ないない島通信

「ポケットに愛と映画を!」改め。

路上のソリスト

2019-10-31 10:35:37 | 映画

「ボブという名の猫」でホームレスのジェームスについて書いていたら、昔見た映画

「路上のソリスト」(ジョー・ライト監督 2009年)

を思い出しました。もう10年くらい前に見た映画ですが、amazonプライムにあったのでまた見てみました。

ロサンゼルス・タイムズのコラムニストであるスティーヴ・ロペスが書いたノンフィクション「路上のソリスト」を基にした映画で、私は先に原作を読んでいたので原作の印象のほうが強かったのですが、映画も悪くない。実話の重みがある映画です。

主人公のナサニエルにジェイミー・フォックス、記者のスティーヴ・ロペスにロバート・ダウニー・Jrが出ています。

スティーヴはある日、路上で弦が2本しかないバイオリンを弾いているホームレスのナサニエル・エアーズに出会います。彼はかつてジュリアード音楽院に在籍していたといいます。

スティーヴはまさかと思いながらも、好奇心からジュリアード音楽院に電話して卒業生にナサニエル・エアーズという学生はいたかと尋ねます。卒業生にはいないが、入学した学生にはいる、という答えが。ナサニエルはジュリアード音楽院を中途退学していたのです。

そこからスティーヴとナサニエルの奇妙な友情が始まります。
ナサニエルはカートに積んだ寝具や日用品などの家財を引きながら街を徘徊し、夜になるとビルの陰などにマットを広げて眠ります。彼は統合失調症を患っており、幻聴に悩まされていますが病識がなく、自分が病気だとは思っていません。

スティーヴはそんなナサニエルを助けたいと思い、ロサンゼルスタイムズのコラムにナサニエルの記事を書きます。記事は評判となり、ナサニエルにチェロを進呈してくれる読者も現れます。
ナサニエルは元々チェロ奏者で、ヨ―ヨー・マと同じオーケストラで演奏していたといいます。かつては、未来を嘱望された才能豊かな若者だったのです。

スティーヴは何とかして、ナサニエルを再びステージに立たせたいと思います。
しかし、スティーヴの献身的な努力にも関わらず、ナサニエルは路上生活から抜け出そうとはせず、スティーヴを拒否し、時に暴力的になります。病気のせいだとわかってはいても、思わず喧嘩腰になるスティーヴ。

統合失調症のナサニエルは一筋縄ではいかず、ついにステージでの演奏にこぎつけたと思ったとたん裏切られるといったことが続きます。

それでも諦めないスティーヴの姿は感動的です。単に面白い記事が書けるかもしれないという動機からナサニエルに近づいた彼でしたが、やがてナサニエル自身の魅力の虜となっていきます。

けれども、スティーヴは、ナサニエルのためにと言いながら、実は自分のために動いていたことにやがて気づきます。だからうまく行かなかったのだと。そして、そこから2人の関係は新しい局面に入っていくのでした。

同時に、ロサンゼルスのホームレスたちの実態も描かれます。
当時、ロサンゼルスには9万人ものホームレスがいました。しかも、精神病院が閉鎖されたため、患者たちはホームレスとなって街にあふれていたのです。

世界有数の金持ちが住む街で、ホームレスがこれほど多いというのは驚きです。
一方、日本ではホームレスの問題はさほど話題にはなりませんが、実はホームレスの人たちの多くが精神疾患を患っているという事実もあるようです。
でも、日本ではこんな映画は作られない。実態はアメリカとさほど変わらなくても、私たちの見えないところに隠されています。

スティーヴは果たしてナサニエルを救うことができたのでしょうか。

ステージでの演奏はうまくいかなかったようです。それでも、路上生活をやめて屋根のあるところで暮らせるようになりました。
ナサニエルはチェロとバイオリンに加え、ベース、ピアノ、ギター、トランペット、ホルン、ドラム、ハーモニカを演奏する、とエンドロールにあります。そして、スティーブはギターを始めたと。

類稀な才能を持って生まれたにも関わらず、ホームレスになり路上で生活していたナサニエルは、スティーヴと知り合い友人となることで、精神疾患そのものも好転したようです。
二人は終生の友人となりました。

YouTubeで実際のナサニエルの演奏が見られるので興味のある方は見てみてください。

https://www.youtube.com/watch?v=Kjr82pzrVSY

 

 

 

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ふたたび映画「ボブという名の猫」を見ながら・・

2019-10-27 11:53:31 | 映画

 

 最近、本当に自然災害が多いですね。
去年までは西日本が大変だったけれど、今年は東日本が集中的にやられている気がします。
被災された方には心よりお見舞い申し上げます。

TVなどで被災地の様子を見ていると、後片付けが本当に大変そうで、私なんか後片付けしている最中に心臓発作起こして死んじゃうんじゃないか、ま、それもいいかもしれないけど、泥まみれで死ぬのは嫌だなあ・・などと思いながら見ています。

3・11以降、ミニマリストが流行りました。
そもそもこのブログを立ち上げたのも、モノを捨ててミニマルな暮らしをしよう、と決意したからなのですが、よくよく周囲を見まわせば、あの頃と何も変わっていない、いや、確実にモノが増えている。

こりゃ一体どうしたことか・・

でも、考えこんでいる場合じゃない。やはり、ここはもう一度初心に戻り、モノに依存しない生活を心がけようと、改めて思っている次第です。

幸いなことに、我家は賃貸なので、災害に見舞われたら引っ越せばいい、と少し前までは思っていました。
家や土地のある人たちは大変だなあ、失うモノが多くて。しかも、その土地を離れられないとしたら、想像を絶する大変さだろうなあ、私は家も土地も大した家財道具もないし、基本どこでもOKなのでラッキーだなあ・・と思っていたのですが、実はこの年だともう引越し先がないのですね。

どこも受け入れてくれない。70歳を超えた一人暮らしの女性が新居を探すのはほぼ無理に近い、ということにはたと気づいたわけです。

家も土地もない、モノだって大して持っていないのだから安心、とは言っていられない。持っていない者は即ホームレスになるしかないのです。

だからこそ、あの台風の日、多摩川の河川敷にいたホームレスの方々のことがとても気になったのでしょう。明日は我が身と潜在意識の奥底で感じていたせいでしょう。

ああ、たしかにそうなんだろうなあ。

まあ、今のところ家を出ていかざるをえない状況にはなく、しばらく(たぶん死ぬまで)ここで暮らさせていただけるようなので、ありがたいことだと思っています。

私が離婚した時(もう30年も前になりますが)一番大変だったのが家でした。
家にかかる費用(賃貸料)が想像を絶するほど高い。それまでは持ち家があり(ローンを組んで買った分譲団地)、家というものは定期的な収入さえあれば簡単に手に入れることができると思っていたわけですが、離婚してみるとそうはいかない。

仕事はあるけどお金はない、幼い子どもたちを抱えて、途方に暮れたものです。

でも、人生って何とかなるものです。
そういう時期を経てくると、まあ、大抵のことには驚かない。矢でも鉄砲でも持ってこい、とは言わないけど、何とかなると思えてきます。

離婚後最初に引っ越した貸家で私はこう思いました。

ここは日本だ。日本語が通じる。友人もいて助けてくれる。とりあえず仕事はある。
収入は少なくても、DV夫に怯えながら暮らすよりはるかにいい。命の危険はない。大丈夫、何とかなる。

呪文のようにそう唱えていたものです。

若い時にこうした経験をすると、大抵のことには驚かなくなるものですが、それでも自然災害は容赦ない。かくいう私も、これほどの災害が起きたら、大丈夫だと言える自信はありません。

それでも人間は生きていかなくちゃいけない。太陽はまた昇り、明日はやってくる。

ホームレスというキーワードで思い出したのが、以前もここで紹介した映画「ボブという名の猫」です(2019年7月13日の記事参照)。

主人公のジェームスはまだとても若い。若いから多少のことには耐えられる。それでも、冬の最中にホームレスでいるのは命の危険を伴います。

福祉課の女性が何くれとなくジェームスを助けようとし、ジェームスもそれに答えようとしますが、ジャンキーから抜け出すのは難しい。

そこに救いの神のごとく現れたのが猫のボブでした。

ほら、日本のおとぎ話でもあるでしょう。神さまが思いがけない姿で現れて人を試すという、たとえば、

「おそばのくきはなぜあかい」(岩波子どもの本)

おじいさん(の姿で現れた神さま)が冬の最中に川の向こう岸に渡りたいという。麦は断わりましたが、親切な蕎麦はおじいさんをおぶって冷たい川を渡りました。だから、麦は寒い冬の間雪の下で耐えねばならず、蕎麦は暖かい季節に陽を浴びて育つようになった、でも冷たい川を渡ったせいで蕎麦の足(茎)は赤くなったというお話です。

つまり、ジェームスの元に現れたのは、猫の姿をした神さまだったのですね。

このように、神さまはいつなんどき、どんな姿で現れるかしれない。
もしかすると、災害の最中にも、猫の姿で現れてくださるかもしれない・・

だから、何か事が起きたとき、周囲をよくよく見まわして、神さまがどこに潜んで救いの手を差し伸べてくださろうとしているか、見極めようと思っています。

神さまはそこらじゅうにいると私は思っています。だからこそ、何とかなるのですね。
今辛い状況下にある人は、ちょっとまわりを見まわしてみてください。

もしかすると(猫の姿をした)神さまがすぐそばにいるかもしれませんよ。


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ジェニーの記憶

2019-10-24 13:49:54 | 映画

 

前回「ベロニカとの記憶」について書き、記憶って何だろうと思っていたら、

「ジェニーの記憶」(ジェニファー・フォックス監督 2018年)

という映画を見つけました。

これ、秀逸な問題作ですが、日本では未公開。今、amazonプライムでフリーで見られるので今のうちにぜひ。これも実話を基にした映画です。

(以下ネタバレ)
ジェニー(ローラ・ダーン)はドキュメンタリーの映像作家ですが、ある日、母親から電話があり、ジェニーが中学生の時に書いた作文を見つけたといいます。その作文がとんでもないもので、母は「これは実際にあったことなの?」とジェニーを問い詰めます。

ジェニーはその部分の記憶が曖昧です。
作文を書いた記憶はあるけど、どんな作文だったか憶えていないのですね。

作文は「まずはこの美しい出来事から物語を始めよう」と始まり、
「私は特別な人に出会い、愛するようになった。この二人と愛を共有した。なんと素敵なことか・・」と続きます。
これは実際にあったことなのか、と先生に聞かれ、彼女はフィクションだと答えます。

ジェニーは自分の記憶をたぐりよせていきます。少しずつ、行きつ戻りつしながら。

あの時私は13歳だったけど、普通の13歳よりは大人びていたわ、とジェニーは母に言うのですが、実家にあった写真のジェニーはまぎれもなく13歳の幼い少女でした。

13歳の夏、ジェニーは友人たちと乗馬の訓練を受けます。
乗馬の先生ミセスGが素敵な人で、ジェニーは憧れます。ミセスGは夫と子どもがいながら、ランニングの指導をしているビルという男と不倫関係にあります。ミセスGはジェニーに秘かにそれをうちあけます。

そこから奇妙な連帯感が生まれます。ジェニーは大人の秘密を共有しており、特別扱いされていると感じます。

夏休みが終わっても、ジェニーは乗馬教室に通い続けます。
ある日、ジェニーは宿舎にビルと二人だけで泊まることになり、ビルは優しくジェニーに接します。

ジェニーはビルを信頼しており、ビルに言われるがまま。ビルはジェニーを言葉巧みに誘導します。

「これは愛だよ」「君は特別な子だ、だから愛するんだ」

つまり、13歳の少女をレイプするわけ。でも、ジェニーにその自覚はない。自分はビルに愛されていると思いこみ、これは自らが選んだ恋愛だと自分に言い聞かせます。

ビルとミセスGは奇妙な価値観をジェニーに植え付けます。結婚というのはバカげたシステムで、僕らは新しい家族の形をつくるんだ、ぼくとミセスGとジェニーとで・・

ジェニーには何が正しいのか判断できない。まだ13歳の幼い少女なのですから。そして、ジェニーは記憶を封印します。

それから35年の時間が過ぎ、母親からの電話を受けて、最初は拒否していたジェニーもようやく自分の記憶を掘り起こす作業にとりかかります。乗馬クラブで一緒だった友人たちを訪ね、ミセスGを訪ね、何があったのか、事実の解明に乗り出すのです。

子どもは時に、煩わしい両親や兄弟たちから逃れたくて現実逃避を試みますが、運悪くそこに悪い大人がいたら、ジェニーのように利用されかねない。

ミセスGまでもがその罪に加担していたのだから、救いようがない。
ミセスGはビルに少女たちを提供することで、ビルを惹き付けておこうとした。なぜなら彼女もまた同じ経験をしていたから・・
(誰が私を救ってくれた? とミセスGは言います)
これはまさにカルトが信者を集める手法です。

非常に恐ろしい話ですが、それをこの映画は淡々と時にユーモラスに語っていきます。

昔の友人たちを訪ね、事実を探っていくうちに見えてきた事実は、ジェニーの想像を超えたものでした。なんとジェニーだけではなく多くの少女たちがビルによってレイプされていたのでした。

最後に、社会的に成功したビルの祝賀パーティに乗り込んで、ジェニーはビルに真実を突き付ける、というところで終わります。

でも、ジェニーのトラウマはそう簡単には消えない。どれほど大きなトラウマを少女たちに与えたことか、それでも知らぬふりをして成功者になったビルを決して許してはいけないと思います。

ジェニファー・フォックス監督が自らの体験を基に作った映画で、映画としても見応えがあり秀逸です。
全体にゆったとした調子で進むので深刻さはあまり感じられないものの(特に作文の部分はおとぎ話風)、見終えた後に事態の深刻さがじわじわと迫ってきます。

すべての女性、特に若い女性に見てほしい映画です。
よくぞ作ってくれた、と思います。

 

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ベロニカとの記憶・・(記憶ってなんだろう)

2019-10-21 17:02:00 | 映画

 

映画「ベロニカとの記憶」(2015年)を見て思ったことをちょっと書いてみます。

この映画は「めぐり逢わせのお弁当」のリテーシュ・バトラ監督作品なので、期待して見たのですが、突っ込みどころがいろいろあって、残念ながらイマイチでした。
(シャーロット・ランプリングが出ていますが)

原作は「終わりの感覚」(ジュリアン・バーンズ作)ブッカー賞受賞作品だそうです。

ストーリーは、初老の男トニーが弁護士から手紙を受け取るところから始まります。
学生時代につきあっていたベロニカの母親が、自殺したエイドリアンの日記をトニーに残した、という手紙です。

(ベロニカは学生時代のトニーのガールフレンド。エイドリアンは学生時代のトニーの親友で自殺した。そのエイドリアンの日記を保管していたのがベロニカの母。このベロニカの母がトニーにエイドリアンの日記を残した・・・ややこしい)

エイドリアンが自殺したのは学生時代。しかも彼はトニーの恋人だったベロニカを奪った男です。でも、トニーは彼を赦すと手紙を書いた、トニーはそう記憶しています。ではなぜ、エイドリアンの日記をベロニカの母が持っていたのか・・

トニーは別れた元妻に断片的に話をしながら、娘の出産にも立ちあいながら、少しずつ過去の記憶をたどっていきます。現在と過去が交互に進行していきます。

トニーは現在のベロニカに会いたいと思い、彼女を探しあてるのですが、ベロニカは昔と変わらずミステリアスでつれない。何が起きたのかトニーにきちんと説明せずに、トニーに一通の手紙を渡します。

それは、学生時代にトニーがエイドリアンにあてた手紙(エイドリアンを赦すどころか糾弾し、しかもベロニカの母をも凌辱するような酷い内容の手紙)でした。

つまり、実際に起きた出来事と、トニーの記憶はまるで違っていたのです。

実際はトニーはエイドリアンに酷い手紙を書き、エイドリアンはベロニカではなく、ベロニカの母と関係を持った。そして、ベロニカの母は妊娠しエイドリアンは自殺した、ベロニカの母はエイドリアンの子どもを生み、その子にエイドリアンと名付けた。つまり、ベロニカの弟。この弟のことを、トニーはベロニカとエイドリアンの子どもだと勘違いしたのでした。

ベロニカは、母が残したエイドリアンの日記は道徳的ではないので燃やした、とトニーに告げます。

それにしても、一体、トニーはなぜこれほど大きな記憶違いをしたのだろう・・というのが私が感じた違和感、というか疑問でした。自己保身のためとはいえ、人はここまで大きな記憶違いをするものだろうか…
(全体的に話がややこしくてわかりにくいのですが)

そこでふと思い出したのが、
映画「手紙は憶えている」(2019年1月14日の記事参照)

これはナチスにまつわる記憶のストーリーです。
老人ホームにいる90歳のゼブは軽い認知症を患ってはいますが、一人で旅に出ることはできます。同じホームにいるマックスがゼブに、自分たちはアウシュヴィッツを生き延びたサバイバーだと告げます。そして、収容所のブロック責任者だったルディ・コランダーという男に家族を殺された。その男はユダヤ人の名前を騙ってアメリカで生き延びている。自分は車椅子なので外には出られない。そこでゼブに復讐を依頼します。

ゼブはマックスから「ルディ・コランダー」という名前の人物リスト(同名の人が四人)を渡され、一人ひとり訪ね歩く旅に出ます。そして、最後に探り当てたルディ・コランダーは、何とかつてゼブと同僚だった男で、彼はゼブ自身がユダヤ人の家族を殺した当事者だ、と告げるのです。ゼブは絶望し自殺します。マックスはそうすることでゼブに復讐を果たしたのでした。

つまり、これも間違った記憶(あるいは操作された記憶)についての物語でした。

「ベロニカとの記憶」もまた同じように、初老の男の若き日の記憶に間違いがあったことを突き付ける内容です。

でも、「手紙は憶えている」にしろ「ベロニカとの記憶」にしろ、こんなに大事なことを人間は果たして本当に、これほどすっかりまるっと忘れるものだろうか・・

話変わって、先日、同窓会があって、50年ぶりに会った高校時代の友人に、
「そういえば昔、喫茶店であなたがタバコを吸っていて補導されたことがあったよね」という話をしたら、彼は「え、そうだっけ?」とすっとぼけています。

高校時代のけっこう大きな事件だったので私ははっきり記憶しているのですが、彼は憶えていない。「ほんとに覚えてないの?」と聞くと、「えー、ホントにそんなことあった?」と「記憶にございません」状態。まさに彼はその事件をすっかりまるっと忘れていたのでした。

ま、大したことじゃないけど、それでも人の記憶というのは、かくも曖昧で信用がおけないものなのか・・と思いました。
もしかすると、間違った記憶によって私たちも操作されてたりするのかもしれないなあ、と思ったことです。

(「マンデラ・エフェクト」がこうした記憶の間違い、あるいは勘違いについて説明を試みていることは、以前ここでもとりあげましたが…《2019年4月24日の記事参照》)

でもねえ、ナチスでユダヤ人を殺したこと、あるいはエイドリアンの相手がベロニカではなく彼女の母親だったことなんて、喫茶店でタバコを吸ったことに比べたら何百倍も大きな事件なわけで、そんな大事なことも人間てすっかり忘れるものなんだろうか。

そして、この先、老いていくにつれて、どれほどの記憶を失くしていくのだろう。
最後まで残った記憶って一体何なんだろう・・というのが目下の私の関心事ですねん。
ああ、歳はとりたくない。

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ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー

2019-10-17 12:12:36 | 映画


「ライ麦畑でつかまえて」といえば、私が若かったころ一世を風靡した小説です。

同世代でこの本を知らない人はいないくらい有名。
でも、不思議と作者のJ.D.サリンジャーについては知られていませんでした。隠遁生活をしている、という噂は聞いた気がするけど、「ライ麦畑でつかまえて」以降の作品も少なく、私が持っていたサリンジャー選集(全4巻)がほぼすべての彼の作品だったのではないでしょうか。

謎に満ちた作家でした。

なので、「ライ麦畑でつかまえて」ができるまで、そしてその後のサリンジャーについてを映画化した、

「ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー」(ダニ・ストロング監督 2019年)

は、絶対見てみたいと思っていました。

サリンジャーを演じているのが、ニコラス・ホルト(「ウォーム・ボディーズ」というゾンビ映画に出ていたので、彼を見るとついゾンビを連想してしまうのですが、好演)、サリンジャーを見出し育てた大学教授ウィットにケヴィン・スペイシー(最近スキャンダルであまり評判がよくないようですが彼もまた好演)。

映画によると、サリンジャーの父親はユダヤ人の商人で息子にもチーズと肉を売るよう強要します。でも母親は父親の反対を押し切って彼をコロンビア大学に行かせます。そこで文学の教授であり雑誌の編集者でもあったウィット・バーネットに出会い、彼がサリンジャーの才能を見出します。このウィットがいなければ、私たちはあの名作「ライ麦畑でつかまえて」に出会うことはなかったでしょう。

才能ある作家は有能な編集者を引き寄せる、それは天命と言うべきものかもしれません。でも、それが叶わず埋もれた作家も多くいたことでしょう。人との出会いは何て奇妙で素敵で心そそられることか。

もちろん、サリンジャーも最初からうまくいったわけではありません。例によって行く先々で出版を断られます。断られるたびに、ウィットに「書け」「もっと書け」と叱咤激励されます。

「なぜ書きたい」とウィットに問われて、サリンジャーは「書けば思っていることがはっきりするから」と答えますが、ウィットは更にこう言います。

「一生不採用で終わるかもしれない。君に生涯を賭して物語を語る意志はあるか。何も見返りが得られなくても」

この言葉は最後までサリンジャーを支えます。というか、作家というのはそもそも書かずにはいられない人たちなのですね。

「ある女流作家の罪と罰」「天才作家の妻」「メアリーの総て」「シドニー・ホールの失踪」等を見てもわかる通り、見返りがあろうがなかろうが、書かずにはいられない、それこそが作家たる所以でもあるのでしょう。

まさに、天恵であると同時に呪いでもある。(It's a gift and a curse.)
(ちなみに「名探偵モンク」がよく口にする言葉ですね)

けれども、戦争が始まり、サリンジャーはヨーロッパに派兵されます。ノルマンディー上陸作戦に動員され、深く心に傷を負いますが、その最中でも彼は「ライ麦畑でつかまえて」の主人公ホールデンと共にあったのでした。

一見、皮肉屋で人を寄せ付けない男のように見えて、実は非常に繊細で傷つきやすい。そうしたサリンジャーをニコラス・ホルトが好演しています。

帰国後、彼はホールデンの物語を完成させます。
「ライ麦畑でつかまえて」です。
世界で6500万部出版され、今もなお売れ続けています。

けれども、売れっ子となったサリンジャーは、彼を追い廻す人たちに辟易して田舎にこもり、外部との接触を絶ち、以後執筆したものを出版することも拒否します。彼の偏屈さもまた偉大な才能の表れなのかもしれません。

今年(2019年)は彼の生誕100年記念の年で、もしかすると彼の遺稿が出版されるかもしれないという噂がネットに流れています。大いに期待したいと思います。

昔、サリンジャーを読んでいた頃がとてもなつかしい。
私もまた怒れる若者の一人でした。私たちの世代は皆自分こそがホールデンだと思ったのでした。

サリンジャーは田舎に引きこもりはしたものの、地域の人達との交流は続け、2010年に91歳で亡くなったとのことです。けっこう最近まで生きてたんですね。

「ライ麦畑でつかまえて」を未読の方はぜひ読んでみてください。若くなくても大丈夫。昔は若者だったのですから。

(ちなみに今上映中の映画「トールキン 旅のはじまり」でJ.R.Rトールキン《「ロード・オブ・ザ・リング」の作者》を演じているのも、ニコラス・ホルトです。こちらもぜひ見てみたいです)

 

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