ないない島通信

「ポケットに愛と映画を!」改め。

お知らせ。新しい「ないない島」に引越しました。

2017-05-29 10:10:19 | 日記
長年このブログを愛読してくださり、ありがとうございます!
このたび、新しく

 ないない島通信 HPバージョン

をアップいたしました。
今後はそちらのほうで書き進めていきたいと思います。

新しい「ないない島通信」はこちらです。

 http://nainaijima.info/


こちら同様、ご贔屓のほどよろしくお願いいたします。

                         ゆうきえみ

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自分史を書く 2

2017-05-26 20:57:25 | 自分史
歯医者に行ってきました。
定期検診と歯垢除去ですが、この歯医者さん、なかなか面白い人で、
行くたびにいろんな発見があります。

前回は交感神経と副交感神経について話してくれました。
花粉症の人は副交感神経優位なので、交感神経優位にすると花粉症が治まるとか・・
今日は打って変わって、国分寺南口界隈の喫茶店や飲み屋についての世間話。

南口といえば、あそこにピーナッツハウスっていう店があるの知ってますか?
先生がそう言ったとたん、私はたちまち半世紀前の学生時代に引き戻されました。

当時、私は東京経済大学経済学部二部の学生でした。
(東京経済大学は国分寺の南口にあります)
二部というのは大学の夜間部のことです。
昼間働いて、夜になると大学に通っていました。
それを四年間続けたのですが、
二部の学生たちも、授業が終わるとやはり街に繰り出していきます。
授業が終わるのが大体10時過ぎなので、それから行く場所は限られていますが、
(当時の国分寺界隈といったらまるで田舎でした)
その一つがピーナッツハウスでした。
今も残っているのが驚きです。

でも、私たちゼミ仲間がよく行ったのは、もっと南に下がったところにある小さなパブでした。
美人の若いママさんがやっているパブで、
T君やYさんとよく行ったものです。
たしか、T君がママさんにぞっこんだったようで、
飲みに行こうとなると、決まって、じゃあそこに行こうよ、となったのでした。
遠い昔のことで、パブの名前は忘れてしまったけれど、
仲間たちのことは鮮明に覚えています。

当時の学生は皆貧乏でした。
田舎から上京してきて働きながら大学に通っていた人も多く、
働き口はなかなか決まらず、給料も安く、途中で大学を辞めていく人が大半で、卒業できた学生は入学時の3分の1ほどでした。
私は公務員だったので、すごく恵まれていたのですが、
それでも、独り暮らしの生活費と学費を賄うのは容易ではなかった記憶があります。

毎年学年末試験までに学費を払い込まないとテストが受けられないのですが、
テスト前日にぎりぎり学費を納めて、ようやくテストが受けられたとか、
肉屋で肉を50グラム買おうとして断られたとか、
銭湯の時間に間に合わず、何日も風呂に入れない日が続いたとか、
同じクラスのK君にお金を貸してほしいと頼まれ、
必ず返すから、お願いだからと頭を下げられ、5000円貸したけど、
ついに戻ってこなかったとか、
その時のK君のうつむき加減の顔とか、
F君が彼女と同棲していたけど妊娠してしまったみたいだ、どうしようと相談されたこととか、
まあ、
いろいろあったなあ・・
けっこう面白い学生生活だったなあ・・と
本当に久しぶりに思い出したのでした。

おかげで、
口を開けて歯をいじられても、ほとんど気にならず、
ただただ昔の思い出にふけっていられたのでした。


きっかけはいつ訪れるかわかりません。
何気ない一言がきっかけで、たちまち昔に引き戻され、当時のことをありありと思い出していた・・
なんていう経験は誰にもあると思います。

そのときに、メモを取っておくといいかもしれません。

 ピーナッツハウス、学生時代・・
 と私はメモしました。

すると芋づる式に次から次へと思い出されてくるものです。
記憶とは不思議な構造をした建物みたいで、
必ずしも、一階の正面入口から入る必要はなく、途中階や最上階から、あるいは地下室からでも入りこめるようです。

大事なのは、いつも網を張り巡らせて、
記憶の波をとらえ、たとえ小魚でも逃さないようにすることです。
すると、小魚を追ってきた大物が網にかかるかもしれません。
あるいは、雑魚ばかりかもしれないけど、
その雑魚も貴重だったりします。

記憶の迷宮をさまようのも、
たまにはいいかもしれません。
どんな魚が網にかかるか楽しみですね。


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自分史を書く 1

2017-05-24 11:23:26 | 自分史

          (明眸社HPより http://meibousha.com/

さて、カタカムナはしばらくお休みして、かさこ塾のプレゼンで紹介した通り、
明眸社とコラボして、自分史を書くお手伝いをしたい、と思っていまして、自分史について少し書いていきたいと思います。
(2016.7.31 の記事「明眸社のエッセイクラブ」/ 2017.3.26 の記事「自分史出版のお手伝い」参照)

自分史とは何か、どう書けばいいのか?
 
とはいえ、正直なところ、私はまだ自分史のお手伝いをしたことがありません。
若い頃、若干それに似た仕事をしたことはありますが、
(インタビューや取材したものを文章にまとめる、あるいは、そうしたものを基にして小説仕立ての本にする等、ゴーストライターの仕事です)
経験不足は否めません。その力量があるかどうかもわかりません。

ただ、70年近く生きてきて、いい時代も苦しい時代も経験しているので、
それだけが強みです。

そこで、自分史を書くとはどういうことなのか、
最初から、皆さんと一緒に考えていきたいと思っています。

今、私の手元には、

 「自分史の書き方」立花隆著(講談社)

という本があります。
前にも紹介しましたが、とてもいい本なので、
これから自分史を書こうと思っている方はぜひ読まれるといいと思います。

これを一冊読めば、何をどう書けばいいのか大体わかるので、
私があえて述べるまでもないのですが、
ただ、
立花隆氏とは少し違う視点もあるかなとは思っています。

五年ほど前(明眸社を立ち上げる前)明眸社を主宰しているSさんがこんなことを話してくれました。

 「出版社を立ち上げたいと思っているんだけど・・歌集や自費出版の本を格安で出版できる出版社があるといいと思うし、自分史の本も出せるといいなと思って。あなたも書いてみない?」

そこで、私は、
自分史って何? と思いました。

自分史を書くということは、過去を振り返るということ。
今さら振り返ってどうする? 
ようやく通り抜けてきたのに、大変な思いをして通り抜けてきたのに、
また振り返るなんて、しかもそれを文章にするなんて、
勘弁してほしい・・
それが私の正直な気持でした。

振り返るより、未来を見ていたい。
振り返っても過去は変わらない。ならば、変えることのできる未来をこそ見ていたい。

いってみれば、まあ、
恐ろしかったのですね。
振り返るたびに、その時代に引き戻されそうで、
過去の自分に向き合うのが怖い。
自分史を書こうという人たちは
きっと幸せな人生を生きてきた人たちなのだろう。
そう思っていました。

でも、
いくら私でも、苦しいことばかりではありませんでした。
楽しい時代もあったし、幸せな時代もありました。

 禍福は糾える縄の如し。

まさにその通りの人生でありました・・
って、まだ終わってないけど。

明眸社のエッセイクラブに所属し、これまでに50本近いエッセイを書いてきました。
その中には、子ども時代のことや過去の記録等もあります。
そして、文章にすることによって、過去が鮮明に立ち上がってくる、という事実を目の当たりにして、書くという行為はなかなかのものではないか、と思うに至りつつあります。

つまり、過去は変えられないけれど、過去に対する見方は変えられるのですね。
見方を変えると、人生そのものも違って見えてきます。
これは一種のセラピーといってもいいかと思います。

何より驚いたのは、私に限らず、過去のことを書き始めると記憶が鮮明に蘇ってくることです。
 
 よく覚えているね、そんな細かいことまで。

とよく言われますが、誰でもそうなります。
書き始めると、記憶装置にスイッチが入り、海馬の奥底にしまいこまれていた記憶の断片が少しずつ引き出されていき、そういえばこんなこともあった、あんなこともあったと、次から次へと忘れていた思い出がよみがえってくるのは驚くほどです。

皆さんも試してごらんになるといいと思います。
過去の出来事について、
ひと夏の思い出について、
書きだしてみてください。
びっくりするほど記憶がよみがえってきますから。

そして、
自分を客観視することが出来るようになります。
そして、また、
他人に見てもらうということ、
これも大事です。
自分だけではなく、同時代を生きた人々の記録にもなるし、
時代背景も浮かんできます。
ひいては、歴史そのものの見方にも変化が現れるかもしれません。

書いていくうちに、必ず自分の中で何かが変わっていきます。
その変化を見る楽しみもあります。
自分史にはいろんな方法や使い道があり、使い方によっては大きな人生の転換をもたらす契機にすらなるかもしれません。

というわけで、自分史に興味を持っていただけると嬉しいです。


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「ミニオンズ」

2017-05-21 14:09:31 | 映画


少し前に見た映画だけど、
ご存じ「ミニオンズ」

ミニオンズという太古の昔から地球上に生息する得体のしれない「クリーチャー」たちの話。
いつも集団で行動し、強いボスに仕える、というのが彼らの仕事というか生き方。
黄色くて眼鏡といえば、これはもう日本人のカリカチュア以外の何ものでもないわけで、それがわかった上で楽しむのがいいかと。

彼らは強いボス(大体悪者)を見つけるとその召使となり仕えるわけだけど、強いボスたちは悉く(彼らのせいで)滅びていき、ついに仕えるべきボスがいなくなるという事態に遭遇。
ボスのいないミニオンズはまことにやる気のないクリーチャーに成り下がっていた。
そこで最強のボスを探しに、旅に出たのが、ケヴィン、ボブ、スチュワートの三人組。
(彼らが話すのはミニオン語なのに、名前だけはなぜか英語風)

この三人が珍道中の末にたどりついたのがビラコン(悪者たちのコンテスト。誰が一番凶悪かコンテストする)。
ここで優勝した大悪党スカーレット・オーバーキルを追いかけてロンドンへ・・

この後はドタバタ喜劇で、結局、ミニオンズをやっつけようとしたスカーレット・オーバーキルが逆にミニオンズにやっつけられ、彼らは新しいボス「怪盗グルー」と出会うという、つまりこれは「怪盗グルーの月泥棒」の前日譚なのだ。

ミニオンズは常に最強のボスになびき仕え、そのボスが倒れたら臆することなく別のボスに乗り換える。そいつが世界を破壊しようがお構いなし。
陽気でお茶目でいつも楽しそうでどんなことにもへこたれない(たとえ爆破されても死なない)。彼らには善悪の区別はなく、ボスは強ければだれでもいい。
そして、悪はたいてい強い。スターウォーズのダースベイダーしかり。悪は常に力強く破壊的で、だからこそ魅力的なのだ。

悪とは一種の生命力かもしれない。
他の生命を奪ってでも自分だけは生き延びたいという圧倒的な自己保存の欲求。
それが悪の根源にあるのではないかしらん。

自然界の生き物はやがて死に至り、エントロピーの法則により崩壊していく。
けれど、悪はそれに精いっぱい抗おうとする。
他の生命を奪い、自然の摂理からも離脱し、エントロピーさえも凌駕しようとする。そうした欲深な生命力なのかもしれない。

話変わって、
以前、サクラマスの生態についてTVで見た。
サクラマスの子どもはヤマメ。同種である。
ヤマメは川の上流から流れてくる餌を食べるのだけど、上流にいる強いやつほど餌にいっぱいありつけるので大きくなる。
一方、上流に行けない弱いやつは(メスが多い)あきらめて川を下り、海に出てサクラマスとなる。
サクラマスは体長が30センチもあり、わずか15センチのヤマメとは見た目も強さも圧倒的に違う。海で鍛えられ強くなったサクラマスは川に戻り、産卵して子孫を残す。

つまり、川での生存競争にあぶれた弱いものが、海に出て強く大きくなって川に戻り、子孫を残すというわけ。
その際、ずっと川にいたヤマメがドサクサまぎれに自分の精子をサクラマスの卵にかけて、かろうじて子孫を残すという。
これは非常に示唆に富んだ話だと思った。
 
つまり、弱者の生き残り戦略だ。
ミニオンズのように小さくて臆病で、集団でないと行動できないクリーチャーがいかにして生き延びてきたか・・
彼らは、サクラマスのように海に出て鍛えて強くなるという手法ではなく、集団で強いボスに仕える(という安易な方法で)、ボスを代々乗りかえて、実はボスより長く生き延びてきた。
いわば逆説的な悪でもあるのだ。

生命力の強い最強のボスも長くは繁栄せずやがては滅びていく。
強者はやがて滅び弱者が生き残るというお話。
 
ミニオンズって、つまりは大衆。
ま、日本人でもあるけど・・
というわけで、面白い映画でした。


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「ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ」

2017-05-19 20:38:20 | 映画


ツタヤで借りてきたDVD最後の1本は
「ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ」(2016年米英合作)

1920~30年代に活躍したアメリカの若き天才作家トマス・ウルフ(通称トム)と、ヘミングウェイやスコット・フィッツジェラルドを生み出した天才編集者マックス・パーキンズの、実話に基づく物語。

トマス・ウルフをジュード・ロウ、編集者のマックスをコリン・ファースが演じている。しかも、トマス・ウルフの恋人役がニコール・キッドマンという豪華な顔ぶれ。
(原作はA・スコット・バーグ『名編集者パーキンズ』)

主演の二人がいい。
何しろ、コリン・ファースとジュード・ロウだもの。
実話の重みもあり、また、1920年代から30年代にかけて(大恐慌時代)のアメリカってこうだったのね、という時代背景もよくわかる。

フィッツジェラルドの「グレート・ギャッツビー」の旧タイトルが「ウェスト・エッグのトリマルキオ」だったとは。小さなトリビアだ。
マックスはこの例をあげて、タイトルがいかに大事か、読者目線で書くことが大事かをトムに教える。
作家というのは、ともすれば自らが書きたいことを書き、読者を置いてけぼりにする傾向があるけれど、天才的な作家でも、編集者の目から見たら、まだまだ未熟で、それを巧く導くのが編集者の仕事でもある。
 でも、本当にこれでいいのか、作品をダメにしているのではないかと不安だ、ともマックスはもらす。

「失われしもの」(後に「天使よ故郷を見よ」に改題)の手書き原稿が、段ボール箱山盛り3箱分もありびっくり。トマス・ウルフはとにかく文章量が半端なかったみたいで、それをマックスは9万語も削除したという。
9万語といってもピンと来ないけど、日本語の原稿に直すとたぶん400字詰め原稿用紙で数百枚分といったところか。
そりゃすごいよ。

一方、
この映画、父と息子の物語でもある。
マックスには5人の娘がいるのだけど、実は彼は息子が欲しかった。
だから、若いトムに対するマックスの愛情は、父親のそれでもある。

編集者と作家という立場ながら、二人は妻も恋人も嫉妬するほど仕事にのめり込む。

トマス・ウルフの未熟さがまたいい。
才能あふれる若き小説家なのだが、非常に未熟で酒におぼれる。
彼を支えてきた年上の恋人(ニコール・キッドマン)もまたひどく不安定で自殺未遂をしたりする。
それを見守るマックスの常に冷静沈着な表情。
これはもう、コリン・ファースじゃないとね。

父と息子といえば、お約束の親子の確執。
息子は父親を乗り越えるべく、父親に反抗し、独立しなくてはいけない。
一人前の男になるために。

トムはマックスと訣別することになる。
でも、トムにはわかっていた。マックスがどれほど彼を大事に思い、愛情を注いでくれていたかを。
残念ながらトムの短い人生はアッという間に終わってしまうのだけど。

最後にトムはマックスに短い遺書を残す。
そこで、マックスは、家の中でも脱がなかった帽子を脱ぎ涙をぬぐう。

フィッルジェラルドの零落ぶりも描かれる。
「偉大なギャッツビー」は今も健在で、ハリウッドで映画化されてるよ、
と言ってあげたい。

作家って大変です。
心身すり減らして作品書いてもほとんど認められない。たいていは。
今はとくに本が売れない時代だから、たとえ才能があったとしても、
今すぐ売れる本を書けないなら、作家はいらない、という時代。
天才的編集者も天才作家も出にくい社会だと思う。特に日本は。

父と息子の話。
そして、
天才は天才を見抜く力を持つ、
という映画でもありました。

トマス・ウルフ、読んだことないから一度読んでみなくちゃ。


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