ないない島通信

「ポケットに愛と映画を!」改め。

「ノマドランド」再び

2022-04-29 11:41:48 | 映画

先日、ディズニー+に再入会して映画「ノマドランド」をもう一度見ました。4回目かな。

「ノマドランド」(クロエ・ジャオ監督作品 2021年アカデミー賞3部門受賞)

やっぱりいいのよねえ。何度でも見たくなる映画です。(2021年6月26日の記事参照)

前回はこの映画の基となった本『ノマド/漂流する高齢労働者たち』も読んで、

アメリカの底辺の労働者たちの厳しい実態と、それにもめげず孤高に生きるノマドたちの生きざまに感心し、

映画のほうは少し情緒的すぎるんじゃないの、と思ったのですが、

今回4度目にして、クロエ・ジャオ監督は、

主人公ファーンの喪失と再生というテーマを描いたのだと納得がいきました。

喪失と再生といえば「ドライブ・マイ・カー」がそうだと言われていますね。

でも、「ノマドランド」のほうが圧倒的に優れていると私は思います。

なぜなら、この映画は、人間はなぜこの荒野のような世界に放り出されて生きていかなくてはいけないのか、という根源的な問いかけをしているからです。

そして、人間の尊厳を取り戻す作業を徹底的に描いているからです。

それはハンパじゃない仕事なのだと教えてくれます。

だからこそ、荒野を走る車をカメラが追い、その向こうには雪をいただく山々が連なりそびえているのですね。

一見して茫漠たる荒れ地のようにも見えるけれど、景色はどこまでも美しい。

なぜなら、その先に自由と解放が待っているから。

何しろ、ファーンが夫と共に住んでいた企業城下町の名前が「エンパイア」なのです。

アメリカそのもの。

そのエンパイアは、2008年のリーマンショックのあおりを受けて企業が倒産し、町そのものが消滅するという悲劇に見舞われます。

ファーンは職業も住む家も最愛の夫も失くし、天涯孤独の身となって、キャンピングカーでアメリカを放浪する「ノマド」の生活を始めます。

ノマドたちの集会で知り合った多くの人たちに助けられながら、少しずつ喪失の痛みから回復し、自由を獲得していく、その過程を描いたのがこの映画です。

これを見ていると、私自身の奥底に潜むノマド性が揺さぶられ、目覚め始める気がします。

ああ、私もどこかに行かなくちゃ、と。

前回もお片付けの途中でしたが、

「ちまちました我家のモノなんてぜーんぶ捨てちまってもいいよねえ。」と書いています。

あれから1年近くが経ちましたが、まだ何も捨ててない。

それどころか、ノマドとは程遠い些末なトラブル続きで溺死寸前でした。

ようやく自分を引き上げ、やれやれとひと息ついているところです。

これもまた人生。

いいことも悪いこともある。

でも、総じていい方向に向かっている、

と信じて、もう少し生きてみようかと思っています。

ディズニー+には面白そうな映画が目白押しで、

私のような庶民にふんだんに「サーカス」を提供してくれていますねえ。

Netflixでは待望の「ベター・コール・ソウル」のシーズン6も始まったし。

GWは映画ドラマ三昧といきますか。

 

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ブリット・マリーの幸せなひとりだち

2022-04-22 10:45:29 | 映画

4月初めに友人が沖縄に引っ越していきました。

私立学校の寮の寮母さんとして「就職」したというのです。

私と同世代、70代もそろそろ半ばにさしかかろうかという年齢で、

全く知らない土地で、新たな寮母という仕事を始めるというのです。

何て勇気のある人だろう!

先日紹介した小説家を目指す友人、そして今回の彼女。

団塊の世代は昔の70代とは違うぜよ、

と声を大にして言いたい!

そんな彼女をちょっとだけ彷彿とさせる映画を紹介します。

「ブリット・マリーの幸せなひとりだち」

2019年のスウェーデン映画です。

(以下、ちょっとネタバレ)

63歳のブリット・マリーは40年間専業主婦をしてきましたが、

夫が病気で倒れた時、夫に愛人がいたことがわかります。

結婚指輪を外し、スーツケース一つで家を出るブリット・マリー。

職探しをするも、63歳で専業主婦しかしてこなかった彼女に就職は難しい。

ようやく見つかった仕事が、田舎町のユースセンターの管理人兼子どもたちのサッカークラブのコーチ。

サッカーのことなど何も知らないのに、彼女はその職を得て田舎町のサッカーコーチになります。

この弱小サッカーチーム、一度も勝ったことがない。

もうすぐ試合だというのに、まともな練習もできない。

そこにやってきた63歳のブリット・マリー。

彼女が子どもたちを勝利に導く・・というストーリーを想像しがちですが、

ちょっと違います。

ブリット・マリーは自らの境遇に涙しますが、口癖のようにつぶやくのが、

「一日ずつよ、ブリット・マリー。

 一日ずつ・・」

彼女は子どもの頃、大好きだった姉を事故で失います。

失意に暮れる両親はブリット・マリーに関心を示さない。

結婚後も、夫は愛人のもとに通い彼女に関心を示さない。

そんなブリット・マリーは、毎日を一歩ずつ一歩ずつ生きてきました。

そして、田舎町の弱小サッカーチームのコーチという職を見つけ、

小さな町で生きていくことを、ついに自らの手で選びとったのです。

試合でチームは完敗します。

なんと、14対1という大差で。

それなのに、大喜びする子どもたち。

なぜなら、彼らはこれまで一度もゴールを決めたことがなかったのですが、

この試合で一点勝ち取ったからです。

まるで優勝したチームのように欣喜雀躍する子どもたち。

何が人生の喜びになるかは、物事の受け止め方次第なんですね。

始終しかめっ面だったブリット・マリーが次第に微笑みをうかべるようになり、

幸せそうな表情に変化していくのが何より素敵です。

それに、子どもたちがかわいい!

ちょっとしたサプライズもあって、最後にほっこりした気持ちになれる映画です。

(ちなみに、沖縄に行った友人はもっとアクティブでチャレンジングな人です。まだまだ人生これからよ、といつも教えてくれます。)

 

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南大沢散歩

2022-04-17 10:47:36 | さんぽ日和

ソメイヨシノはすでに葉桜になりましたが、八重桜は今が見ごろ。

桜ばかりでなく、いろんな花が咲き競い、いよいよ春爛漫の季節になってきました。

先日、南大沢の八重桜スポットに行ってきました。

南大沢はなつかしい場所です。

フレスコ南大沢で10年以上にわたり、ゆうきの会という児童文学サークルに参加していました。

月に一度南大沢を訪ね、サークルの人たちに会うのが楽しみでした。

メンバーさんたちも高齢化し、いつのまにか散会となったのですが、

その南大沢に住む友人が、八重桜が見ごろなので見に来ませんかと誘ってくれました。

今回、初めて南大沢の団地群周辺を散策し、

南大沢って、緑豊かで実にいいところなのね、と改めて思いました。

葉桜になったソメイヨシノの緑道があり、渦巻き状の水路がある児童公園があり、

住宅地の中を通る道はどこも緑のトンネルで、

駅までの距離もこの道を歩くなら楽しいに違いないと思いました。

赤レンガの屋根や壁で彩られた団地はどこか南欧風で、

ここって日本だったっけ、と思わせてくれます。

都心からはちょっと距離があるけど、

ここなら都心に行かなくても十分豊かな生活ができるよね、と思いました。

南大沢の駅前には大きな商業施設も映画館もあり、

三井アウトレットパークや都立大学まであって、

まるで一つの小さな地方都市のようです。

昔、ゆうきの会のメンバーさんの一人と帰りに時々駅近くのサンマルクでお茶をして、

窓から見える異国情緒ある建物群を眺めながら、

また外国に行きたいなあ、今度はイタリアがいいかしら、

などと話したものです。

彼女は今どうしているのかしら。

いろんな想いが交錯します。

南大沢は、確かに私の人生の一コマを刻んでくれた街です。

また機会があれば訪れてみたいと思います。

 

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”As above So below”

2022-04-10 21:22:13 | 戦争

ウクライナの戦争は終息の兆しもみえず長期化の様相を呈してきています。

日々TV等に流れる映像は悲惨さを極め、なぜ同じ人間同士が争い殺しあわねばならないのかと

悲しくなります。

私自身の周囲を見回せば、戦争ほど悲惨ではありませんが、人々の対立や混乱が渦巻いており、

一体これはどうしたことか。

あっちでもこっちでも、一体どうして?

インド占星術によると、4月末まで木星と土星が山羊座に滞在するので、世界的に不穏な出来事が起きやすいそうです。

最近、こんなことわざを習いました。

"As above So below"

古代エジプトの錬金術師ヘルメス・トリスメギトスは、錬金術の奥義をエメラルドの板に書き残したと言われています。

そのエメラルドの板に刻まれた言葉がこれ。

"As above So below"
(上なるものは下なるものの如く、下なるものは上なるものの如し)

エメラルドタブレットの翻訳(一部)wikipediaより。
「これは真実にして嘘偽りなく、確実にして最も真正である。
下にあるものは上にあるもののごとく、上にあるものは下にあるもののごとくであり、
それは唯一のものの奇蹟を果たすためである。
万象は一者の観照によって一者に由って起こり来たれるのであるから、万象は一つのものから適応によって生じたのである。
太陽はその父、月はその母、風はそれを胎内に運び入れ、地はその乳母である。
全世界におけるあらゆる完成の父はここにある。
それが地に転じるならば、その力は円満となる。
地を火から、微細なものを粗大なものから、非常なる勤勉さで丁寧に分離するがよい。
それは地から天に昇り、ふたたび地へと降って、上位のものと下位のものの力を受けとる。
この方法によってそなたは全世界の栄光を得、
それによって一切の無明はそなたから去るであろう・・」

つまり世界はフラクタル(マトリョーシカのような入れ子構造)であり、宇宙で起きているマクロな世界と、私たちの周囲で起きているミクロな世界は互いに相関しあっているというのです。

世界で悲惨な戦争が起きているということは、私たち自身の中にある不安や恐れと無関係ではないということ。

独裁者だけが悪者なのではなく、独裁者を生み出したのは、私たち一人ひとりであるということ。

これ、なかなか難しい問題ではありますが、

バシャールはこう言ってますね。

世界は私自身の反映である、と。

この世界は、映画館のスクリーンに映画を映すように、私自身を投影した映像であるのだと。

最近、量子物理学の方面でも、

人間の意識が物理的な現実に作用することを、

実験で確かめたりしているようです。

意識が現実を作りだす。

それが真実なら、私自身の意識を変えれば、外側で起きていることも変わるはず。

私が変われば、

戦争は終わる・・

はず。

"As within So without" 
(内なるものは外なるものに通じる)

ということわざもあります。

私たち一人ひとりが日常の中で、

明るく活き活きと生きていくことこそが、

遠回りに見えるけれど、実は戦争を終結させる一番の近道なのかもしれません。

「今いるところで、あなたのできることをしてください」

かつて、ホピ族の人たちが日本に来て語った言葉です。

あれからもう30年以上の時間がたちました。

でも、人類はまた懲りずに戦争をしています。

戦争を終結させるために、

私たちにできることを、一つずつ考えていきたいと思います。

希望を失わず、光をめざして。

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ドライブ・マイ・カー

2022-04-03 12:10:51 | 映画

今年のアカデミー賞の国際長編映画賞を受賞した、

「ドライブ・マイ・カー」濱口竜介監督作品

アマゾンプライムでようやく見ることができました(500円で)。

友人たちの評判がえらくよかったので、ぜひ見てみたいと思ってたのですがね、

正直言って、

私は面白くなかった。

長すぎる。退屈。消化不良に陥る。鑑賞後の解放感がイマイチ・・

冒頭からセックスシーンが登場するのも、なんだかなあという感じで、

映画館の大画面で見なくてよかった、と思いました。

「スター・ウォーズ」なら3時間でもOKだけど、この映画の3時間は長すぎる。

幸いなことに、家で見たので途中で何度も中断して、

お茶いれたり、チョコ食べたり、トイレに行ったりしながら、

ようやく見終えた、という感じでした。

もともと、村上春樹、あまり好きじゃないのでね。

やたら人が死ぬし、セックスしまくるし、虚無的な匂いが立ち込めているし。

この映画はまさにハルキワールドで、そうそう村上春樹ってこうだよね、

と久しぶりに思い出しました。

この映画は演劇界の話なので、ベケットの「ゴドーを待ちながら」のシーンが登場します。

若い頃、ベケットが大好きでずいぶん読みました。

ああ、ベケットだあ、と思いながら見ましたが、

ベケットにあるユーモアが、残念ながらハルキにはない。

この映画にもない。

村上春樹ファンには大変申し訳ないのですが、

なぜこれがアカデミー賞を受賞したのかわかりません。

今、世界は得体のしれない闇に包まれようとしているように見えます。

でも、実は光はそこここに満ちているのです。

セックスや死を語らなくても、

喪失感や罪悪感、虚無感や絶望感、様々な形の暴力といったネガティブなものに目を向けなくても、

世界は立て直すことができるし、より良い世界を目指すことができる、

そういう力を人間は持っている、

人間はもともと光の存在なのだから。

そういう物語こそが今世界に必要なんじゃないの、と思うので。

まあ、ただ単に私が単細胞の無神経な人間なので、繊細な心理描写が理解できない、

というだけのことかもしれませんが。

映画の解釈は人それぞれなので、

ご自身でご覧になることをお勧めします。

余談ですが、西島秀俊は「きのう何食べた」のシロさんの役柄のほうがずっといいなあ。

追記:ネガティブなものが嫌いなわけではなく(サスペンスやミステリー大好きだし)、単にこの映画が好きになれない、というだけのことなのかもしれません。

 

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