ないない島通信

「ポケットに愛と映画を!」改め。

「ゆる言語ラジオ」にハマる

2021-11-20 13:05:00 | 日本語

これ、教えっちゃおうかな~

最近私がハマっているYouTubeは、DaiGo でもなく、ひろゆきでもなく、

「ゆる言語ラジオ」

なのです!

たとえばこれとか↓

母語はどこまで人に影響を与えるのか?方向感覚は?【第二言語習得論2】#75

左右を持たず、東西南北でのみ位置を示す言語があるそうです。それを使う民族はその分我々よりも位置感覚が優れていたりするのでしょうか?いつもより...

youtube#video

 

日本語教師をしているので、基本的に言葉が好きです。

これ見つけて、なになに、と覗いてみたのが運の尽き。

何しろ「ピダハン語」やら「サピア・ウォーフの仮説」やら、

私の大好きなテーマが次々登場して、もうね、ずっと見続けちゃいます。

言葉に興味がある人は絶対ハマると思う。

大昔、高校生だった頃、大学に行けたら言語学か心理学をやりたいと思っていました。

残念ながら大学には行かせてもらえなかったのですが、
(後に自力で夜学に行ったけど学部は選べなかった)

高校生の頃って、自分が好きなものを、けっこう鋭敏に知っているような気がします。

そして、幾つになっても好きなものは変わらない。

というわけで、

今更ですが、

言語学って面白いよね、とハマっているわけです。

私の説明より実際に見てもらったほうがいいので、

興味のある人はぜひ、この番組を覗いてみてくださいまし。

(これ、秘密にしておきたかったのよね。だって自慢できそうな蘊蓄満載なのだもの)

というわけで、YouTubeの紹介でした。

 

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日本語教師として・・(3)

2020-09-21 17:43:11 | 日本語

先日「ニュー・システムによる日本語」を紹介しましたが、

これを開発した海老原峰子氏は数学者でもあります。

つまり、ロジカルな思考回路をもっている人だと思われます。

だからこそ、このメソッドはシンプルで論理的でなおかつ実用的に作られています。

でも、世の中のすべての人にロジカルな方法がいいとは限らない、

ということが、一人の生徒の発言でわかりました。

「それって数学みたいだね。でも、僕は数学が苦手なので、よく理解できないんだ」

言語の獲得方法というのは、人によってずいぶん違うものだと教えているとよくわかります。

JLPTでは5級(初級)のWさんの日本語は実に流暢で、日常会話は難なくこなせます。イントネーションも日本人と変わらない。それなのにJLPT4級のテストは不合格でした。

JLPTだけでは日本語能力を判定できない、ということがわかります。

(でも企業で要求されるのはJLPT2級合格です)

言語獲得のポイントはリスニング力ではないか、と私は思っています。

相手が何を言っているのか理解できないと答えられませんから。

簡単なことですが、案外見過ごされがちです。皆、必死になって、どう言おうか、どう表現しようか、文法はこれでいいだろうか、と考えますが、その前に、

相手の言っていることをちゃんと理解できるかどうか、がとても大事。

とにかく日本語に慣れ親しんでほしいと、口をすっぱくして言いますが、なかなか難しいようです。

特に日本語の日常会話は表現方法が多様で、「みんなの日本語」のようなテキストで勉強した人にはついていけないようです。

それに、日本語と英語では脳の働き方も違うらしい。

フィリピンのセブ島の英語学校に2回短期留学したことがあります。

一度目は2週間、二度目は1か月。

最初に入った英語学校は韓国人の経営する学校で、日本人の生徒は少なく、ほとんどが韓国や台湾から来た人たちでした。

従って生徒同士で話すときも英語のみ。

たった2週間でしたが、日本語からすっかり離れて英語だけで暮らしていると、いつのまにか英語で考えるようになります。英語脳になってきたのを感じました。

一方、1か月を過ごした英語学校の方は、日本人が経営する学校で生徒はほとんどが日本人。授業の合間に生徒同士で会話するときは、当然日本語になります。

1か月いたけれど、私の英語は大して上達しなかった。

英語学校では日本語を使ってはいけない、と痛感しました。

そして、必要に迫られるという事はとても大事だと実感しました。

部屋のエアコンの調子が悪くてフロントに掛け合わなくてはいけなかったとき、私の頭はフル稼働で英語をひねり出したのでした。

どうしても伝えたいことがあること、何とかしてコミュニケーションを取ろうとすること、それが言語獲得の近道かもしれません。

メソッドも大事ですが、言語環境はもっと大事。

NOVAに通っていたとき、日本人の英語の先生がこう言っていました。

「朝起きるとラジオをつけて英語のニュースを聞きます。昼間も、できるだけ日本語が耳にはいらないよう工夫して暮らしています」

英語の先生ですらそうなんだ、と感心しました。

言語を獲得し、それを維持するにはそれなりの努力が必要だということを教えられました。

日本にいる外国人は、日本語の環境の中にいるのですから、これ以上言語獲得に適した場所はないわけです。

でも、皆こう言います。

「だって、日本人は外人とみると英語で話しかけてくるんだもの・・」

しかも、職業が英語の先生だったりすると、ついつい英語に頼ってしまいがちです。

私の生徒たちは様々な国から来ているので、母国語も様々ですが、皆とても流暢に英語を話します。なので、やはりどうしても英語が混ざりこみます。

私の日本語レッスンでは、英語、日本語、それぞれの母国語が飛び交い、スペイン語ではこう、ドイツ語ではこういうのよ、と教えてもらったりして、とても楽しいです。

本当は英語を使わないで、日本語だけで教える方がいいのでしょう。でも、英語ができると便利なのは確かです。

これから日本語教師の資格を取ろうと考えている方、ぜひ歳だからとあきらめずに挑戦してみてください。

いくつになっても、遅すぎることはありません。

日本にいながら世界じゅうの人たちと接してそれぞれの文化を学べる、こんなにいい仕事はありません。

何より楽しいんです!

(まだ間に合うにゃ)

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日本語教師として・・(2)

2020-09-15 15:14:07 | 日本語

ちょっと専門的な話になりますが、

最近、ネットで見つけた日本語教授法がとてもシンプルでユニークなので、日本語教師の方々に紹介したいと思います。

「日本語教師が知らない動詞活用の教え方」海老原峰子著(現代人文社)

YouTubeでこれを見つけたとき、まさに目からウロコでした。

なんで今まで誰も気がつかなかったんだろう・・

この新しい日本語教授法を海老原氏は、

「ニュー・システムによる日本語」

というテキストにまとめています。

日本語のテキスト「みんなの日本語」はポピュラーですが、実はとても使いにくいテキストでもあります。

というのも、「みんなの日本語初級Ⅰ」と「初級Ⅱ」は、日本語学校でそれぞれ3~4か月(約200時間)、ⅠとⅡを合わせると半年以上かけて学ぶ内容なので、非常に進み方の遅いテキストです。

しかも、動詞の活用は「ます形」から入る。

行きます、見ます、読みます、来ます・・

生徒たちは動詞として(辞書形より先に)これを学びます。

「わたしは京都へ行きます」「わたしは会社へ行きます」「わたしはバスで会社へ行きます」・・

普段の会話ではこうした会話はほとんどありませんね。日本語学校で学ぶ日本語は、私たちが普段使っている日本語とは違って、少しぎこちない形式ばった日本語です。なので、日本人の会話にはとうていついていけません。

外国人が一番てこずる「敬語」も「みんなの日本語初級Ⅱ」の終わりの方になって、ようやく出てきます。

オランダ人のHさんはこの「敬語」の章にさしかかったとき、

「そうか!」と大きな声で叫んだのでした。

彼女はこれまで、レストランや銀行等で使われている、

「いらっしゃいませ」「どういたしましょうか」「大変申し訳ございません」「では、こちらで少々お待ちいただけませんか」

といった言葉は果たして日本語なのかどうかもよくわからなかったと言います。

それが「敬語」だったとわかったとき、彼女は思わず叫んだのでした。

「そうか!」

半年あまりかけて「みんなの日本語初級Ⅱ」の終わりまで行ってようやく、尊敬語、謙譲語を学ぶのですから、当然といえば当然です。

なぜそんなに時間をかける必要があるのか?

ところが、「ニュー・システムによる日本語」はシンプルです。

初級の最初の方から簡単な敬語が登場します。

動詞の活用も初級の冒頭から学びます。

実にシステマティックです。

これまでの日本語教授法は英語の教授法に習ったやり方だった、と海老原峰子氏は言います。

でも、日本語には日本語のシステムがあり、それは英語とは全く異なる言語システムなので、英語の教授法を取り入れるのは間違っている、と。

たとえば、「が」と「は」の使い方ひとつにしても、海老原氏は、

「が」は主語を導く格助詞で、「は」はとりたて助詞(~については、と取り立てる助詞。英語のaboutに当たる)、ということがすべてだと言います。

わかりやすい。

日本語教師は言語学者ではありません。

日本で暮らしている外国人がいかに日本人とスムーズにコミュニケーションできるか、それがすべてです。

ならば「わたしは会社へ行きます」といったぎこちない日本語から入る必要は全くないわけです。

「ニュー・システムによる日本語」では、同じ文章を主語を省いて「会社へ行くんです」と表現します。

ちょうど今、一人の生徒にこれを試しているところです。

のっけから動詞の活用が登場します。

「みんなの日本語」では、第14課にならないと登場しない動詞の活用(しかも14課で登場するのは「て形」のみ。17課になってようやく「ない形」が出てくる)を、最初から学ぶのです。

毎日50音のあいうえお表に沿った動詞の活用を声を出して読み上げる、というのが宿題。そして、レッスンのたびにこれを読み上げるところから始めます。算数の九九のように。

そうすることで動詞の活用は素早く身につき、後々とても楽になるそうです。確かにそうだろうと思います。

難しい理屈は抜きにして、まずは丸暗記する。それが言語獲得の近道です。

論理的でシンプルでわかりやすい。革命的な教授法です。

これから日本語教師の資格を取ろうと考えている人は、

とりあえず資格を取ってから、この「日本語教師が知らない動詞活用の教え方」とそのテキストである「ニューシステムによる日本語」を学んでみてはいかがでしょうか。

きっと新しい発見があると思います。

今日は少々専門的な話になりましたが、

日本語というのは奥が深く、面白い言語だとつくづく思います。

しかも、サンスクリット語との共通点もけっこうあるようで、ますます興味深い言語だなあ、と思う今日この頃です。

 

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日本語教師として・・

2020-09-10 19:51:20 | 日本語

猛暑日はなくなったものの、蒸し暑い日が続いていますね。

私はけっこう毎日忙しく暮らしています。

というのも、プライベートで外国人に日本語を教えているからです。

日本語教師の資格を取ったのは7年ほど前のこと。

3・11で福島第一原発が爆発し、日本中が放射能で汚染されるのではないか、という危機感から、もしも日本を脱出しなくてはならなくなったとき、海外で私にできる仕事は何だろう・・

と考えて、とりあえず日本語教師の資格を取ったのでした。

(あの頃は本気で日本を脱出する気だった)

そのほかにもレイキやカウンセラーの資格なんかも取りましたが、一番役に立っているのは日本語教師です。

外国人に日本語を教えるには、学校で習ってきた文法とは全く違う文法を学び直さなくてはいけません。

動詞の活用は、五段活用、上一段活用、下一段活用・・ではなく、グループ1、グループ2、グループ3と活用の形態によって分けられます。

形容詞も、イ形容詞、ナ形容詞、というように、学校文法とは全くちがう文法があるのです。

この文法は論理的でわかりやすいので、日本の学校でも取り入れるといいのではないかと思います。

プライベートレッスンで一番多いのは、JLPTテストに向けた受験対策です。

JLPTというのは、日本語が母国語ではない人向けの日本語能力試験のことで、N5~N1まであります(N5が初級でN1が最上級)。
言語知識(文字・語彙・文法)、読解、聴解といったテストがあります。

JLPTのN2に合格すると、日本で仕事が得やすくなるので、皆N2を目指すのですが、これがけっこう難しい。長文読解なんて大学受験並みです。

日本に来てたった数年の彼らが、よくここまで勉強したものだと、毎回感心します。

特にアルファベットを使っている国の人たちにとっては、漢字、ひらがな、カタカナと三種類もの文字を持つ日本語は本当にやっかいな言語です。

N2では「~かぎらず」「~のみならず」「~ばかりか」「~はもとより」あるいは「~にもかかわらず」「~とはいうものの」「~ながら」「~つつ(も)」なんて表現がざらに試験に出るのですから、それは難しい。

現在私は数人の外国人に日本語を教えていますが、それぞれとてもユニークで楽しいです。

国籍も様々で、アメリカ、オランダ、トリニダード・トバゴ、メキシコ、ドミニカ共和国、ベトナムなど多彩です。そして、皆さんとても熱心で、ぐんぐん伸びています。

外国人て時間守らないよね、とか、平気でドタキャンするよね、とか言われていますが、私の生徒たちはそんなことはない。たまにドタキャンもありますが、やむを得ない事情の時だけで、普段は至って真面目です。

彼らは、右も左もわからない外国に来てその国の言語を学ぼうとしているわけなので、必死で取り組まざるをえないのです。

言語の壁は高くて超えるのは並大抵ではありません。

現に私など、中学から英語をやっているにも関わらず、いまだにまともな会話もできずにいるのですから。

日本語を教えるために英語はどうしても必要なので、私も必死で勉強しています。日本語だけで教える方法もありますが、英語で説明できると便利だし、時短にもなります。

面白いことに、英語圏の人たちよりも、英語が第二外国語である人たちとのコミュニケーションの方が楽なのは、お互い英語がそれほど得意ではないという意識があるからでしょう。

昔読んだトーマス・マンの「魔の山」の中に、主人公の青年が美しいロシア人の女性とフランス語で会話をするシーンがありました。

この女性が乱暴に食堂のドアをバタンと閉めるシーンと、二人でフランス語で会話するシーンだけ覚えています(あとは全部忘れた)。

互いに母国語ではない第二外国語を使うからこそ、逆に通じあえる部分がある、とそんなようなことが書いてあって(たぶん。もしかすると違うかも)、当時まだ十代だった私は、へえ、そういうものなのか、と思ったのでした。

言葉というのは不思議なもので、言語それ自体よりも、ボディランゲージや声のトーンなどで伝わる部分が大きい。

だから、日本語がそれほど上手でなくても、コミュニケ―ション力のある人の日本語はなぜかよくわかるのですね。

英語もたぶん同じだと思います。

日本人はともすれば正確に文法通りしゃべろうとしますが、たとえ文法がめちゃくちゃでも案外伝わるものです。

日本語を教えていると、それがよくわかります。

だから、英語が下手でも恐れずに話すことが大事。

たった一つの言葉からでも、相手は何をいいたいのか察してくれます。

日本語の場合もそうですね。外国人が何か言いかければ、私たちは想像力を駆使して相手の意図を読み取ろうとします。

日本語を学ぶ外国人たちは皆とても勇気があり、一生懸命話そうとします。

伝えたいことがあるとき、言葉は自然と伝わるものです。

私は日本語教師の資格を取っておいて、本当によかったと思っています。

何より、70歳を過ぎても仕事ができるって本当にありがたいことです。

日本語教師に興味のある人はネットで調べてみてはいかがでしょうか。

(猫語もトライするにゃ)

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カタカムナ考 10 (偽書考)

2017-05-15 13:10:15 | 日本語
カタカムナに戻ります。

前回は『東日流外三郡誌』という東北地方の古い歴史について書かれた本が、実は偽書であった、ということを暴いた本「偽書『東日流外三郡誌』事件」についてでした。

そこで、今回は、偽書とは何だろうか・・
ということを改めて考えてみたいと思います。
もしも『東日流外三郡誌』がフィクションとして公開されていたなら、
全く問題なかったはずです。

想像をたくましくすると、
フィクションであるはずのこうした物語が、年月を経る間に、いつのまにか真実の歴史とすり替わってしまう可能性は、全くないとは言い切れないのではないかと思うのです。

  東北に限らず、常に政治に翻弄されてきた庶民の立場から見た歴史観とも重なり、
  そうであったらどんなによかっただろう、きっとそうだったに違いない、
  偽書であろうがなかろうが、信じたい、という気持をかきたてられるのは、
  何も東北の人々に限りません。

と前回書きましたが、人々はたとえ偽書でもいいからこうした歴史を切望していたはずで、だとすると、この偽書は人々の切望を受け止める形で(人々の無意識の願望から、和田喜八郎という人物を通して)生まれた物語である
と言う風にも言えるのではないか。

歴史上に残る伝説の数多くはフィクションです。
古事記・日本書紀しかり。旧約聖書の創世記だってフィクションです。

前回の記事で、安本美典の言葉「真実は一つである」を引用しましたが、
今は少々疑問に感じています。

 真実って一つだろうか?
 それは誰にとっての真実なんだろう・・

ともあれ『東日流外三郡誌』は偽書で、今や疑う余地はありません。
あちこちからかき集めた、虚実あいまった情報を、適当に配置し、和田喜八郎が造りあげた本で、事実ではありません。
それでもなお、そこには尽きせぬ魅力があり、
だからこそ、人々を惹き付けてやまないのだと思います。

人々はこうした「もしかしたらありえたかもしれない歴史」を切望し、人々が切望することによって、あるいはこうした捏造された歴史が後世に残されていく可能性だってないとはいえないと思うのです。

歴史というのは、そもそも為政者、侵略者、権力者の側から見た「歴史」であって、それ自体真実かどうかわからないのですから。
庶民の側の偽書が、こうした権力側の歴史に取って代わられる時が来る、という可能性は否定できないと思うのです。

もちろん、だからといって何もかも無批判に受け入れるのは危険です。
私たちがいかに騙されやすい存在であるか、という認識は常に持っていたほうがよい。

それはさておき、
実は、カタカムナもこうした偽書の一つではないかと言われています。

カタカムナ発見の経緯が少々神がかっていること。
楢崎皐月が六甲山系の金鳥山で出会ったという平十字(ひらとうじ)は、その後彼の前に現れることはなく、
また、カタカムナ神社という名前の神社も存在していなかったこと。

そして、楢崎皐月の経歴、
戦時中軍関係の仕事をしていたとあるが、実は原子力開発に関わっていたという説もあり、また自衛同盟という右寄りの団体の中央委員でもあったこと(『謎のカタカムナ文明』参照)。

さらにまた、
肝心のカタカムナ文献が、楢崎の後継者である宇野多美恵の軽井沢の別荘全焼により全て失われてしまったという事実。宇野多美恵自身もその時焼死した。

貴重な歴史的文献が火事で失われるという、きわめて重大な事件の背景には、何らかの見えない力が働いた可能性があるのではないか。
つまり、カタカムナにはそれほど重要なことが隠されているのでは・・と想像をたくましくしてしまいます。

残されたカタカムナ文献は、楢崎がカタカムナ研究のために立ち上げた「相似象学会」が発行していた「相似象学会誌」という機関紙のみ。そして、相似象学会も宇野多美恵の死後消滅した。

こうした事柄の数々が、どうも怪しい、カタカムナは楢崎の捏造ではないか、あるいは、オカルト、秘教秘儀の類ではないか、と疑いの目で見られる原因かもしれません。

なぜ、楢崎皐月はカタカムナを一般公開しなかったのか。
なぜ、後継者を宇野多美恵一人に絞ったのか。
なぜ、文献が火事で焼失したのか。
なぜ、相似象学会は消滅したのか。

これらの問いに対する答えは、どこかにあるのかもしれませんが、
インターネット、あるいは入手可能な本を読んだ程度ではわかりませんでした。

でも、
カタカムナが伝える世界や宇宙の成り立ちは、
きわめてロジカルでシンプルで、現在の量子力学やフラクタルに通じるものがあり、
大変魅力的です。

そこで、
もう少し、カタカムナそのものに絞って、私自身の直感をたよりに、
一体、これはどのようにして私たちの元にもたらされたのか、
考えてみたいと思っています。

吉野信子(『カタカムナ言霊の超法則』の著者)はカタカムナ解読にあたり、
「相似象学会誌」を読みこんだけれど、そこには自分の探していたものはないと判断し、本を括ってしまいこみ、
直感でカタカムナ解読の努力をしたといいます。

同じ方法で考え続けていたら、
もしかすると、私にも何らかの解読の糸口が見つかるかもしれない・・

人はこれをオカルト、といいますが、
オカルト、というのは、そもそもラテン語のoccult(隠されたもの)という言葉から来ています。

科学的な思考も、今では量子論のように、素粒子の振る舞いが粒子なのか波なのかわからない、箱の中の猫は「生きている状態」と「死んでる状態」が重なりあっている、など、むしろオカルトに近くなってきています。

カタカムナ関係の本を読みこみながら、私自身の直感も鍛えていきたいと思っています。
(敬称は省略しました)

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