ。
でも、この病気、実はそう珍しくないようです。

有名どころでは、「シックス・センス」に登場するキラの母親がそう。
娘のスープに洗剤を混ぜて最後は殺してしまいます。
また、日本でも時おり代理ミュンヒハウゼン症候群による犯罪が明るみにでますが、被害者が子どもであることから、大多数は闇に埋もたまま死に至っているのではないかと言われています。

母親って怖いよね。
(父親が怖いのは言うまでもなく)

先日「すべての母親は魔女である」と書きましたが(「ビューティフル・クリーチャーズ」)
この代理ミュンヒハウゼン症候群もまた魔女の片鱗が伺える事例ですね。
病気とまではいかなくても、子どもが病気になったときに甲斐甲斐しく優しい母親を演じて周囲から同情されたりすると、もう一度あの同情を味わいたいと思うのはそう珍しいことではないかもしれない。

火事になったらまたあの人に会える、と思って衝動的に火をつけた八百屋お七みたいに。こういう心理って誰にでも多少はあると思います。
でも、普通はそう思っても行動しない。それを行動に移してしまうところが病的なのでしょう。

ナタリーは精神病院に収容されますが、なんと第2子を妊娠しています。いうまでもなく医師パスカルの子。男ってホントにバカだね。

ミステリー映画としてすごく面白いかというと微妙かなあ、という感じはありますが、ちょっと変わった精神疾患に興味のある人はどうぞ。

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ビューティフル・クリーチャーズ/光と闇に選ばれし者

2019-05-21 11:36:48 | 映画


(これは2018年8月29日の記事です)

8月もあとわずか。
やれやれ。
生きてるだけで精一杯の過酷な夏でしたね。

でも、生きてりゃいいんです。生きてりゃ。

というわけで、今日は魔法についてのお話。

「ビューティフル・クリーチャーズ/光と闇に選ばれし者」という映画を紹介します。(2013年公開)

かなり前に見たのですが、Netflixで配信していたのでまた見ました。
16歳の誕生日に、いい魔女になるか闇の魔女になるかの選択を迫られているリーナという魔女の物語。

彼女は転校先の高校でイーサンと出会います。
イーサンは少し前からリーナを夢で見ていました。夢の中の彼女が実際に彼の前に現れ、しかもリーナもまた夢でイーサンを見ていたと言います。

運命の赤い糸で結ばれた二人。でも、二人の住む世界は違う。
何しろ、リーナは魔女なのですから。人間のイーサンと一緒には暮らせない。
リーナは自分にかけられた呪いを解くために究極の選択を迫られます。

これがね、綺麗なの。

リーナの住む古い屋敷は、外から見るとボロボロだけど中はモダンで、時おり紅葉した葉っぱがひらひらと舞ってたりします。

リーナと闇の魔女であるリドリーが対立して食堂のテーブルがぐるぐる回ったりします。

リーナの母親であるサラフィーヌも闇の魔女。
大体母親というのは魔女ですね。例外なく。
どんなに愛し合っている親子でも、優しい母親でも、母は一種の魔女なのです。

リーナはこの闇の魔女である母親と対決し乗り越えなくてはいけない。

男の子が父親と対決して父を乗り越えないと大人になれないように、女の子もまた母親と対決して母を乗り越える必要があるのです。

母親は言います。お前は私の娘なのだから、闇の魔女になるに決まってる。
でも、リーナは闇の魔女にはなりたくない。

魔法というのは、いってみれば、若者が遭遇す試練や通過儀礼を表現したもの。だから若い人たちに受ける。
大人にだって面白い。自分たちが経験してきた試練や過酷な経験を別の角度から見せてくれるから。
そうか、あれはそういう意味だったのか、と何歳になっても発見があります。

それがメタファーの力。
比喩には明喩と暗喩の二種類があり、暗喩(隠喩ともいう)のことをメタファーといいます。

雪のように白い肌・・明喩
雪の肌・・・・・・・暗喩

というわけで、
魔法というのはこの暗喩に属している表現方法ですね。
まあ、魔法は実在する、という説もありますが。

魔法の物語はたくさんあって「ハリー・ポッター」だけではもちろんありません。
今年の秋、私の大好きな「ルイスと魔法使い協会」(ジョン・ベレアーズ作)の第一巻「壁の中の時計」が映画化されるようです。

「ルイスと不思議の時計」
ルイスは両親が亡くなり伯父さんの家に引き取られますが、この伯父さん、実は魔法使いなのでした。でも、ポンコツ魔法使い。隣に住んでいる魔女もユーモアたっぷりで面白い。映画はまだ見てないけど、これも注目ですね。

ああ、真夏に雪を降らせるような魔法が欲しい・・
でも、秋はすぐそこ。

明けない夜はないように、秋もかならずやってきます。
もうしばらくの辛抱です!

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トゥ・リブ・アゲイン

2019-05-19 15:10:16 | 映画

 

(これは2018年3月5日の記事です)

amazonプライムで配信されているHBO制作映画「トゥ・リブ・アゲイン」がよかったので紹介します。

TV映画として制作されたものらしく、ネットで検索してもamazonプライムでしか出てきません。

先日紹介した「ルーム」と同じように、これも16年間もの間、実の母親によって監禁されていた少女の話です。実話に基づくストーリーというところも同じ。

高校生の頃に、ボーイフレンドが出来たというだけの理由で、母親になじられ監禁されたまま16年もの間、日も差さない暗い部屋に閉じ込められたカレン。
部屋の乱雑さは凄まじく、とても人間の住む場所とは思えない。

このカレンの母親がすごい。
スティーブン・キングの「キャリー」の母親のように、狂信的な母親というのはアメリカではよくあるタイプの毒親なのだろうか。
彼女はカレンが精神病だと信じて疑わない。なぜなら自分の姉がそうだったから。しかも 他人の意見を決して受け入れようとしないところ、やはり狂信的で異様です。

かくして、健康で何の異常もなかったカレンは母親に監禁され続け、何度か逃亡するも捕まり、再び母親のもとに戻され、PTSDを発症してまさに精神病と診断されるようになります。
異常なのは母親の方なのだけど、周囲の人たちは見て見ぬふり。おまけにカレンに関する調査書類まで行方不明という行政の無能ぶりも加わり16年もの間見過ごされてきたわけです。

彼女を助けたのは、カレンと同じ年ごろの娘を交通事故で亡くしたケースワーカーのアイリス。彼女は、もしかして自分は娘とカレンを混同しているのだろうかと悩みながらもカレンのために尽力します。純粋で一本気な、勇気と行動力のある女性です。

こういうケースでは、実の母親というところが非常に厄介。
母親なら子どもを愛しているはずという世間常識があるから。
でもその常識は時に疑ってかかる必要があります。なぜなら、その愛は自己愛の一種かもしれないから。

その区別は難しく、他人にはほとんど判別がつきません。そういう母親たちは世間的にはうまく立ち回るのが常で、誰も気づかないからです。
大半の人は母親の言うことが正しいと思いこみ、疑うことすらしない。
従って、誰かが気づいてあげない限り、子どもは虐待され続けることになります。アメリカだけではなく、日本でもこうしたケースは多いと思う。

カレンの母親はおそらく自己愛性人格障害といった類の精神疾患があてはまるのではないかと思われますが、本人が困らない限り精神疾患とは認められないので、母親を説得しても無駄です。
とにかく母親から引き離してカレンを再生させることに専念するしか、カレンを救う道はないのです。

けれどもカレンを引き離しても、しつこく娘を取り戻そうとする母親。

「私は母親なのよ!」

この言葉は母親にとっての金科玉条、錦の御旗です。こう言えば誰も疑ったりしない。子どもにとって母親以上にすばらしいものはない、と世間では思われているから。

母親はカレンを取り戻そうとして誘拐しますが、自宅で監禁するのはさすがにヤバイと思ったのか、カレンを精神病院に入れてしまいます。
娘の保護責任者となり障害年金を手に入れるためか、あるいは世間の同情を集めるためか、どちらにせよ、娘を思ってのことではなく、どこまでも身勝手な行動なのですが、それさえ見抜けない医師やケースワーカーたち。

「ドラゴンタトゥーの女」でもそうだったけど、えてして専門家というのは騙されやすい。カレンにはどう見ても統合失調症の症状はないのに、暴力的というだけで統合失調症と診断され大量の薬を投与されます。

ここでアイリスの力が試されます。
アイリスは周囲の反対にもめげず、カレンは精神病ではないと断言し(なぜならアイリスと共に暮らし始めてから、カレンは自分を取り戻しつつあったので)、彼女を病院から解放すべく奔走します。

こういう人がいないと、カレンのような人たちは救われない。
そして、「ルーム」でもそうだったけど、ここでもカレンの母親を糾弾することはしない。なぜならカレンを救うほうが先だから。

日本でも監禁事件は発生していますが、親による監禁はもう少し緩いケースが多いのではないでしょうか。
逃げようと思えば逃げられるけど、親のことを考えると逃げられないと(洗脳され)思い込む等。

いずれにせよ、親による(無意識の)コントロール下にいる子どもたちは想像以上に多いと思います。気付くためにはアイリスのような人が必要です。

人間の心というのはとても複雑で、外見だけで判断すると間違いを犯すことになるかもしれない、ということを肝に銘じたいと思います。

カレンが馬の出産を手伝うシーン、生まれた仔馬が牧場を走りまわるシーンが印象的です。

メジャーじゃないけど、心に残る映画です。

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