ないない島通信

「ポケットに愛と映画を!」改め。

ミニマリストをめざそう!(11)旅に出るつもりで片付ける

2021-05-31 10:00:14 | 片付け

ああ、旅に出たいなあ、と思う今日この頃ですが、

私たちは、まあ言ってみれば、「人生」という旅の途上にいて、たくさんの荷物を抱えて右往左往しているわけですね。

荷物を減らして身軽にどこにでも行きたい。

でもどれを減らせばいいかわからない・・

私の父は、晩年心臓が悪く、何度も心筋梗塞の発作を起こしては救急車で病院に運ばれました。

そのたびに父はヘルパーさんに頼んで小さなスーツケースを病院に運んでもらったものですが、そのスーツケースには必要なものがコンパクトに詰められていて、

いつでも持ち出せるように玄関に置いてありました。

そのコンパクトさに驚いたものです。不必要なモノは何一つ入ってない。

でも、不思議なことに、スーツケース以外のところでは、父は全く片づけができない人だったのです。

片づけ本などによくありますね。

小さなものから片づけよう。財布やバッグの中身の整理から始めよう。

財布やバッグの中がきれいな人は部屋も片付いている・・

父はその点、パーフェクトでした。財布もよく持ち歩くバッグもきちんと整理されていました。

にもかかわらず、それ以外の場所(家の中のあらゆる場所)にはモノが散らかり、放置され、ほぼゴミと化していたのです。ほぼゴミと化していても父は絶対に捨てようとはしなかった。

ここら辺がねえ、わからないのですよ。

小さなスーツケースにコンパクトにまとめられる人がなぜ毎日暮らしている居間や寝室、キッチンを汚くしたままでいられるのか。

元々は几帳面な人だったようです。

ある種の完璧主義者だったのかもしれません。

スーツケースなどの小さな場所なら完璧に片づけられるけれど、居間や寝室など広い場所となると片付けるのは容易ではなく、次第にゴミ屋敷と化していく。

小さな場所から片づけていく、というこの手法は、従って、誰にでも有効なわけではない、と私は思います。

私もまた、財布の中身やバッグの中身はわりとこざっぱりしています。旅行が好きなのでスーツケースの中身もわりとスッキリしています。

でも部屋の中は散らかっている。

これは「日常」と「非日常」という分け方で考えると理解しやすいかもしれません。

自宅の居間や寝室、キッチン等は「日常」の場所で、財布やバッグ、スーツケースはそこから離れる「非日常」の場所へ行くためのモノなのです。

だから「非日常」の場所に行くときは、自分自身も「非日常」の人間に変身する。

「非日常」を生きるとき、私たちは少なからず別人になっている、というわけ。

こう考えると、父のスーツケースも納得がいきます。

父にとって(父に限らず大抵の人にとって)病院は「非日常」の世界で、そこに飛び込むためには、非日常の持ち物が必要なのです。

父は「日常」と「非日常」を何度も往復してきたので、それがよくわかっていたのだと思います。

そして、病気が快復して「日常」に戻った時、そこにあるのは、スーツケースのような「非日常」の世界ではなく、ほぼゴミ屋敷と化した慣れ親しんだモノたちで埋まった自宅、という安心感。

その安心感こそが父には必要で、だからこそ、片づけというオプションはなかったのだ、と思います。

なので「非日常」を想定したお片付けは、往々にして(特にお年寄りの場合)失敗する可能性が高いかもしれません。

もちろん、少しずつ自分を非日常に慣らしていき、最後は究極の非日常(あの世)へ旅立つ準備をするというのもいいかとは思いますが。

 

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ミニマリストをめざそう!(10)モノとの出会いも一回性

2021-05-29 10:30:41 | 片付け

そうは言っても手放すのは難しい。

それが大半の人の思いだと思います。

手放してしまったら、二度と手に入らないかもしれない・・

たとえば、間違えて手放してしまった本を、また読みたいと思って再購入した場合、

なぜか再購入した本は前の本とは別モノだと気づいたりします。表紙や中身や版が全く同じだとしても。

以前、大好きだったマンガ「ホワッツ マイケル」シリーズを売ってしまい、すごく後悔してね、

もう一度読みたい、と思ってネットで中古本を再購入したのですよ。

ところが、何か違う。

私が持っていた「マイケル」と新しく購入した「マイケル」は、

中身は全く一緒なのに、何かが違う、違和感がある(中古だけどきれいな本でした)。

結局、読まずにお蔵入りしました。

あの感覚はすごく不思議だったなあ。

本に限らず、モノには何か所有していた人の印みたいなものが刻まれている気がします。

私が持っていた「マイケル」と再購入した中古本「マイケル」が違うように、

どんなモノにも、何かの印が刻印されていて、特に中古品の場合、違和感を感じたりします。

(他にも、インドのサリーの切れ端で作ったスカーフが素敵だったので購入したけど、結局使うことなく捨ててしまった、ということがありました。なぜか身に付けたくないと感じたので。古着は往々にしてそうですね。)

「出会い」というのは、一回性のもので、

人であれモノであれ、その時そこで、出会ったことが大事なのであって、似たようなシチュエーションで似たようなことを再現してみても、それは全く異なる経験である、という感じかな。

なので、モノを捨てるときは注意しないといけない。

とはいえ、そう考えるとモノは捨てられなくなるよね。

私が「マイケル」に抱いた思いは、あの時あそこで、の一回性のもので、だから捨てるという決断は別に間違っていなかったし、再購入する必要はなかったのだ、と後になって思いました。

(どんな決断も間違ってはいない、とも言える)

どんなに素敵な思い出であっても、再現したときは全く別のものに変化している。

つまり、再現する必要はないわけです。
(事件の現場検証とかなら別だけど・・)

で、気づいたのは「本」という紙媒体の場合はそうだけど、映画の場合はDVDだろうがTVだろうが配信だろうが変わりはない、ということ。

これって、やはりモノの持つ独特な手触りとか、モノそれ自体の記憶とかと関係しているのではないか・・

(こんまりさんの「ときめき」に通じるものかもしれない・・)

従って、紙の本は全部電子書籍にすればよい、という意見がありますが、

私は、反対です。

電子書籍にしたとたん、何かが変化する。

映画と一緒じゃないか、と言われるもしれないけれど、映画はもともと電子書籍と同じように電気的な仕掛けで動くものなので、紙の本とは別モノかと。

もしかすると、DVDのケースなんかには印がついてるかもしれないけど・・

これはまたいずれ考察してみたいテーマです。

 ~~~~~~~

居間の押入れの片づけの続き。

上段のカラーボックスの中から長いこと忘れていた本を発見。

「ゴジラ・デイズ/ゴジラ映画40年史」
「ゴジラ大辞典」
「ゴジラ研究読本」

の3冊です。

私はゴジラ映画の大ファンでもありまして、ゴジラ映画は(子ども向けのちゃちな映画は数本飛ばしていますが)大体見ています。

考えてみると、「スター・ウォーズ」といい「ゴジラ」といい、

あんまり女性好みの映画じゃないよね。

近所に男の子しかいなかった幼少期の環境が影響していると思われますが、

それだけじゃなく、何か根源的なところで(無意識のうちに)これらの映画に惹かれるのだと思います。

このこともいずれ考察してみたいと思います。

 

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ミニマリストをめざそう!(9)「所有」という「物語」からのシフト

2021-05-26 17:32:02 | 片付け

考えてみれば、人間は究極のミニマリストとして生まれ、究極のミニマリストとして死んでいくわけです。

あの世に持っていけるものは何一つない。

猫(動物)は何ひとつ持たずに生きています。猫に所有という概念はない。
(もしかすると、飼い主を「所有」していると思っているかもしれないけど・・)

その点、人間は何て欲深だろうか。

聖書に「汝、盗むなかれ」という言葉がありますが、あれは「所有」を前提とした言葉ですね。

「所有」がなければ「盗み」もないわけで。

《ちなみにカトリック教会・ルーテル教会の「十戒」の  6番目以降は以下のような感じ。 
  6,盗んではならない。
  8,隣人の妻を欲してはならない。
  9, 隣人の財産を欲してはならない。(wikipediaより)
どうやら「隣人の妻」と「隣人の財産」は同格みたいで・・
また、旧約聖書では、イブがエデンの園の知恵の樹の実を「盗んだ」ことから人類の歴史が始まったようですが・・》

最近読んだハラリの「サピエンス全史」によると、太古の人類は狩猟で生計を立てており、最小限のものしか持たず絶えず移動しながら生活していた。

そこへ「認知革命」が起きます。

人々は複雑な言語を操り「物語」を作って、それを信じこませることにより、集団を形成し、

「農業革命」が起き、定住を始め・・

「宗教」という「物語」が生まれ、

「貨幣」という神に支配され、「私有財産」という「物語」によって、富める者とそうでない者の分断が起き、

やがて「共産主義」「資本主義」「民主主義」「帝国主義」等々という「物語」が生まれ、

そして「科学」という「物語」も生まれた。

まあ、大雑把に言えばそんな感じかな。

(「サピエンス全史」を全面的に肯定しているわけではないけど、この本めっちゃ面白いので。「サピエンス全史」という「物語」がね)

ところが、

最近の若者たちは、新たな「物語」を作りだそうとしています。

「ぼくたちに、もうモノは必要ない。」

というあの宣言です。

「所有」こそが豊かさの象徴であった時代から、「モノを持たない暮らし」へのシフト。

「所有」という「物語」から「持たない」という「物語」へのシフト。

「所有」を手放す、ということは、つまり、「執着」を手放すということです。

「スター・ウォーズ」の中でヨーダがこう言っています。

Train yourself to let go of everything you fear to lose.
(失うことを恐れるようなものは全て手放せるよう自身を鍛えるのじゃ)

Fear is the path to the dark side...fear leads to anger...anger leads to hate...hate leads to suffering.
恐怖はダークサイドへの入り口だ。恐怖は怒りへと導き、怒りは憎しみへと導く、そして憎しみは苦しみへと導くのだ。)

所有は執着を生み、

執着は失うことへの恐れを生み、

恐れは怒りを、

怒りは憎しみを、

憎しみは苦しみを・・

とどんどんダークサイドに堕ちていくというわけ。

ヨーダに限らず多くの賢者たちが同じことを言っていますね。

「所有」を手放したとき、

全然ちがう景色が見えてくるかもしれない・・

捨てればいいのです。簡単なことです。

でも、全然簡単じゃない。

私たちは、たくさんのモノを失ってきた経験から、失ったものは二度と手に入らない、と学んできているからです。

失くしたらそれきり。二度と手に入らない。だから失くさないようにしないと・・

モノは(人も)大事にしないと、失ったら二度と戻らない・・

だから失うことを恐れ、必死で守ろうとする。

でも、今や地球は大変なことになっています。

人間の強欲のせいで、環境が破壊され、野生動物たちにまでしわ寄せがきている。

だから、もうモノを「所有」するのはやめにしようよ。

同時に、

「共産主義」「社会主義」「帝国主義」「資本主義」「・・主義」といった「物語」に執着することを手放し、もっと自由になろうよ。

彼らはそう言っているような気がします。

全く別の新しい価値観が生まれようとしている・・

そんな気がします。

モノに執着しない暮らしは、いたってシンプルで、

「命」そのものを見つめ、「今ここ」で生きることを大事にする・・

そろそろ「執着」を捨ててシンプルに生きようよ。

本当の豊かさは、精神的な豊かさによってこそ得られるものだからと、

ミニマリストになった若者たちは、人々に伝えようとしているのかもしれません。

そうはいってもねえ、捨てるのは難しいんだよね~

 

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ミニマリストをめざそう!(8)一日空いた日はお片付け

2021-05-22 11:00:35 | 片付け

昨日は丸一日空いたので、居間の押入れを片付けることにしました。

去年の秋のお片付けは一体何だったんだ? と思うほどぎゅう詰めのモノたち。

カセットコンロが2つ、ガスボンベが2セット、ガスボンベを使うストーブ(3.11の後に購入)、ソーラー電池のランタン、ミシン(ほとんど使わない)、大量の紙袋、古いDVD、古い加湿器、未使用の針金や工具類・・

よくもまあ後生大事にとっておいたもんだ。

片づけというのは、いくつかの段階を経て初めてそれが不要であることを認識できるようになる・・

というのが今回改めて感じたことです。

去年の秋までは、これらのモノたちが「不要」であるとは認識していなかった。

いつか使うかもしれない、誰かが欲しいというかもしれないし、いざという時ないと困るかもしれない・・

いくら片づけ本を読んでも、片づけ動画を見ても、実際に自分の持ち物が「不用品」であるという認識はなかなかできないものです(私だけか?)。

かくして、居間の押入れはモノであふれかえり、必要なものを探そうにも見つけられない、という状態になっていたのですね。

それでも、いつか使うかもしれない、もったいない、まだ使える・・

という悪魔の囁きからなかなか逃れることができない。

狭い家の中でモノの占める空間はかなりのものです。

昔、大学の経済学で「倉庫料」という概念を学んだとき(50年も前です!)、そういう考え方があるのか、

と目からウロコだったことを覚えていますが、

学んだことと目の前で起きていることがなかなか一致しない、というのが現実のようです(私だけ?)。

倉庫料のことを考えたら、10年に一度使うかどうかわからないものを保管しておくなんて、お金を捨てるようなもの。

とはいえ、カセットコンロは冬に鍋をするときに必要かもしれない(もう何年も使っていないが、お客さんが来た時に使うかもしれない)、カセットボンベ使用のストーブは、真冬に震災で電気ガスが途絶えたときに必要になるかもしれないし、ミシンだって使うかもしれない・・

と、再び押し入れの奥にしまいこむ私・・

まだまだ修行が足りんね。

それでも、いくつかの段階を経て、だんだんモノと決別してきた歴史もあり、

次回、押し入れを点検した時は、きっとこれらを手放すことに抵抗がなくなっているであろう、と期待しつつ、

今日は疲れたので、まあ、これでいっか、ということに。

(片づけ前)

(下段の中身を出してみたらこんな感じ。この他に大量の古いDVD、扇風機、ティッシュなど)

今回も市の清掃センターに電話して捨て方を聞いたところ、

カセットコンロは電池を抜いて不燃ゴミの日に、中身の入ったガスボンベは直接清掃センターに持ち込むようにと言われた。

清掃センターは我家から少し離れているので、バスを使わないといけない(自転車持ってないので)。いずれ晴れた日にでも清掃センターにミニ旅行に行こう。

ゴミを捨てるのって、本当に大変。

粗大ゴミとしてゴミ置き場に運ぶこと(手続きが面倒)、清掃センターに持ち込むこと(バス便で)、不燃ゴミの日を間違えずに出すこと・・

こうしたことが本当に億劫で、だからゴミがたまるのね。

(居間の押し入れの片づけ後↓ 大して変わりないようだけど、ガスストーブ、電気ストーブを扇風機と入れ替え、大量の紙袋、DVD、加湿器などを捨てることにした。上の段は次回)

これらのモノたちを捨てたら、もう二度と不要なモノは買わないぞ、

と決意を新たにしたのでした(何度目?)。

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ミニマリストをめざそう!(7)「ぼくたちに、もうモノは必要ない。」

2021-05-18 11:10:14 | 片付け

前回紹介した本、

「ぼくたちに、もうモノは必要ない。」(佐々木典士著 ワニブックス)

この本はミニマリストの古典といってもいいかもしれません。

今回読み直してみて、ミニマリストに必要な基本的なことが網羅されていると思いました。2015年刊なのでそう古くはないのだけど、

ミニマリストをめざす人の必読書です。まだの方はぜひ!

そもそもタイトルのキャッチコピーがいいよねえ。

「ぼくたちに、もうモノは必要ない。」

そう、ミニマリストをめざした若い人たちは、そう考えているのです。

モノに支配され、モノに振り回される生活はもういらない。

ぼくたちはモノがなくても生きていける・・

敗戦で荒廃した日本から立ち上がり、経済力を身に付け、モノを持つことが豊かさの象徴であった時代を経て、今まさにそれに真っ向から対抗するように、若者たちが、団塊の世代が築きあげてきた「豊かさ」に反旗を翻し始めている・・

そんな気がします。

もっとも、私も団塊の世代の一人なのだけど、こうした「豊かさ」とは無縁だったなあ。

四畳半一間のアパートで一人暮らし。TVはもちろんラジオもストーブもなかった。知人がラジオをくれたときは本当に嬉しかった。何もないけど自由だけはあった・・

南こうせつの「神田川」もこの頃の歌です。

 貴方はもう忘れたかしら
 赤い手拭マフラーにして
 二人で行った横丁の風呂屋
   ・・・
 洗い髪が 芯まで冷えて
 小さな石鹸 カタカタ鳴った
   ・・・
 若かったあの頃 何も怖くなかった
 ただ貴方のやさしさが 怖かった・・ 

この歌、私は大嫌いでねえ、
なんていじましくみじめったらしい歌だろう。

(さらに言えば、男が作った男目線の歌で、女性ならこう感じるだろうという押しつけがましさがウザい)

私はもっと自由だったし、自分の足で立って歩く感触を楽しんでいました。

昼間働いて、夜は二部の大学に通って、お金がなくて学費が払えなくて・・

でも、自由だったし、自由は何ものにも替えがたいと確信していた。

団塊の世代がよく目の敵にされがちですが(何しろ多いからね)、団塊の世代もそれぞれで、

バブルの恩恵を受けたのはほんの一握りの人たちだけで、大半は苦しい生活をしていました。

今は豊かになり、どんなに貧しくても餓死する人はごく稀だし、ボロアパートにも大抵水洗トイレはあるよね。

あの頃の私の憧れは、水洗トイレとお風呂のある生活。そして、朝、インスタントコーヒーではなくドリップコーヒーを入れるような生活ね。どんなに憧れたろう・・

それでも、私は幸せだった。自分一人で生きている、という実感があったから。

あの頃に比べると、日本はどんだけ豊かになったろう・・。

それなのに、若い人たちはミニマリストになろうとしている・・

私もまたミニマリストをめざしている・・

昔は立派なミニマリストだったのに、いつのまにかモノに囲まれて暮らし始めたから。

あの頃に戻ったと思えば、私の周囲にあるすべてのモノはいらない。

あと50年生きるとしたら、今あるすべてのモノはなくなっているはず。

それなのに、なぜに後生大事にモノを取っておく?

50年後、人類はどうなっているだろう。地球はダイジョブなのか?

そう考えると、やっぱり今がターニングポイントなのだという気がします。

コロナも偶然じゃない。

私たちが地球の上で生きている、生かされている、ということをもう一度よく考えた方がいいかもしれない、と思います。

 

それはそうと、デスク脇の引き出しの中を少し整理してみました。
これが整理前の引き出しね。ごちゃごちゃ。

中身を全部出してみた(畳、古いね)。

で、減らしてみた。

奥の方にあるのはPCのハードディスク、
ホワイトボード用のペンとボード消しは日本語レッスンの必需品。

けっこうスッキリしたでしょ。

やればできるのよ。

この調子でがんばろう!

ちなみに、16日のブログ訪問者数が1万2千人をこえました。閲覧数は1万5千以上。こんなに早く1万人超えを達成できるなんて想像してなかったので、何かの間違いかもしれないと、まだ半信半疑ですが・・
読んでくださった皆さん、ありがとうございます!

と書いた後でgooブログのアクセス数について調べてみたら、ロボットが見てたようで、残念ながらぬか喜びでした。まあ、そうだよなあ、と妙に納得。でも、これからもブログは書き続けたいと思っています。

今後ともよろしくお願いします。

 

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