2007年7月30日、前日に行なわれた参院選で自民党が民主党に惨敗したことが判明した、その同じ日に小田実は死んだ。
激動の一夜の陰に巨人死す彼の小田実早すぎる死を(070730日々歌ふ)
続いて2008年12月5日、加藤周一が死んだ。奇しくも我が亡父の命日であった。
僕はこう歌った。
―<加藤周一の死を悼みて>(081206日々歌ふ)
恐れゐしこの日来たりて天空ゆつひに墜ちたり知の巨星の
時空をもジャンルも超えてものごとを巨人の深く解き飽かざりき
若き日に『日本文学史序説』を読みて知りたり巨人の知をば
肉声を聴きしは一度のみなれどその書を求め学びきたりぬ
ぽつかりと知の天空に穴あくを誰ぞ埋めむ巨人亡き後
ミネルヴァの梟のごと夕陽に飛び立つ人の永久に立たざる
(夕陽=せきやう)
2009年3月31日、僕は定年退職する。まだ、死なない。
その退職を記念して、社会科の同僚たちが職場の研究紀要に「<社会科総合学習授業>の実践的展開」と銘打つ特集記事を掲載してくれることになった。いまや内外から注目を集めることにもなった勤務校(私立中高一貫校)の<社会科総合学習授業>を、17年前に始めたときの社会科主任を僕は務めていたのだ。その僕にも、一文を寄せよという命令である。そこで書いたのが、以下の文章である。
*
「『知の巨人』たちの死に社会科総合学習の意義を改めて思う」
現代日本が生んだ二人の「知の巨人」が相次いで亡くなった。小田実と加藤周一である。40年にわたる教師生活の終わりを前にして、二人の書いた本を初読、再読取り混ぜながら読み続けている。
僕が彼らを「知の巨人」と呼ぶ理由は、いくつかある。
一つは、70歳、80歳を超えてなお衰えることを知らなかった、旺盛な知的好奇心。
二つ目は、彼らが一切の権威によりかからず、徹底して自分の頭で考え抜いたことだ。つまり、彼らは言葉の真の意味で独創的な思想家、思索家であった。
三つ目は、その旺盛な知的好奇心と独創的な思索の対象が、時間的にも空間的にも日本は言うに及ばず、欧米、アジア、アフリカ、ラテンアメリカ、つまり古今東西の事象に渡って及ばないことがなかったからだ。
四つ目は、三つ目の理由と関わる。彼らの思索の対象が単に古今東西の事象に広く及んでいるだけでなく、たとえ日本のどんな特殊なことを論じる場合でも、常に彼らの思索が日本人にしかわからないような形ではなく、翻訳さえされれば世界中のどんな人々にも理解されうる形で展開されているからだ。つまり、小田実や加藤周一だけにしか書けない言葉と表現を用いつつも、その内容は常に世界(人類)に向かって開かれた普遍性を持っていたということである。
僕自身はもちろんのこと、誰もがこのような「知の巨人」になれるわけではない。しかし、彼らの存在とその知的営為から学ぶことはできる。
人間の知的成長を図る教育に即して考えるならば、大事なのは、第一に知的好奇心を育てること。第二に、常に自分の頭で考えるように教育すること。第三に、どんな対象も、それを世界(人類)に開かれた形で学び、考えるように教育すること。
こうした教育を行うためには、僕たち教師自身がそうした姿勢で勉強し、努力しなければならないだろう。小田実も、「教師自身が勉強し、生徒が自分の頭で考えるように教育すれば、教育には何の問題も起こらない」といったことをどこかで書いていた。
ところで、この二人の「知の巨人」に共通しているもう一つの特徴がある。それは、大学で専門分野の系統的な学習と研究をしながら(小田実はギリシア哲学、加藤周一は医学)、その一方で常に日本と世界の現実に生起する問題に関心を寄せ、ついには大学時代の専門を超えて生涯にわたり、それらの多様な問題に思想的に取り組んできたことだ。同時に、小田実は小説家としての仕事を、加藤周一は日本文学史や美術史の研究を一貫して系統的に続けてきた。
一方で、人類の遺産としての学問や藝術の成果、つまりは文化を系統的に学び、身につけつつ、他方では学問・芸術をふくめた人間社会に生起する現実的な問題を自ら発見し、その解決を求めて取り組むこと。人間の創造的で豊かな知的成長を図るためには、その二つの学習(研究)を統一することが必要なのではないか。系統的な学習(研究)と問題解決的な総合的学習(研究)の結合と統一、と言ってもよいだろう。
明治以来の日本の初等中等教育においては、一部や一時期の例外を除いて、基本的に前者の系統学習が最重要視されてきた。しかも、その系統学習はしばしば国家によるイデオロギー教化や受験と結びついて丸暗記と詰め込みの学習と化した。
そうした弊害をふまえて、戦後の公教育において問題解決学習が導入された例外が、大きく言って二度ある。第一は占領期に創設されたいわゆる初期社会科、第二は2002年の学習指導要領で設けられた「総合的学習の時間」だ。しかし、そのいずれもがその後「学力低下」批判の大合唱にさらされ、系統学習重視に再び大きく舵が切られた(つつある)。
雑駁に言えば、議論は常に「系統学習か問題解決学習か」の二者択一で行われ、なぜか両者の統一という議論はまるで出て来なかった。
本校が中学1年で「社会Ⅰ」、高校1年で「総合社会」という問題解決型のカリキュラムを開始したのが、それぞれ1992年と1993年である。旧文部省主導の「総合的学習の時間」のほぼ10年前だ。そのカリキュラム改革を社会科で数年かけて研究・議論した際、系統学習と問題解決学習の統一という新たな視点を主張し、持ち込んだのが大学で教育史を専攻した僕だった。戦後の社会科教育の歴史を学んで、僕は次のような独自の問題意識を持っていた。
<戦後の社会科教育は、占領下での生徒中心の「問題解決学習」から官民挙げて教師主導の「系統学習」へと転換してしまったが、「問題解決学習」と「系統学習」を二者択一で考えるのはまちがいではないか。さらに、「問題解決学習」にも問題を教師が立てるか子ども自身が立てるかどうか、「系統学習」にも教師主導か生徒主導かで、さまざまなパターンがありうる。しかし、どんな場合にも何らかの形で「問題解決学習」と「系統学習」は統一されるべきだろう。同時にその統一は、「学ぶ側の論理」と「教える側の論理」の統一でもあるべきだ。>
幸い、若い社会科の同僚たちはそうした議論を理解し、同調してくれた。その上で、その統一をカリキュラムにどう具体化するかをみんなで徹底的に議論し、まとめ上げたのが、1992年以来の本校社会科独自の問題解決学習型総合学習カリキュラムである。
第一に生徒の知的好奇心を育てること。第二に、生徒が常に自分の頭で考えるように教育すること。第三に、どんな対象も、生徒がそれを世界(人類)に開かれた形で学び、考えるように教育すること。そして、常に地理や公民、日本史や世界史の系統学習との統一を意識し、教育すること。
あれからほぼ20年。退職を目前にして、小田実と加藤周一という二人の「知の巨人」の営為から学んだことが、本校独自のこのカリキュラムの精神に見事に一致することを確認できるのは実にうれしい。このカリキュラムが今後ますます充実し、世界(人類)に開かれた地球市民的人材を本校が輩出するのに貢献するよう期待する。
髭彦閑話17 「最終講義」余話
髭彦閑話16 「最終講義」
著書・論文など(目良誠二郎)
この人ほど、西洋と東洋をみつめ、思想のみならず、芸術的感覚をそなえた文才はいないなあ、と改めて思いました。世の中がどんどん変わっていく時代に、こういう方がいなくなってしまうのは、本当に寂しく惜しまれることですが、今後はわたしたちが頑張ればなとも切に思います。
「日本社会は、そのあらゆる水準において、過去は水に流し、未来はその時の風向きに任せ、現在に生きる強い傾向がある。現在の出来事の意味は、過去の歴史および未来の目標との関係において定義されるのではなく、歴史や目標から独立に、それ自身として決定される。」
良くも悪くも、確かにこれが我々の社会の基本です。
問題は、その自覚の有無です。
加藤周一ほど、それを自覚し、その必要性を説いた人はありません。
改めて、そのことを痛感しています。
私も中高一貫校の出身ですが(卒業して、もう36年たちます)、中学と高一までの4年間は勉強をまったくしない生徒でした。高二になったころ、世の中のことにすこし関心を持ち出し、そのときの世界史の先生が自分の問題意識に応えてくれる授業をしてくださったので、それで学ぶことの面白さがわかりました。
髭彦先生の授業に接して学ぶことの面白さを知った生徒さんも、きっとたくさんいるのではないでしょうか。
私の高校時代の親友の長男が、髭彦さんの勤務校を卒業しています。もしかしたら髭の先生の授業を受けていたかもしれないと思うと、うれしいです。
こういう学習を成り立たせて意味のあるものとするには学ぶ者と教える側の勇気と情熱(継続的な)が必須だと感じました。
素晴らしい業績を遺されたことに羨望とわずかながら嫉妬を覚えます。もちろん多大の敬意と。
僕の学校にも世界史に素敵な先生がいらしたのですが、僕が教わったのは別の味も素っ気もない授業をする先生でした。おかげで、まったく学ぶ面白さを発見できませんでした。
教師になったとき、ああいう教師にはなりたくないと、不遜にも思ったものです。
果たして、そうならずに済んだかどうかは生徒たちに聞かないとわかりませんね。
ご親友のご長男というと、年代から言って教えた可能性もあります。
どんなことを言われるか、こわいですね。
ははは。
そうであることを祈っていますが。