雪の朝ぼくは突然歌いたくなった

2005年1月26日。雪の朝、突然歌いたくなった。「題詠マラソン」に参加。3月6日に完走。六十路の未知の旅が始まった…。

アメリカの民と憲法

2007-05-05 00:46:34 | 非暴力による平和を


好戦的なブッシュ大統領のアメリカ政府は、日本の平和主義憲法の<改正>にますます強い圧力をかけています。
それに国粋的な安部首相の日本政府が応えて、改憲策動を急激に強めています。
しかし、ブッシュ大統領のアメリカだけがアメリカではありませんし、安部首相の日本だけが日本でもありません。
両国には民主主義と平和を愛する多くの民がいます。
ただし、自国の憲法に対する姿勢では両国の民には違いもあります。
民主主義と平和を愛するが故に改憲を恐れる日本の民の思いを、アメリカの民にはもっと知ってもらうべきだと思います。
と同時に、民主主義と平和を愛するが故に改憲をも恐れないアメリカの民の知恵と経験から、日本のぼくたちはもっと学ぶべきでしょう。
そんな思いをこめて3年前にある雑誌に書いた拙文を、昨日に続き掲載しますのでお読みいただければ幸いです。

                            *

校門を入っても戦争に反対できる憲法の権利を守りぬく―アメリカ民主主義の底力―


はじめに

 アメリカで言論や表現の自由が問題になるとき、よく「修正第一条(the First Amendment)」という言い方がでてきます。日本の生徒たちにはまずピンとこない表現でしょう。「修正」というのは日本でいう憲法「改正」のことで、形式的には憲法「改正第一号」という意味です。
 アメリカ合衆国憲法は一七八八年に成立しました。しかし三年後の一七九一年にはもう改正されています。それは成立当初の憲法が、英米では権利章典(a Bill of Rights)とよぶ基本的人権についての条項をまったく欠いていて、ある意味ではとても近代的な憲法とはいえないものだったからです。州の独立性を確保しようとする少数派(反フェデラリスト)は、連邦の強化をめざす多数派(フェデラリスト)に対してその点を強く批判しました。その結果、最初の議会でさっそく一一条からなる権利章典規定を新たに盛り込む憲法改正を余儀なくされました(成立は一七九一年)。したがって、「修正第一条」はその内容から権利章典の「第一条」という意味にもなるのです。言論・宗教・出版の自由と集会・請願の権利についてのたいへん重要な条項ですから、アメリカ人なら「修正第一条」といえばなによりも先にその中身を思い起こすことでしょう。
 周知のように日本国憲法には基本的人権規定(権利章典)が最初から詳細に書き込まれています。その上で、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」(第一二条)と記されました。最初は人権規定がなかったアメリカの憲法には、逆にそのような努力規定はありません。もちろん、アメリカ人がそのような「不断の努力」をしてこなかったわけでも、必要がないわけでもありません。それどころか、二〇〇年以上にわたって無数の老若男女のアメリカ市民が自由と権利のために粘り強くたたかい続けてきました。むしろ、上記の憲法第一二条をもつ僕たち日本の市民のほうこそ、その長いたたかいの歴史と豊かな伝統から学ぶべきことが少なくないように思います。
 9.11以後、アメリカ政府はテロから自由と文明を守るための「反テロ戦争」だと称して、アフガニスタンやイラクの民衆の自由と権利を武力によって不法に侵害しています。ところが、こうした政府の戦争政策を批判するといっせいに「非国民」だとか「テロ支持者」だと非難・攻撃され、言論の自由が抑圧されています。また国内ではかえってテロの危険性が増大しため、それを理由にしたさまざまな分野での自由と権利の抑圧も進んでいます。今やアメリカでも日本でも他国の民衆の自由と権利を侵す侵略戦争とそれへの協力体制が、自国民の自由と権利の抑圧と深く結びつくようになっています。その場合なによりもまっさきに抑圧されるものの一つは、侵略戦争とそれへの協力を批判して「内にも外にも民主主義」を求め行動する自由と権利です。
 現下の民主主義の試金石は、まさにそうした自由と権利を人々が保持できるかどうかにあると言っても過言ではありません。一方での絶え間ない対外戦争と国内抑圧の歴史とともに、アメリカの市民の中にはそれらと毅然としてたたかってきた貴重な伝統と遺産があります。ここでは主にアメリカの高校生市民のそうしたたたかいとそれを支える大人の市民の優れた実例をいくつか紹介して、たがいに学びたいと思います。

<ブレトン・バーバー君は大統領批判のTシャツで登校した>
 ミシガン州のデトロイトから車で三〇分ほど西へ行ったところに、日本で言えば愛知県の豊田市のような町があります。フォード自動車会社の城下町とでもいうべき、人口約一〇万人のディアボーン市です。フォードの工場で働く労働者として多くのアラブ系の移民が集まり、人口の三〇%を占めるまでになっています。中東以外でアラブ系住民の比率がこれほど高いところは世界中でここしかありません。しかも、その多くはフセイン独裁から逃れてきたイラク出身者とその家族だといいます。
 ディアボーン高校の約一五〇〇人の生徒も三分の一近くがアラブ系です。ブッシュ政権のイラク侵攻が目前に迫った二〇〇三年二月、二年生の白人生徒ブレトン・バーバー君はアフガニスタンで一〇〇〇人を越える一般市民を殺したブッシュ大統領こそむしろ最大のテロリストではないかと憤っていました。その大統領の顔写真の上下に「インターナショナル」「テロリスト」と大きく書き込まれたTシャツをインターネットのサイトで見つけて買い、大統領の外交政策とイラク開戦に対する抗議の意思を示して生徒のなかに議論を巻き起こそうと、二月一七日に学校に着て行きました。
 ところがアラブ系もふくめてほとんどの生徒は期待したような反応を示しません。議論は巻き起こりませんでした。反応したのはごく一部の白人生徒や教師とそこから情報を得た副校長や校長だけでした。昼食時になってブレトン君は副校長にTシャツを裏返しにするか、脱ぐか、さもなければ家に帰れと命令されました。しかし、ブレトン君はTシャツを裏返しにするのも脱ぐのも拒否しました。一九六九年に連邦最高裁が出した判決で生徒が学校で反戦Tシャツを着るような権利を認めていたことを、すでに学んで知っていたからです。憲法で認められた権利を放棄することはできないと考え、ブレトン君は家に帰ることを選びました。
 学校から帰るとすぐにインターネットで一九六九年の連邦最高裁の判決(ティンカー判決)を読みなおし、ブレトン君は改めて確信を深めました。地元のメディアに事件を知らせた後、前の年から会員になっていたアメリカ自由人権協会(ACLU:American Civil Liberty Union)というNPOのニューヨーク本部に電話をしました。あいにくワシントン・デーの休日のため応答がなかったので、ミシガン州のACLUに相談しました。そのあと、校長に電話してティンカー判決を基に学校側の措置の不当性を主張しました。校長はすぐにティンカー判決そのものではなく、学校には生徒の言論を規制する権利があるというティンカー法廷の少数意見を持ち出して反論したといいます。ブレトン君はティンカー判決についての校長の理解が不正確でまちがっていると思いましたが、それ以上は議論しませんでした。

<アメリカ自由人権協会などの支援で学校を提訴>
 ところで、ACLUは現在二七万五千人の会員をもつアメリカ最大の人権擁護NPOです。常勤の弁護士が六〇人、非常勤・ボランティアの弁護士が二千人もいます。それ以外の大多数の会員はすべて一般市民です。第一次世界大戦直後の一九二〇年、大戦中にアメリカ政府によって人権を否定された良心的兵役拒否者や敵国出身者の人権を守るために創設されました。その後ACLUは次第にあらゆる人権抑圧と取り組むようになり、これまで人権をめぐって全米の裁判所で争われた大きな事件のほとんどすべてにACLUが関与してきたといわれます。第二次世界大戦中に約一二万人の日系市民が敵国人として不法に強制収容されたときも、政府と世論に抗して敢然とこれに抗議し、日系市民の自由と権利のためにたたかったのはACLUでした。
 二月二〇日付けのデトロイト新聞によると、ミシガンACLUは未成年のバーバー君が望めばブレトン君に代わって学区を相手取り、憲法によって保護された生徒の自由な言論の権利を侵されたことに対して訴訟を起こすと言明しています。ところがこの段階では、ブレトン君の両親が息子の安全と将来を考えてまだ躊躇していました。両親とも民主党員なのですが、事件が報道されて以来、「非国民」「ヤク中のヒッピー」とレッテルを貼られ、「親失格」だと非難されていたからです。両親はともかくブレトン君は家族への人身攻撃に落ち込みました。

<ティンカー判決の伝説の主人公も支援に>
 そこに、ミズーリ州のジョン・ティンカーという人から電話がかかりました。このティンカーさんこそ、ブレトン君が頼りにした一九六九年の連邦最高裁のティンカー判決を勝ち取った伝説の主人公その人でした。五二歳のシステム・エンジニアになっていました。ティンカーさんは一九六五年、やはり高校二年生のときに妹や友人たちと一緒にベトナム戦争に抗議して黒の腕章をつけて登校し、停学になりました。その後、妹と友人の三人で最高裁まで争い、一九六九年についに歴史的なティンカー判決を勝ち取ったのです。
 ティンカー判決は、黒の腕章を象徴的な言論(symbolic speech)として認めたうえで格調高くこう述べていました。「生徒であれ教師であれ、いったん校門を入れば言論や表現の自由という憲法上の権利がなくなるなどという主張は成り立たない(It can hardly be argued that either students or teachers shed their constitutional rights to freedom of speech or expression at the schoolhouse gate.)。…生徒たちは学校の中にいても外にいても憲法のもとでの「人間」であることに変わりはない(Students in school as well as out of school are "persons" under our Constitution.)。」
 ブレトン君はティンカーさんと電話で話していくらか落ち着きました。ティンカーさんはこう言いました。「自分とブレトン君の事件がそっくりなのでびっくりした。裁判になればきっと勝てる。あの時はメディアの焦点になって僕たちも驚いたが、両親と僕はこれで反戦運動が注目されるようになった気がして、それほど嫌ではなかった。メディアの取材に応じなければならないときにはよく僕もかなりナーバスになったけど、なすべきことをなしているという感じだった。後悔したことはないよ。」
 結局、三月二七日になってミシガンACLUがバーバー君に代わってディアボーン高校と校長を、憲法修正第一条と修正第一四条で保障された権利を侵害したとして連邦地方裁判所に訴えました。その日、ミシガンACLUの代表はこう表明しています。「学校側は問題の自由な議論のための安全な教育的環境を用いることができたにもかかわらず、不幸にも政治的な言論を禁止することを選んだ。最高裁は生徒たちが校門を入っても憲法上の権利を失うことはないことを明確にしてきた。」

<ティンカー事件とは>
 ジョン・ティンカーさんは一九六五年当時、アイオワ州の州都デモイン市の高校二年生でした。その年の一一月、首都ワシントンでベトナム戦争に反対する初めての大規模なデモがあり、遠くアイオワからもバスで五〇人が参加しました。その中にティンカーさんと、教会仲間でやはり高校二年生のクリストファー・エクハートさんやその母親もいました。クリストファーさんの母親は女性国際平和自由連盟のデモイン支部長でした。女性国際平和自由連盟は一九一九年に創設された世界最初の国際的な女性平和組織です。ワシントンから帰った後、クリストファーさんの母親を中心にして大人も若者もどうしたら戦争をやめさせられるかを相談しました。その結果、一二月一六日から元旦まで大人も若者もみんなで黒い腕章をつけ、一六日と大晦日には断食もすることにしたのです。ベトナム・アメリカ双方の犠牲者を悼み、クリスマス休戦と戦争終結を願ってのことでした。
 クリストファーさんとティンカーさん、ティンカーさんの妹で一三歳の中学生だったメアリー・ベスさんたちは、おのおの自分自身の判断で腕章をつけて登校する決心をしました。親たちも賛成してくれました。ところが、そうした動きを知った学区の校長たちは腕章で登校した生徒たちに腕章を外すように言って、もし従わなければ停学処分にすることを申し合わせ、一四日の新聞で公表しました。それでも三人の決心は変わりません。一六日にクリストファーさんとメアリー・ベスさん、翌一七日にティンカーさんが腕章をつけて登校し、他の何人かの生徒と一緒に全員停学になりました。
 全米の注目を集める中で四年にわたる裁判闘争が始まりました。このときも三人の訴訟を支えたのはACLUでした。ACLUと生徒・若者の自由・権利にとって、最高裁での勝利判決を勝ち取った一九六九年は画期的な年として歴史に刻まれ、今に受け継がれているのです。
 コンピュータ技師になったティンカーさんは今も「社会の監視人」を自認し、これまでずっと可能なかぎり平和と自由のために行動してきたといいます。そうした立場からティンカーさんはインターネットのサイトで、こう述べています。一市民としての深い信念と多年の実践に裏づけられた味わい深いことばです。「権力は腐敗する。これは政治的指導者の権力だけでなく学校当局の権力にも当てはまる。私の考えでは、民主主義社会における責任感を育てるうえで最良の方法は、生徒たちが重要な思想に民主的なやり方で取り組めるように助けることだ。もちろん、すべての思想が正しく有益であるわけではない。しかし、誤りを犯すこともまた教育の重要な一部なのである。」

<ブレトン君は全面勝訴した>
 二〇〇三年一〇月一日、ミシガン州連邦地裁のダガン判事はブレトン君全面勝訴の判決を下しました。ダガン判事が最も依拠した判例は他でもないティンカー判決そのものでした。判決は明確にこう指摘しています。「裁判所はこれまで学校の構内が政治的な討論にとってふさわしくない場所だなどと宣言したことは一度もない。それどころかティンカー法廷などが強調してきたように、もし学校当局が異なる見解を自由に発表できる環境を整え、生徒が他人の主張に寛容であることを学ぶならば、生徒の益になるのである。」その上でダガン判事は、二〇〇一年に下されたある判例の一節を引用しています。
 「学校は、地域社会一般と同様に、そのメンバーが多様であればあるほど格段によいものになる。敬意と思いやりをもって意見を交換し、信念や行動を分かち合うことは、すべての生徒の益となる。学校は多様性そのものだけでなく、いかに責任ある態度で多様性に対応し、それを表現するかを教育することができる、またとない環境なのである。政治的であれ、宗教的あるいは社会的であれ、たがいに異なる見解を品位と敬意をもって表現できるよう力をあわせることは、学校・親・生徒・そして地域社会の義務である。」
 ティンカー判決後、生徒の自由と権利についての裁判ではティンカー判決が適用されることが確定しています。しかし、全米の学校当局や教育委員会がティンカー判決を十分に尊重しているとは必ずしも言えません。また、裁判所はティンカー判決を踏襲しつつも学校当局や教育委員会の裁量権をより認めるような傾向があると言われます。9.11以来の戦争政策の拡大で、さらにそのような傾向に拍車がかかる可能性もありました。ブレトン君の勇敢で思慮深い行動とそれを支えたACLU、ティンカーさんたち市民の力がそれにストップをかけ、司法の良心と見識を引き出したのです。
 読売新聞大阪本社版の一〇月二八日朝刊によれば、学校当局は判決に全面的に従うといいます。「今年四月、『戦争だからといって人々が政府の政策に反対できる言論の自由を放棄したのでは、[アメリカという―筆者]国の成り立ちを拒否することになる』と言っていたバーバーさんは判決後、本紙の電話取材に対し、『最近、君が正しいことが分かったと言って来る仲間が大勢いる』と喜びを語った。」

<そのときを生きよ>
 ブレトン君は今年の二月、インターネット上に“One Year Ago”というエッセイを公開し、一年前に起きた事件は自分が何者であるかを明確にするよい機会だったと振り返っています。一躍全米と世界中のメディアから注目されたこと以上に、「最もエキサイティングだったのは事件によって対話が始まったことだ。僕の学校から住んでいる町へ、アメリカ中の夕食のテーブルへと、修正第一条・イラク戦争・生徒の権利といった重要な問題についての話し合いの輪が広がっていったのだ。」「この国には自分たちの権利を知らない生徒がたくさんいる。だから、国のレベルでこの権利を再確認することはきわめて重要だったのだ。」「僕はACLUと一緒に学校を訴え、連邦裁判所で勝訴した。ディアボーン高校が僕の表現の自由という憲法上の権利を侵したことが認められ、今僕は好きなシャツを着ることができる。この判決によって、僕はただ好きなシャツを着る権利を認められただけでなく、戦争に反対する考えも正当だと認められたような気がしている。」ブレトン君はこのエッセイを、読者にブレトン君と同様の機会が訪れることを願い、こう結んでいます。「もしそのときが来たら、心からそのときを生きてほしい。すべてを受け入れ、本当の君の一部になるようにまかせるのだ。そうすれば、自分を高めるだけでなく、君がそれまで想像もできなかったようなやり方で無数の人々の生活に触れることができるからだ。」

(注)明記したもの以外の出典について。
John W.Johnson, The Struggle for Student Rights: Tinker V. Des Moines and the 1960s ( Univ Pr of Kansas,1997)
Leah Farish ,Tinker V. Des Moines: Student Protest(Enslow Pub Inc,1997)
ティンカー判決全文の日本語訳は大阪教育法研究会のHPにありますが(羽山健一訳)、
本稿の引用は拙訳です。
後はすべてインターネットからの英文情報の拙訳による引用または要約です。検索エンジンGoogleの「ウェブ全体から検索」の「検索オプション」で「フレーズを含む」に“bretton barber”、“john tinker”,“tinker case”,“tinker v. des moins”,”aclu”などと入力してみてください。


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力づけられます (酔流亭)
2007-05-05 20:59:01
こんばんは。
「憲法は工場の門の前で立ち止まる」と言われる我が国の労働現場にいる者として、学校と職場の違いはありますが、勇気づけられます。
私たちも、日常の場で、もっと人権を活かす努力をしていきたいと思います。
恥ずかしいです (髭彦)
2007-05-05 22:46:34
酔流亭さん、こんばんは。
酔流亭さんのように時流に即して的確な文章が書けず、昔のものをひっぱりだして、恥ずかしいです。
ご容赦ください。
こんばんは。 (setu)
2007-05-07 21:07:10
憲法学者・鈴木安蔵さんのお宅と長年のお付き合いがあった関係で、このところ、日本国憲法の資料を読む機会が増えています。勉強させて頂いているという感じです。
昨夜は、ドイツ語の本を片手に、ハイネの詩を訳そうと思い、ドイツ語などさっぱり分からない私ですので、困った時は、髭彦さんに教えて頂こうかと勝手に考えてしまいました。
昨晩のNスペで (髭彦)
2007-05-07 23:05:05
setuさん、こんばんは。
昨晩のNスペで鈴木安蔵さんの今のお宅が映り、E.H,ノーマンが鈴木安蔵を訪ねて憲法改正を促した思い出を娘さんが語っていました。
ご近所の方も映ってましたね。
まさか?
ところでドイツ語は大学時代に一年かじっただけで、もうからきしダメのはははのハイネです。
Unknown (setu)
2007-05-08 00:06:58
いえ、安蔵さんのお孫さんと中学からの友人で、40年ほどのお付き合いになります。
映画「日本の青空」をきっかけに、自然発生的にミニ社研ができました。(苦笑)
若い頃、安蔵さんが、執筆に使われていた山荘にもよくお邪魔しました。お留守を狙って。
昨夜のNHKで流れてた安蔵さんのメッセージで、安蔵さんの書かれた原稿を思い出し、
その冒頭にハイネの詩がドイツ語で書かれていたのです。髭彦さんはご存じの詩だと思います。
私は、聞いてもすぐに忘れてしまうのです。

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