前回(髭彦閑話29) 、身のほど知らずにもにわかサッカー評論家的なことを書いてしまったが、今度はより僕自身の関心に即して「サッカーとナショナリズム」の関係を考えてみたい。
それは、こういうことである。
髭彦閑話29の冒頭近くで、僕は「深夜・早朝の試合を除けば、僕もけっこう日本チームの試合を見ては応援した。/勝てばうれしかったし、負ければ残念だった。」と書いた。
ところが、僕は「日頃からのサッカーファンではない」し、Jリーグにもまったく関心がない。選手の中でひいきの選手がいるわけでもない。もちろん、岡田監督も選手も個人的なつながりはゼロだ。
その僕が、なぜ日本代表チームが「勝てばうれしかったし、負ければ残念だった」のか。
髭彦閑話29の終わり近くでは、「同じ日本人として、日本代表チームが善戦したのは僕もうれしい。/できることなら、もっと強くなって欲しい気がする。」とも書いた。
そう、「同じ日本人として、日本代表チームが善戦したのは僕もうれしい。」
これだ、この一見ごく当たり前のように思える感情とナショナリズムの関係を考えてみたいのだ。
「同じ日本人として」とあっさり書いたが、厳密に言うと「同じ日本国民として」ということだろう。
ちなみに、トゥーリオと呼ばれている田中マルクス闘莉王は、2003年に日本国籍を取るまではマルクス・トゥーリオ・リュージ・ムルザニ・タナカという日系ブラジル人(国民)であった。
おそらく「日本国民」となっても、トゥーリオは日系ではあるにせよ「ブラジル人」という意識を捨ててはいないのではないか。
面倒くさい言い方をすれば、トゥーリオは「日系ブラジル人系日本人」として「日本国民」なのである。
ところで、「日本国民」をさらに厳密に言えば「日本国」という国家に属する「国民」のことだ。
約1億3千万人。大多数がお互いに会ったこともないし、どんな人間かも知らない。
にもかかわらず「同じ日本人として、日本代表チームが善戦」するとうれしいのだ。
なぜだろう。
その理由は、日本を含めて現在の地球上を覆っている約200の国(国家)が、学問上のことばでは「近代国民国家」と呼ばれる国家であるからだ。
「近代国民国家」とは、西ヨーロッパに16世紀から徐々に芽生え始めた国家形態で、ごく大雑把に言えば、国境によって区切られた領土・領域のうえに成り立つ主権国家で、その住民のあいだに共通の言語・文化・教育・市場などに基づく国民としてのアイデンティティが成り立っている国家のことである。
日本で言えば、龍馬のような幕末の志士たちが論じた「天下・国家」というのは、「天下」が今の日本全体を指し、「国家」は「藩」を指していた。一般の庶民が「おらがクニ」と言う場合の「クニ」はさらに限定された「故郷」のことであった。
龍馬のように脱藩して「天下」のために行動しようとした人間には、「日本」とか「日本人」という意識が既にあったかもしれないが、一般の庶民にとっては幕末でさえそういう意識は広く共有されるものではなかったのである。
それが、明治維新と呼ばれる変革以降、幕藩体制に替わってまずは天皇制国家と言う形で上から西欧を真似た中央集権的な「近代国民国家」が作られ、いったんはこれも西欧を真似た植民地支配帝国となって複雑な「国民」構成となったが、いっさいの植民地を失った第二次大戦後の現在の日本国となってからはいっそう「近代国民国家」としての性格を強めたのである。
市場、交通、教育、出版、マスコミ、インターネットなどの飛躍的な発達によって、日本国民としてのアイデンティティは一方で拡散傾向をしめしながらも格段に強化された。
もはや沖縄から北海道まで「標準語」で会話が成立しないところはないし、市場と交通の発達によって生活様式の共通化があらゆる分野で進行し、新聞・テレビやインターネットによる日々の情報の共有化・均質化が進んだ。
その結果、意識するかしないかを別にして、僕たちの日々の日常生活においてナショナルな要素の持つ意味は以前と較べてはるかに大きくなっている。
僕が見ず知らずの他人である岡田監督を初めとするサッカー日本代表チームの活躍をうれしいと思うのは、実にそういう歴史的背景があってのことだったのだ。
現在、主に市場と交通・情報のグローバリゼーションが急速に進行している。
このなかで、一方では、戦争の悲惨や環境破壊の深刻化を背景に「国民」を越えた「地球市民」としての意識が生まれ、成長し始めている。
しかし、他方では、「国民」としての「ナショナル・アイデンティティ」の崩壊への危機感から、ナショナルなものを至上価値とする「ナショナリズム」が日本を含めた世界各地で強まっているのも事実だ。
僕たちが自国のナショナルなものに愛着を持ち、尊重するのは、以上のような「近代国民国家」という歴史の現実を背景として、ごく自然のことである。
しかし、そのことと自国のナショナルなものを至上価値とするナショナリズムとは同義ではない。
つまり、サッカーで言えば、僕たちが日本代表チームを応援し、その善戦をよろこぶのはごく自然だが、それを越えてその善戦が古来からの「日本人の魂」を「脈々と受け継ぐ」日本人独自の「こころ」によるものだとか主張し、そこに「日本人としての誇り」を見出したりするのは、ナショナリズムへの逸脱ではないか、ということなのだ。
僕は、同じ日本人としてできれば日本チームにもっと強くなってもらいたいと思う。
そのために必要なのは、ナショナリスティックな自己陶酔や欺瞞ではなく、日本サッカーのこれまでの試行錯誤の歴史のひたすら冷静な分析と総括ではないかと思うのだ。
岡田監督や選手たちにもマスコミにもサポーターにも、そうした冷静な分析と総括を改めて期待したい。
10年前にもう少し詳しく問題を論じた文章を「閑話31」としてアップしましたので、お読みいただければ幸いです。